●概要

 今日の日本海軍の興りは、当然明治維新による近代日本国家誕生から始まっている。それまでまともな海軍が存在しなかったという理由もあるが、それまでの政権がかなり閉鎖的な近世的封建国家だったからだ。このため、建軍当初の海軍はあまりにもお粗末な陣容しか持っていなかった。
 これは、ひとえに明治新政府が旧来のものとは大きく違う新しい政権であり、旧政府の艦艇を政府成立直後の内乱で喪失した事も影響していたし、その他諸々の要因もあったが、最大の原因は明治政府と言うよりも日本列島そのものが近代国家としてあまりにも貧乏だったからに他ならない。
 江戸政権は、一次産業を中心に据えた近世的封建国家としては政治・産業・文化など全ての面で世界的に見ても完成の域に達していたが、産業革命の果たされた近代世界での現実はそれだった。明治維新当時の日本には、二次産業がほとんど存在しなかったのだ。
 そして大陸近傍の島嶼国家の国防の基本である海軍とは、常にその時代の先端技術を必要とする軍艦と言う非常に高価な装備を多数持った存在であったが、一方では海洋覇権国家か軍国主義国家でもない限り国力に相応した規模の海軍しか持つ事はできず、そうして編成された存在というものは、概して小規模な沿岸海軍でしかなかった。
 これは、蒸気機関が発明されてから本格的な近代的外洋海軍を保有できた国が、英連合王国、日本帝国、アメリカ合衆国の三国しか存在しない事からも明らかと言えるだろう。多少採点を甘く見れば、これに一時期のフランス共和国、そして1960〜80年代のドイツ海軍が含まれるかもしれない。
 そして、すべての時代を通じて外洋海軍足り得たのは、英王立海軍のみだった。現代において最大規模の勢力を誇る米海軍と並んで世界最強とされ、今後半世紀はその地位は不動とされる日本帝国海軍にあっても、有名な「八八艦隊計画」が完成しそれを軸に拡大するまで本格的な外洋海軍は持ち得なかった。いや、日本帝国そのものが第二次世界大戦前後の混乱を利用して勢力圏を拡大するまで、その必要性が発生するまで存在しなかったとも言える。
 それまでの日本が近代国家として極端に貧しかったという厳然たる理由もあったが、当時の日本が弧状列島とその周辺部しか保有しないため、そのような贅沢なものは必要なかったと言う大きな理由がある。しかも列強と呼びうる国は遠くかなたにあり、将来はともかく当面は安上がりな沿岸型迎撃海軍で十分だったのだ。

 外洋海軍とはとどのつまり、世界の通商航路を保有するか大きな利益を生み出す遠隔地(植民地・市場・資源供給地)を保有しない限り、国家にとっては単なる贅沢な玩具であり、分不相応な海軍とは侵略の為の道具でしかない。これは、それぞれが滅びる直前に大海軍を建設したドイツ第二帝国とロシア帝国がその好例として挙げられるだろう。これら二国のような行動は、単に海洋帝国を必要以上に刺激するだけでなく、平時から巨大な陸軍を保有する大陸国家においては、不必要に巨大な海軍はいたずらに国庫を蝕む存在でしかない。この点は、ドイツ第三帝国を例に挙げてもよいだろう。または、第一次世界大戦前後から太平洋戦争までの日米海軍も同列かもしれない。そして、今挙げた海軍のうち、日本海軍以外の全てが一度滅び去っている点も忘れるべき点ではないだろう。日本海軍が滅びなかったのも、単に幸運だったからだ。
 また、第一次世界大戦までドイツとの建艦競争を演じた、世界唯一の外洋海軍のオーナーたる英国もこの時期においては例外とは言えないかもしれない。
 つまり、外洋海軍とは多数の海上交通路を必要とする海洋覇権国家が、必要な時必要な場所を利用するための適度なバロメーターにして国力に相応した警察官のようなものだと結論できるだろう。
 これを現代(2003年)において端的な数字で現せば、大型空母の数で見る事ができる。各国の保有数は、順にアメリカ9(+1)、日本7(+1)、ドイツ2、英国2、フランス1であり、これはそのまま世界の海洋コントロール能力を現しているとされる。
 この中のうち日米英が強固な同盟関係を維持している事は、今後しばらく(おそらく半世紀)はこれらの海洋国家連合による海洋覇権と世界経済の牽引が継続されるだろう事が、かなり強引ではあるが見て取る事ができる。

 では、アジア世界をその手に抱える事となり、限定的な海洋帝国となった日本がどのような海軍育成を行ったのかを、特に外洋海軍となって以後についてその部隊編成や装備を見ながら追っていきたい。

●日露戦争まで

 明治黎明期の貧しい日本は、贅沢な資金と多大な労力を必要とする外洋海軍を保有する事はなかった。それどころか、近隣諸国に対抗出来るだけの防守艦隊(沿岸海軍)すら保有できなかった。
 この事は帝国主義が横行する19世紀の暴力的な時代にあって、明治政府の最優先の憂慮であり続けた。力(軍事力)がなければ清のような大国でさえ、独立国として存続する事が難しいからだ。そして朝鮮半島を巡る問題から、近隣最大の勢力を持つ清帝国が主にアジア唯一の近代国家となった日本を仮想敵として、アジア初の本格的戦艦「定鎮」、「定遠」を保有した事でこの恐怖は最初のピークを迎える。
 特に日本にまだ戦艦を保有できるだけの国力(財力)がなかっただけにこの恐怖は大きなものだった。
 日本海軍の建艦計画から、この時の混乱ぶりを見る事ができる。「三景艦」と呼ばれる、戦艦級の巨砲を1門だけ搭載したモニターのような巡洋艦を4隻建造し、これをセットで使い敵戦艦に対抗しようとした事がそれだ。この艦はフランスに発注・建造されたものだが、搭載された巨砲は技術的、機械的な問題もあり実戦では全く役に立たず、艦そのものも速力も巡洋艦としては決して満足いくものでもなく、副砲として多数搭載された速射砲が有効でなければ全くの失敗艦とされたであろう能力しか持ち得なかった。しかしこの艦は予算の都合で3隻が建造され(予算不足から4隻目は建造できなかった)、規模の大きさもあり日清戦争での実質的な主力艦として運用される事になる。
 そして、日清戦争における海上戦闘は、艦隊全体の機動力を高いレベルであわせるべく艦艇を整備し、その機動力と艦隊将兵の士気・練度の高さと搭載速射砲の近接火力により、日本の戦術的ひいては戦略的勝利に終る。
 日本軍は、黄海の制海権を得ることができたからこそ、敵の首都である北京へやすやすと進軍できたのだ。

 日清戦争での戦訓は、主に戦術レベルで日本海軍の将来を決定付ける性質を一つ植え付ける事になる。それは、艦隊全体に高度な機動力を与える事で常に自らの望む戦闘を行おうという姿勢だ。また、初戦においてなら敵を殲滅せずとも無力化すればそれで目的の多くは達成されると言う考えを一部に植え付けた事も重要なファクターだろう。後者については、日露戦争で敵艦艇を榴弾とそれに使用された燃焼性の高い火薬で無力化し、その上での水雷攻撃で殲滅すると言う新戦術によって具現化されている。
 機動力優先の発想そのものは、限られた戦力で優勢な敵に対抗しようとするための貧乏故の必勝戦術だったが、この考えが日本海軍にとって大きな幸運だったのは、この機動力という要素が全ての戦闘行動において最も重要とされるファクターの一つだった事だ。そう、日本海軍はただ一度の戦いで最短経路で模範的回答を見つけ、実践に移したのだ。
 そして、日清戦争の戦訓の回答として、国家の力を全て傾けた、国家元首のための官費すら転用して完成した「六六艦隊」は、近代海軍として一つの完成した姿となる。
 高度なレベルで火力、防御力、機動力のバランスが取られ、その役割にあわせてリソースの配分が行われた艦艇によって構成された二つの艦隊は、特に艦隊レベルで高度な機動力を保持すると言う点において他国の海軍に懸絶しており、これは日本海海戦でその真価を発揮し、日本側に「天の時、地の利、人の和」の全てがそろった同海戦において、『奇跡』としか表現しようのない、歴史上空前絶後と言われる完全勝利を現出させる事になる。
 この戦争に際して日本海軍は、30.5cm砲とそれに対応した防御力を持ち、18ノットの最大速力をそれぞれが与えられた6隻の当時最新鋭の英国製戦艦と、20.3cm砲とそれに対応した防御力を持ち、20ノットの最大速力を与えられた装甲巡洋艦6隻をワンセットにした艦隊を編成した。
 この編成は、比率からすれば他国に比べて異常な程多数の装甲巡洋艦を保有している点が最大の特長であり、当初列強は日本が貧乏だから戦艦ではなく装甲巡洋艦を多数整備せざるをえなかったのだと単に結論していた。
 だが、日露戦争、なかでも日本海海戦での活躍以後、装甲巡洋艦が「準戦艦」として脚光を浴びるようになり、それは1908年英国において「インヴィンシヴル級」弩級巡洋戦艦と言う形で一つの回答を見い出される事になる。
 世界は以後、最重要の戦略兵器たる「戦艦」と、その一翼を担う「巡洋戦艦」の建造に熱をあげ、その軍拡競争の挙げ句に第一次世界大戦という結末を迎える事になる。いや、実際はパックス・ブリタニカの部分的崩壊こそが、英独による海軍拡張競争を呼び込んだのだが、海軍軍備という面からならこの軍拡競争こそが世界のバランス崩壊を呼び込んだと言えるだろう。
 だが、日本からすれば海軍大国たる英国とドイツが建造した「巡洋戦艦」は、その設計思想や用いられた技術の高さはともかく、運用において自分達と全く違う事に大きな違和感を感じる事となる。

 ●Phase 0-2