Phase 07:1941年10〜12月 東欧戦線崩壊

 1941年9月10日、「砦(チタデル)作戦」と呼ばれるドイツ軍の一大攻勢作戦が東欧中心部にて開始された。
 参加兵力は、B軍集団(スロバキア軍集団)、C軍集団(南ポーランド軍集団)と呼ばれる中部、南部を戦区担当とする2個軍集団と、この作戦のために特別に編成された新設の装甲軍団を含んだ新規編成の1個軍を主軸とした突破兵団が組織され、さらに遅滞防御と側面援護のためチェコスロヴァキア軍、オーストリア軍、ユーゴスラヴィア軍残余など同盟国軍が加わり、その総数は250万人に達していた。
 これを約2,000機の空軍機が直接支援し、ハンガリーを軸にスロヴァキア地方とユーゴ地方に侵攻していたソ連赤軍約150万人の精鋭部隊を全軍団が北から南にギリシャに向けて進撃する事で東欧全域を使った包囲殲滅が彼らの目的だった。
 また、この作戦に呼応して、アドリア海方面にあったアルバニアのイタリア軍とギリシャにあるイギリス軍が、ソ連軍の侵攻を押しとどめるためとドイツ軍の進撃に対する「金床」の役割を果たすため支援態勢を強化しており、これらを含めると攻撃側である反共連合(枢軸同盟プラス日英同盟諸国のこの当時の暫定的な通称)が、現地ソ連軍の二倍の戦力を有している事になる。
 さらに、占領されたばかりのルーマニアなどでは、物的援助さえ行えばゲリラ活動なども期待でき、距離の優位もありドイツなどにすれば十分に勝算のある戦いと考えられていた。特に、制空権は完全に自分たちの手にあり、戦術原則からすれば勝利は間違いないと思われた。こればかりは、いかに天才の誉れ高きトハチェフスキーでも覆せない差だからだ。

 そして、この戦いでは様々な新機軸の兵器が、両軍の間で投入されたが、一番の活躍を示したのは英国のRDFと英独双方の信頼性の高い無線技術に裏打ちされた高度な通信網だった。
 英独軍は、クリミア戦争を経て日露戦争以後拡大を続けていた近代物量戦に「電子戦」という新しい概念を持ち込む事で、戦いをさらに優位に運ぼうとした。
 もっとも、英独のしかけた電子戦は何もこの戦いが最初ではなく、英国のRDFを活用した戦術は、太平洋戦争中に日本軍に技術供与する事で十分な実戦経験を積んでおり、その後英本国で改良の加えられたもので、ドイツの無線を多用した有機的な通信指揮戦術は、日露戦争で日露両軍が使用したのを最初の大規模使用の例として始まり、世界屈指の産業国たる彼らにしてみればごく当たり前の事とすら言え、彼ら自身も実戦経験をポーランドで全軍が経験し、フィンランドにある義勇軍に至っては現在進行形で技術蓄積を続けているものだった。
 また、敵に対する電波攻撃、最近ではジャミングなどとも呼ばれる電波妨害、通信妨害などとされるものも航空戦を中心に実用段階に進んでおり、基礎技術力の低さから無線機の絶対数が少なく機材も劣悪で、RDFに至ってはこの頃ようやく試作される程度だったソ連赤軍の到底太刀打ちできるところではなかった。
 そして、ごく単純に言ってしまえば、この電子戦での一方的な勝利が、空での圧倒的優勢をさらに確固たるものとし、ソ連赤軍全体の縦重視の命令系統にさらなる混乱を呼び込み、この時の勝利に大いに貢献したと結論付けられるだろう。
 如何に優れた将校団、参謀団を保有しようとも、人間の神経にあたる組織が機能していたのでは、片手落ちも良いところだという好例だった。

 戦闘は、横合いから殴りかかれた事で当初大きな混乱に見舞われたソ連赤軍を、ドイツ軍の圧倒的スピードが翻弄する形で継続され、スロヴァキアとユーゴスラヴィアに侵攻していたソ連赤軍は各所で包囲殲滅され、二つの大きな軍集団はスロヴァキアとユーゴにひしめいているソ連軍主力を、大きく見れば二重包囲する形で進撃を継続した。
 そして、事が100万人規模同士の大軍のぶつかり合いとなっただけに、少数の新兵器の活躍による逆転という事態は全く発生しなかった。
 「無敵のT-34」と言えど、その例外ではなかった。
 大勢は、ドイツ軍の戦闘開始1週間でほぼ決したと見られた。ドイツ軍の進撃はそれ程までに有機的かつ迅速性に富んでおり、初動で致命的な遅れをきたし、兵もそれまでの進撃による疲れが見え、補給線が大きく伸び本来の力を発揮することも適わないソ連赤軍に、その速度と集中性を覆す事は純軍事的には不可能かと思われた。
 それは、ソ連軍がいかに優れた戦車を投入していたとしても、集団としての兵力運用の前にはたいした役割を果たすことはなく、あまつさえドイツ側の圧倒的制空権の前にただの射的大会の高価な標的と化してい事も影響していた。
 ソ連軍は、自らがルーマニア軍に対して行った事を、まるで鏡を写すかのように見事にドイツ軍にやり返されてしまったのだ。
 特にドイツ軍は、ほぼ完全な制空権を維持し、制空、偵察、戦術爆撃と戦術空軍が陸上部隊に対して行うべしとされる支援態勢を完全に履行しており、陸での優位をさらに盤石たるものとしていた。
 そして、この当時のドイツ軍は迅速な移動を旨とする部隊編成を取っていた事から、重砲部隊を空軍の戦術爆撃機に多くを依存しており、制空権の維持と共に安定した対地攻撃は、それそのものがドイツ軍の安定した進撃を約束していると言っても過言ではなかった。
 そして、さらに空での優位を活用したロイヤル・エア・フォース(RAF)の大規模な行動がソ連軍にさらなる災厄をもたらす事になる。

 RAFは、開戦時その主力は英本土にあったが、ソ連の動きに呼応するかたちでクレタ島を中心に地中海にも多数展開するようにもなっており、中でも遠距離攻撃を主任務とする重爆撃機部隊の多くをギリシャ方面に送り込んでいた。
 目的は言うまでもなく、ソ連領土深くに侵空し重要施設を爆撃するためだ。
 戦略性を重視する英国らしい行動と言えるこの動きは、開戦壁頭にドイツ空軍の完全なまでの戦術的勝利により動きが加速され、ソ連が制空権をまともに維持できないと見たRAFにより早くも9月に最初の大規模爆撃が実施される事になった。
 目標はウクライナの中核都市にしてルーマニアへと伸びる軍補給線の起点となるキエフ市と、黒海に面した重工業都市にして重要な港湾都市のオデッサ市。この二つは、ベラルーシのミンクス市と並んでロシアの欧州への玄関口としての役割も持っていた。
 RAFの約100機の重爆撃機はこれらウクライナの街々を襲い、中でもこれらの街の鉄道中枢に対して徹底した爆撃を実施、ソ連空軍の迎撃と自らが護衛戦闘機を伴わない事からそれなりの損害こそ受けたが、目的の多くを達成した。
 そして、この爆撃を開幕ベルとして、その後週に1〜2回の割合で100機から多い時で300機の重爆撃機を、主にソ連空軍がまともに迎撃できない夜間に出撃させ、ソ連南部国境近辺の都市と軍の施設を中心に爆撃してまわった。
 これにより、ソ連陸軍の南方部隊の支援態勢、中でも補給態勢は大きく阻害され、今まさに包囲されんとしている友軍の救援部隊の移動は致命的なまでの遅れをきたすことになる。
 なお、護衛を伴わないRAFの重爆による攻撃が効果的な結果を挙げた背景には、ドイツが基本的に戦術空軍であり、ソ連軍としてはポーランドを軸とした自らの国境と前線近辺を重点的に守ればよいという防空部隊配置を、手薄となった柔らかい下腹部からRAFが突いたという事と、RAFが早期に大量の航空機を展開する努力を行った結果だった。
 ちなみに、この頃のRAFの主力爆撃機は、「Armstrong Whitworth A.W.38 Whitley」、「Short S.29 Stiring」そして後に最も有名な爆撃機となった「Avro Lancaster」だったが、当時数の上での主力は、「ホイットレー爆撃機」と「ショート スターリング爆撃機」であり、量産の始まったばかりで性能の高い「アブロ ランカスター爆撃機」の数はまだまだ少数でしかなかった。
 このため、穴埋めのための補強戦力として日本から大量に緊急輸入された「タイプ・ゼロ」こと「零式陸上攻撃機」がこの当時の主力の一翼を担う事になる。
 ランカスターやスターリングについては、英国を代表する程の機体なので今更説明の必要もないだろうから、ここでは少し日本からやってきた爆撃機について少し補足しておこう。
 「タイプ・ゼロ」こと「零式陸上攻撃機」は、太平洋戦争中、アメリカの「B-17 フライングフォートレス-C型」の先進性とその性能へのショックと、自らの「96式陸上攻撃機」の実戦での脆弱さを反面教師として戦争末期に「大東亜決戦機」として、異例の中島、三菱、川西の共同開発で開発の進められた日本初の4発重爆撃機で、B-17より一回り大きな機体(当時としては破格の自重20トン以上もあった)の主要部を12.7mm機銃に耐えられる構造とし(部分的には対20mm装甲)、これを当時最強クラスの三菱=ロールスロイス社製造、1750馬力空冷エンジン「火星21型」(これは1939年当時で41年型は1900馬力の「火星22型」で最高500k/hを突破)エンジン4基を搭載し、これに20mm機銃連装動力砲塔3基、12.7mm機銃4基という重武装を施した、B-17を凌駕する事をまず第一に考えられた1941年当時最強の重爆撃機だった。
 ただし、日本軍がこの機体を製造した目的は、敵地深く侵入しての戦略爆撃ではなく、遠距離からの集中飽和雷撃にその目的があり、このため積載量6.4トンを誇りながら、軽積載時の低空での運動性は並の双発爆撃機よりも高く、日本海軍の61cm大型魚雷(新開発の専用魚雷)を2本搭載するという空の化け物だった(だだし、うたい文句通りの性能を発揮したのはエンジンを強力なものに換装してから)。
 このため、高空での活動にはやや難点はあったし(能力はスターリング以上ランカスター以下)、大量の爆弾積載にも支障があった事から、英国輸出型は英国の発注を受けた日本の航空三社が、急遽仕様を変更した対地爆撃型をフル操業で製造し(零攻32型)、1940年暮れから日本海軍向けの生産を大幅に遅らせてまで供給した。
 これが、RAF内でランカスターが大量に配備されるようになる1942年中頃まで、総数約1,000機が納入されRAFの主力機の一つとなる(これは、日本海軍への納入機数よりも多い)。
 なお、派生型も多く生産され、日本海軍がこよなく愛する雷撃型はもちろん、低空での運動性の高さを利用した世界最強と言われる対地襲撃機型(機首と爆弾槽に20〜30mm砲を多数搭載したタイプで後にロケットランチャーなども装備した重ガンシップ)、強行偵察型など、重武装と機体の頑健さをさらに特化させた機体が英空軍でも多数運用されている。
 もっとも、米国ではこれを「Jフォートレス」と呼びB-17のコピーとして評価して、当時米国との経済関係が比較的良好だったドイツに日本に対抗するかのようにB-17の各種タイプを輸出、供与している。
 ちなみに、「零式陸上攻撃機」と共に英国に輸出された「99式戦闘機」は、遠距離侵攻能力と格闘戦能力の高さは評価されたが、機体防御力に難点があるとして結局RAF内ではあまり好まれず、ある程度の機体数が爆撃機護衛用として運用されたに止まっている。

 41年10月からのドイツ軍を中心とした反共連合の東欧での反抗は、英独空軍を中心とした3,000〜3,500機の作戦機による圧倒的制空権のもと継続され、規模から考えるとあまりにも脆弱だったソ連空軍の壊滅的打撃という条件の下地上戦が継続され、ドイツ軍の作戦開始11日目にしてそのピークを迎える事になる。
 ハンガリーがルーマニアから割譲した台地上の地形が広がる東欧の典型的な、それまで世界史上全く注目されたことのない場所でこの年最も激しい地上戦が繰り広げられた。
 「クルージュ戦車戦」と戦史上では名付けられている戦いの発起だ。
 この場所で独ソ軍が激しく激突したのは、ドイツ軍が鉄の包囲網を閉じようとし、反対にソ連軍が包囲されつつある友軍を何とか救援したために、双方が大兵力をそこに投入したのが原因だった。
 そして、そこでソ連軍は、戦争のルールが自分たちの考えている以上に変化している事を否応なしに気付かされる事になる。
 41年秋の、ドラキュラ伯爵の故郷トランシルヴァニアの空は、反共連合の航空機で溢れかえっていたからだ。
 英独の「Bf109」、「ハリケーン」、「スピットファイア」戦闘機や、「ハインケル He111」、「Ju87」、「Ju88」、「ホイットレー」、「ショート スターリング」爆撃機など当時の主力はもちろん、少数ながら新鋭機にあたる「フォッケウルフ Fw190」、「モスキート」、「アブロ ランカスター」なども姿を見せ始めており、これに英国が日本の「タイプ・ゼロ」を始めとする航空機を多数を緊急輸入の後すぐに戦場に投入し、ドイツもアメリカから供与や輸入された「P-39エアコブラ」、「P-40キティホーク」、「B-17フライング・フォートレス」、「B-25ミッチェル」、「A-20ハボック」などを同盟国などにさらにばらまいたりしつつも大量に使用して、短期間にさらなる航空優勢の獲得に努力した英独空軍が現出した現実だった。
 ちなみに、日米が欧州に供給した機体の大半は、本来なら今頃お互いに殴りかかっている予定だった機体ばかりであり、それが翼を並べて共通の敵を攻撃しているというのは、歴史が急速に流れを変えていた事を如実に表していると言えるだろう。

 そして、こうなってしまっては、ソ連陸軍は進撃や友軍救出どころではなくなり、東欧の天候が冬に入り長期間悪化するようになるまでの間、空からの脅威にひどく苦しめられ、これがソ連軍に高い授業料と共に大きな教訓を与える事なる。
 ただし、その授業料は東欧解放軍150万人とその後逐次投入された救援軍約60万人の内、戦死者・行方不明者65万人、捕虜72万人など負傷者を含めると損失八割以上という、とても現実のものとは思えないものとなった。
 当然、ソ連軍の南方戦線は一時的に崩壊し、年内に東欧全域を奪回されただけではなく、他方面からの増援により戦線を立て直すまでに、ルーマニアから恫喝により割譲したモルダビア地域までの奪回すら許していた。
 通常の国ならこれだけで自らの敗北を前提とした講和を考えなければならない程の致命的な大損害だったが、ソ連軍そのものはこの時点で約500万人の動員を完了し、さらに2年後には1500万人という未曾有の動員を行う事を計画しており、熟練兵員を失いソ連軍そのものが最低半年は大規模な攻勢能力を失ったにも関わらず、賢明なトハチェフスキーをしても極端に憂慮する損害だとは見ていなかった、と思われる。
 だが、反対に英独は大いに喜び、この勝利に浮かれたドイツは翌年春にソ連領内への大規模な侵攻を決定し、これに英国も同調、両国に率いられた反共連合軍は、ナポレオンと同じ道へと歩み始める事となる。

Phase 08:1942年3〜5月 バトル・オブ・ロシア