Phase 08:1942年3〜5月 バトル・オブ・ロシア

 1942年春、世界は反共のかけ声で統一されるようになっていた。
 理由は、ソ連が一時的に占領していた地域が奪回され、そこでの悪行が白日の下にさらされたからだった。
 これは、共産主義が伝統打破を目標とし、宗教も否定するイデオロギー集団であり、ソ連軍を構成する下級兵士の教育程度が低く国際法や戦時法を知るものが少ないというのが大きな原因だったと言われている。
 そして、それをドイツは主に政治的に徹底的に利用し、自らを民主主義、欧州の守護者とし、欧州のみならず世界はソヴィエト・ヴォルシェビキ打倒の為に一つにならなければならないと、宣伝した。
 そして一時的にソ連の支配下にあったルーマニア、ハンガリー、ブルガリアでは凄惨な虐殺が行われ、それが白日の下にさらされたことでドイツや英国の掲げた正義を誰も否定できなくなり、世界中では宣戦布告はともかく、共産主義の弾圧がより一層強くなる。
 これは、東洋では日本とアメリカが共同で中国共産党と対峙する中国国民党への支援と強くした事が顕著な例で、アメリカ国内でのホワイト・パージと呼ばれる一連の一斉摘発と政治的粛正・逮捕により象徴される事になる。日本の共産党勢力が完全に撲滅されたのもこの頃だ。
 もちろん、すでにソ連に宣戦布告しているドイツや英国はやる気満々で、同盟国を巻き込みつつソ連国境へと続々と軍事力を集中させていた。

 これに狼狽えたのは、それまでトハチェフスキー政権を支持していたフランス以下の欧州の一部の国々で、ソ連の行いに正義はないと言う民意を受けて時のフランス内閣は呆気なく崩壊し、それまでよりやや親英・親独的な政権が成立、ソ連に宣戦布告こそしなかったが、英独にそれまでよりもずっと協力的な態度を取るようになっていた。

 そして、世界で反共のかけ声が渦巻く中、1942年5月15日、ついに反共連合軍による対ソ侵攻作戦が発動される。
 攻勢に参加した国こそ、列強からはドイツと英国そしてイタリアぐらいで他は欧州の小国ばかりだったが、その戦線は北はフィンランドから南はバルト海に至る広大な地域が含まれ、これを北からフィンランド軍を中心とした各国連合軍(1個軍規模)、ドイツ北方軍集団、チェコ・オーストリア軍(1個軍規模)、ドイツ中央軍集団、東欧各国軍(1個軍規模)、イタリア東欧派遣軍(1個軍規模)、ドイツ南方軍集団、英第21軍集団(2個軍規模)、総数450万人という未曾有の数に達しており、さらにコーカサスからは英国を中心とした1個軍が現地ソ連軍の拘束を目的に展開し、さらには再動員をかけつつある日本軍が、満州、オホーツク海、日本海に大規模な兵力を展開し極東ソ連軍を一歩も動かさない態勢を敷いていた。
 そしてこれを、バルト海と地中海を越えて黒海に入った各国連合による圧倒的な海軍と、総数6,000機にまで増強された各国空軍が支援する事になっていた。
 各国の寄り合い所帯故に、この時はまだ総合的な軍司令部こそ設けられなかったため(特に英独の間)、陸軍の主力をドイツが、空はそれぞれが、海は英国が取り仕切るような態勢が何となく整えられていた事が、不測の事態が起こった時の懸念材料とされていたが、これだけの兵力を集中した侵攻各国はこの時自信に満ちあふれていた。

 しかし、作戦は陸で始まるよりも早く空から開始される事になる。
 英独を主力とする空軍による戦略爆撃と侵攻の前段階の航空撃滅戦がそれだ。
 この攻撃は、1941年秋の反撃作戦でのソ連軍への兵站線破壊のための爆撃の延長として継続され、1942年の新年に冬でもそれ程天候の悪くならない黒海沿岸都市に的を絞って本格的な戦略爆撃という形で開始された。
 そして、日に日に昼間の時間が長くなり、ロシアの大地を支配する冬将軍の勢いが衰えた2月末頃より本格的な戦略爆撃は開始され、それまでの天候不順の間に可能な限りの偵察活動を行い計画的に開始された。
 なおこの作戦はドイツでは「ワルキューレ」と命名され、参加した機体の数は最大2,500機にも及び、その8割が大型の戦略爆撃機で、電波兵器の劣るロシア空軍をあざ笑うかのごとくその過半は夜の闇を突いて行われ、ベラルーシ、ウクライナを中心にして継続的に行われた。
 なお、部隊の主力を占めたのは、積載量いずれも6トンを越える重爆撃機の「ショート スターリング」、「アブロ ランカスター」、「タイプ・ゼロ」、「B-17フライング・フォートレス」と、やや軽量級の「Ju88」など中型の爆撃機で、これを夜間戦闘機としてデビューを飾った「モスキート」など双発戦闘爆撃機が広範な支援を行った。
 爆撃は、2月末から以後二ヶ月は主に工業都市と鉱山そして油田が重点的に狙われ、足が長く防御力に自信のある「B-17」などは長駆スモレンスク、レニングラード、バクーにまで侵空し、象徴的ではあるが、英独共同で大規模なモスクワ爆撃すら行われた。
 しかし4月半ば以降は、爆撃対象が都市部から鉄道路線と氷の溶けた一級河川など交通網へと広げられ、雪解けにより泥の海となったロシアの大地での移動を徹底的に妨害する方向に広げられた。もちろんこれは、単にソ連経済の混乱を狙ったものではなく、地上侵攻までにできるだけソ連軍の有機的な兵力運用と支援態勢を阻止するためだ。
 そして5月8日以後からは、戦術爆撃機多数がこれに加わり、満を持して前線陣地の破壊を開始した。
 俗に言われる、「1,000機爆撃」が日常化したのは、正確にはこの頃からだ。

 そして、英国の新聞はこれを「バトル・オブ・ロシア」と呼び、あたかもこの空からの攻撃によりソ連が屈服するかのような報道すらされる事になる。
 もちろん、連合国の損害も小さくはなく、常軌を逸した数の高射兵器が投入されたモスクワ、レニングラード、大規模油田などの最重要地区への爆撃は、彼らの考えていた以上の損害が発生し、中高度より下での戦闘はソ連空軍機でも英独の新鋭機と対等に戦え、航空機を製造している各国にソ連空軍の迎撃が難しい成層圏を進撃可能な爆撃機の開発を決意すらさせる事にすらなる。
 だが、この3ヶ月続いた継続的な大規模爆撃は、ヨーロッパ・ロシア地域、特に東欧との国境近辺については徹底的に破壊しており、さらに初期の防衛体制が整わない間に行われた大都市無差別爆撃により欧州の玄関口とされた都市のインフラ、交通網は軒並み大きな被害を受け、地上侵攻を受けたわけでもないのにソ連指導部に工業施設などのウラル山脈疎開を決意・実行させる事になる。
 そして、この徹底した爆撃こそが反共連合軍の対ソ地上侵攻を数字の上でも確かなものとしたとされる。
 この時のドイツ、ヒトラー総統の「腐ったドア」演説は有名だろう。

 そして、春先にはドイツ、ゲーリング空軍大臣により「1週間でソ連の防空網を破壊して見せる」という大見得が切られ、戦術目標に対する爆撃の始まった5月8日には、本格的なソ連空軍破壊を目的とした、英独空軍の総力を結集した航空撃滅戦が開始され、地上侵攻の機運はいやが上にも高まる事になる。
 「アドラー・ターク」の始まりだ。
 1942年5月8日から対ソ地上侵攻の開始予定の5月15日の間に集められた英独など反共連合軍の空軍機の数は、日米さらにはフランスなどからすらかき集められた航空機約3,000機に上った。この数字は依然として戦略爆撃を継続している英独双方合計2,500機の長距離攻撃部隊を除いた数字だ。
 そして、うち三分の二が戦闘機で占められており、実戦により練度を上昇させた各国空軍は、初期の練度の低さをその後の消耗によりいまだそれ程進歩させていない、「数だけの烏合の衆」と言われた当時のソ連空軍へと殴りかかり、ロシア的には「魔女のほうきで掃いた」と表現できるほど欧州ロシア上空のソ連機を駆逐する事に成功する。
 1941年夏のドイツ空軍による奇襲攻撃から半年ほどで、ソ連空軍は一度徹底した再建を行わなくてはならない程のダメージを受けたのだ。
 これを如実に表すものとして、1940年当時12,000機と列強の全てに匹敵するほどの数を誇ったソ連空軍機の保有機数は、前線での実働機数の上で10分の1以下というレベルにまで低下すると言う統計数字がある。
 ただしこれは、極東方面で日本陸海軍の運用する、太平洋戦争で肥大化しその機種改変を急速に進める列強屈指の空軍力に対抗すべく頑張っている極東ソ連空軍部隊を除いての数字となるので、多少は割り引いて考える必要があるかも知れないし、モスクワなど奥地に陣取る防空専門部隊を除いての数字であり、さらにはロシアの大地の奥地で再編成、もしくは新装備受領の部隊も多数あるので一概に評価できないだろう。

 しかし、その後の事はともかく、この時の一連の航空撃滅戦の成功は、かなり内陸部であっても昼間においての制空権も強まり当然戦略爆撃の効率はあがり、英独両空軍は「B-17」や「タイプ・ゼロ」などの重防御の爆撃機による昼間都市爆撃すら開始するようになっていた。
 1942年5月、ヨーロッパ・ロシア地域の空は連合国のものとなっていたのだ。

 そして空での戦いがたけなわになろうと言う時、春の訪れで雪の女王が凍らせた海が溶けだすと、反共連合の海での活動も活発化しつつあった。
 これは、ソ連海軍、特にソ連海軍が重視している膨大な数に上る潜水艦戦力が海に出てしまわないうちにその活動を封じてしまおうという意図が強くあった。
 このため、海軍艦艇への攻撃よりもむしろ軍港そのものへの爆撃の強化と各海峡などの封鎖が重視される事になる。これは当時としては徹底したのもので、参戦していない日本に対しても、英国が日本近海にある全ての海峡の封鎖を強く要請し、当時の日本海軍が総力を挙げて日本近海の海峡封鎖とウラジオストク、ナホトカなどソ連海軍の有力軍港の事実上の海上封鎖を行う事となる。
 そして、そうした一連の海上封鎖と軍港爆撃の中にあって、アクティブな作戦が一度だけ行われる事になった。
 作戦は「ポーラスター」と命名され、英海軍の主要艦艇を動員して、何とソ連唯一の不凍港ムルマンスクを空襲と艦砲射撃で焼き払ってしまおうと言うのがその骨子だった。
 作戦には、当時英国が保有していた巡洋戦艦(高速戦艦)の過半が投入される事になり、作戦には英国ご自慢の8隻の巡洋戦艦、2隻の正規空母が従事した。
 なお、この作戦が実行された背景には、第一次世界大戦でのガリポリなどでの失敗よりも、太平洋戦争での日本海軍のアメリカ西海岸攻撃での限定的な成功が大いに参考とされ、この時代の大型戦艦の破壊力と非破壊性が注目された結果作戦実施へと運んだとされている。もっとも、この作戦はソ連相手の戦争では活躍の場所の少ない英海軍が、自らの活躍場を無理矢理作り出そうとしたからという説が強く、少なくとも感情面ではその通りだろうと言うのが現在では通説となっている。
 作戦そのものは英国人らしい堅実さと冒険性の双方に富んだもので、一連の航空撃滅戦でてんてこ舞いのソ連軍をさらに陽動作戦で欺瞞したうえで、基地航空隊からの支援と連動した爆撃すら組み合わせた複合的な作戦であり、最初に16インチ砲36門、15インチ砲32門による弾薬投射予定量3,000トンと言う後の戦術核にすら匹敵する圧倒的な艦砲射撃で大半の作戦目標を達成するとされたものの、今日言われる程危険度と賭博性は低いのではと思われる。

 事実ソマーヴィル提督率いる「殴り込み艦隊」によるムルマンスク奇襲攻撃は、ソ連が海にまともに目を向けていないと言う油断もあり見事なまでの成功を収め、単なる一作戦の成功と言うだけでなく、モスクワと共産主義者全体に対する痛烈なメッセージを叩きつけるという政治目的すら帯びた成功を達成している。
 もっともここでの成功が、その後反共連合の全海上打撃戦力を投入してのセヴァストポリ破壊へと英海軍を傾倒させるのだから、そう言う意味では成功しすぎたと言えるかもしれない。

Phase 09:1942年5月 「クルセイダー」