Phase 09:1942年5月 「クルセイダー」

 1942年5月15日午前3時15分、北欧から東欧に接する全てのソ連国境の反対側が火を噴いた。
 英独を中心とする反共連合軍(以後連合軍)による大規模対ソ攻勢、作戦名称「クルセイダー(十字軍)」の開始された瞬間だった。
 この時、前線で火を噴いた火砲の数は、75mm以上の野戦重砲に限っただけでも10,000門を越えており、この時欧州に存在した火砲の最低でも半数が半年間かけて備蓄した砲弾を放っていた事になるだろう。
 当然、ソ連赤軍側からの反撃も即座に開始されたが、すでに連合軍の半年にも及ぶ爆撃で大きくその力を減じられ、さらに前線には満足な補給もなされていない事から、かえって位置を暴露し連合軍の撃破効率を上げるだけという場所が続出する事になった。特に、対抗砲撃ではなく、位置露呈による爆撃被害は赤軍砲兵部隊に破滅的な効果を及ぼしていた。
 そして、徹底した砲爆撃の効果を確認するかのように、連合軍の各前線から威力偵察隊が先遣隊として前進を開始し、それを呼び水とするかのように、もしくは草原に炎が広がるかのように様々なエンブレムを持った現代の十字軍達が、共産主義という悪魔の支配するロシアの大地への足跡を記す事になる。

 「クルセイダー作戦」に参加した部隊の数は、欧州の総力を結集したと言ってよい兵力、6個軍集団相当、約210個師団、総数約450万人に達しており(完全な後方支援部隊除く)、対するソ連前線部隊の数は、6個軍集団相当、250個師団相当(臨時増設部隊多数含む)、500万人と見られていた。
 ただし、ソ連赤軍の場合は、「囚人大隊」、「労働者大隊」などに象徴されるように、元々兵士の訓練を受けていないような都市住民などを無理矢理動員した義勇兵的部隊を多数含む数であり、前年秋の大打撃から回復中の部隊や極東にある精鋭部隊、編成もしくは改変中の親衛隊主力など予備兵力と呼べる戦力が前線以外に多数あるとは言え、それらはそこには存在せず、数はともかくとても額面通りの戦力ではなかった。特に、補給の途絶から満足な装備の受領がなかった「部隊」も多数あり、小銃は二人に一人分で割り当てられた弾丸もごくわずかという夜盗以下の「装備」しかもたない、編成当初から半数の死傷を前提としたような「赤軍部隊」が第二線ではゴロゴロしている状態だった。
 この状況を歴史に照らして比較するなら、カエサルのローマ軍とガリア各部族との決戦時の兵力関係と少し似ているかも知れない。
 当然、そのような前線赤軍部隊の士気が高い道理がなく、祖国防衛戦争だと言う事が分かっていても、事実上の玉よけ部隊である事が分かれば、上官たちがいかにがなり立てようともどうにもならなかった。このため、赤軍ではせっかく政治将校を多数粛正・追放したにも関わらず、舌の根も乾かないうちに反対に大量の憲兵を動員する方向に向かい、あまつさえ「督戦部隊」という味方のすぐ後ろに砲弾・銃弾を浴びせかけるような部隊が大隊レベルで各軍団ごとに編成され、彼らの「支援」を受ける部隊が続出するという常軌を逸した事態を迎えるのに時間はかからなかった。
 ただし、本来の赤軍の中でも精鋭部隊の方は、爆撃を避けるため数百キロ後方待機し、工場から出てきたばかりの「T-34」、「カチューシャ」などの新装備を大量に受領し、可能な限り潤沢は補給を受け火砲も新型の122mmカノン砲などを多数装備した欧州一般の部隊よりも遙かに強力な部隊編成を維持しており、悪辣な資本主義の走狗達が、同志達の献身的な防戦により消耗し尽くし、ナポレオンの軍隊のようにロシアの大地で立ち往生する時を待ちかまえていた。

 対する連合軍だが、戦略の基本はソヴィエト・ヴォルシェヴィキの打倒と現政権を主導しているトハチェフスキー態勢の崩壊にあったため、最終的には機動戦力の半数がモスクワだけを指向するように配置についていたが、英国とドイツの政治対立を表すかのように、ウクライナ制圧では両軍による包囲殲滅を主眼するというような早くも混乱を予見させる大規模な「枝作戦」も用意されていた。
 そして、英国がガリポリの夢再びとばかりに、レニングラードを中心とした赤軍側の兵站線を海上からの砲撃、つまり戦艦による再度の殴り込みで破壊しようとし、ドイツ側は駆逐艦以上の艦艇は参加しないが、道先案内と海峡や運河を解放する方向で作戦の調整がなされた。もちろん、大部隊がレニングラードも目指すべくその時を待ちかまえていた。
 もっとも、ロシアを戦場とした戦いでは、あまりにも規模の大きな地域を舞台とするだけに、これ以上の選択肢はあまりなく、10月に全ての部隊の足を止めてしまう「泥将軍」が来るまでに、スモレンスクを攻略し越冬体制を整える事を最重要とした英国案と冬まで(秋が理想)にモスクワそのものを落とす事を大前提とするドイツ案の違いこそあったが、双方が提出した作戦案に大きな隔たりはなかった。

 また、兵器面だが、昨年秋の時点でソ連赤軍の新兵器についてはある程度露呈していたので、それらの兵器に対抗できるよう、この作戦までに出来る限りの新兵器開発が急がれた事から、前年に比べると英独双方とも新兵器の性能は格段の進歩を見せていた。
 これを簡単に見てみると、ドイツ軍の戦車の主力火砲が、短砲身の50mm、75mm砲が長砲身のものへと変わり(III-J、IV-F2など)、それまで戦車部隊の主力を占めていた小型の戦車の多くが大型砲を搭載した対戦車自走砲に改造されており、英国でも早々に2ポンド砲(40mm)から6ポンド(57mm)へと変化していた。
 また、ごく少数ではあるが88mm、17ポンドと言った強力な対戦車砲の実戦投入、開発すぐの実戦投入なども見られ、こういったところにも欧州勢力の陸軍大国と言うよりロシアそのものへの恐怖心を見る事ができる。
 これは、この時いまだに中立を維持していたフランス軍においても、50mm砲クラス搭載の戦車の量産配備が進み、それらの車両の他国への輸出が行われている事が事態を雄弁に物語っていると言えよう。
 なお、戦車についてもう少し見ておくと、ソ連国境を越えた戦車には欧州で生産されたものばかりでなく、海を越えてアメリカや日本で生産された戦車も多数含まれていた。
 アメリカからは、75mm砲を装備した「M3」「M4」中戦車が自国陸軍への配備を遅らせてまで欧州向けに生産・販売され、それまでの軍主力だった、つまり本来なら太平洋戦争で日本兵を蹂躙する予定だった「M3」軽戦車すら大量に販売、国によってはタダ同然の値段で供給していた。
 対する日本でも、旧式で大量に生産しすぎたため日本陸軍内でも戦車以外の用途に回されていた「タイプ95」、「タイプ97」の安価供給に始まり、「タイプ97R」(Rはリファインの頭文字より。日本では九七式改)と呼ばれる英国製6ポンド砲(57mm砲・ライセンス生産)を装備した戦車を英国とその同盟国に大量に安価販売、供与しており、さらに数年前から対米決戦戦車として開発の進んでいた「ハンドレッド(百式)」と呼ばれる前面60mmの装甲砲塔に75mm野砲を装備したT-34やM-4、IV号に匹敵する新型の中戦車を自前の大輸送船団で直接東欧に持ち込みアメリカに負けず劣らずの勢いで販売して回っていた。
 これらのため欧州では、日米の陸軍軍人達がセールスマンよろしく欧州各国の軍・政府施設をまわり、試供品とばかりに無償で中隊規模の数の戦車が欧州の中小の国々に渡されるという情景すら生み出し、それらの戦車を使った部隊がそのままソ連国境を越えるという事態も多発していた。また、ひどい国では、日米の戦車供給により初めて対戦車戦闘戦車を保有したという国も存在した。
 このような現象になったのは、欧州での戦車主生産国である英独が自国の生産・供給を優先するあまり、他国へは本当の旧式戦車か、リップサービス程度しか使える車両の供給をしなかったという現実があり、軽量級の戦車が主力のイタリアですら、日米の中戦車を使用するというおかしな状態になっていた。
 そして、日米の兵器が大量に欧州に入り込んだ事から、英独ほど工業力のない国々では、日米の兵器をそのまま使ったりそれを利用したキメラのような兵器が多数見受けられるようになる。
 この著名な例として、日本製の75mm野砲(90式野砲)を大量に買い付けたチェコのCKD(スコダ)社が、自社の「LT-38」の車体にその砲を搭載した猟兵戦車と言われる同時期のドイツが多用した対戦車自走砲を開発し、それをチェコスロヴァキア軍が大量に装備していた。これは、後にドイツとどちらが本家だという論争すらかわされ、兵器マニアにとっては興味深い問題も生みだしている。
 なお、日米が欧州で利の薄い兵器商売に熱心だったのは、何も共産主義憎しの感情ばかりでなく、先だっての戦争で作りすぎた兵器の大量一斉在庫処分先と戦争中に大拡張された工場のとりあえずのはけ口が欲しかったからに他ならないという事を追記しておかねばなるまい。
 ちなみに、工業国としては後進の日本の兵器を大量に買っていたのは、歴史的にロシア人と敵対していた国々や地域が多く、国民感情的に親日のフィンランドなどは地理的要因からドイツの兵器を大量に使っていたにも関わらず、それでもあえて大量の日本兵器を購入したりしている。そしてアメリカ製兵器を多用していたのは無尽蔵な数のトラックなど一般車両を除けば、ドイツなど枢軸国の国々ばかりで、英米の根深い対立をこういった所にも見ることができよう。
 そして、欧州各国の生産努力と、日米の販売合戦の結果、1942年初夏の時点でソ連国境を突破した戦車の数は、全欧州に存在する第一線級戦車(使い物にならない旧式戦車を除いた数字)の3分の2以上にあたる1万両近くに達していた。うちわけは、独:英:米:日:他=4:2:2:1:1程度になる。
 なお当然だが、日米の軍事顧問も大量に渡欧しており、このなかに冒頭のメージャー・シマダも在り、英国や東欧での観戦武官や戦車教官任務を行っている。

 兵器についての事が長くなったが戦況の方に戻そう。
 戦況そのものだが、連合軍の作戦開始当初は、1日以上続いた事前砲爆撃により魔女の箒で掃いたような状態となったソ連国境陣地を突破した連合軍が、制空権を奪われ身動きの出来ない赤軍を後目に、機甲部隊を先頭とした電撃戦を展開していた。
 北から順に、フィンランド方面軍と呼称されたフィンランド国境に存在した各国連合軍は、平押しのような状態でジワリジワリとレニングラードとムルマンスク目指して着実な歩みを続け、バルト海から各国海軍の支援を受けたドイツ北方軍集団がバルト三国を開放しつつ長駆レニングラードを目指して突進し、ドイツ中央軍集団を中心とした2個軍集団相当の大部隊が一直線にミンクス、スモレンスク、モスクワを目指し、その都度大包囲作戦をしつつ身動きできない赤軍の戦線をズタズタに切り裂き、英独軍を主力とした連合軍最精鋭軍団が、ロシアのパン籠にして産業中枢であるウクライナの解放作業を進めていた。
 おおよそではあるが、当時の連合軍側広報発表をそのまま引用・表現すると以上のような光景が続く事になった。つまり、連合軍の一方的な戦闘が展開されたと言うことになる。
 ソ連赤軍は、制空権を奪われた祖国での防衛戦争で、身動きもままならない状態で包囲されある部隊は自殺的突撃により消滅し、またある部隊は包囲された大都市ごと降伏していく事になる。
 ただしこの状況は、8月までと言う付帯条件付きだった。
 そう、8月に入ると連合軍の進撃速度は、目に見えて衰えを見せるようになる。
 それは、ウクライナの国境を越えてすぐ、神の威光が消し去られた筈の大地で古いロシア正教に則った出迎えを受けた将兵が感動に浸り、革命以来いまだ抵抗を続けていたコサックと勝利のウォッカを酌み交わしている南方戦線でこそ影響は低かったが、それ以外の戦線では顕著な例となりつつあった。
 連合軍は、秋に到来する「泥の海」の前にまず「人の海」に飲み込まれ、足を取られて進めなくなっていたのだ。
 もちろん、長大な遠征による補給線の延長による障害も大きなものだったし、奥地に進む程ソ連赤軍の反撃が激しくなっていた事もあったが、何よりソ連赤軍の戦略が功を奏し始めたのだ。いや、この場合、ロシア伝統の後退戦術に、またも欧州人達が捕らわれてしまったと表現すべきかもしれない。
 つまり、前線に配備された赤軍500万の大部隊を撃滅するため、連合軍は予定よりも多くの時間と労力と鉄と血を浪費し、ドイツ軍の予定なら8月にはクレムリン宮殿を眺められる所まで進撃している筈が、10月に入りようやくスモレンスクを包囲・陥落したばかりと言う状態だったと言う結果になっていたのだ。

 そして10月半ば、連合軍と言うより英国の当初作戦での越冬到達線である、レニングラード、スモレンスク、ハリコフという中核都市を結んだラインに到達しようとしてるその時、連合軍の前進は完全に停止する事になる。
 ついに、ロシアの守護神の先鋒「泥将軍」が到来したのだ。

Phase 10:1942年11月 冬将軍