◆Phase 01:日本の現状と「冬戦争」

●前書き

 まずは、後生の人間である私個人の手記よりも、当時の人間の言葉から引用して始めたいと思う。

 昭和一五(一九四〇)年五月三日、それまで交戦状態にあった日米の間にサンフランシスコ講和条約が締結された。
 太平洋に限定された、しかもそのほとんどが日付変更線の向こうで行われた戦争だったため、出征した者と遺族以外のほとんどの日本帝國臣民にとって、一部物資の窮乏した生活面以外ではあまり実感のない戦争ではあったが、あしかけ五年にも及んだ未曾有の大戦争がようやく終わりを告げた事は、日米の国民でなくても大いに喜ぶべき事だったのは間違いなかった。日米合わせて五〇隻近い戦艦が戦没するほどの大戦乱だった事を思えばなおさらだろう。
 だが、これは同時に欧州において次なる戦いが始まる、その号砲でもあったのだ。

 本次太平洋大戦において、その戦場の性格から大きな役割を果たすことの無かった、否、果たしたくても果たせなかった日本帝國陸軍は、欧州での新たな争乱において、そこで行われた全ての事柄から成果を得るべく多数の観戦武官を派遣する事になった。
 私、日本陸軍少佐島田豊作もその中に含まれた一人であり、これは報告書とは別に私的にまとめた文書である。ために、正確さにおいて論文などより劣る内容となり多少くだけた文体になるが、これをもし見ることになる方はこの点を加味して見ていただければ幸いである。

 皇紀二六〇五年九月十日

●序章

 「動員なき総力戦」。戦史上では一九三四(昭和九)年一月三日未明から一九三九(昭和一四)年八月一五日正午にかけて行われた事になっている大日本帝国とアメリカ合衆国との間の未曾有の大戦争は、一部識者の間でこう呼ばれる事がある。
 なぜ、祖国の存亡を賭けた大戦争において、日本と米国双方で大規模な兵員の動員がなされなかったのか。答えは地図を見れば一目瞭然だった。主戦場が、まともな島嶼すら存在しない赤道から北の太平洋全域を戦場としたからに過ぎない。つまり、戦場は常に海上と進撃と補給の拠点となるべき小さな島嶼だけであり、そこは必然的に陸上の大兵力の展開には著しく不向きで、第一次世界大戦のような大陸軍の活躍すべき(もしくは睨み合うべき)余地は全く存在しなかった。その時々で必要なのは、せいぜい軍(軍団)規模の部隊でしかなかった。苦労して大規模な陸軍を作り上げても、相手国に対する本土侵攻でも行わない限り必要なかったのだ。そして、日米双方とも経済問題を解決すべくこの戦争を戦い、日本、少なくとも日本政府及び軍は純粋な防衛戦争と定義し、米国側は相手が島国であるという欠点を利用した海上交通路の途絶を目的とした攻撃を戦略目的にしていたため、なおさら大陸軍など必要なかった。どちらも、費用対効果の問題から相手国の本土侵攻作戦など最初から考慮の外にあったのだ。しかも、実際の戦争は日本軍の戦術的勝利の連続により両者の戦略構想とは全く逆の戦術展開となり、なお一層陸軍の動員は低調となっていた。
 最も必要なのは、お互い必要な海上交通路での制空権・制海権を維持するために大量の艦船を建造維持する事だった。戦争後半にこれに航空戦力の維持が加わり、なおのこと戦時における生産力と後方兵站の維持こそが重要視されるようになる。ハワイと西海岸で睨み合っていた両国の大艦隊などですら、これらの目的の前にはそれ程たいしたものではなかった。
 もし、この戦争において大量に人員が動員されたとするなら、それは生産と補給の分野において、と言う事になるだろう。

 これらの要因のため、日米で実際前線で戦火をくぐった人間の数は、西海岸が攻撃され、さらに同地区の防衛のためかなりの動員がなされた米国においては、戦争の規模に相応しいそれなりの数に上ったが、日本においては一部各地の上陸作戦に従事した陸軍兵をのぞくと海軍兵士と船舶乗り組みをする者だけとなっていた。そして戦死者に至っては、総数においても日米合計しても十万の単位以上にはならず、莫大な戦費を使用したにも関わらず、人命においては双方極端に安上がりな戦争を経験したと結論づける事も可能だろう。もちろんこれは、今次戦争以外の「世界大戦」と呼ばれる戦いと比較してと言う事でだ。
 特に日本における戦死者の数は、陸海合わせて五万人に達していなかった。もちろんこれは、戦争中盤以後膨大な犠牲を強いられたとされる輸送船舶の船員と船で運搬される途中に失われた人数を加味しての数字だ。
 五万という数字は一見大きい数字に思えるが、フィリピン、中部太平洋、アリューシャン、ハワイ、アラスカ、アメリカ西海岸と約一万キロもの距離を駆けめぐって戦い続けた事を考えると、とても現実のものとは思われなかった。これもひとえに上陸作戦以外で、大規模な地上戦闘が発生しなかったからに他ならない。
 だが、それと反比例に消費された戦費の額は、明治維新より発展と躍進を続けていた日本の財力と工業力を以てしても賄いきれるものではなく、人命を戦費で補ったとすら見れる数字を示していた。
 こう考えると非常に人道的な戦争をしたのだ、とも結論しても良いだろう。しかしこの戦争の後遺症は、単に百万単位の戦死者を出した戦争よりも国家へ与えた傷は根が深く、これがこの記録者たる私をして二度目の欧州での近代的戦乱の全期間を通じて観戦武官たらしめたと言って間違いないだろう。

 『メージャー・シマダ』として英国・独国陸軍などでも有名になる欧州観戦武官・島田少佐の手記はここから始まる。
 積極果敢な機甲部隊指揮官として知られる彼にしては非常に堅いと言える言葉から始まっているが、これは太平洋戦争を半ば傍観者として過ごした日本陸軍高級将校の心情の大半を占めていた気持ちを彼も大いに持っていたからであり、さらに傍観者であるが故に高い視野から物事を見る癖がついていたと取れるだろう。
 特に彼は、1937年のアラスカ侵攻作戦で増強戦車中隊指揮官として世界最初とすら言われる電撃戦を実践する程の活躍を示し、1939(昭和14)年の終戦をハワイ諸島・オワフ島にて、米軍が上陸してきた時に備えて配備された、当時最新鋭の「九七式戦車改(英国製6ポンド砲装備型)」が過半を占める戦車連隊の指揮官として米軍を待ちかまえていただけに、軍人としての落胆は大きかったのではないだろうか。

 そうして彼がハワイで終戦を迎え、傷心とも言える気持ちを抱えつつ帰国した頃、世界は次なる幕へと進む事になる。
 1939年(昭和14)11月30日、ソビエト連邦が突如旧ロシア帝国領だった地域の返還をフィンランド政府に要求し、それがかなわないと武力で以て侵攻した事件がその第一幕だった。しかもソ連赤軍は、兵を旧ロシア帝國領だったバルト三国にも差し向け、ろくな戦力もないこれらの国々の蹂躙も同時に行った。
 世界史的にもソ連史においても「冬戦争」と呼ばれる戦いがそれだ。
 ソヴィエト連邦が、この時期をわざわざ選んで武力侵攻した背景には諸説あるが、ここでそれを論ずる事は今更避けたいと思うので、簡潔に戦術的な点をおさらいして次に進もう。
 「冬戦争」は、1939(昭和14)年11月30日から1940(昭和15)年3月12日にかけて行われた事になっている。
 直接的な戦争理由は、ソ連が旧ロシア帝國領土の奪回を図ろうとした事と、防衛力強化のためレニングラード付近のフィンランド領と他の地域との領土交換を要求し、フィンランドこれを拒否した事に始まる。
 そして1939(昭和14)年11月30日外交交渉が決裂し、ソ連は宣戦布告なしにフィンランド攻撃を開始した。
 ソ連空軍はヘルシンキなどの諸都市を爆撃し、海軍はフィンランドの港湾を砲撃、陸軍部隊は越境侵攻した。こう書いてしまえば、ソ連軍は実にごくありきたりな全面侵攻作戦を開始したと言うことになる。
 しかし、地上戦においてそれはこれまでの軍事常識を全く覆すような出来事となった。
 マンネルヘイム元帥率いる劣勢のフィンランド軍(開戦時、歩兵3個師団、騎兵1個旅団、戦車1個中隊)は、後に独・英・仏の支援を受け、それがなくとも地形を利用した巧みな縦深防御陣地で敵を迎え撃ち、小兵ながらも実によく戦ったのだが、相手が悪かった。
 今更ここで言うまでもないが、相手が近代化を終えたばかりの世界一の陸軍大国だったからだ。
 この時ソ連赤軍が投入した兵力は、彼らの基準で約20個師団、他列強の基準からするとせいぜい15個師団程度、30万人ほどの前衛兵力数でしかなかった。後方支援部隊を含めても50万人程度で、400万人の常備軍を抱える世界一の陸軍大国としては、実に些細な数でしかない。
 だが、これでも相手を考えれば、数字の上では敵の三倍以上に達しており、十二分な兵力と言えた。
 そして、その内実は数字以上のものだった。

 この当時、太平洋戦争の影響で必然的に兵力を拡大し、その余剰を満州へと送り込んでいた日本陸軍(1936年には25個師団体勢になり、終戦時には結局40個師団(150万人)を突破し、うち25個師団(100万人)近くを満州や樺太に駐留させていた)を強く警戒していたスターリンは、彼にとって獅子心中の虫だったソ連赤軍の徹底的な骨抜き(粛正)をするチャンスを逸し、この時点においても国民的英雄であるトハチェフスキー元帥の手による軍の近代化と戦術的な点での組織改革が進んでいたのは、何よりの幸運だったと言えるかもしれない。
 少なくともソヴィエト連邦全体にとってと、「冬戦争」に従軍した将兵達にとっては言葉通りだった。
 何しろ、この時投入された兵力が2個軍21個師団規模で、その内訳はソヴィエト赤軍の中でも虎の子と言われる4個戦車師団を突破戦力の中核とし、これに6つの戦車旅団が側面を固めそれらを支援すべく8つの自動車化狙撃師団が従い、最後の地固めとして6つの狙撃師団(歩兵師団)が続いた。さらに全般支援として5つの砲兵旅団が、ロシア民族お得意の圧倒的な重砲弾幕を作り上げ、これらを3万両ものトラックが補給面から支えていた。
 局所的に劣勢な場面もあったが、圧倒的な数の空軍力については言うまでもない。
 まさに、この当時で見るなら考えうる限りの手を尽くされた三次元戦闘を行う事のできる機械化集団であり、これだけの規模の部隊を作り上げているのは、質はともかく規模において隣のドイツ軍ぐらいだった。砲塔に二門も主砲を備えた珍妙な戦車などが部隊に含まれていたが、この物量を前にしてはそのような事は些細な問題にすぎなかった。
 5年もの戦争を続けていた日米も、個々の兵器や部隊の質、そして異常に強大化した空軍力ならともかく、陸軍においてこれ程の機械化戦力は編成されていなかった。
 全ては、歴史上最年少クラスの元帥、ミハエル=トハチェフスキーの功績だった。
 彼は、この大軍をジェーコブ大将に委ねると自らは、全般指揮として子飼いの参謀達と共にレニングラードにまで赴きこそしたが、事前準備の軍団を組織する以上の事はしなかった。
 必要なかったから、自らが育て上げた軍備にそれだけの自信を持っていたからだ。

 彼の元で編成され鍛え上げられたロシア式機械化軍団は、森に阻まれた狭い進撃路でフィンランド軍のスキー兵などに苦しめられる場面もあったが、機械力を利用して一気に進軍し、途中陣地を固めて体勢を整え、また進軍すると言う実にロシアらしいルーチンをほぼ一週間ごとに行い、フィンランド国境を深々と破り、自らの数分の一しかないフィンランド軍の大くを殲滅する事に成功していた。
 もちろん、フィンランド軍側も祖国防衛戦争と言う事もあり果敢に反撃し、特にゲリラ的攻撃や戦闘機隊の活躍はめざまいものがあったが、地上主戦線での状況が状況だけに、いかに勇戦敢闘しようとも小国の軍事力ではどうにもならなかった。

 赤軍の圧倒的勝利だった。
 実際の戦闘は、純軍事的には最初の1カ月で決着が付いたと言っても間違いはなく、その後はソ連政府中枢による現地への無茶な進撃命令とフィンランドとの間の何とも不健全な政治的駆け引きで消費されたようなものだった。前線は最初の一ヶ月以後しばらく大きく動く事はなく、ソ連中央の命令通り赤軍が早々にさらなる目的を達成してから後は、春の雪解けを迎える事になる。
 しかし、年を明ける頃から少し様子がおかしくなった。共産主義を特に警戒する諸外国がソ連の軍事力行使を激しく非難し、独・英を中心とした援助物資がソ連政府の都合で膠着したフィンランド軍前線に豊富に送り届けられるようになり、これらの兵器がソ連赤軍に少なからずダメージを与えた事に端を発している。
 しかも、ドイツが反ソ連に大きく動いた事で、それまで中立や傍観を決め込んでいた他の北欧諸国までがフィンランドを援助する方向に流れつつあった。
 この事態に、赤軍、特に前線の部隊は苛立ちを日増しに大きくさせた。いったい政府と我らが指導者は何をしているのか、と。
 そしてそれは、反比例するようにトハチェフスキーの手腕と名声をより高める事となり、ソ連政府中央と軍部の対立の溝を急速に深くしていった。

 だが、ソ連にとって幸いな事に、大国との戦争を迎える事なく「冬戦争」は何とか所定の目的を達成した。国連から除名されるという「ちょっとした」政治的失点はあったが、少なくともモスクワの主スターリンはそれ程気にとめていなかったと言われている。
 しかし太平洋戦争と「冬戦争」が終わりを告げた事で、ソ連国内で大きな問題が、その水面下で激しく動き出そうとしていた。
 原因はいくつか言われている。太平洋戦争終結による日本軍の動員解除とそれに伴う満州での軍事的圧力の低下、スターリンの表面的な侵略外交の成功、トハチェフスキーの軍事的成功、欧州諸国の足並みの乱れ、冬戦争での政府中央の失態と政府と軍の対立表面化などがそうだ。

 そして事件は、丁度5月1日のメーデーに合わせて行われた、トハチェフスキー元帥の凱旋式に発生した。
 ソ連史において「5月革命」とも呼ばれる事件がそれにあたる。
 共産圏の者ですらいまだその詳細を知るものは少ないと言われているだけに、同じ体制にいない私がこれを詳しく知る事はできないが、一般的には軍事パレードにおいて、トハチェフスキーご自慢の戦車隊が丁度赤の広場を通った時に、新鋭戦車の砲口がソ連首脳部に向けられ、一斉に砲火を切り全てを吹き飛ばし、それを合図にしてトハチェフスキーシンパの軍人達が一斉に行動を開始し、スターリン派とそれに連なる秘密警察・政治将校のほとんどすべてを一斉に摘発・逮捕、逆らう者には容赦なく銃弾がたたき込まれた、となっている。
 つまり、絵に描いたような、まるで映画のような軍事クーデターが発生し、20世紀の魔王たるべく定められたと言われた男とそれに連なる者達は、彼らが行使しようとした、もしくはそれ以上の暴力で以て、突然歴史の舞台から降りる事を強要されたのだ。もちろん、トハチェフスキーたちにすれば、自分たちがいよいよ邪魔者になりいつ粛正されるか分かったものではなかったのだから、これは単に自分たちの行動が早かっただけで、もしいくらか行動が遅ければ、自分たちこそが銃弾の餌食となっていたと強弁しただろう。これを裏付ける証拠として、クーデター後軍権を掌握しと政府、党の臨時代表となった彼らは、その「証拠」を暴き出し自らの正当性を訴えている。この点は、話し半分にしてもスターリンという暴君と彼のもとで形成されていた当時のソ連共産党という体質を考えれば、概ね事実だと現在では結論づけられている。
 なお、この時のトハチェフスキーのクーデターと改革により、ソヴィエト連邦と共産党は、軍の独裁色の強い「軍事国家」の側面を色濃くし、共産党の支配色が薄くなった事から、ロシアの旧来のもの、つまりロシア正教などの宗教などを限定的ながら復活させ、自らの政体も「共産主義」ではなく、本来目指すべき道である「社会主義」への正しい軌道修正だとして、一部資本主義的なものの復活すら行い、これらの改革により民心を安定させる事に成功している。
 もちろんこれは、クーデターに対する民衆へのガス抜きであり、スターリン体勢との違いを見せるための政治的パフォーマンス的要素の大きなものだった。なぜなら、彼等は共産主義そのものを捨てる事はなかったからだ。
 そして、このソヴィエトの変革こそが、後のソ連の侵略と支配を長引かせる事になったと言えるだろう。
 だが、可能な限り準備してたとは言え、その後ソ連は政治が主に中央において安定するまで、それから約1年を要し、この事がさらに歴史をおかしな方向に誘っていくことになる。

 ●Phase 02:ポーランド戦役と欧州の混乱