■「悪役令嬢の十五年戦争」

■  336 「コミンテルンのスパイ候補?」 

(構えてた私が馬鹿みたい)

 この世界の日本、乙女ゲーム『黄昏の一族』の世界に転生して、丸10年が経過した。
 だというのに、10周年記念イベントは何もなし。体の主が特別に夢枕に立ってくれたりもしない。5周年は夢枕に立ってくれたのも、最初の夢枕の4年後だっただけのようだ。
 だから今年は、普通に女学校で始業式をして、それでおしまい。

 そんな私だけが地味に悶々とする件はともかく、セバスチャンが帰って来たら日常が戻ってきた感が少し増した気がした。意外にあのデブの存在感の大きさを感じる。
 けど今は、ドイツとその近辺から脱出させたユダヤ人や、諸々の人たちの世話で忙しそうにしている。
 知的職業の人が多いから、順次鳳の事業拡大、さらには日本の景気拡大に貢献してくれる事だろう。

 そうした中で、政府、特に諜報、防諜関係の皆さんが気にしているのが、外国人スパイ。特にコミンテルン、共産主義者のスパイだ。
 私も外野だったら同じように気にしただろうから、納得しかない。

 けど、セバスチャンが連れてきた人達は、うちでも身元は徹底的に洗ってあるし様々な報告書も各所に提出した。それでも完全に納得してはくれなかったけど、気持ちは分からなくもない。だから私達も、積極的に協力した。
 そして私にも、スパイと言われると気になる人が何人かいる。

「そう言えば、ゾルゲってそろそろ日本に来てたんじゃあ?」

「誰それ?」

 私の仕事部屋で、一緒に仕事中のお芳ちゃんの気の無い返事。他には、今の護衛メイド番はリズが居るだけ。マイさんは、鳳ビルに行っていて不在。

「スパイのリヒャルト・ゾルゲ。教えてなかったっけ?」

「ない。それも『夢』?」

「うん、そう」

「まあ、私は何でもいいけどね。その人、どうするの?」

 ツッコミ入れたくせにと、少しジト目を送りつつ言葉を返す。

「貪狼司令には随分前に教えてあるし、もう調べてもらっている」

「その人が日本に?」

「うん。この数年、大陸にいたのは確認済み。事変の頃の満州にも来てたらしい」

 ただし私の前世と違い上海での戦闘はないし、満州では共産党を悪党にしたから空振りだったり動きにくかったりと、大変だったに違いない。だから、そのままスパイをやめてくれないかと思う。

「へーっ」

「相変わらず、関心薄いなあ。すごいスパイなのよ」

「バレてるスパイじゃあ、意味ないでしょ」

「そりゃあそうなんだけど。まだ証拠も何もないから、ただのジャーナリストよ」

「ジャーナリストね。それで、どこのスパイ」

 依然関心なさげだけど、仕事の合間の雑談って感じで会話は続く。私も仕事の手は止めていない。

「ドイツのジャーナリストだけど」

「根っこはソ連だよね」

「……そうだけど、どうして?」

「日本が嫌いな国、気になる国で、白人のジャーナリストってなったら、だいたいアカでしょ。それで、そのゾルゲって人は、お嬢の夢の中で何するの?」

「日本の重要な政治家に接近して、ソ連に日本の情報垂れ流し。日本がどこと戦争するかまで漏れちゃうのよ」

「……流石にそれはまずいでしょ。だから阻止するの?」

「泳がせて嘘をタレ流させても良いけど、ちょっと悪さをした時点で国外追放で良いんじゃない」

「お嬢にしては優しいね」

「それ、流石に酷くない。私、誰にとっても最善の道をいっつも探しているのに」

「国外追放が最善って、じゃあその人どうなるの?」

「戦争中にスパイがバレて、捕まって死刑」

「それだと死刑も当然か。それで一人だけで、死刑になるほどの情報を?」

「ううん。スパイ団を作るよ。ほとんどは日本人。その中心人物も貪狼司令やお父様に伝えてあるから、もうマーク済み」

「その人も夢で?」

「うん。名前は尾崎秀実。朝日新聞の記者。けど、捕まるまでアカだってバレなかった人だから、尻尾を掴むのは無理でしょうね」

「凄いスパイだね。コミンテルン?」

「だった筈。けどまあ、どっちも間接的に邪魔する事になるから、大した事は出来ないんじゃない」

「どうするの?」

 そこでお芳ちゃんが顔を上げる気配がする。けど、こちらは淡々と仕事を続ける。

「日本とドイツの関係が親密にならなければ、ドイツ人のゾルゲさんは何も出来ないでしょ」

「尾崎って人は? 尻尾出さないんでしょ」

「この人、日本が大陸との戦争始めたら、新聞で国民を煽って評価されるのよ。日本が戦争の泥沼に嵌まり込むように。けど、日本が戦争にならなければ、煽るのも難しいでしょう。そして活躍しなければ、政府のお偉方に認められず、中枢にも入り込めない。まあ、それ以前に邪魔するけどねー」

「……」

 返事がなかった。少し視線だけを向けると、赤い瞳と目が合った。支那事変、日中戦争の話はもうしてあるけど、この話が初出しだからかもと思ったけど、かなりご立腹な視線だ。スパイは良くても、扇動家は嫌いらしかった。
 だから、多少は良い話もした方が良さそうだ。

「それにね、アメリカの日系の共産主義者やコミンテルンは、アメリカでのアカへの強い風当たりがあるから、もう活動は阻害されているのよ」

「アメリカ共産党も、民主党政権になってもあんまり活動が大きくなってないもんね」

「うん。これで一部のコミンテルンは、日本でも活動不可能。ハーストさん、良い仕事してくれたわ」

「他はあんまり上手くいってないみたいだけどね」

 そこでようやく苦笑してくれた。再び、二人して仕事しながらの雑談に戻る。

「他にスパイっているの?」

「私が夢で見た限りは、その人が大物。けど、アカはそこら中にいるでしょ。全員スパイ予備軍みたいなものよ。それに、コミンテルンのスパイは、日本だけじゃなくてアメリカ、大陸、ヨーロッパ各地、どこにでもいるわね」

「コミュニズムは、インテリと貧乏人の心に響くものがあるもんね」

「あと、頭の中がお花畑な特権階級のボンボンとかね」

「フフッ。それは、お嬢の真逆の人だね」

「ハイハイ。どうせ私はガチガチの保守よ」

「お嬢はそれで良いんじゃない」

 そこでまた話が少し途切れたけど、私の体の主の末路のうち2つはソ連に捕まっての獄死だから、ガチの死活問題だ。その前に追放されなければ、逃げ出さなければという問題があるのだけど、それでも私にとっての赤い悪魔である事に変わりない。

「……ねえお嬢、コミンテルン以外のスパイっていないんだよね」

「私が夢で見るほどの人はね」

 また仕事しながらの雑談が再開される。
 そうして少し音が戻ってくる。この時代、ラジオはNHKだけだし、音楽を聞こうとしても蓄音機止まり。だから基本的に、話す以外で仕事中の音が少ない。
 しかも私の仕事部屋は、鳳の本邸の本館の中。周囲は広い庭が囲んでいるから周囲の音からも遠い。

 だからこうして、仕事を疎かにしない程度の雑談を時折して、気分転換を図る事が多い。何しろ私も体は女学生だし、お芳ちゃんは正真正銘の女学生。雑談の一つもしたくなる。
 もっとも二人だけだと、雑談の多くは他愛のない話よりは、散文的だったり生臭かったりする事が殆どになる。こういう時、女子力の高いマイさんの有り難さを実感させられる。

「夢で見ない人は?」

「そりゃあ、ごまんと居るでしょうよ。それに人じゃないけど、外交暗号は英米にバレていたでしょ」

「ワシントン会議の時ね。分かったのがロンドン会議の後だっけ?」

「鳳からは、その前からご注進してたのにねー」

「まあ、自信があったんでしょ。けど、色々自分で調べて不味いって分かったから、陸海軍辺りは次世代の暗号機開発を始めたって、貪狼司令が言ってたよ」

「みたいね。それでも不完全なのよねー。日本人って暗号とか諜報に弱いからなあ」

「日本だけじゃないって聞いたけど?」

「アメリカもね。アメリカは、2年くらい前から政府機関、民間団体で実質的な赤狩りしてて、大恐慌以後に起きた共産主義への幻想が早くもぶち壊しだからね」

「そんな報告書もあったね。ハーストさん、煽り過ぎでしょ」

「けど、煽って炙り出したら、ビックリするくらい見つかって、アメリカ中が大騒ぎってオチだから、笑うに笑えないわね。ルーズベルトが採用したスタッフどころか、重要閣僚にまで紛れ込んでたとか、紛れ込むの早すぎでしょ。次の選挙、民主党負けるんじゃない」

 ニューディーラーに紛れ込んでいたスパイだけど、流石に笑ってしまう。日本の破滅のレールが、大統領が選ばれる前から共産主義者に引かれていた事になるのだから。

「日本は笑っていられるの?」

「日本の共産主義者は間抜けというか、真面目なのよ。お上にバレたらダメなのに、温泉町の宿で決起大会とか、血判書で芋づる式とか有りえないでしょ?」

「けど、間抜けじゃない人もいるんだ」

「稀にね」

 さっき話していた尾崎の事だ。私の前世の歴女知識にはインプットされていないけど、他にも水面下にはいる筈だから、貪狼司令や、鳳の警備会社、それに日本の関係各所が、せっせと探している筈だ。
 そして私が色々吹き込んだ影響で、少しでもマシになればと思うしかない。

「ハァ。こんなところで話してても、床屋談義以下ね。さて、これでおしまい。リズ、お茶を頼んでくれる。休憩にしましょう」

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リヒャルト・ゾルゲ:
ソ連のスパイ。1941年に日本の参戦情報を掴んだ。
「ゾルゲ事件」は有名なので詳細は割愛。
史実での日本入国は、1933年9月6日。
ブリカスは、ゾルゲがスパイと気づいていたらしい。さすがブリカス。

尾崎 秀実 (おざき ほつみ)
共産主義をキメすぎた人。逮捕まで正体がばれなかったくらい。
当人の思想はともかく、共産主義がどれだけ危険かをよく伝える人物と言えるだろう。

重要閣僚にまで紛れ込んでた:
ルーズベルト政権は、社会主義的な政策が多いせいか、それともスタッフが共産主義者だらけなせいか、とにかく共産主義者やスパイがブラックジョークに思えるくらい多い。
さらに外交の要である国務省もアカの汚染が酷かった。

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