■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  089 「春の旅の終わり」

「プハーッ!」

 愛知を夕方発ったので、その日の深夜に熱海には到着した。
 そして旅を一緒にしてきた人達とそのまま、熱海にある鳳の別荘に雪崩れ込んだ。そして夜中なのに風呂へと直行し、事前にお願いしてあったブツに手を伸ばして一気に飲み干す。
 特注品となったが、この時代にまだ売っていないフルーツ牛乳。前世の私は、温泉やスーパー銭湯に行った時に必ず飲んでいたお約束の逸品だ。瓶詰めではなくコップに注いでという形だけれども、味も冷たさも完璧だ。
 当然だが、コップを持たない腕は、作法に則ってちゃんと腰に当てている。

 温泉自体も、有馬も北陸もなかなか良い温泉だったけど、もう旅も終わりという事もあって最高だ。開放感が違う。
 けど今いる熱海は、私が前世で知る熱海と少し印象が違っていた。

 江戸時代から賑わっているし、貫一・お宮で有名な「金色夜叉」の舞台になったように日本有数のメジャーな観光地だけど、時代的に巨大なホテル街はない。
 この時代だと、皇族の御用邸もあるように、明治の頃に形成された別荘の方が目に付くくらいだ。
 鳳の別荘もちゃんと存在している。しかしこの別荘は、鵠沼の別荘と違って鳳家ではなく鳳財閥のもので、一族以外のものも利用できるようになっている。
 それに、規模も別荘というには少し大きく、企業の保養施設となっていた。加えて、管理運営の為に人も常駐しているので、少し豪華な旅館といった感じがする。

 ただし今回は、セキュリティの関係もあって鳳一族が借り切っている。
 しかも他のみんなは、一日前どころか今日の午後到着予定と連絡を受けているので、半日は建物丸ごと貸切だ。
 そして女性は私とシズだけなので、ちゃんと男女分けられた温泉露天風呂の女湯も貸切状態だ。
 男湯も虎三郎だけで、こちらも貸切だ。私は八神のおっちゃんやワンさんにも風呂くらいは入ればと誘ったが、引き継ぎと次の仕事があるからと断られた。
 旅に同行したりしていた使用人や社員も同様で、シズが例外なのはシズは私個人の使用人で、身の回りの世話と最後の盾になるという一族側から課せられた役目があるからだ。
 一緒に風呂に入るのも、親身にお世話するという以外に、そういうシビアな目的もある。
 そのシズも、私と一緒にフルーツ牛乳を飲んでいる。

「美味しいでしょ?」

「はい。面白い味です。それに栄養価も高そうですね」

「まあ、そうだとは思うけど、理屈で飲んだら美味しさ半減するよ」

「そうでしょうか?」

 そう言って心底不思議そうに私を見返す。
 なんだろう、輝男くんにも感じたけど、鳳でのスパルタ教育のせいか、実用一点張りな考え方の使用人が多い気がする。
 しかし、まだまだ衣食住が十分満たされない人が多い事を思うと、こうなってしまうのかもしれない。

「シズは、こういうの飲んだ事ない?」

「牛乳だけでしたら、鳳の学校で幼い頃から十分に」

「それは、そうだろうね」

 牛乳は関係ないかもしれないけど、温泉でも一部の発育具合は十分に堪能させてもらった。
 普段からもお風呂の世話とかしてくれるけど、完全な裸を見る機会は意外に少ないので、意外という以上に鍛え上げられた引き締まった腹筋や各部筋肉とか、ちょっとアスリートっぽい姿と共にではあるけど、あと5年は勝てそうにない立派なものだった。

 それよりシズ相手だとすぐに会話が途切れそうなので、ソファーにだらりと腰掛けつつさらに言葉を重ねる事にした。
 シズとは二人きりな事が多いが、こうしてシズもリラックスしている時はあまりないからだ。

「幼い頃ね。シズって、やっぱり輝男くんみたいに朝は学校、昼からは鳳のどこかで秘密の特訓みたいな生活だったの?」

「そうですね。5歳の時に鳳に買われて、教育と訓練を受けてきました」

「それは、私に仕える為?」

「中学に上がった辺りからはそうだと思います。教育内容、訓練内容の一部が変更になりましたので」

「そうなんだ。けど5歳から15歳までだから、10年間も厳しい生活だったのね」

「厳しいと思ったのは、最初の頃だけです。成果を出せば評価されますし、十分以上に衣食住も満たされています。それに高等女学校に上がった時からは、学ぶ立場なのに給与も頂くようになりました。こうしてお嬢様に直にお仕えするようになってからなど、信じられない程頂いております」

(それは、いざという時の命の代金も含んでるからよね)

 思いはするが、私が口に出してはいけない。それにシズ以外にも、同じような境遇の人は沢山いる。剣呑な雰囲気の八神のおっちゃん達などは、大抵は危険な仕事ばかりしている筈だ。
 弾丸ツアーの間も、多分だが夜中とか私が見ていないところで、他の護衛やお付きの使用人と打ち合わせをしたり、行く先々の安全を確認したりしていたのだろう。

 そうした沢山の人々の努力と献身の上にいる以上、鳳の者として成果を挙げないといけない。『良い目を見させてやる』のは、上に立つ者の義務であり責務だ。でないと、誰も付いてはこない。
 そして誰も付いてきてくれないと、私のやりたい事など何一つできはしない。歴史チートとか能天気な事を言っても、全てが絵に描いた餅以下の落書きになってしまう。

 転生してしばらくは、今思えばかなり能天気に『知ってる知識で破滅回避すればいいじゃん』程度に思っていた。
 けど、みんな一生懸命生きて暮らしているんだから、それに報いるとまでは言わないけど、私の役目を果たさないといけないと、こうして誰かと話すたびに考えさせられる。
 今回の旅は、特にそれを実感させられた。

 私は私自身の破滅回避はともかく、鳳を破滅から救うのは自分の為だけではなく、鳳に属する者に対する上に立つ者の義務だ。
 まあ流石に、日本全体の事については流石に気に病む気もないけど、それでも出来る事くらいはしようとは思って動いているつもりだ。

 ただ、『出来る事くらい』と思うだけでも傲慢なのだろう。
 多少未来を見知っている程度で、大人達を差し置いて色々と動いている子供など怒られて当然なのだ。
 そして子供を怒ってくれる大人、窘(たしな)めてくれる大人、諭してくれる大人、導いてくれる大人がいる事に感謝しないといけない。
 例え中身がアラフォーの記憶持ちでも、みんなから見れば奇妙なクソガキでしかないのだから。

「どうかされましたか? 何か気に触ることでも申しましたでしょうか?」

 少し考え込みすぎていたらしい。
 だから、ゆっくりと首を横に振る。ただ、口から出た言葉は考えていた言葉ではなく、どちらかと言うと繕う言葉だった。

「ううん。人それぞれ違う道を歩いて、違うものを背負っているんだなあって、思っただけ」

「そうかもしれませんが、もうすぐ9歳手前でそのお言葉は達観されすぎです。あまり他ではおっしゃられませんように」

「その言葉、そのまま返してあげる。私よりプラス10歳で、そんな諫言(かんげん)言わないでよ」

「そうかもしれませんが、言わせているのはお嬢様だと言う事は頭の片隅に留めておいて下さい」

「そうしたいけどね」

「はい、是非そうして下さい。まだ9歳で御座いますよ。ご隠居様もご当主様も、他の鳳の方々もいらっしゃいます。皆様に話すべきことだけ話して、もう少し子供でいて欲しいと私は思っております」

 そうして綺麗に一礼した。今は浴衣姿だが、姿勢、仕草共にいつものシズだった。

(シズにまで言われてしまった)

「ハァ。今回の旅は、大人達に似たような事言われてばっかり」

 ため息に続いて、ついつい愚痴まで出てしまう。
 しかしこの数年間、常に私のそばにいたシズの言葉は、私にとって他の誰から言われるよりも重い。曾お爺様やお父様な祖父に言われるよりも、ある意味重い。
 その上シズは、今までここまで踏み込んだ事を言った事がなかったので、心すべきだろう。
 そしてそれが分かっているからこそ、ため息と愚痴が出てしまった。
 
「差し出口を申しました。お許しを」

 そう言ってもう一度頭を下げるシズに、言うべき事は一つだろう。

「ううん。ありがとう。それとこれからも、遠慮せずに文句言って。ただし、条件が一つあるんだけど」

「なんで御座いましょうか?」

 言葉の途中で完全服従を拒んだ私の顔を、少し神妙にシズが覗き込んでくる。

「もっと、スキンシップして。私、まだ9歳なってないのよ。これ命令ね」

「……畏まりました。では私も、8歳児を相手にするように仕えさせて頂きますので、お覚悟を」

「覚悟はするわ。実行は多分無理だけどね」

 言い切ってやったら、流石のシズも苦笑した。
 その苦笑に思った事は、これで私の今回の旅は終わったのだと言う事だった。

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熱海:
徳川家康の頃からの湯治場。江戸時代からの観光地。
尾崎紅葉の金色夜叉は、1897年から新聞連載。

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