■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  073 「1920年代後半のアメリカ経済」

 私が石原莞爾と対決した頃、田中内閣は高橋蔵相の舵取りもあって、フランスの金本位制復帰に続いて、日本も金本位制に復帰する。
 金を狙う連中の目標分散を狙ってだ。

 去年から準備は進めていたので、フランスが復帰するタイミングを外す事なく実行できたのは流石だ。
 しかも平価切下げを行なった。
 田中内閣は、日本が経済的に弱く見られる事よりも、高橋蔵相が強く言った日本経済の実情に合わせた形だ。元軍人の田中義一では、蔵相高橋是清の言葉に頷くしかないだろう。
 財界も高橋と彼の愛弟子らの説得を前に、強く反対する事は出来なかった。

 これが大蔵官僚出身の濱口雄幸や若槻礼次郎が首相だったら、前世の私の歴史が示す通りこうはいかなかった筈だ。高めの平価で設定し、日本からの金の流出は強まった可能性が高い。
 そして、日本国内に金がないので紙幣発行を増やせず、日本経済全体の萎縮が進んだ可能性も十分にある。

 しかも立憲民政党(もと憲政会)は協調外交、緊縮財政が基本だから、もう少し平和で安定した時代じゃない時代にはそぐわない。
 トップに立つのは立派な人達だし政策は理想的ではあるれけど、理想で飯は食えない。
 財布の紐を絞るより金を使うべきだ。転生して経済を学んで、この時代でのベターだと私は信じている。

 それはともかく、為替レートは従来の100円=49・85ドルが、実情に合わせて約46・46ドルに定められた。僅かな差、ほんの小さな数字の差に見えるけど、日本経済がそれだけ世界経済の中で思わしくない事を示している。
 関東大震災という災害の影響でもあるけど、前の世界大戦で大きく拡大した反動が今だに続いているからだ。
 私が、いや鳳が多少動いても影響がない証拠でもある。

 一方アメリカは、相変わらず我が世の春を謳歌している。
 1928年の夏頃から、アメリカのダウ・インデックスが凄まじい勢いで上昇を再開していた。
 この上昇は、私の前世と同じなら29年春までに300ドル台前半に達したあたりで一旦は停滞に入るけど、さらに半年ほどしてから頂点へ向けて最後上昇を行う。24年頃の90ドル程度から見れば、僅か5年で凄まじい上昇だ。
 そしてピークに達するのが1929年の9月3日。この日381ドル17セントをつける。この数字を超えるのは、1950年代の半ばを待たなければならない。

 崩壊の始まりである「ブラックサーズデー」は10月24日。この時点でダウ・インデックスは320ドル程度。
 そして本当の奈落に落ちるのがその5日後の10月29日、有名な「ブラックマンデー」だ。ダウ・インデックスは230ドルに大幅下落し、なんと1日で140億ドルが泡と消えた。下落率が30%とか、もう頭おかしいレベルだ。
 しかもその約2週間後の11月13日に198ドル60セントを記録して、この短期間で300億ドル以上が世界から消え去る。
 当時の日本の借金抜きの国家予算の約35年分。単純に比較できないけど、2010年代の価値で225兆平成円くらいになる。しかも世界経済全体、日本経済の規模がそれぞれ違う状態での数字なので、21世紀の人が想像できる数字にすると、比較出来る数字にするともっと大きくなる。

 しかも下落は一度ではない。株価の下落は一時的な回復を挟みつつ、その後も延々と2年半ほど続く。そして1932年7月8日に、最安値となる41ドル22セントを記録する。アメリカ経済が大きく隆盛する切っ掛けとなった第一次世界大戦から、以後100年で最低値だ。
 もう、身も心も真っ白になっても足りない。

 けど私は、この凄まじい歴史的な乱高下、アメリカ株のバブルに乗って鳳を隆盛させようとしている。
 そして今の所、大きな成功を収めている。
 仮に28年の秋に1年後と同規模の崩壊が起きても、私の、いや鳳の勝利は既に確定している。
 何しろ24年内に90ドルの時代に最初に買い始めているし、買い増したのも140ドル台の頃だ。すでにレバレッジの借金もないし、少なくとも負ける事はあり得ない。
 鳳としては、あとはどれだけ勝てるかだ。
 多くの人、国を犠牲にして。
 けどこの流れは、私では止めようがない。何かを言ったところで幼女の戯論。鳳が総力を挙げて警鐘を鳴らしても、鼻で笑われるだけだろう。
 この当時それほどアメリカ株は、無敵と思われていた。

 もう少し、お金の話をしておこう。
 1924年から29年にかけて、アメリカはGNPが122%、企業収益が183%増加した。
 株価については、私が最安値の頃に買い始めたけど、最高値との倍率差は4倍以上になる。年平均でも約3倍だ。
 アメリカの株価総額は、1925年に約270億ドルがピークの1929年9月には、約900億ドルにまで膨れ上がる。
 けど萎む速度は、増える速度よりさらに早かった。最安値の1932年7月は、たったの157億ドルだ。
 アメリカのGNPも、1929年が1,044億ドルだったものが、1933年には560億ドルと半分近くに下落している。
 この数字の動きは、悠々たる大河の流れのごとく、今の所完全に私の前世の歴史をトレースしている。

 そしてアメリカは、大恐慌で失われたドルを少しでも何とかするため、世界中から容赦なくドルと黄金を回収していく。
 世界中が大混乱に陥って、「持たざる国」も生きるために刹那的に動かないといけなくなるわけである。
 ここから第二次世界大戦、さらには1950年代のアメリカの繁栄までを見ていると、まるでアメリカによるド外道なマッチポンプだ。
 しかし鳳は、私の前世の知識を「夢見の巫女」による未来の夢として利用する。
 前世の大学で近代経済史を一応勉強していたけど、この体の頭脳がクリンナップしてくれたおかげで役立つのは、私的には皮肉を感じなくもない。

「時田、年が明けたら株をじゃんじゃん売り始めるわよ」

「はい、玲子お嬢様。手筈は既に整えつつ御座います」

 悪役令嬢の執事らしく、時田が慇懃に礼をする。
 だから私も、豪華なソファーに腰掛けたままそれっぽく応じる。

「買い手に不足はないわよね」

「誰もが、株は永遠に上がると考えているようですからな」

「……終わらない夢はないのにね」

「全くですな」

 二人して少し遠くを見てしまう。
 特に私は、前世の歴史を知っているから尚更だ。しかも私の場合、その後別の恐慌を直に体験している。
 1990年頃の日本でのバブル経済の崩壊は子供だったから、その後お小遣いが減った程度で直接関わりなかった。けど2008年のリーマンショックでは、その後の政権交代が影響した不景気のあおりもあって、死なない程度に苦しい思いをさせられた。

 だから来年起きる世界大恐慌も、株で勝ち始めた頃に阻止は無理でも緩和くらいできないかと思った事は一度や二度じゃない。けど、色々な数字と実情を見て諦めた。見るたびに断念した。
 多少未来を知ってようが、これは止めようがない。途中で止まればマシな結果になりそうだけど、止まる様子もない。

 私、というか鳳が全体の数%の株を運用しているけど、推移を見る限り誤差修正範囲でしかない。突然全部売り払っても、恐らく誤差の範囲で終わってしまうだろう、というシミュレーションでの予測結果まで鳳のシンクタンクから突きつけられた。
 日本の国家予算を超える額を運用して胃をキリキリと痛めているのに、張り合いがないったらない。
 けどそれも、あと少しの辛抱だ。

「ところで、噂はどの程度まで?」

「フェニックスが29年辺りで「控える」という噂は、かなり浸透しているとの報告が来ております」

「実際、28年は買い進めてないものね。周りは引退と取るでしょうよ」

「はい。そこでさらに、予定どおり日本での大規模な事業拡大のための実弾、借金によるものではない現金を求め始めているという話も既に流して御座います」

「じゃあ、来年になって320ドルの値を付け始めたら、じゃんじゃん売り始めましょう」

「畏まりました」

 なぜ一気に売らないのか。なぜピークで売らないのか。
 もちろん、ピーク辺りでも多少は売らせてもらう。けど、断続的にじわじわと売る一番の理由は、株式市場を鳳が必要以上に混乱させない為。いや、万が一の場合を考え、恨まれない為だ。
 何しろフェニックスは、10億ドル単位の株を運用している。一気に大売りに出たら、それこそ大恐慌という巨大すぎる地雷を大ジャンプで踏み抜く可能性はありうる。
 だから、もう株はやめて真っ当な商売に専念するという噂を流して、少しずつ、それでも1億ドル、2億ドルの規模で毎月売り抜ける予定だ。

 そして日本円には少ししか替えず、ドルを日本に持ち帰るのも最低限にする。黄金への交換も、多少はするけど過度にはしない。それでも1割程度、出来れば2、3割は日本に持ち帰りたいけど、私の主な目的はアメリカでの買い物だ。
 諸々の設備を作るための建設機械。大量の工作機械を作る為の工作機械。自動車やトラクターを作る大工場丸ごとの工作機械。各種特許の使用料。できれば特許そのもの。買いたいものは幾らでもある。
 表向きの目的は、鳳グループが日本で最強の重工業企業にのし上ること。これに関しては、鳳が石油関連を中心に重工業重視の企業集団なので、周りも納得しやすい。
 アメリカでも鳳はフォードとの関係が深いので、妙な勘ぐりもされにくい筈だ。

 恐らくというか確実に、株の売買のゲームから降りることを表向きは残念がり、その裏では嘲笑するだろうけど、高らかにそして優雅に笑うのは私だ。
 泡銭(あぶくぜに)を実のある物に変えて、日本へと堂々と持ち帰るのだ。

 なお、噂では29年の冬からアメリカでの買い物を本格化させるという事にしてあるけど、私の予定では株式暴落の発生で一時延期。実際買い始めるのは、早いものでも翌年以後になるだろう。
 そして景気の底が抜ければ、誰もが大金を持つ鳳に喜んで商品を売ってくれるだろうし、ドルをアメリカで使うのだからアメリカ政府も文句を言う可能性はない。
 最上級のもてなしを受けても良いくらいだ。

 けれども、商売相手をまずもてなすのは、こちらのようだった。
 時田との悪巧みから1週間ほどして、早速ニューヨークからの来客があったからだ。

 

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ブラックマンデー
史上最大級の人災の一つ。だいたい本編に書いた通り。
そりゃあ次の世界大戦起きるよねって程の凄まじさ。

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