●中華動乱
1950年6月からほぼ丸三年行われた中華大陸の主に華北、華中地方で行われた「中華動乱」と呼ばれる戦争は、宣戦布告無き戦争となった。これは、国連軍となった日本を中心とする国家ですら、国連決議で派遣されると言う形であり、結局国家間の宣戦布告はなされなかった。ただしこれは、中華人民共和国が世界的に国家として承認されていなかった事が最大の原因だったし、戦争そのものが共産中国の先制奇襲攻撃により始められた事とこの共産中華に肩入れした国家社会主義国家群が義勇軍として兵力を派遣したからに他ならなかった。 なお、この戦争は軍集団規模の機甲部隊が戦闘できるのが、全地球上でウクライナとここ華北平原しかないと言われるだけに陸戦が主体となり、海軍の活躍どころは限られたものとなっていた。 だが、ここぞと言う所で大活躍しているので、国民はもとより世界的にも強く認識されている。 順に「天津脱出戦」、「華中上陸作戦」、「春節攻勢」が有名だろう。 「天津脱出戦」は開戦間もない頃の事で、中共赤軍の進撃があまりにも鮮やかであまり目立っていないが、中共赤軍が天津で包囲した国府軍部隊数万を日本軍が駆けつけて死の淵から救いあげた戦いで、この時史上初めて51センチ砲が実戦で咆哮した事が海軍関係者の間では注目された点で、あとは近距離まで近づいた日本海軍の中小艦艇が自らの損害も顧みず脱出の支援を最後まで続けた事が評価されるべき点だろう。 また「華中上陸作戦」では、日本海軍の1個戦艦戦隊が陽動のため近接支援で出撃し、別の1個戦隊2隻の戦艦が中共赤軍の背後にあたる位置に奇襲上陸部隊と共に出現、潤沢な艦砲射撃による支援で成功率20%と言われた上陸作戦に貢献し、同じく海軍に所属する陸戦隊を反撃の矢として送り出していた。 だが、この緒戦にあって空母機動部隊が出遅れていた。わずかに、「華中上陸作戦」で正規空母「瑞鶴」と軽空母「龍鳳」が近接航空支援にあたっただけだった。これは、当時の空母が戦闘力を発揮するのに時間がかかる兵器だったからだ。 そして、「華中上陸作戦」での「瑞鶴」の航空支援が「春節攻勢」の呼び水になるのだが、この時はまだ史上最大規模の空母機動部隊が中華大陸沖に出現しようとは誰も思わなかった。 そして、1951年の旧暦正月、世界中の誰も予想しなかった未曾有の空母機動艦隊が東シナ海上に出現する。 以下が主要艦艇の艦隊編成だ。
◆第一機動艦隊(艦載機数:約400機) CV:<大鳳><海鳳><翔鳳><白鳳> BB:<大和><武蔵><信濃><甲斐> AC:<白根><鞍馬> CLA:4 DDG:8 DD:8
◆第二機動艦隊(艦載機数:約300機) CV:<翔鶴><瑞鶴><千鶴><神鶴> BB:<高千穂><穂高> AC:<剣><黒姫> CL:2 CLA:2 DDG:8 DD:8
◆第三機動艦隊(艦載機数:約250機) CV:<蒼龍><飛龍><雲龍> CVL:<祥鳳><瑞鳳> BB:<富士><阿蘇><雲仙><浅間> CG:2 CLA:2 DDG:4 DDE:12
◆第四機動艦隊(艦載機数:約180機) CV:<伊勢><日向> CVL:<日進><瑞穂> BB:<葛城><赤城><愛宕><高雄> CL:3 DDG:4 DD:8
◆第一艦隊(艦載機数:約50機) BB:<紀伊><尾張><駿河><近江><加賀><土佐> CVL:<龍驤><龍翔> CG:4 CL:1 DD:16
この時の戦力を数量的に見ると、BB:20、AC:4、CV:13、CVL:6、支援(補給)部隊を含めた艦艇数約160隻、艦載機約1,200機という日本海軍の主要艦艇全てを投入した膨大な規模であり、太平洋戦争以後いまだ仮想敵の最優先とされたアメリカ海軍と自らの姿の鏡を見つつ整備し続けていた帝国海軍の新たな姿だった。この艦隊規模は、排水量において太平洋戦争の最大編成すら上回っており、日本海軍が編成した最大規模の「連合艦隊」でもある。 しかし、この時日本帝国海軍は自ら新たな時代の幕を上げた事に気付いておらず、この事を本当に知るのは戦後になったからになる。これを一人の人間レベルで揶揄的に表現するのなら、初めておめかしした少女がダンスパーティーで男性から声をかけられるまで自らの状態の変化に気付かなかったのと似ていると言えるかもしれない。
この時の航空機の威力については今更語ることはないが、この戦場で空母主兵の方針が明確になっただけでなく、もう一つ日本海軍の今後半世紀の性質を決定する用兵思想が生まれていた。 それは、1980年代半ばにあいついで再就役した「大和級」制海艦によって完成を迎えるが、要するに空母は攻撃力として特化してしまい、艦隊防空はあくまで洋上艦艇に任せてしまおうと言うものだ。ちなみに、この時日本戦艦のほとんどが新開発の自動高射砲を電探管制の射撃管制装置と共に多数装備しており、さらに1940年代後半に実用化された「電波信管」の使用で圧倒的な弾幕を形成できるようになっていた。また、実験艦の扱いとなっていた戦艦「赤城」は、後部甲板を全てクリアーにしてしまい、そこに新兵器の対空誘導弾とその誘導装置を搭載し、そのままの姿で戦場に投入されていた。 そして、一度だけ行われた共産空軍(実質は欧州義勇空軍)の大規模な空襲に対して、洋上大型艦艇はその有効性を遺憾なく発揮する、 「春節攻勢」の時日本艦隊を攻撃した中共義勇軍のドイツ製のジェット攻撃機58機は、艦隊を搭載兵器の射程圏に捉える前に防空任務に就いていたジェット機を含む200機もの艦載機に半減され、からくも突破に成功した残りの半数も空一面を黒く染め上げるような弾幕の前に2機を残して全滅するという惨憺たる結果を残している。なお、この時大型空母の「大鳳」にドイツが開発した対艦誘導弾1発が命中し、撃沈こそ免れたが大火災が発生、この事が後に日本空母のさらなる大型化、重装甲化と高い個艦防空能力の保持へとつながる。
そして戦後、外地で行われたとは言え3年にも及ぶ戦争でかなりの無駄遣いをしたことから、中華動乱終息後日本政府は必然的に軍縮を行い、帝国海軍においても大規模な艦艇の予備役・退役が行われ、併せて新たな艦隊計画も立てられ、中華動乱中「八八八艦隊整備計画」(戦艦16隻、攻撃空母8隻を中心とした艦隊を今後10年間で整備が目標)として計画が進んでいた海軍の将来設計図は大幅な縮小を余儀なくされ、かなりの大型艦艇が予備役へと追いやられた1957年に、ようやく新国防大網決定として「新八八艦隊整備計画」が承認された。 この計画では、1920年代の時と同様の気宇壮大な1952年の計画を、財政的な問題を加味して現実的にまとめあげ、戦艦8隻、攻撃空母8隻を中心とした艦隊を整備するものとなっていた。ただしこの計画は、今後10年間で整備する計画となっていたが、それは1952年を始まりとするという但し書きのつくもので、1960年頃には計画はほぼ完成していた。この事は取りも直さず「新八八艦隊整備計画」が「八八八艦隊整備計画」の改訂計画だったからに他ならない。 そしてこれにより、「翔鶴級」、「千鶴級」、「大鳳級」、「超大鳳級」空母の本格的なジェット機対応の大改装と「大和級」、「富士級」戦艦、「剣級」超甲巡の防空艦改装が行われた。同時に、これらの大型艦を基幹戦力として多数の防空巡洋艦、防空駆逐艦、対潜海防艦の整備が行われ、新時代の海軍として完全に脱皮する変化をもたらしていた。 特にこの補助艦艇で有名なのは、「キューバ危機」の際中立国として核兵器と弾道弾の洋上臨検をおこなった「綾波」で、このクラスは当時就役を開始していた新世代の装備を満載した大型の艦隊型駆逐艦で(基準排水量で6,000トン、満載で8,000トンクラスの大型艦)、同クラスの「敷波級」防空駆逐艦は都合24隻も量産され、1960〜70年代の日本海軍のワークホースとなっている。 なお1962年当時の帝国海軍所属艦艇は、大きく以下のようになる。
攻撃空母(旧航空母艦): 7万トン級大型空母:「海鳳」、「翔鳳」、「白鳳」 5万トン級大型空母:「大鳳」 4万トン級大型空母:「千鶴」、「神鶴」 3万トン級大型空母:「翔鶴」、「瑞鶴」 戦艦: 「大和」、「武蔵」、「信濃」、「甲斐」 「富士」、「阿蘇」、「雲仙」、「浅間」 打撃巡洋艦(旧超甲巡): 「剣」、「黒姫」、「白根」、「鞍馬」 航空巡洋艦(旧式艦の改装型):4隻 防空巡洋艦:8隻 防空駆逐艦:38隻 駆逐艦:29隻(旧式艦 大半は予備役) 海防艦:62隻(半数は予備役)
弾道弾潜水艦(SSBN):9 巡洋潜水艦(SSN):25 通常潜水艦(SSK):38
揚陸空母:「大鷹」、「沖鷹」、「雲鷹」、「海鷹」 ヘリ母艦:「飛龍」、「雲龍」
以上のように、現代に比べると規模が大きいが、これは第二次世界大戦型の艦艇が改装されつつもいまだ残っていたからであり、さらに予備艦として多数の艦艇が各地の鎮守府にプールされていた。
●ビルマ戦争
1960年代半ばから行われていた、英米とドイツ欧州帝国の代理戦争であるビルマ戦争は、1968年のビルマ解放戦線による「ダヂャン攻勢」により一つのピークを迎え、それを契機としたかのような日本などアジア諸国での「ビルマを救え」と言う声とアメリカでの反戦気運により、プロレスの選手交代でもするかのように、アジア対ドイツ欧州帝国の代理戦争へと一瞬で転化した。欧州や北ビルマにとっては、「詐欺だ!」と叫びたくなるような変化だった。 そして、戦争介入の機会を狙い準備を進めていた日本を始めとするアジア諸国連合軍(国連軍)は、アッと言う間に大きな戦力を展開して独自の軍事ドクトリンに従い作戦行動をして、戦争そのものを介入からわずか2年で実質的に解決してしまった。 これは、北ビルマとそれを後押しする諸外国が英米を叩き出した時点で自らも息切れしていた事が主な原因だったが、日本政府の政治的な手際の良さがこれほど短期間に泥沼の戦争を解決したとも言える。つまり、政治の延長とされる軍事行動が政府の意向を完全に履行したからこそ現出できたと言い換える事もできるだろう。つまり、よくありがちな軍中央のごり押しや、現地軍の暴走と言った事態はただの一度も発生しなかったと言うことだ。これは、1932年の満州事変をピークとする軍部の暴走を殊の外警戒した歴代内閣の文民統制政策が威力を最大限に発揮した好例であり、日本軍そのものが日本の権益の保護のため、そしてアジアの警察官として膨大な軍事予算を与えられつつも、国家にとっての忠実な番犬であった事の何よりの証明だった。
この当時日本帝国海軍は、1960年代初頭に何とか「新八八艦隊整備計画」を達成したが、その後すぐにも軍全体の装備改変のあおりを受けて水上艦勢力は縮小傾向にあり、特にそれは大型水上打撃艦において顕著で、後部の第3砲塔を撤去して大規模な防空艦への改装工事を受けた打撃巡洋艦(旧超甲巡)が2隻ずつ交代で完全稼動状態に置かれている他は、1965年に生き残りの戦艦全てが保管艦状態とされ、わずかに「大和級」戦艦がドイツの大型戦艦への対抗から短期間の復帰工事で稼動状態になるような予備艦的扱いを受けているだけだった。 そして1968年には四半世紀の間世界を恐怖させ続けてきた『八八艦隊計画』の大型戦艦達のほとんどが、解体されるか記念艦としての余生を送るようになっている。旧式戦艦のいくつかは、保管艦として艦艇名簿に名を連ねていたが、ここに第一期『八八艦隊計画』はその役割を完全に終え、この時代になりようやく帝国海軍は戦艦の群を生み出した「八八艦隊計画」のくびきから解放されたとも言える。あの大戦艦の群れが、日本の艦隊育成に強い影響を与え続けていた事、水上艦に防空の多くを委ねようとするドクトリンもここから出ていた点を考えると非常に意義があるリソースの転換と言える。 なお、2隻とは言え現役状態の大型水上打撃艦が存在を許されたのは軍人達の練度の維持と言う副目的もあったが主に外交上の問題、つまり「ショー・ザ・フラッグ(砲艦外交)」の為に他ならない。 そして、この時期の兵備転換により浮いた予算を利用して母艦航空戦力と巡洋潜水艦戦力はさらなる拡充が図られていた。 これは、1961年世界最初の原子力動力空母「鳳祥」と第二世代にあたる「巡洋潜水艦」群の就役として具現化する。また逆から見れば、「鳳祥」に必要な6000名の乗員、大神鎮守府に増設された潜水艦基地運営の人員を確保するために大型戦艦複数の退役および予備役化が必要だったとも言えよう。 この原子力動力空母「鳳祥」は、動力として30年間は燃料の補給の必要のない原子炉を8基搭載し、そのパワープラントが生み出す圧倒的な蒸気と電力によりそれまでとは比較にならない程高い運用効率を実現していた。また、自らの燃料を搭載しなくてもよいのでその分艦載機の燃料と弾薬を搭載しており、この点でも長期の作戦行動が可能となり、同時期に就役した原子力巡洋艦「朝日」、原子力駆逐艦「雪風」と共に世界一周の航海を行い、海洋覇権における日本の優位を世界に印象づけた。なお、「鳳祥」は全長363メートル、満載排水量105,000トン、搭載機数約100機の巨体であり、この記録は軍艦としてなら「大和級」戦艦が改装されるまで抜かれる事はなく、就役当時世界最大の軍艦としてギネスブックにも登録された。また、これはアメリカが大西洋防衛のため建造しつつあった超大型空母よりもひとまわり大きなサイズで、コストパフォーマンスではアメリカ優位とされていた。 だが、原子炉を8基も搭載した大型艦の維持・運用は、そのメリットを差し引いてもリターンしているとは言えず、これは1980年代にアメリカとの技術協力で原子炉2基搭載で大型原子力空母が建造可能となるまで後を追うべき原子力空母が日本で建造されなかった事からも見て取れる。これは、技術として原子力機関がまだ成熟していなかった事の証明でもあろう。 また、それまでに建造された8隻の大型空母は、日本各地の岸壁でのんびりと余生を過ごしている戦艦達とは違い「新八八艦隊整備計画」の時のまま運用されており、この当時まで日本帝国海軍は世界再大規模とされる大海軍を保持していた事になる。 そしてビルマ戦争への参戦により大量の艦艇が動員される事で、多くの艦艇が補充人員を受け取って現役復帰し、その流れがピークに達した頃日米英vs欧州帝国の二極化対立構造に発展、大軍拡の時代を迎え、その勢いのまま海軍の大規模な若返りが開始される事になる。 なお余談だが、砲術化の将兵が滅びるのを免れ、今日まで生き延びる事ができたのは、ビルマ紛争のおかげだと言われている。