●太平洋戦争後
1935年、太平洋戦争による損害とその後の日英米独による海軍軍縮会議により、日本海軍は名実共に世界第2位の海軍力を保有する事となり、また1年という短期間ながら戦時中に計画され戦後も計画が続行された新鋭艦による艦艇の一部若返りも実現し、さらにはこれまで対外戦争で完全勝利以外したことがないという結果もあり、世界的にも「最強」の称号を与えられるようになる。 ただ、主戦力である戦艦については、太平洋戦争後に日英米独の間で開催された軍縮会議の結果19隻の保有が認められただけで、最大規模の勢力に膨れ上がった数年前に比べて20%も戦力が減る事になっていた。もっとも、アメリカに至っては自らとの戦いにより文字通り海軍戦力が半減しているので、全く問題ないどころか大いなる満足をもって日本海軍にも歓迎された。 そのような中、日本海軍内において太平洋戦争での戦訓を十分に研究した上で、自分たちの将来像の模索が始まる。
結果は全く予想外のものとなった。 この時の新たな艦隊建設計画のための研究結果の第一回目の最終回答が出されたのは、欧州において二度目の大戦争が始まろうとしていた、1939年夏の事だった。 「八八艦隊計画」により建造され太平洋戦争に勝利をもたらし、さらにこの時点で徹底した近代改装が進んでいる16隻の大型戦艦と軍縮会議の結果生き残ったそれ以前の軽量級の「金剛級」高速戦艦、その代換艦として1931年4月の巡洋戦艦「葛城」就役以後久しぶりの建造となる「高千穂級」戦艦、そしてこれから誕生するであろう世界の全ての戦艦を圧倒すべく、その年の始めに呉と大神でキールが据えられたばかりの「一号艦」、「二号艦」の有効性については今更述べるまでもない。時代が、世界が、列強が大艦巨砲主義の流れを追う限りにおいて、これら強大という言葉すら不足するリヴァイアサン達の圧倒的な戦力的、戦略的価値が薄れる事はない。 そして、これだけなら研究するまでもない事だった。日本人なら子供でも「知っている」事、『「紀伊」と「尾張」は日本の誇り』だった。なればこそ海軍は、満載排水量10万トンを越える巨大戦艦の建造に踏み切った。言い換えれば、無敵の「八八艦隊」を擁する帝国海軍に死角は存在せず、強いて言うなら後はただ強いだけの戦艦が戦争の抑止力として存在していればよかったのだ。 それ程の戦力だったのだ。
だが、世界一実戦経験豊富な日本海軍の研究者達は、この戦艦群の戦力価値について大きな疑問を提示した。 彼らの報告による戦艦優位を崩す一つ目の要因は、自らが育て上げた巨大な規模を誇る外洋型水雷戦専門艦隊の存在だっだ。そして、この艦隊の有効性については先年の太平洋戦争においてこれ以上ないと言うぐらいに証明されており、しかも他国が保有しない当時秘密兵器と呼んで差し支えのなかった程の高性能を誇る酸素魚雷の量産配備と、それらを運用する新鋭艦艇の投入により、事が水雷夜戦であるなら八八艦隊にすら十分対抗可能だった。実際、何度も行われた演習でもそれは実証されていた。太平洋戦争で敵前衛艦隊を粉砕したように、彼等は十分に主戦力となっていたのだ。 だが、この年の春に行われた大演習においてこの水雷戦隊の思わぬ弱点が露呈される。 それを実現したのが、太平洋戦争の頃には海軍の誰もが兵器とは考えもされなかった存在。「電探」だった。 「電探」そのものは昭和8年(1933年)頃より、目視監視の難しいオホーツク海方面など北方警備を主目的として開発・試作・試験運用が始まり、日本の工業力の成長に後押しされながら順調な発展を続け、1937年に研究開発の始まった水上艦艇用が実用段階に入り、東北大の協力を受けて日電がこの年の始めに海軍に複数納入された。この当時まだ試作品と言ってよいこの新たな兵器(対空捜索電探(21号)、対空射撃電探(31号)、水上捜索電探(22号)、水上射撃電探(32号))は、それまで暗闇で何も見えない世界を昼間のそれと違わない状態に戻し、夜間戦闘に絶対の自信を持っていた水雷艦隊に惨敗を喫しさせたのだ。そして、これ以後水雷艦隊による突撃も、時代とともに技術が進歩すればそれ程有効でないと報告書に書かせる事になった。 では、何が戦艦絶対優位の神話を崩そうとしたのか。 現代ではその有効性を今更語るまでもない、「航空機」とその小さな存在たちが根城とする「航空母艦」だった。 1939年当時、日本は世界最大の航空母艦「蒼龍」の近代改装工事、1935年の軍縮会議に則り戦艦から空母に改装された「伊勢級」空母、全くの新規建造の「飛竜級」中型空母と合計5隻もの大型・中型空母とほぼ同数の軽空母を保有するという世界屈指の空母大国となっていた。しかも、1939年度計画までにさらに5隻の大型空母の建造が承認され、この陣容はますます強固となる事が約束されていた。 潤沢な予算をいいことに、何となくと言ってよいレベルで整備されたこの新たな大兵力は、水雷戦隊が惨敗を喫した同大演習で、自らの主戦兵器である艦載機による集中攻撃により、主力艦隊が自らが望む位置に進出するまでに大きな損害を与える事に成功し、その損害により戦艦中心の対抗部隊が作戦目的を達成できなかったばかりか、多数の撃沈艦を出す予想外の結果を残した。 この事は戦艦信奉者にとって大きなショックだったが、主戦兵器の弱点路程を恐れ、事が演習と言う事でそのままならあまり重要視される事なく無かった事にされるところだったのが、折からの研究によりさらに徹底して分析され、航空機とそれを運用する空母は今後ますます重要になり、十二分に海軍の主戦力の一翼足りうると結論され、そうして提出されたレポートは日本の政府・軍首脳部に認識させる事となった。 そして、この報告書を元に艦隊育成が一度白紙に戻され、今後の艦隊育成をハード、ソフト双方の面から大転換を迎える事になる。 また、この時同時に行われた、戦略レベルでの通商破壊の研究も、第二次世界大戦の結果を踏まえて次なる計画に盛り込まれる事になった。
そして欧州がアジアの事など全く見る余裕のない1942年に、日本では欧州での戦局を眺めつつ新たな計画のもと次なる海軍整備が開始された。 なお、日本をしてこのような合理的な艦隊整備に走らせたのは、皮肉にも「八八艦隊」という余りにも国費を消費する存在が、どうせ大兵力を揃えるのなら可能な限り効率的な兵力を整備すべきだと政府の上のレベルで考えられるようになったからに他ならない。そして、これこそ日本の文民統制の最たるものと認識する事もできよう。 より大きくなった番犬は、同時に飼い主の手でより丈夫な首輪をはめられていたのだ。
●第二次世界大戦
第二次世界大戦。 それはある種奇妙な「世界大戦」となった。 欧州の列強のみで戦われた戦争だったからだ。範囲で言うならアジア・太平洋なども一応の戦場となった第一次世界大戦以下のレベルでしかない。このため、単に欧州大戦や大西洋戦争と言う呼び方すらされる事もある。 最大の原因は、世界最大の生産力を誇るアメリカ合衆国(U.S.A)と、極東の僻地で昇竜のごとく成長している新興国家の大日本帝国(G.E.J)が戦争には関わらなかったからで、これを端的に世界の生産力で見ると世界生産力の半分が未曾有の大戦争に加わらなかった計算になる。いや、戦中の日米の成長を考えるとその6割が、欧州で発生する戦時特需の流れに乗りつつ、ただ自国と勢力圏の経済成長拡大だけに使われていたと言って良いだろう。 なお、歴史的に欧州で第二次世界大戦とされる時は、日本が同時期に行った東南アジアへの各種干渉を含めた場合に使われる事が多い。
1939〜44年に欧州でかけて行われた大規模な戦争は、『生存権(レーベンスラウム)』つまり植民地と市場、各種資源の確保を目指してヒトラー総統率いるナチス・ドイツが引き起こしたものだが、結果は欧州全体にとって惨憺たるものだった。 ただ唯一世界にとって幸運だったのは、共産主義発祥の地にして総本山たるソヴィエト・ボルシェビキ(共産党)政権が崩壊した事だろう。この点においてのみナチス・ドイツの果たした歴史的功績は極めて大きいと多くの識者が結論している。社会主義には見るべき点は多くとも、基本的に独裁主義、テロ指向である共産主義には夢も理想も存在しないからだ。 また、英国がギリギリのところで生き残り、ドイツが世界の海洋覇権をほとんど握る事ができなかった点も、日米にとっては大きな幸運だった。いや、実際は英国人の不屈の闘志と努力がこの結果を現出させたのだが、欧州での戦争に経済面以外で関わらなかった両国にとって結果だけが問題だった。 そして、日本が戦争に介入しなかった理由の大きなところに、欧州列強が互いに噛みつきあい弱体化したスキに彼らのアジア植民地を、自助努力という名目で裏から手引きして独立させ自勢力圏に組み込む事に利用したからだ。そして、欧州のくびきから解放された自由な市場は、場合によってはアメリカの市場ともなりうると言う事で、同じく戦争当事者でなかった彼らの支持も受けて順調に推移し、ドイツの手により旧欧州列強の全てが倒される事で、日本にとって最良の状態で戦争終結を迎えることになる。 田舎泥棒的手練と言うよりは、巧妙な弁護士を抱き込んだ詐欺師のように日本はアジアを手に入れたのだ。もちろんここでの弁護士とはアメリカの事だ。 もっとも、この時の日本の行動の結果、旧植民地帝国たる英国、フランス、ネーデルランド、ポルトガルからはいまだに恨まれている事は忘れるべきではない。
そして、日本政府の努力により勢力圏が異常増大した事は、その防人たる日本海軍に大きな変化を強要した。 それは、日本の勢力圏がそれまでの北東アジアと西太平洋のみならず、太平洋の三分の一とインド洋の半分、そしてアジア全域、つまり実質的には地球全土の四分の一に広がる事になったからだ。 つまり、日本帝国海軍は、それまで日本本土で訓練に明け暮れ、敵が現れた本土から出撃し、ただただ相手を撃滅すればよかったものが、アジア全土に対して兵力を展開し、そこを航行する日本船舶を護衛し、勢力圏の国家レベルでの警察活動をしなくてはならなくなった、外洋海軍として目覚めなければいけなくなったと言うことだ。しかも、海上通商路の確保と言う点から見ると、その活動範囲は実質的に全世界を対象としなければならなかった。 これを受けて1942年の第五次海軍補充計画は、大戦後を見据えた大計画へと変化していた。なお、この計画が大規模化した背景には、欧州大戦を孤軍奮闘している英国が大規模な海軍を建設している事も強く影響してる。 1942年夏当時、日本海軍は1941年に実験艦と言ってもよい条約型戦艦「高千穂」、「穂高」と大型空母「翔鶴」、「瑞鶴」を新たに編入し、巡洋艦や駆逐艦、海防艦などから果ては大型補給艦など次世代を担う多種多様な新造艦を迎え入れ、さらに1943年には「翔鶴級」空母の拡大発展型の「千鶴」、「神鶴」を組み込み、1944年には待望の超超弩級戦艦「大和」、「武蔵」を始めとして、超甲巡「剣」、「黒姫」、超大型空母「大鳳」など多数の艦艇が就役する予定で、太平洋戦争から約10年間既存艦艇の改装でお茶を濁していた艦艇の大規模な若返りを果たそうとしていた。 そしてこの時策定されたのが、新たな艦隊計画の実質的な仕上げとなる「第五次海軍補充計画」だった。 超超弩級戦艦「信濃」、「甲斐」、超甲巡「白根」、「鞍馬」。1種類の大型艦艇を4隻ワンセットで建造・運用する性格を持つ日本海軍にあってこの建造は動かしがたいものだったが、空母においてはその内容が大きく変更された。 この計画では当初、超大型空母「大鳳」の2番艦、3番艦が建造予定だったが、技術の進展と戦略環境の変化を考えこれからの母艦は航空機をもっと多数運用しなければならないと言う用兵側の要望に応える形で、「海鳳」、「翔鳳」は4.5万トンもの基準排水量を持つ「大鳳」をさらに一回り大きくした基準排水量で6万トン、全長320メートル、搭載機数150機もの巨大な航空母艦として建造が開始された。この空母の建造に慌ててアメリカが、「プレジデント級」超大型空母の大量建造を開始した程の規模だった。 そして、1945年に計画された同型艦の「白鳳」が揃う1949年に、自らが描いた新たな海軍が出現する。もちろん、新たな女王の戴冠にあわせて、多数の新世代の従者達も誕生しつつあった。 それは、それまで引きずられていた「八八艦隊」からの脱却であり、軍事にも大金を投じる傾向にある経済大国となった国家、つまり覇権国家が来るべき時代を探りつつ作り上げた外洋海軍の姿だった。 この時の戦力を単純に見ると戦艦22隻、戦闘巡洋艦4隻、大型空母9隻、中型空母4隻、軽空母6隻、巡洋艦24隻、他多数(約600隻)という膨大な形になる。なお、英国などと比べて巡洋艦が少ないのは、新たな時代の汎用艦としての地位を確立しつつあった駆逐艦の大型化が巡洋艦の必要性を薄れさせていたからだ。これは特に「防空駆逐艦」という1939年に誕生した新たな艦種において顕著で、1948年に就役した「夕月級」防空駆逐艦では基準排水量が6,000トンを越え、従来の駆逐艦と巡洋艦の垣根を実質的になくしてしまっている。
なお、艦齢の関係で戦艦や空母の中のいくつかがすぐにも退役予定だったが、当時の米海軍が戦艦13隻、戦闘巡洋艦4隻、大型空母4隻、中型空母4隻であり、英海軍は戦争の結果その勢力は半減し、たとえ日本海軍の戦力の多くが予算の都合で予備艦状態にあるとしても、第二次世界大戦から以後約20年間、日本帝国海軍は世界一の海軍となっていた事になる。