■「悪役令嬢の十五年戦争」
■ 152 「１９３０年社長会」
「ああ、今回は憂鬱ね」
「晴れ舞台なのではありませんか？」
「本当にそう見える？」
「はい、勿論です。それに、お嬢様が風呂敷を広げられたのです。お片づけはご自身でなさるのがお嬢様の美徳の一つと、シズは心得ております。それを今回だけ厭（いと）うのは感心致しません」
「はいはい、その通りです。善吉大叔父さんだけに苦労させるわけにいかないものね。見世物になれば文句ないでしょ」
「シズはお嬢様に文句など一切御座いません。ただ見世物というのは如何かと」
「じゃあお披露目？」
「その認識で宜しいかと」
シズといつものようなやり取りをしつつ、控え室で気分を落ち着ける。 ここは鳳ホテル大宴会場の隣の小さな部屋。去年は、ここから鳳グループの社長会を見下ろして好き勝手にコメントだけしていた場所だ。
今日は１９３０年４月１９日、土曜日。 これで３回目となる鳳グループの社長会が、山王の鳳ホテルで開催される。 あと数日で国会、国政が大変になるかもしれないと言うタイミングだが、私の方も正念場だ。 前回の社長会と違い、今回は荒れる事が確定的だからだ。
何しろ２月初旬に財閥総帥の鳳玄二が倒れて緊急入院し、一週間後に鳳玄二の長期入院の発表。これで従来の財閥の中枢である鳳会社はトップが事実上いなくなる。そこで、鳳ホールディングスの鳳善吉の鳳会社社長代行が発表。 鳳善吉が、今まで半ば二重体制だった鳳グループの完全なトップとなった。 そしてここで、鳳善吉が財閥一族の婿養子なのが問題となる。 一応は財閥一族だが、出自が婿養子だ。三井や住友のような伝統のある財閥一族だからこそ、後継者や実務者として婿養子に任せられる。だが鳳一族の場合、善吉大叔父さんが初めてのケースなので不安定だと当初から見られていた。 しかも７年前の関東大震災で、鳳一族の財閥総帥とその後継者と見られていた龍次郎、麒一を失っている。いれば全然違っていただろう。 だからこれだけ見ると、実質的に鳳一族の財閥支配の力が弱まり、鳳グループへの直接の影響力を低下させたようにも見える。 一族以外のグループ関係者が色めき立つのは当然だ。 特に旧鈴木商店側は、三頭体制が崩れた事に強く反応した。 しかも鳳が巨大資本で融資、出資を鳳ホールディングスに統一したので、懸念は強くなった。
なお、台湾銀行が１９２７年春の時点で旧鈴木商店への融資額は３億５０００万円あった。このうち、１９３０年春の段階で台湾銀行が融資した状態したママの約２億５０００万円を、鳳ホールディングスが肩代わりすると言う話も広まっている。
広めたのは鳳側で、これにより他財閥の不良債権で未だに経営が苦しい台湾銀行を、来るべき世界恐慌に伴う日本の不況に耐えさせるのが、私の目論見だ。 そして台湾銀行は半ば国策銀行なので、鳳は台湾銀行と台湾銀行から融資を受けている財閥、会社などなどだけでなく、日本政府自体にも大きな借りを作る事になる。そして何より、鳳グループはこれで旧鈴木商店を完全に丸呑みする事ができる。 そしてそれを行うのが、巨大な自己資本を有する鳳ホールディングス（鳳金融金融持株会社）だ。
これだけでも鈴木にとっては大変なのに、さらに焦る要因がある。 鳳グループである旧鳳財閥と鈴木商店（財閥）の上位に立つ鳳ホールディングスは頂点ではなく、さらに上に鳳長子が保有するフェニックス・ファンドがどっしりと鎮座している。 鳳ホールディングスという当時の日本では特殊な持ち株会社と並んで、これが鳳財閥の特徴だ。
つまり、結局のところ鳳一族が、肥大化した大財閥の頂点に君臨している事になる。 それでもフェニックス・ファンドは間接的という立ち位置だと説明され、資金を供給するだけで干渉していないので、今までは何とかなっていた。そして今後もそうであったとしても、２９年に現金化した金額が問題だった。
フェニックス・ファンドは、アメリカ以外に移動した分を含めて米ドルで１８億ドル近く保有している。保有資産の全てが公表されているわけではないが、とんでもない金額を保有している事は、もはや「誰でも」知っている。 これを日本の報道各社は『昭和の黒船』とすら呼ぶ。それだけのインパクトを持つ日本人が持つ巨大ドルだからだ。 そしてこの「誰でも」は、私が日本政府にポンと２０００万円もの金塊をあげてしまった事で、もはや日本国民全体レベルだ。 日本財界の一般説としては、フェニックス・ファンドは国家予算に匹敵する１０億ドル程度持っていると噂されていた。そしてそのうち２割から３割を、政府の協力を得て日本へと持ち帰る事に成功し、その大半を鳳ホールディングスや鳳商事の自己資本としたと言う話まで広まっている。
１０億ドルは、日本円だと約２０億円。まさに国家予算に匹敵する金額だ。また、この世界の日本のGDPが１９２９年度が約１９０億円なので、ざっと一割でもある。 さらに２７年春以後には、鳳ホールディングスが大量の自己資本を有していると言う安心感から、日本中の預金が中堅財閥だった頃からは考えられないほど集まった。さらに鳳ホールディングスは、全国展開を目的として中小の銀行の吸収合併を他の大財閥と競うように実施した。 結果、２９年中までに、日本の預金総額のうち５％程度を占めるに至る。ここまで集めれば、押しも押されぬ大銀行だ。
一方で、この頃すでに三井・三菱・住友の日本３大財閥が、日本の預金総額が約１００億円のうち３割程度を持っていた。 けど鳳は、自己資本と合わせると単独で日本三大財閥に匹敵する資本、つまり「現金」を保有している事になる。 しかも実際に鳳宗家が掴んだ泡銭は倍の２０億ドル、４０億円。この時代、日本の財閥の現金や金塊での自己資本は少ないので、もはや圧倒的な資金力となる。端（はた）から見ればモンスターだ。それが日本でそれ程威力がないのは、簡単には日本に持ち帰れない事が影響している。逆に言えば、多少なりともバランスを取っていると言える。 それでも、そんなものが財閥、グループのトップに君臨しているので、一見すると財閥宗家の支配は安泰だ。
ただし鳳一族は、財閥だけをしていない。 曾お爺様は、かつては枢密院までしていた事実上の政治家だ。今際（いまわ）の際（きわ）が近いという現在でも、相応の政治力を持っている。一族当主は陸軍の現役将官で、こちらも中央に対する政治力は皆無ではない。 そこに後継者と見られていた人物が倒れてしまったと言う点が一番重要だったのだ。
そしてフェニックス・ファンドは鳳長子のものだという話は、少なくとも財閥の知っている人は知っている。 つまり曾お爺様の蒼一郎、お父様な祖父の麒一郎、そして私、玲子のものだ。さらに蒼一郎は隠居で余命僅かという話が外にも伝わっている。私は子供。そうなると、一族当主でもある麒一郎が全てを握っていると誰もが考える。 しかもフェニックス・ファンドは、筆頭執事の時田が金庫番を務めている。 だから鳳グループの真の支配者は麒一郎。私は「鳳の巫女」という与太話や神懸かりを装った偽装（ダミー）や欺瞞（デコイ）というのが一般評だ。
そこに今回の社長会で、私は鳳長子の名代として参加する事になっている。 事前に社長会参加者に回されているパンフレットには、鳳長子の参加が明記されているので、恐らく大半の者がお父様な祖父の麒一郎が参加するのだと考えているだろう。 しかし急用にて麒一郎は欠席。私の登場と相成るわけだ。
「それじゃあ、晴れの舞台とやらに出ましょうか、シズ」
「はい、畏まりました」
私が立ち上がり部屋を出ると、既に扉で待っていたトリアとリズ、それに本来なら既に席についていても良いセバスチャンが恭しく一礼する。 「セバスチャン、あなたの席はあるでしょ。何か急用でも？」
「いいえ。しかし、お嬢様の晴れの舞台に付き従う事こそが私の望み。それにこういう時は、ハッタリを効かせるものです。準備は整えておりますのでご容赦を」
そう言ったセバスチャンの後ろには、彼が連れてきたアメリカでの部下達と、私に使えるメイド達が控えている。 要するに大名行列をして、威圧しろって事だ。 そして私はセバスチャンの主であり、何より悪役令嬢だ。 だから、セバスチャンに見せるように小さく嘆息した後で、出来る限り不敵な笑みって奴を見せてあげる。
「許しはしないけど認めてあげる。それじゃあ行きましょうか」
「「はい、玲子お嬢様」」
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日本のGDP 史実の１９２９年度は162億8600万円。 不況がピークの１９３１年度は125億2000万円まで減る。 預金総額も約９０億円
この世界の日本は、北樺太（の油田）を保有する事、地味ながら早めの積極財政、鳳財閥が派手に動いている事、さらに１９２７年の昭和金融恐慌がないので、二割ほど大きくなっている。 それと当然だが、主人公たちの２０億ドルの大半はアメリカにあるので、日本の統計からは除外した数字になる。 （※ノーテンキなお気楽架空戦記じゃないので、この程度が限界です。これでも楽観視した数字です。）