●第一次世界大戦
主に欧州の列強が連合国と同盟国に分かれて戦われた第一次世界大戦で、その海上戦力の面での主力となった英国とドイツは多数の「戦艦」、「巡洋戦艦」を建造し実戦に投入した。これは、戦争が終った段階で英国が「戦艦」、「巡洋戦艦」と呼びうる艦艇を約60隻も保有している点から、その異常さを見て取る事ができる。そしてこの数字を前にしては、日本の海上戦力などささやかなものだった。
大戦の勃発当時、日本海軍は世界で五指に入る大海軍を保有しているとされていた。 主力艦レベルで具体的に戦力を列挙してみると、日露戦争の戦塵をくぐりなお生き残る事に成功した4隻の戦艦と8隻の装甲巡洋艦、その前後に計画、建造された各4隻の「戦艦」と「巡洋戦艦」(12インチ主砲と8〜12インチの副砲を装備した準弩級戦艦)、そして英国からやってきたばかりの14インチ砲装備の超弩級巡洋戦艦の合計22隻を保有していた事になる。本来ならこれに、日露戦争での戦利品であるロシア製の戦艦が加わっていてもおかしくないのだが、戦後の軍縮の影響もあり、日本は同戦争で手に入れた自分達がひどく傷ためつけた6隻のロシア戦艦のうち、2隻を技術的に徹底的に調べ挙げた上で屑鉄にして解体してしまい、損傷の軽かった2隻を再生して海軍を欲しがっていた韓国に売却し、残りを最低限の修理を施して1隻は競売にかけ戦艦と言うより屑鉄のような値段で民間に売却され、残りの1隻はロシアに有償(修理費用を要求した)で返還してしまっていた。 日本海軍が比較的手軽に戦艦を手に入れる事を止めた理由は、再就役した時点で旧式となる事が分かりきっている戦艦をわざわざ苦労して手に入れる事を嫌ったからであり、これにかかるリソース(労力と予算・資材)を軍港・造修施設の整備に投資する事で、既存艦艇の運用効率をあげようとしたからだ。 もっともこれは、政府の軍事力整備(軍縮)方針と、当面敵のいない海軍の予算削減をされたくないという心理が行わせた行動だったのだが、単に正面戦力の強化に走らず後方支援に目を向けさせた点において大きく評価できるだろう。実際、1910年代より日本海軍艦艇の稼働率は大きく上昇しており、技術的な事故も激減する効果も挙げている。もちろん、工廠での建造速度も第一次世界大戦の工業力の異常伸張の影響もあり大幅に上昇していた。 そして、その間に世界中(特に英独)が大艦隊の建造に狂奔した事から、一時的海軍力が大きく減退する事になった日本海軍は、その遅れを一気に挽回すべく各4隻の「超弩級戦艦」と「超弩級巡洋戦艦」の計画・建造を行う。「金剛級」巡洋戦艦、「扶桑級」戦艦、「伊勢級」戦艦がそれだ。つまり、日本海軍は列強が躍起になって揃えた弩級戦艦を実質的には一切行わず(12インチ砲12門装備の「摂津級」も実質的にはプレ・ドレットノードクラスだ)、技術の進歩にあわせていきなり次のステップへと移行してしまったと言う事だ。 これらのクラスの特長は、単にそれまでの日本戦艦と比較にならないぐらいの巨体であると言うだけでなく、日本海軍の戦術ドクトリンを色濃く反映したものだった。戦艦、巡洋戦艦共に45口径14インチ砲を採用する事で高いレベルでの砲火力の均一化を計り、それにより全体としての戦力価値を高め、戦艦は23ノット、巡洋戦艦は27.5ノットの速力で統一された優れた機動力を与えられていた。この速力設定は、とりもなおさず相手艦隊を機動力で翻弄して打倒するためのものであり、このドクトリンが正しかった事を戦場でも証明する事になる。 また同時に彼女たちの保有により、ホワイトフリートの来航以来ライバルと目していたアメリカに辛うじて対抗できるだけの超弩級戦艦群を保有する事ができた事にもなった。そう、この時すでに日本は明確に仮想敵としてアメリカを指向していたのだ。
第一次世界大戦において、日本は日英同盟に従い連合国として参戦、今後の世界政治での発言権を得るべく大兵力を欧州に派遣する。この中には、戦前から整備が進み本土での突貫工事で完成した3隻を含む4隻の「金剛級」巡洋戦艦の姿があり、英国が要求した以上の戦力派遣により自らの存在感を示した。そして、4隻の大型艦を短期間に建造できた事そのものが、当時の日本の造船能力の向上を何よりもあらわしていた。 そして、1916年近代海戦史上最大規模となったジュットランド海戦に英国艦隊の一翼として参加し、前衛艦隊をつとめる英巡洋戦艦隊の後詰めとして戦列に加わる。 この配置は日本側が強く望んだもので、英国の戦術(巡洋戦艦の群れを単なる前衛艦隊としか使わない)を少しでも自分達のものに近付けるにはこの配置が最良と判断されたからであり、実際当時最有力の超弩級巡洋戦艦をさらに4隻も配備された前衛艦隊は十分にドイツ前衛艦隊を圧倒し、さらには主力艦隊を一時的に抑えられる戦力を保持するに至り、英巡洋戦艦隊が自らの軽防御を突かれ2隻の爆沈艦を出す大損害こそ受けたが、日英の連携による圧倒的な火力でドイツ艦隊を圧迫し、「金剛級」はこの間に反対に大落下角度から降り注ぐ14インチ砲弾により相手巡洋戦艦をしとめている。そして日英の前衛艦隊が敵を圧迫している間に英国側の主力たる当時世界最強の「クイーン・エリザベス級」高速戦艦の群が戦列に参加、合流後はその強大な火力により海戦そのものを連合国の戦術的勝利に導いている。 この海戦以後、特に大きな戦闘は発生しなかったが、この戦闘により日本は次なる海軍はどうあるべきかの多くを学ぶ事になる。分かりやすく言えば、機動力と攻撃力により傾倒していた。 また、第一次世界大戦そのものは、通商航路の保護という海軍にとっての本分である考え方とその運用ノウハウなど艦隊戦以外のそれまで日本海軍が経験しなかった戦争を体験させるなど、大きな影響を与えてもいた。
●八八艦隊計画
八四艦隊計画(1913年)、八六艦隊計画(1916年)を経てついに1919年「八八艦隊計画」が議会を通過した。 当計画はその名の通り、各8隻ずつの戦艦、巡洋戦艦を中心とした日本史上空前の大艦隊整備計画だ。 日本海軍がこの大海軍建造計画を策定した理由は諸説ある。 一番の理由はもちろん、この当時関係が悪化しなおかつ海の向こう側で大海軍を建設しつつあったアメリカに平時の正面戦力の面で対抗するためだ。日本が平時の正面戦力の面で対抗しようとしたのは、戦艦は如何に工業大国アメリカといえど簡単に建造できるものではないので、平時においては正面戦力でさえ互角なら当面は十分だったからだ。 そして、8隻と言う数字は明治維新以来おおよそ10年に一度戦争を経験するという豊富な実戦経験と訓練・演習の結果、一人の指揮官が戦列を組みつつ掌握できる戦力が、8隻が最も適当だとされた事から決定している。 そして戦訓や各種研究から得られた数字であるだけにこれと似た傾向は他国でも多数見られ、第一次世界大戦前の英国では5隻を一つの戦力単位として新鋭艦を建造しグランドフリートを統制しようとしたが、結局全体としてあまりにも大規模な海軍を建設したためこれに失敗し、ライバルだったドイツ第二帝国でも規模こそ違え似たような結果を生んでいた。これが、ジュットランド海戦が日本海海戦のように決定的な戦闘にならなかった原因の一つだともされている。要するに大規模化しすぎて、戦場で最も重要な要素である機動力を失っていたのだ。 そして、日本での計画はこれをワンセットずつしか編成しない事で混乱を最小限にとどめようとした(当初計画では、二線級部隊として別にもうワンセットあったが)。だが、ワンセット16隻の第一線級艦艇しか建造しないだけに、その計画は個々のレベルにおいてそれまでの常識を遥かに上回る規模となる。そしてこの規模こそがワンセット以上の建造を抑制する事にもなった。もっともそれまでの常識を通り越えた背景には、技術の進歩による個々の艦の大型化、高性能化あり、この事が建造費を際限なく高騰させ、これに補助艦艇の大型化と完全外洋艦艇化が加わり全体予算を膨大なものとしたような背景もある。
「八八艦隊」は、それまでの日本海軍のドクトリンに従い、主力艦の性質から大きく2つの主力艦隊といくつかの補助艦隊から構成されており、主力艦隊はそれぞれ2個戦隊8隻の戦艦・巡洋戦艦と同じく2個の巡洋艦戦隊、4個駆逐隊を抱える水雷戦隊、4個潜水隊からなる潜水戦隊から構成される。補助艦隊は偵察や遠隔地警備が主な任務となるため、旧式艦による1個主力戦隊を中核として1個巡洋艦戦隊、4個隊を抱える水雷戦隊、潜水戦隊から構成されていた。 つまり、決戦艦隊が2個と植民地警備兼偵察艦隊が2〜3個そろえる計画だった。 しかし、兵器の進歩がこれに変化を強要し、特に水雷兵器(魚雷)の進歩と駆逐艦の大型化・外洋艦艇化は、駆逐艦が補助戦力としてなら十分以上の威力を示すようになり、これだけの大艦隊を建設してなお仮想敵(米海軍)に対して劣勢な日本海軍では、戦力不足を補うために魚雷を主戦力として用いた専門艦隊(第三艦隊)を編成するに至る。 また、水雷戦に特化し攻撃力だけを追い求めた、英国で飢狼のようだとすら表現された本来の巡洋艦の目的からは外れてしまった重武装の巡洋艦も多数整備され、第一次世界大戦の参戦とその影響でせっかくバランスのとれた外洋海軍となっていたものを、主力部隊において再び決戦海軍に戻していた。 また、この建艦計画の後期に入ると航空機の発達が本格化しつつあり、これを搭載した母艦、つまり航空母艦もその黎明と進化の時を迎えていた。 そして、それら全てを多少大きくなった国力に任せて揃える事に成功した海軍は、その大艦隊をもって太平洋戦争に挑む事になる。 ここではその経過などについて触れる事は避けるが、この戦いにおいて日本海軍は明治以来自分達が経験し続けた戦艦を用いた戦闘総決算を行い、同時に最後の結果も見い出し、またその限界も知る事になる。 つまり、決戦海軍とそれを用いた戦争の形は完全な終焉の時を迎え、海での戦争も「総力戦」と言う既に新しい時を迎えつつあったと言う事だ。 そして、日本にとって未曾有の大戦争を、圧倒的な戦術的勝利の積み重ねで戦略的勝利をもぎ取った事で、日本海軍は世界第二位の海軍へと自動的に昇格し、それまでの実戦結果も踏まえて、以後今日まで世界最強の海軍だと言われるに至っている。 なお、以下が大平洋戦争初期の大日本帝国海軍連合艦隊(GEJN-GF)の編成表となる。
■連合艦隊編成表(1934年2月マーシャル沖海戦時)
(★マーク付は太平洋戦争での戦没艦)
第一艦隊 BB:「紀伊」、「尾張」、「駿河」、「近江」 BB:「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」 BB:「伊勢」、「日向」、「扶桑」★、「山城」★ CG:「最上」、「三隈」★、「熊野」、「鈴谷」 CL:5500t型:4 CVL:「鳳祥」、「龍驤」、「龍鳳」 DDE:4 CL:5500t型:1隻 DD:16 CL:1 SS:伊号:12 SSM:1 SS:呂号:12
第二艦隊 BC:「富士」、「阿蘇」、「雲仙」、「浅間」 BC:「葛城」、「赤城」、「愛宕」、「高雄」 CG:「古鷹」、「加古」★、「青葉」、「衣笠」★ CVL:「祥鳳」、「瑞鳳」 DDE:4 CL:5500t型:1 DD:16 CL:防護巡洋艦:1 SS:伊号:12
第三艦隊 BC:「金剛」、「比叡」、「榛名」、「霧島」★ CG:「妙高」、「那智」、「羽黒」、「足柄」 CG:「鳥海」、「摩耶」、「伊吹」、「鞍馬」 CL:5500t型:4 CV:「蒼龍」 DDE:4 CL:5500t型:1 DD:16 CL:5500t型:1 DD:16 CL:防護巡洋艦:1 SS:伊号:11 SSM:1 SS:呂号:11
第四艦隊 CL:5500t型:4 CL:5500t型:1 DD:8 DDE:8 SSM:1 SS:呂号:12
(補給・支援部隊除く)
BB=戦艦 BC=巡洋戦艦 CG=重巡洋艦 CL=軽巡洋艦 CV=航空母艦 CVL=軽空母 DD=駆逐艦(艦隊型駆逐艦) DDE=二等駆逐艦(護衛駆逐艦) SS=潜水艦 SSM=潜水母艦