◆Phase 02:ポーランド戦役と欧州の混乱

 ソ連の劇的な政変と武力を伴った膨張外交は、欧州各国に様々な波紋を投げかけた。
 最初に行動を起こしたのは、突然不倶戴天と目していた敵(スターリン体制のボルシェビキ)を失ってしまったドイツ総統アドルフ=ヒトラー率いるドイツ第三帝国だ。
 そしてその混乱を象徴するように、トハチェフスキーとその弟子たちの軍事的才幹を恐れ、それ故ソ連に対する防衛体制の強化として、ポーランドにダンツィヒ回廊の返還を強く要求し、これが断られると1940年5月15日、突如ポーランド全土に対する軍事侵攻を行った。
 このドイツの突然の行動に世界は驚愕したが、ドイツにしてみれば強大な軍事力を持つソ連からの祖国防衛を考えれば、ポーランドは是非とも必要なヴァッファー・ゾーンであり、特に第一次世界大戦後飛び地となってしまった東プロイセンを守るためには、他国の事などかまっている場合ではなかったと言うのが偽らざる本音だろう。
 しかも、これを裏付けるかのように、ソ連はほぼ同時期にルーマニアから領土を割譲しており、彼らの侵略性の高さを見せていた。

 ドイツのポーランド侵攻そのものは、ソ連の「冬戦争」がそうであるように、圧倒的な機械力と空軍力を活用した新時代の軍隊を持つドイツ軍の圧倒的勝利を以て幕を閉じた。
 当時フランス陸軍どころか動員時戦力でポーランドにすら劣る60個師団程度しか戦場に投入なかった筈のドイツ軍は、彼ら自身防衛には十分な戦力と考える、世界に誇る騎兵部隊を含む20個師団以上の常備陸軍力、戦時動員でドイツ軍を上回る(歩兵)兵力を持つポーランド軍を手もなくうち破っていた。
 ポーランド戦と「冬戦争」の違いは、ポーランド戦がドイツ軍が相手の急所を突破し迂回する事で相手を包囲殲滅するという形だったのに対して、「冬戦争」は地形・気候上の制約などから圧倒的大戦力を叩き付けた強引な陣地突破戦にあったが、そのどちらも相手を上回る火力と機動力、そして装甲戦力がなければ成立しないものであり、どちらも機甲戦力をどう使うかを端的に示したものと言えよう。また、独ソの差は高度な運動戦を可能とする無線技術など軍全体の有機的運用能力の差とも言えるだろう。

 そして世界は、少なくとも欧州世界はこの二つの異質な国家の侵略的行動に右往左往する事となる。特に混乱していたのは、フランス共和国だった。
 フランスは伝統的に反英・反独、親露であったが、それはロシアの大地に共産主義政権が誕生してからも一時期を除いて大きな変更はなかった。これは、フランスがいち早くソ連を国家として認めた事からも明らかで、さらには一時期フランスにおいて社会主義勢力が強くなるという事すら現出していた。だが、フランスを支配する者たちは、さすがに自らが大損してまで主旨替えする気は更々なく、英国などと協調しつつだらだらと1930年代を過ごす事になる。そして対英協調傾向はドイツが再軍備した事により強くなり、互いの民族感情レベルでの対立はともかく、このまま英仏協調で世界が動くのかと思われたが、これがソ連の政変とドイツのポーランド侵略でおかしな方向に動いてしまったのだ。
 ソ連に対する動きは、特にフランス的無定見さと言えた。彼らは、新たにソ連を牛耳った総元締めがフランス国内に友人・知人が多数いるトハチェフスキー元帥であり、政変と彼の力により復権したもの達の多くも、かつての帝政ロシア時代にフランスへ留学したりした者が多数含まれていた事から、この後の外交をかなり楽天的に捉え外交方針を突然変更し、これをドイツのポーランド侵攻が決定づけたのだ。つまり、歴史にもある通り1939年とはうってかわって1940年からしばらくフランスは親ソ外交を展開し、他の欧州諸国と違った行動をしたと言うことだ。ソ連がこれを利用した事は言うまでもない。

 そして、このフランスの動きに振り回される事になったのは、依然として世界の王者の座に君臨していた大英帝國となる。なお当時の英国の外交方針は、それが世界規模であり平時英国の無節操さを体現する行動だったため、フランスなどとは次元の違う狂想曲を半ば自作自演で奏でる事となる。
 1939年、太平洋戦争が終わった当時の英国の外交方針は、アメリカの日本に対する敗北とその余波からくるモンロー主義への回帰により概ね一つに絞られていた。
 「反共」である。
 そして、本来ならこの一つの事に当たればよいのだから、行動も一本化し事態は英国率いる伝統的資本主義陣営vsソヴィエト連邦+共産主義勢力と言う、実に分かりやすい図式になる筈だった。ところが、歴史を見れば分かる通り、この頃の英国はいったい何をしているのかと、外交の素人や少し歴史を深く見た者を困惑させる事になる。
 確かに一応は「反共」路線で一本化されていたのだが、自らの行動そのもがまとまりに欠ける上に、無節操さが目立っていたからだ。英国からすれば、うった手のうちのいくつかの芽が出れば良いだろうと言うぐらいの気持ちだったのかも知れないが、後世の目から見ればあまり誉められる行動とは言えないだろう。
 だが、一つ一つを見ればそれなりに納得の行く結果を出していた。順に見てみよう。
 まず、いまだ唯一の軍事同盟を締結している日本帝国に対してだが、日本そのものが5年間のアメリカとの総力戦で国内経済はガタガタで、日本政府や財界においては、上は宰相・財務大臣から下は床屋のオヤジに至るまで、他国が戦費を全て肩代わりするのでもない限り、その全てが向こう10年は日本帝国は本格的な戦争など不可能と結論づけていた。
 だが、5年の間に膨れ上がった軍備は、それをいかに縮小しようとも、軍部が官僚的性質を全面に押しだし、また目前の脅威があれば極端な軍縮などできる筈もなく、また英国が日本に「それとなく」ソ連に対して極東からの圧力を加え続けるように言えば、特に問題ないとして実際行動が起こされた。
 そして日本は、戦争中に肥大化した陸軍ー第一線師団40個体勢でうち3分の1は機械化され、独ソが多数保有する戦車師団などすら1938年頃から多数編成されていた。当然これは、独ソ米に次ぐ陸軍力だった。さらに空軍力についてはその装備を考えると欧州の過半の国よりも充実していたものを、人員の面で一部動員解除して装備の点での充実度をあげて対応し、さらに太平洋に不要になった師団のかなりを満州やオホーツク各地に送り込みその回答とした。
 これらの変更により1940年頃の日本陸軍は、30個師団60万人体勢(師団の3分の1はスケルトン状態の未動員師団)で、うち3分の1は完全機械化され、残りも半自動車化する質の面での充実度を見せていた。
 これにより、ソ連は防衛のために極東に最低でも30個師団は駐留させ続けねばならなくなり、もし仮に彼らからうって出るなら倍の60個師団以上が必要と判断される程の負担を強いる事になる。
 つまり、ここでの英国の「手」は大成功だったと言える。この成功は日本は、外債を多数購入し借金返済の為の市場を曲がりなりにも解放している英国に「No」とは言えなかったからだと言えるだろう。
 ただし、その借金の多さから、今後5年は英国が経費の全てを肩代わりしない限り実質的には何もできないと日本中から断言されてしまい、これは英国に自国本位の損得勘定から反共に対しては防衛戦争だけをする外交方針に強く誘ったとされている。

 つぎに支那大陸だが、こちらは日本と共同で国府軍に対する援助を強化すると言う事だけが行われた。
 泥沼の内戦となっているこの場所に、それ以上の事をすればどうなるかの判断が難しいという事もあったが、日本は疲弊しきっており、英国はまず欧州正面から考えなくてはならないので、それ以上の行動には出られなかったというのが双方の本音であり、この行動はその結果と言う事になる。
 なお、同じアジアとなる中東に対しては、各植民地や衛星国に対して英国独自による軍備の増強だけが行われ、特に対応はしなかった。これは、英国の動員がまだ全然だったと言う事と、英国は中東の覇者の一人であると同時に嫌われ者であり、あまり一応の平時の折りにガチャガチャと玩具を五月蠅くしては、何かと面倒が多かったからだ。

 そして、英国にとっての肝心要の欧州正面だが、これについてはヒトラー政権誕生よりの融和外交がその最たるものと言える。
 要するに、ドイツを再軍備させ軍事的にある程度復活してもらい、その軍事力と国力、国土そのもので欧州を守る「楯」になってもらうと言うものだった。
 実に英国の手前勝手な思惑だが、ドイツにしみてみれば、ヴェルサイユ条約でがんじがらめにされた軍備を国際的に認知された形で復活でき、それにより自前でソ連の脅威に対抗できるようになるのだから文句を言う方がおかしいとすら断言できるので、この状況は英独の互いの思惑の一致だと結論づけられる。
 だが、ここから欧州はおかしな方向に進む。
 ドイツの再軍備に、20年前辛酸をなめた欧州各国が警戒の色を俄然強くしたからだ。特にドイツの再軍備に警戒感をあらわしたのは、第一次世界大戦で国土が戦場となった国々だった。つまりフランス、ポーランドの二国だ。さらにポーランドに至っては、建国時のソ連との戦いでの勝利により軍部の力が強く、近隣諸国に対して力を用いた外交を行う傾向が強くあり、これがドイツのダンツィヒ返還要求時の行動に如実に現れ、再度の亡国へとつながったのだ。
 一方フランスは、いまだ第一次世界大戦の後遺症から抜けきってなく、国力的、人口学的に防衛戦争以外できる力はなく、また、戦争の惨禍を覚えている国民が最も多い事もあり、なるべく戦争を避ける方向、たとえ戦うにしても防衛戦争をする外交方針を取っており、これが1930年代半ばの無定見な外交をより強くしていると言っても過言ではなかった。
 つまり、英国は他国も自国以上に手前勝手な理由で無定見で無思慮な外交を行うという事を失念していたが故に、自らの行動で欧州での混乱を招いたと言えるだろう。
 そしてそれは、ドイツがポーランドに戦争を吹っかけた事で一つのピークを迎える事になるかに見えた。だが、それは新たな混乱の幕開けに過ぎなかった。世界を敵にする立場となったソ連からすれば、もはや笑い出したくなるような状況だったが、混沌とした欧州情勢は、1国の思惑でどうこうなるような状況ではなかったのだ。

 動いたのは、半ば忘れ去られていたような形になっていたイタリア。ムッソリーニー総統率いるイタリアは当時ドイツと同盟関係にあり、ドイツの成功に気をよくしてアルバニアへと軍隊を派遣し、これを武力進駐と言う形で事実上併合してしまう。
 国際的に孤立したアルバニアが相手だけに、それだけなら諸外国もそれ程五月蠅く言わなかっただろうが(何しろ東欧がそれ以上に混乱していたからだ)、ムッソリーニーの政治目的がローマ帝国の版図復活なのだから、そのままギリシャに軍を向けたため各国が動き出す事になる。主に動いたのは英国とドイツだ。ドイツは対ソ戦略を考えると東欧南部が不安定になるのは、ソ連の侵攻を助長しているようなもので都合が悪く、イギリスにすれば共産主義者を地中海に出さないためには是非ともギリシャは政治的に健在であってもらわないと困るため、ドイツは政治的にイタリアに何とか今はアルバニアだけで我慢しろと説得を始め、イギリスはギリシャに大軍を派遣し地中海艦隊の増強をさせるに至った。

 さて、最後になったが混乱の元凶ドイツについてだが、ドイツはヒトラーが政権を握ってから日米が太平洋で大戦争を展開した事から、これら二国に対して英国などと共にせっせと兵器輸出などによる外貨獲得に走り、さらに国庫的に余裕の出てきた1930年代後半にはかなりの量の国債の購入など密接な繋がりを持つようになり、しかも対独融和政策による英国市場、資源とのリンクが発生していた事から、もはや自国本位の「国家社会主義」だけではドイツ経済を立ち行かせることが不可能な状態となっていた。
 皮肉にも、ドイツ経済を完全復活させた国際規模での経済活動が、この後のドイツ外交を左右する事になった。つまり、ドイツが経済的に回復し軍備もそれなりに復活し、当面投機的な侵略外交を行う必要がなくなったため、その間隙をソ連に突かれたと言える。そしてその過剰反応から遅ればせながらのポーランド侵攻という、ある種奇妙な状態を生み出したのだ。
 つまり、ドイツが太平洋戦争に関わることで経済的に復活しなければ、ドイツはソ連よりも早く近隣諸国に対して軍事力を用いた膨張外交を展開していた可能性が極めて高いと言う事であり、この時のソ連の立場はドイツの立場となっていたかも知れないと言う事もできよう。
 だが、実際はソ連が頭一つ抜きん出てしまい、ドイツはその後塵をはいする立場となった。だが、これは今後10年を考えれば、ドイツのタナボタ的外交勝利へと繋がる。それは、ロシア人(ソ連)が伝統の侵略的外交をとった事で、その対向者として復活したドイツを認識し、フィンランド、オーストリア、チェコスロヴァキア、ルーマニア、トルコなど反露国家を友好的に味方に引き込む事に成功していたからだ。
 さらに、ソ連の行動に英国が敏感に反応し、さらなる親独傾向を強め、これを受けてドイツをして「民主主義の防波堤」宣言をさせるに至ったのだ。
 もっとも、恐怖心に裏打ちされた行動の結果が、ポーランドに対する武力侵攻だったのだから、何をか言わんやと言ったところだろう。
 そして、この欧州の混沌とした状態は、新たにソ連首脳部となったトハチェフスキーたちに次なる一手を打たせる事に繋がる。

 Phase 03:開戦前 各国戦力概要(1)