■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  318 「昭和8年度鳳凰会(5)」 

 今回の社長会。私の腹心の一人であるセバスチャンがいない。だから私にお鉢が回ってくる事が増えていた。
 大半の事、実務的な事は大人達がしてくれるけど、社交辞令的な事の幾らかが私に回ってきた。
 けれども、行う事は鳳伯爵家当主名代としての挨拶回り。

 そもそも鳳社長会自体が、親睦を深めるのが第一の目的で、他の財閥や企業の人間はいない。この宴会に前後した様々な会議や集まりでは具体的な話も行われるけど、たった2時間の立食パーティーで何百人もの間にまともな話が出来るわけもない。
 私の姿を見せて回る事、印象付ける事が目的みたいなものだ。だから、さらに豪華な衣装に着替えた私は、秘書のマイさんとメイド二人を侍らせて悠然と会場を回る。

(花魁の行列ってこんな気分なのかな? ていうか、オッサンども私を避けすぎだろ。誰かと話す振りして、こっちをチラ見するだけって、どうなの?)

 笑顔を張り付かせる以上の演技で、ゆっくりと会場内を練り歩く。そしてターゲットを発見したら、こちらから多少強引でも挨拶に突撃していく。もっとも、目ぼしい人、ネームドはいないから、機械的に淡々と行っていく。
 挨拶された側も、一族の当主名代に挨拶された時点で目的達成だから、こっちから行けば楽なものだろう。

 たまに、私を見つけて突撃してくる馬力のある人もいるけど、挨拶以上はシャットアウトする。女子以外にも、2人の屈強な男性二人がどこからともなく現れて、アイドルの握手会をコントロールするスタッフのように排除してしまう。

 そうして一巡したら、一気に暇になってしまった。

「冷たいものをお願いできる?」

「畏まりました」

 リズが私の言葉に応え、近くを歩いているボーイを呼び止める。それをちらっと確認してから、ゆっくりと会場を見渡す。

(あっちは善吉大叔父さんで、虎三郎、時田、出光さん、みんな忙しそうね。アララ、貪狼司令も人だかりに捕まってる。あっちの人だかりは、紅龍先生か。相変わらず人気者だなあ)

 見た限り、鈴木の人たちもいい感じに馴染んで各所でばらけている。鳳の主要な人達も、あっちに1人、こっちに1人な状態だ。
 そして私は、客寄せパンダではあるのだけれど、本当に遠巻きに見られるだけに終わっている。

「お嬢様、お持ちしました」

「ありがとう、リズ。ここのオレンジジュース、絶妙な甘さ加減が好きなのよね」

 そう言った私にリズが小さく一礼したところで、タバコの匂いが近づいてきた。この場で吸っている人はいないから、服に強く染み付くほどの匂い。葉巻の愛好家の匂いだ。

「楽しんでおられるようですな」

「吉田様も。けれど本日は、鳳の社長会だと記憶しておりますが?」

 ちょっとお嬢様風な口調で問いかけると、人を食ったような笑みが返ってきた。いかにも吉田茂っぽい。

「今日の儂は、小松製作所の代表の一人だよ。だから今日はあんたの下だ、玲子お嬢様」

(吉田茂にお嬢様呼ばわりされるとか、むず痒っ!)

「そうでしたか。イタリアでは、ご活躍されたとお聞きしましたが?」

 そこで「フンッ」と鼻で笑われた。

「誰もが、ムッソリーニに媚を売りすぎるだけだ。儂は慣例通りしただけだが、尾ひれがついているだけさ。ただ、それを犬養さんが耳にして呼び戻された」

 そう言う吉田茂は、田中内閣の頃に外務次官をしていた。そして31年の夏にイタリア大使として赴任。2年の任期を終えて戻ったばかりだ。
 もっとも犬養毅から呼び戻された形に近く、その理由がムッソリーニに媚を売らなかったからだと噂されていた。

「この3月に帰国されたばかりとか。けれど、犬養首相に気に入られたのでしたら、小松の代理になる必要もないのでは?」

「そこが宮仕えの悲しいところさ。犬養さんの元で手伝いをしているが、生憎と国内では正規の役職が空いてない。どこかに大使の椅子が空くのを待つ身だ。だがこちらも、しばらく席が空きそうにないから、中央統計委員会の委員にならんかという話まである」

 畑違いを言われて少し不機嫌らしい。ただ、親米英派と見られているこの人がすぐに次の仕事がないと言う事は、日本の一部の人たちのドイツ・ラブが早くも高まっているんだろう。

「統計は大切だと思いますが?」

「総研なんて持っとる鳳だと、そうだろうな。まあ、数字が大事な事は分かるがね」

「ですが、吉田様にとっては畑違いと。……では、しばらく小松の社長でもされますか?」

「さらに畑違いの、民間の社長をやれと?」

「会社の運営は、下の者がしてくれます。社長は、他と話すことも多く、全くの畑違いとは言えないのでは?」

「なるほどな。確かに今の小松は、鳳の系列どころか直属状態だ」

「ええ。率いてくれる人がいないので、うちが面倒を見させて頂いています。ただ、会社がもっと大きくなると、ある程度は自分で立って歩いてもらわないといけないので、正直なところ少し困り始めています」

「経営拡大は、順調どころか異常なほどだな」

「有難い事に、日本中で建設機械やトラクターは引っ張り凧ですから」

「それだけじゃないだろう。工場を見たが、アレはなんだね?」

 少し声色が変わった。私の知る限り、アレと言われるとアレしかない。

「陸軍からの依頼で開発しているものです。陸軍の造兵廠以外で、小松か鳳の工場しか開発できるところがありませんから」

「三菱も、陸軍の戦車の委託生産しとるし、自力での研究開発を始めとるぞ」

「いかに三菱様でも、5年は追いつけないでしょう。鳳の基礎技術力は、すでに陸軍すら上回っております。5年後には、さらに先に進んでいるでしょうけれど」

「ハハッ! 威勢がいいな。まあ、そこは儂には関係ない。小松が大繁盛のおかげで、儂の懐も随分暖かいという事実が重要だ」

(そして、その金を使って根回ししているんだ。このまま日本が米英との関係が悪くならなければ、近いうちに外相も夢じゃないだろうしね)

「なんだい、お嬢様? 儂を本当に社長にする気かね?」

「いえ、戯言ですので、お忘れください。それより、どこかに移動した方が宜しいですか?」

 雑談は終わったから、本題を話すのならという事だけど、小さく首を横に振る。

「お嬢様が会場からいなくなったら、誰でも気付く。そしてまた戻ってきたら、何処かの誰かさんと密会したと取られる。それで良いのかい?」

「逢瀬を楽しむには、私がまだまだ子供なのは皆さんご承知でしょう。特に問題もないと思いますが?」

 そう返してやったら、かなり豪快に笑った。ゲスの勘ぐりとも取れる言葉だったからそう返したのに、子供らしくなかったのかもしれない。

「まあ、お嬢様より儂の方が変に勘繰られたくない。この場で済ませよう」

「はい。ですが、注目の的ですよ」

「そのようだ。注目を集めるのは苦手なので、手短に頼もう」

 心にもない言葉に小さく頷き返すと、吉田茂は言葉を続ける。

「今年は、なぜ国に小遣いをやらなかった?」

 思っていた以上に意外な話。政治家の誰かから、様子見でも言われたんだろう。何しろ、本年度予算での鳳はおとなしくしている。

「今年は景気も良いですし、豊作になるでしょうから」

「相変わらずな先読み、いやお告げか。それだけかい?」

「ただ、今年も豊作飢饉になるので、うちとしては色々手を出します」

「こちらも相変わらずの篤志家ぶりだな」

「欧米では、上に立つ者、懐に余裕がある者の務めでは?」

「日本には、行う者、理解する者が少なすぎるな。儂も人のことは言えんがね」

「うちも、良い加減手元が寂しくなってきたので、善人ぶってばかりもいられませんけれどね」

「株の再投資を含めれば、まだ国家予算並みの金を持っている家の財布が寂しいとは、どこの世界の話だね?」

 吉田茂か、その後ろにいるであろう誰かさんは、私の財布の中身を良くご存知だ。
 ダウ・インデックスへの再投資で3億ドル。レバレッジは嗜(たしな)み程度に控えているけど、新政権が動き出したことで株価は大きく上昇中。現時点で、最安値の倍近くになっている。
 そして時価総額は、ざっと7億ドル程度。少し増え過ぎたので、王様達に色々とお譲りしたり買い物を追加する話が進んでいる。

 加えてドルは、まだ他にある。まだ買い物をしていない分が、ざっと3億ドル。金庫に眠り続ける金塊が1億ドル。締めて11億ドル。今は1ドル約3円だから、ざっと33億円近くある事になる。更にスイスの口座にも、金塊が1億ドル別にある。

 『10億ドルのお買い物』の一環で、うち3億ドルの大半は今年には消えて無くなるだろうけど、それを差し引いても24億円。しかも株は上昇している。
 つまり、日本の国家予算に匹敵する資産がある事になる。

 けど、31年から33年春にかけては特に沢山買い物をしたから、関税がびっくりするくらいかかった。
 関税率が平均で13%でも、10億ドル買えば1億3000万ドルの税金だ。そして為替が1ドル3円だから、本年度から向こう3年は、毎年1億円以上の関税を取られてしまう。特に去年は沢山買い物したから、約2億円もぶんどられる。許すまじ税関。

 ちなみに、昭和8年度予算は約29億5000万円。
 ただし軍事費比率は相変わらず高く、兵器の民間発注予算が加えられたとは言え、陸軍が約5億1000万円、海軍が約4億6500万円。国家予算の約33%を占めている。

 これに対して、公共事業の時局匡救事業は約4億8000万円。さらに予算全体が増えたので、他の省庁の予算に割り振るも、増えた分のかなりが景気対策へ回る。
 陸海軍の単独より少ない。陸海軍費のうち合わせて4200万円が民間発注の景気対策用とは言え、私から見ると少なすぎる。

 それにしても、今年で2年目の時局匡救事業の名前だけど、もう少し何とかならなかったのかと思う。分かりにくくて、国民への訴える力が弱い。
 日本版ニューディール政策などと言う言葉が定着する前に、何か名づけたいくらい。でないと、この手の政策の最初の例が時局匡救事業なのに、埋もれてしまうんじゃないだろうか。

 それはともかく、今年も高橋蔵相による犬養政権の放漫財政(積極財政)政策が続いている。税収もあるけど、大量の国債発行のおかげだ。
 そして不景気対策は、中小商工業者、農漁山村の救済と農産物価格下落対策なのに、主に財閥、軍部がホクホクという雰囲気が強い。

 そして地方は救済、都市部は好景気という景色になりつつあるから、都市と財閥と軍部だけが得をしているという雰囲気が強くなりつつある。特に不作や豊作飢饉で苦しむ農村から見れば、その差は歴然だ。
 鳳の事業も、状態を多少緩和しているに過ぎない。

 吉田茂が、わざわざ私に献納を聞いてきたのも、恐らくこの辺りを憂慮しているからだろう。
 だから私としては、何か答えるべきなんだろう。けど、言える事は大してない。
 だからこう結ぶことにした。

「動かせないお金、使い道の決まっているお金、このどちらもお金じゃなくてただの物です。どこのどなたのお使いかは存じませんが、そうお伝えください。それと、鳳が動くとするなら来年度です」

「フンッ。確かに承った。幣原さんにはそう伝えとくよ」

 吉田茂は、同じ外務省仲間の幣原喜重郎のお使い。つまり、民政党の方からやって来たらしかった。
 

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国家予算の約33%:
史実のこの年度は約38%。この世界では、陸軍が満州など大陸でのゴタゴタが最小限の為に減少。それでも陸軍は満州駐留費などで、海軍より多くなる。

史実の昭和8年度予算は、22億4500万円。この世界は、約2割増し。
税収に、鳳の巨大投資の効果も出始めている。しかも、アメリカでのお買い物で、32年、33年、34年はそれぞれ億単位での関税がプラス。
当然、この数年間の対米貿易赤字は、とんでもなく大きくなっている。
逆に、石油とくず鉄を買わなくなるので、これ以後は下手したら日本が黒字になる。

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