Phase 10:1942年11月 冬将軍

 42年も10月に入る頃、ウィーンに開設されていた反共連合軍司令部は徐々に混乱しつつあった。
 既に、稚拙な平押し防戦で自らの大地を彼らの象徴色で染め上げるているソ連赤軍を、最低でも300万人以上を殲滅もしくは捕虜としたにも関わらず、いまだ作戦目標が達成できていないからだ。
 モスクワに近づくにつれて数が増えているとしか思えない「スターリンのオルガン」の爆発音の響く電話の向こうから、悲鳴のような後退要請が頻繁に届けられるようになった事でその混乱はより大きなものとなる。
 各前線はごく一部を除いて、等しくこれ以上の無理な前進は自殺行為であり、最低でも適当な所に拠点を築いて越冬態勢の準備をすべきで、突出した箇所からはできるなら戦線の整理も兼ねてある程度の後退を許可して欲しいと訴えかけていた。
 さらなる増援により500万人もの大部隊に膨れあがっていたソ連遠征軍は、この時大きな決断の時を迫られつつあったのだ。
 ナポレオンの轍を踏むのか、タタールのように慎重かつ大胆に行動するかの決断だ。
 連日、各国軍部、政府首脳クラスによる会談か重ねられたが、この時寄り合い所帯の弊害が一気に吹き出す事になる。
 各国とも面子と利己意識のため、本来正常に動くはずの組織が完全に動脈硬化状態となり、無為に日々だけが過ぎる事になったのだ。そして、そうしている間にもロシアの最も偉大な将軍「冬将軍」が到来しつつあった。
 幸いな事に、一昨年の1941年ほど「冬将軍」はご機嫌ではなかったが、だからといって笑って済ませられる事ではなかった。
 しかも、秋に入り雨期になると当然空模様も芳しくなくなり、秋分の日を過ぎれば日に日に昼間の時間は短くなり、半年前完全に握っていた筈の制空権こそ維持されていたが、その恩恵を地上軍が潤沢に受けられた状態は徐々に過去のものとなりつつあった。
 ただ、夜間無差別都市爆撃は、防戦するソ連空軍以上に英独空軍側の陣容が充実していたいし、その性格上夜が長ければむしろ利点も多く、無差別爆撃であるが故に天候もそれ程影響はなかったが、これが政府首脳クラスの判断を誤らせたという説もある。だが、共産主義打倒のためにはやはり地上侵攻による殲滅が必要であるから、冬の到来はロシア人による反撃の狼煙として、11月に入ると非常に深刻な事態と各国でも受け入れらるようになる。
 強行にモスクワ攻略を主張していたドイツ首脳部ですら、自軍の進撃速度の異常なまでの鈍化を前にその態度を軟化させる方向に向かいつつあった程だ。
 そして冬に入り、泥将軍が去り冬将軍の到来するわずかな間隙を利用した戦線整理を目的とした動きが連合軍の間で取られるようになる事も決定し、赤軍の反撃を誘発しないよう慎重な戦術的転進が開始される事が決定した。
 ただし、既にそれは遅かった。

 1942年11月19日に入ろうという時、大きな低気圧がレニングラードからスモレンスクを中心に襲ったその時、遂にトハチェフスキー率いる大陸軍の反撃が開始されたのだ。
 反撃の先陣をきったのは、それまでモスクワ近辺で温存されていた、トハチェフスキー子飼いの兵力である「レッド・ガーズ(赤色親衛隊)」2個軍相当と、10月に入り極東から緊急移動してきた精鋭第一軍と復讐に燃えるかつての東欧解放軍の残存部隊だった。
 もちろん、その後ろにはさらに巨大な軍事力が存在しており、全戦線で反撃に参加した赤軍の数は当時の総数に匹敵する700万人にも及んだと連合軍では推定している。
 極東軍の精鋭中の精鋭が存在している事を、矢面に立たされたドイツ軍などは参戦しなかった日本を罵ったりもしたが、気候的、戦略的にも予測できた事態であるし、押し寄せるT-34の群の前にはその罵りもただ空しいだけだった。

 連合軍前線将兵に、聖書に出てくる最終戦争を思わせたと言われる赤軍重砲部隊による弾幕を確認した連合軍各部隊は、既に越冬態勢を整えていた南方戦線の一部を除いて、一斉に司令部に後退を求め、一部では崩壊しつつある前線を収拾すべく命令を待たずに撤退を始める部隊が現れる中、歴史的にも判断に苦しむと言われる命令が、ドイツ軍総司令部から発せられる事になる。
 有名な、ヒトラー総統による「死守命令」だ。
 これにより、連合軍主力を構成していたドイツ軍は、一部命令を履行しなかった部隊を除いて戦術的イニシアチブを完全に失い、近くに存在していた東欧各国の部隊も戦線の維持ため止まらざるをえず、ドニエプル河を越えたウクライナ深部のハリコフ近辺でモンゴメリー参謀長の進言によりせっせと陣地構築に当たっていた英第21軍集団と、自らの最終駅とされたロストフ市を早々に諦め、それに結局つき合った形のドイツ南方軍集団以外の全てが、魔女の大釜の中に放り込まれる事になった。
 特にドイツ軍の無理な進撃でやや突出した形になっていたモスクワ=スモレンスク地域で、ソ連赤軍が大規模な二重包囲作戦を企てたため、そこを担当していたドイツ中央軍集団の防戦は無理な進撃による弱体化もあり戦闘は苦難を極め、機動戦力を多用した効果的な防戦により辛うじて軍主力が突破・包囲される事はなかったし、ヒトラー総統の死守命令をよく守った将兵の献身により赤軍の反撃はくい止められたが、この地域を中心として翌年3月までに連合軍は100万人近い兵力(死傷者合計)を失うこととなる。
 もちろん、戦線も大幅な後退を余儀なくされ、スモレンスク市までもが赤軍に奪回され、中央戦線が大きく後退した事から北部でもレニングラードを包囲していた部隊がバルト三国国境あたりまでの後退を余儀なくされ、全ての戦線の重圧が押し寄せた南方戦線での防戦では、この戦場こそがこの戦争の最初の山場だとすら言われる凄惨な状況が展開される事になる。

 結局、ウクライナでの連合軍の防戦は成功するが、この戦線が持ちこたえたのは、総合的な兵力差の問題と言うよりも間断ない補給態勢を主に英国が維持し続けたからだった。
 そして防戦では、何より豊富な補給物資の存在、一発でも多い重砲弾、一機でも多い航空機こそが重要と言う事を証明したのがこの戦線での回答だった。
 英国は、この夏の攻勢作戦において、ドイツ経由でトルコから了承を取り付けると、いち早くエーゲ海から黒海にかけての海上交通線を作り上げ、膨大な物資を陸路ではなく海路で早々に占領されたオデッサ市へと運び、戦艦などを中心とした有力な艦隊すら黒海に入れ、艦砲射撃などの支援をさせると共に、バクーなどコーカサスに対する空母艦載機による空襲すら行ってみせた。
 そして、11月末から始まったソ連の反撃の時も、いかなる損害にもめげずソ連空軍の激しい空襲をはね除け、黒海での海上補給線を維持し続け、ウクライナに存在する全ての連合軍将兵に十分な補給を届ける事に成功していた。
 もっとも、この時黒海を航行していた船舶のかなりが、日本から臨時に買い入れたり借り受けた、日本人達が太平洋での戦いの折りハワイ諸島の維持のために建造した膨大な数の輸送船舶たちだった。もちろん英国人は、輸送船と共に日本の軍港でメザシ状態で係留されていた護衛艦艇を大量に買い入れる事も忘れていなかった。
 そして、少なくともこの戦線においては、連合軍はと言うより英国はナポレオンのロシア遠征の教訓を忘れていなかったと言えるのかもしれない。

 一方、もくろみ通り伝統の後退戦術からの後手の一撃による大規模な反撃を成功させたソ連赤軍側だが、その成果は決して満足いくものではなかった。
 モスクワ前面のナチスドイツ軍を退けヨーロッパ・ロシアの中核都市の一つスモレンスクまでも奪回し、場所によっては300km以上も連合軍に後退を強要したにも関わらず、1943年2月に報告書を受け取ったトハチェフスキーと子飼いの将軍・参謀達の顔は暗いものとなった。
 その原因は、無理な反撃により連合軍を上回る150万人もの犠牲者・捕虜を出した事にあり、これが反撃成功を素直に喜べなくしてしまったのだ。
 特にこの犠牲は、犠牲を織り込んでいた数字よりはるかに大きいという点で、トハチェフスキー率いるソ連赤軍参謀本部をして大いなる憂慮とされていたと言われる。
 何しろこの冬の戦場で消耗された兵力は、ソ連赤軍の精鋭部隊であり屋台骨を支える熟練した兵士達で構成されていたからで、夏の間に国境近辺やベラルーシ、ウクライナで失われた300万人の兵力とは全く質の違った犠牲だったのだ。ここでの質的な面での損失は、前年晩秋に失った東欧解放軍の損害よりも大きいとすら言えるだろう。
 なお、結果として赤軍がこれほど大きな犠牲を払う事になったのは、死守命令により決死の反撃をしてくるドイツ軍に無理な攻撃を強行して消耗戦となった事と、赤軍の反撃後半にウクライナの戦場で、ほとんど予期できなかった英独軍砲兵部隊の形振り構わないオールファイアをまともに受けてしまったからだと言われている。
 自ら葬ったスターリンの大好きだった言葉、「鉄量の投入」とやらを連合軍にされてしまったのが赤軍の犠牲を大きくしたとするなら、実に世の中は皮肉に満ちていると言えるだろう。
 そして実際、戦闘が落ち着いてから連合軍が確認・集計した相手側の推定損害数もこの数字を表しており、晩冬から春にかけて赤軍の行動が非常に低調なものとなった事からも、ここでの犠牲はソ連側にとっても予想外だったと結論して問題ないだろう。
 なお、ソ連赤軍の特徴である縦割りの命令系統と通信機材の不足が、連合軍より大きな損害を出した事は間違いく、この点はソ連側も折り込み済みであり、実際50万人程度の犠牲は予測していたとも言われている。

 また、赤軍側の反撃の終末期にあたる1943年2月に入ってから、南方戦線では盤石となった冬の大地の上で反撃を見越して待ちかまえる英独の精鋭機甲部隊と赤軍精鋭部隊が激しくそして大規模な機動戦を何度も演じる事になり、この戦場に於いては攻撃側の赤軍が連合軍側の後手の一撃により反対に大規模な逆襲を受ける戦場も多く、包囲殲滅する筈が逆にされてしまった赤軍部隊が多かった事もこの赤軍側の損害を大きくした事は間違いないだろう。
 特に、英独ばかりでなく東欧の弱小国ですらこの戦場に「無敵」の筈のT-34と対等に戦える装甲戦闘車両を多数持ち込んでいた事は、赤軍側にとっては大きな誤算だったと見られている。つまり、赤軍は基本的に海洋国家である日米から欧州に大量に持ち込まれた車両を過小評価しており、またその数もはるかに小さく見ていたのではないだろうか。
 つまり、ソ連赤軍側が物量戦を仕掛けた筈が、同程度の敵に殴りかかった結果になり、それが攻者三倍の原則に従い精鋭部隊の消耗に繋がったと言いのがこの時の結果を生みだしたと結論できるだろう。
 その証拠に、格下である東欧各国の部隊に赤軍が敗退を喫するという場所も多く、相手の士気も挫く筈の戦場で、逆に相手の士気を上げてしまうというような光景も多々見られた。
 そして、ウクライナ東部では双方3,000両近い戦車が寒さにもめげず動き回っていた数字を見る事ができるが、反共連合軍の戦車がロシアの冬を何とか耐えきったのは、将兵達の忍耐と努力もさることながら、何より英国自らとオランダそしてアメリカが供給した優れた製油精製物のおかげだった。純度の高い石油精製物が、マイナス40度とされるロシアの冬を戦車達に耐えさせたのだ。
 ちなみに、後に欧州の守護神とすら言われた「VI号重戦車」、通称「ティーゲル」、ソ連赤軍からは「白い悪魔」と恐れられた自重55トンものドイツ軍の重戦車がデビューを果たしたのも、この1942年から43年にかけての冬の間の事になる。

Phase 11:1943年2〜5月 他方面・多方面