■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  289 「満州利権1932」

 1932年6月から、満州の日本の権益強化が進んでいた。
 6月はモンゴル、内モンゴルでのゴタゴタも続いていたけど、その隙を狙うように6月15日「日満議定書」が交わされていた。

 これは日本と満州臨時政府の間の議定書で、張作霖の中華民国政府は関わりがなかった。
 だから、中華民国の主権に関わる問題は避けられていたけど、内容自体は殆ど国と国との間の取り決めだった。

 主な内容は、日本が改めて満州臨時政府を承認する事。ただしこれは、独立を認めるものではない。あくまで、中華民国内の自治政府の承認となる。
 しかし満州臨時政府自身が、中華民国政府に対して高度な自治を宣言して、中華民国が黙認という形になっている。それを日本政府が認めたという点が重要だ。

 それ以外は、満州臨時政府として、満洲での日本の既得権益の維持、共同防衛の名目での関東軍駐屯の了承を認める事だった。こういった事は、通常は国家間でしか約束を交わす意味はない。それをしたという点で、日本が満州臨時政府を実質的に独立国として認めたに等しい。
 
 そして私だけにとってある種滑稽なのが、北満鉄道(東清鉄道)交渉の立会人として来ていたヴィクター・ブルワー=リットン伯爵も、オブザーバーという形で立ち会っていた事だ。
 リットン卿を極東に派遣していたイギリスとしては、正直満州の事はどうでもいいけど、日本が妙な事をしないよう、ちょうど居るのでついでに見てこいと言う感じだったらしい。
 それ以外では、アメリカのスチムソン国務長官が強い興味を示していた。ただしアメリカは、フーヴァー大統領が特に動いていないので、行動自体は無かった。

 交渉は東京で行われ、日本の犬養毅首相と満州臨時政府の国務院総理(首相)鄭孝胥(ていこうしょ)の間で取り交わされた。
 そしてアジア主義者の犬養毅なので、日本の一部、急進的な者達が求めた事は考慮されなかった。
 求めた事が、満州を中華民国から『独立』させる案件だからだ。ただし、これだけなら民族自決の考えから犬養毅も認めるところだけど、その真意が満州を完全に日本の属国にする事だから、犬養毅は無視したわけだ。
 そして大半の者も、犬養毅を支持した。その方が、国際外交上で日本に都合が良いからだ。

 一方で、この交渉と議定書に張作霖が率いる中華民国政府は関わっていない。
 日本の満州利権に関しては、既に条約が交わされているから必要ないが、今回は満州全土に日本軍(関東軍)が駐屯するから、国際上は中華民国政府と条約を交わさないといけない。けど、『高度な自治』を有すると主張する満州臨時政府の立場を、日本政府が尊重した形になっていた。

 そして中華民国政府は、基本的に黙認状態を維持した。
 その一方では、満州臨時政府統治下に入っていた熱河省、並びに内蒙古臨時政府へ日本軍を入れない事を、水面下で求めたのみだ。
 主な理由は、大陸中原での支配力、影響力の低下を避けるため。南部は依然として制御外で、揚子江地域で蒋介石が勢力を拡大しつつあり、北で騒動を起こしている場合じゃないからだ。それに張作霖政府は、日本が物心両面で支援している。借款と軍備増強も、始まったばかりだ。
 そして日本も、現状で張作霖との関係悪化は望んでいないので、条件を受け入れた。

 こちらの交渉は犬養首相の承認のもとで宇垣外相が行い、内蒙古臨時政府の件と合わせて合意されていた。当然、荒木陸相の出る幕なしだ。
 そして中華民国が熱河省とチャハル省(内蒙古)の件で日本と約束を交わしたと少し後で知ると、世界も中華民国が満州での日本の行動を容認していると判断する。

 それ以外だと、蒋介石はイギリスがお墨付きを与えたに等しい満州での動きに、強く文句は言えなかった。『掃共』、共産主義への攻撃によって、諸外国からの援助を受けている為だ。そして、世界恐慌に連動した銀の暴落で経済が崩壊状態の中華地域では、国内でまとまった金を得る手段が無かった。
 そして援助で生きているので、張作霖も蒋介石も民衆からの支持が低い。汪精衛らのいる広州臨時政府の方が、何もしてないのに支持が高いくらいだった。
 当然、南部の内陸部で地主を殺して回っている共産党を支持するのは、何も知らない者達くらいだ。

 そして私は、皇国新聞、鳳商事、そして大陸の兄弟達から情報を集めて、大陸の共産党が何をしているのかを、日本と世界に発信し続けている。
 さらにその情報を、アメリカでハーストさんが反共宣伝の一環として広げてくれている。イギリスでも、ガチガチの反共主義者のチャーチルが私からの情報を利用している。

 その副産物で、海外での蒋介石の評価、人気が少し高まってしまった。なにせ共産党と一番戦っているのは蒋介石だ。だから張作霖も、せっせと内陸に軍を派遣して『掃共』をしている。
 伝わってくる情報や噂では、少数の共産党を潰す競争になって、張作霖と蒋介石の軍隊が小競り合いをしたという話まである。そしてそんな事をしているから、ますます両者の民衆人気は落ちる。
 さらに民衆だけでなく、外国勢力を憎んでいるそれぞれの配下の軍閥や『武将』は、不満を募らせていた。
 しかも『掃共』はモグラ叩き状態で、攻める側が少数だと軍閥の兵隊は簡単に負けて逃げ散るから、むしろ共産党の勢力が増しているほどだった。

 一方で満州臨時政府は、『掃共』で大きな働きはしていない。けれど、そもそもソ連と長く国境を接しているから、それで国際的には十分役割を果たしていると見られている。
 また日本も、自分達だけでは満州の治安維持や防衛に手が足りなさすぎるので、国内で事実上余っている将校などを動員して『軍事顧問団』を編成し、旧式装備と多少の資金援助を加えて満州での近代的軍隊の編成を急いでいた。

 似たような事は、以前張作霖が政権を握った時にも行ったけど、張作霖軍閥を近代的な中華民国軍にする試みは、殆ど成功していない。
 首都防衛の精鋭部隊の一部の近代化が辛うじて成功した程度、と言われている。

「改めて聞くが、そんな状態でうちに何の用だ?」

「鳳の力で満鉄の影響力を削ぎたい、との事でした」

 お父様な祖父の声に、善吉大叔父さんが返す。
 鳳の本邸の応接間。そこに、主だった鳳の人達が集まっていた。
 上座には、この7月に貴族院議員となったお父様な祖父、そして話を持ってきた実質的なグループ総帥の善吉大叔父さん、重工部門トップの虎三郎、鳳商事を仕切る時田、石油部門トップの出光佐三さん。話し合いが夜なので、陸軍の仕事を終えた龍也お兄様もいる。そして私だ。

 玄二叔父さんは、こういう場には決して出なくなったし、佳子大叔母様は一族会議以外は出る気がない。というか、今も逗子の別荘に長期逗留中だ。紅家は、誰も呼ばれていない。また、神戸の鈴木系列の人達も呼ばれていない。
 子供達は、私以外が呼ばれるようになるのは、早くても15歳になってからだ。
 貪狼司令がいても然るべき状況だけど、会社で残業中らしい。だからこそ善吉大叔父様が話すのだ。

「つまり、何? 関東軍が満州を好き勝手したいから、うちが満鉄と潰し合えって事?」

「関東軍じゃない。日本陸軍が、だよ。玲子」

「それを言うなら、一夕会内の一部ですよね。お兄様は、永田様から何か聞いているのですか?」

「具体的にはまだ何も。でも、満州を日本の国家総力戦体制の枠に組み込む方向で、一夕会は動いている」

 私のあんまりな物言いにも何も言わずに答えてくれるお兄様は、理解はしているけど組織の人だからって感じの歯がゆさがある。
 それに対して、お父様な祖父は辛辣なままだ。

「それがお前らの目的だからな。勘違いも甚だしいが」

「それくらいの事、心得ていますよ」

「お前が心得ていても、何にもならん。特に関東軍は、我が世の春が来たからと浮かれすぎだ。ちゃんと押さえつけとかんと、そのうち大馬鹿な事を仕出かすぞ」

 お父様な祖父は元軍人だけど、政府による制御、シビリアン・コントロールをちゃんと考えられる人だ。その割に、自分は好き勝手するのも麒一郎という人間だ。
 そしてお父様な祖父が厳しいように、今回鳳に話を持ち込んできたのは、陸軍だった。正確には関東軍だけど、現地組織の関東軍では日本の中枢は動かせない。

 そして関東軍にとっての直接の中枢は日本陸軍、そして実務職を牛耳る一夕会だけど、このところあまり上手くいっていない。
 上位の要職には、宇垣閥の人を排除して自分たちの意を汲む人を据えたけど、政治全体は陸軍だけでは何も出来ない。
 だいたい、総力戦体制の構築とか唱えても、大半の軍人の言う事は社会主義、共産主義の経済を知らない連中と大した違いはない。

 そして政府の船頭は、犬養首相と宇垣外相がとっている。
 満州臨時政府も、関東軍ではなく日本政府と外務省との関係を非常に重視している。関東軍がどういう連中かは、彼らが一番よく知っているからだろう。
 海軍は「やらかし」が連続した後遺症で、軍艦が欲しいと控えめに強請(ねだ)る以外は、政治家達が不気味がるほど政府に従順だ。他の省庁も、基本的にいつも偉そうな陸海軍が気に入らないから、首相と外相を支持している。

 そして犬養首相がアジア主義者だから、満州臨時政府の自主性を尊重している。しかも陛下までもが、犬養首相の方針を支持していた。陸軍ですら、満州での事態を荒立てることに反対している。事変を起こして満州を手に入れた筈の関東軍は、半ば蚊帳の外だ。
 それならば、現状の方針通り実利だけを得てしまおうと考えるも、一番邪魔なのが南満州鉄道株式会社だった。

 南満州鉄道株式会社、通称満鉄は、明治以来日本の国策会社として、日本の満州経営で巨大すぎる影響力を持っていた。そして私だけが知る事だけど、張作霖と日本の関係が良いから、私の前世の歴史と違い、張学良の満鉄包囲、平行線敷設がないので、経済的なダメージは世界恐慌だけ。
 何かの資料で見た事のある、前世の歴史での満鉄の大リストラは起きていない。

 そうした満州で、満鉄以外に大きな利権を有しているのが、鳳の石油事業だった。しかも鳳と石原莞爾は、次の石油開発の便宜で合意を得ている。さらに鳳は、満州臨時政府との関係を関東軍を介さずに独自に持っている。
 石油利権自体も、一部の警備以外で関東軍とは関わりがない。そして石油関連の警備では、日本政府、陸軍中央、海軍の全てから、重要な国益だからちゃんとしろとキツく言われている。
 つまり満鉄に対抗出来る立ち位置に居る、唯一の財閥、しかも日本5大財閥の一角の鳳だ。
 けどそれは、関東軍の歪んだ見方でしかない。

「そもそも、陸軍にしろ関東軍にしろ何様だ? うちに満鉄の鉄道以外の満州利権をくれてやるから、意のままに動けってか? 馬鹿にするのも程があるだろ」

 お父様な祖父の総評がそれだった。
 私も同意見だ。
 

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日満議定書(にちまんぎていしょ):
1932年9月15日、大日本帝国と満洲国の間で調印された議定書。議定書とは条約の事。

満洲国の承認、満洲での日本の既得権益の維持、共同防衛の名目での関東軍駐屯の了承の約束が交わされた。

この世界のものは、状況も内容も違っている。

第7回伯子男爵議員選挙:
1932年(昭和7年)7月10日投票。
伯爵・子爵・男爵議員は、同爵の者による互選とはいえ、選挙がある。

鳳一族で言えば、麒一郎が伯爵枠、紅龍が男爵枠、そして善吉が勅選議員の財界枠でなれる可能性がある。また、多額納税者議員だと、もっと沢山なれる可能性がある。

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