まずは、後生の人間である私個人の手記よりも、当時の人間の言葉から引用して始めたいと思う。
昭和一五(一九四〇)年五月三日、それまで交戦状態にあった日米の間にサンフランシスコ講和条約が締結された。
太平洋に限定された、しかもそのほとんどが日付変更線の向こうで行われた戦争だったため、出征した者と遺族以外のほとんどの日本帝國臣民にとって、一部物資の窮乏した生活面以外ではあまり実感のない戦争ではあったが、あしかけ五年にも及んだ未曾有の大戦争がようやく終わりを告げた事は、日米の国民でなくても大いに喜ぶべき事だったのは間違いなかった。日米合わせて五〇隻近い戦艦が戦没するほどの大戦乱だった事を思えばなおさらだろう。
だが、これは同時に欧州において次なる戦いが始まる、その号砲でもあったのだ。
本次太平洋大戦において、その戦場の性格から大きな役割を果たすことの無かった、否、果たしたくても果たせなかった日本帝國陸軍は、欧州での新たな争乱において、そこで行われた全ての事柄から成果を得るべく多数の観戦武官を派遣する事になった。
私、日本陸軍少佐島田豊作もその中に含まれた一人であり、これは報告書とは別に私的にまとめた文書である。ために、正確さにおいて論文などより劣る内容となり多少くだけた文体になるが、これをもし見ることになる方はこの点を加味して見ていただければ幸いである。
皇紀二六〇五年九月十日
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