■Episode. 1:1950年6月25日 チャイナ・ウォー(中華動乱)
●Phase 1-1:開戦
1950年6月25日未明、紅い旗を振るう人民解放軍という名を持つ侵略者の群が、突如中華大陸最大の国家・中華民国の全国境線を突破した。 中華動乱の勃発だった。 この頃の私は、とある政府組織の下級官吏という位置よりもいくらかマシな、普通の大企業で言うところの係長補と言った位置にあった。当然、このような情報を真っ先に知ることができる組織と言えば限られている。 世界に冠たる帝國陸海軍、もしくは1948年にできたばかりの連合空軍、そして様々な意味で悪名高き日本帝國外務省だ。これにあと内閣府と宮内省の一部組織を足しても良いかも知れない。念のため言っておくが、この時点で国防省と言う組織はまだ存在していない。かわりに軍需庁という組織があり、三軍の兵器の生産計画と輸出調整を行っていたのがその萌芽として在っただけだ。 まあ、私の所属はこのような記録では半ばどうでもよい事なので、この歴史上の大事件について重点をおいて書くとしよう。 共産主義最大の国ソヴィエト連邦が実質的に滅びたために後ろ盾を失い、一時は日本帝国の支援を受けた中華民国に滅亡一歩手前まで追い込まれた彼ら、中華人民共和国はたった数年で侵略戦争を始められるまで回復していた。少なくとも、国家の政の一部に参加している私のような小役人からすればそうとしか思えない復調ぶりだった。 第二次世界大戦の終了と共に、英本土とその他一部を除く全ての欧州とロシアを支配下に置いた「ダス・ドリッテ・ライヒ」、ドイツ第三帝国のアジア重視外交が彼らを復活をさせたのだ。 1945年当時、全亜細亜にその影響力を行使するようになっていた日本帝国と対立している勢力を亜細亜で探していたドイツ人たちは、その中でも潜在的に最も大きな勢力を持つと見られた中華ソヴィエト(当時はまだこう呼ばれていた。)に対して、彼らの元宗主国と同様に自分たちに主旨替えするなら、彼らの望む版図を得るための手助けをしてもよいと打診し、そしてこれにイデオロギーの変節以外なら妥協できると中華ソヴィエトは返答した。 この頃のドイツの目的は、欧州の覇者となった事によりこの巨大な産業地帯の面倒を一人で見なければならず、そのため世界中に新たな市場を求めており、できればなるべく経費をかけずに、つまり直接の戦争をせずにそれを得ようとしていた。そして、その条件に最も合致したのが中華大陸であり、利用価値があるのが中華ソヴィエトだったと言えるだろう。そのため、結局彼らもイデオロギーの事は棚に上げ、ありとあらゆる支援を惜しまない事を告げ、国家社会主義ロシアを経由して様々なものを送りつけた。結局のところ、全てに経済原則が働いていたのだ。 ドイツの誇る国防軍の軍事顧問団、戦後で不要になりだぶついていた兵器、特に旧式兵器の数々。中には新鋭と言ってよい兵器もあった。さらに足りないと言うなら、金塊から麻薬、はては女性の世話までしていた。多少貧乏臭いところもあったが、まさにドイツ的完璧主義と国家社会主義的至れり尽くせりというヤツだ。 援助を受ける側の中華ソヴィエトも、彼らにとって唾棄すべき西欧の下品な文化的なもの以外の全てを無条件に受け入れ、次なる闘争の準備を着々と行った。そして、彼らが行動を開始するために必要だった時間が、約5年という時だったのだ。 もっとも1949年10月に、亡命先と言って良い中華大陸奥地の蘭州(ランチョウ)で中華人民共和国の建国を宣言し、付近一帯を制圧、ゲリラ活動にてその影響範囲を徐々に大きくし、建国宣言までに元清帝国の奥地に属する地域のかなりを支配するに至っていたのだ。まあ、一部活動家の言うところの、悪らつな国家社会主義と宗教すら否定する愚かな共産主義による悪夢と陰謀の実現と言うことになるのだろう。 ただ、私は全然否定する。それは、彼らがそれだけの努力をして、中華民国が努力を怠っただけだからだ。わが国もその頃東南アジアとインド地域にその努力の多くを傾注していたからと言って、その責から逃れることができないのも事実だが。
一方、攻撃を受ける側となった中華民国につていも、公平を期するため少し書き留めておこう。 中華民国は、1912年に孫文ら尊敬以外の感情を持ちえない優れた革命家により建国された訳だが、その後は帝国主義的残滓を残す世界情勢とあの大陸独特の政治風土にもてあそばれ、紆余曲折する事となった。 特にこれは、かの大英帝国などによる市場進出と日本と韓国の手による満州国の建国、毛沢東率いる中華ソヴィエトが勢力を大きくすることで混沌の度合いを強くするのだが、欧州列強をはじめアメリカそして日本も中華本土については経済植民地以上の感情を持たなかった事と彼ら自身の努力、そして何より国家規模のあまりの巨大さもありなんとか独立を保ち、第二次世界大戦の終る頃には中華民国が中華地域を代表する国家として世界からも認識されるに至っていた。 しかし、巨大な人口を抱える広大な地域を含むこの地域を、一つの統一国家としてまとめ上げるのは非常に難しく、しかも国内的にも、近隣列強の軍事力により切り離され旧来の王朝により体裁をまとめられた満州国、支那中央の混乱を利用した大国の陰謀と宗教により強い結束を見せ分離しつつあるチベット地域、イデオロギーを伴った農民への浸透工作で勢力を着実に広げる中華ソヴィエトという全く違った勢力との対立にも努力を傾けなければいけないという状態では、国家としての体裁を何とか維持するのが精いっぱいで、人口と巨大市場を武器として日本と対立しようにもおのずと限界があった。 これは、日本が(そして韓国とアメリカなどが)明に暗に中華地域の外への膨張を抑えようとしていた政策が強く影響していた事もあったが、やはり中華大陸に住む人々が「中華」という地域を一つの国家として認識するのが非常に困難だったからだろう。これは、御一新まもない日本ですら同様だったのだから、広大なあの地域のことを思うとその苦労たるや推し量ることすら難しいように思える。 そうして第二次世界大戦(と言うよりは第二次欧州大戦というべきか)後、その混沌とした中華地域を抱えつつ日米など資本主義国の市場として、そしてそうなることで援助を受け大国としての命脈を保っているというのが中華民国の現状だったように私には思えた。
さて、少し脱線しすぎたようなので、話しをもう一度最初に戻そう。 1950年の6月25日未明、クルップ製の重砲がそれまでの支那の戦乱の常識をはるかに上回る圧倒的な鉄量の投入を行ない、わずかなドイツ製旧式戦車と無尽蔵に思えるほど多数の歩兵が中華民国の国境線を突破した。 当然これは中華民国軍の反撃を行わせたが、全国境線を守らねばならない彼らに対して、先制奇襲攻撃により戦争のイニシアチブを握り、「コレ」という場所に兵力を集中できる人民解放軍の有利は覆しようがなく、その日のうちに大きく国境を食い破られる事になった。 このニュースは、全亜細亜だけでなく全世界を駆け巡る事になった。その日のうちにワシントンポストが朝刊の第一面で大きく伝えたのだから(時差の関係で彼らの朝刊に間に合っている)、この事件の衝撃度が分かろうと言うものだろう。もっとも、影で糸を引いていたとされたドイツは、いつもの宣伝外交はどこへやら、事実を端的にラジオで伝えただけで、少なくとも開戦当初は事実上の他人事を決め込んでいた。 そして、戦争当事者以外で一番の衝撃を受けたのがわが国だった。特に、事前の攻撃を察知できなかった軍と外務省の狼狽は、他人事として見た場合、本当に同情したくなるぐらい哀れであった。まあ、私もその混乱の一部にあったのだから、哀れんでもらわなくてはならない立場だったのだが。 日本帝国政府は、6月25日のその日に半ば形骸化しつつあった御前会議を緊急招集、また大東亜会議の緊急開催を各国に要請した。さらに、国際連盟にも提訴が行われ、中華民国に対する軍事援助、『国連軍』の派遣が強く要請される事となる。 また、多くの軍事顧問団を中華民国に派遣していた陸軍と連合空軍は、現地での情報収集にあたると共にいまだ近代的な軍隊を建設していない中華民国軍の事実上の作戦指導を始めた。ただし、彼らが行おうとしたのは兵力差から限定的な遅滞防御が精いっぱいで、とても反撃をできるような状態とは言えなかった。なぜなら、その頃日本帝国軍は、満州を除く中華大陸にまともな実戦部隊を置いていなかったからだ。滞在していた軍事顧問団も彼らの将校の軍事教練や兵器売買のためにいた訓練組織で、部隊とすら言えない形ばかりのものでしかなく、軍事に多少なりとも明るい私としては、この頃の軍事顧問団があの国で強い指導力を発揮し堅実な戦果を挙げたのが奇蹟だとすら思っている。 なお、その頃の同じ中華地域にある満州国は、日本からの手厚い援助で順調に発展しており、日本・韓国からの移民、中華民国からの移民受入れで人口も5000万人近くに達する準工業国とすら言えるほどの発展を見せていた。 また、日本帝国軍のコピーと言ってしまえば反論のしようもないのだが、満州国軍の方も国の規模に合せる形で整備され、日本の、そして大東亜共栄圏の北の防波堤として、ばく大な軍事援助のもと正規編成の16個師団を中核とする巨大な陸軍が整備されており、これに日本と韓国が1個軍(各2個師団規模)を駐留させていた。 つまり、40万人以上もの第一線級の陸軍が北の大地に駐留していたのだ。もちろん、主力はロシア国境に張付けられていたが、対蒙古防衛の必要もあった事から友好国である中華民国国境にも多数の部隊が存在し、さらに奥地の紅い中華にも圧力を加えていた。そしてこれこそが、満州国をこの戦争の蚊帳の外に置かせる最大の原因だろう。貧弱な中華民国軍はともかく、近代的な軍備を備えた国家を同時に相手に出来るだけの力は、当時の中華人民共和国にはどこにも存在しなかったからだ。 満州の事はとにかく、東京ではこれが平時の日本の政治組織の動きかと目を疑うほどのスピードで連日徹夜で協議が重ねられ、関係各省庁では休日返上で職員や軍人達が出勤、恐ろしいとすら言える速度で稟議書が回され、そこにハンコの絨毯爆撃を浴びせかけていた。私もそこに、イヤというほどハンコの爆撃を浴びせかけていたのは言うまでもない。 その日本人達の一部ある種こっけいな努力を現すかのように、6月27日には日本政府は軍の出動準備を始めており、その日に第二次世界大戦の間にジュネーブからニューヨークに疎開という形でなし崩しに移転していた国際連盟本部は、ドイツなど欧州諸国の会議ボイコットというアクシデントにも屈せず、中華民国に対する援助と中華人民共和国に対する軍事的制裁として国連軍の派遣を認める事となった。これは、英米など資本主義を標榜とする海洋国家の全てが、大陸国家の膨張を恐れたが故の素早い対応だったが、近隣国である日本の努力がなければこれだけ迅速に事が運ぶことはなかっただろう。
しかし、その日本人達の努力は、当面効果のないものだった。 それは人民解放軍の進撃があまりにも早く、それ以上に中華民国軍があまりにも呆気なく敗北し、開戦1ヵ月で黄河流域の広大な華北平原を明け渡してしまったからだ。 北京陥落。 この事実は、中華動乱勃発よりも大きな衝撃となって世界中を駆け巡った。これにつていは、アメリカ合衆国が国連軍であるなら大きな軍事力を参加させても良いと国連などに打診してきた事からも分かるだろう。
ではここで少し、この頃の中華大陸の国力や軍事力について少し整理しておこう。この頃中華大陸とその周辺地域にには、大きく次の政治勢力が存在していた。
・中華人民共和国(社会主義国(実体は独裁国)) ・中華民国(資本主義・共和国(実体は独裁国)) ・満州国(資本主義・立憲君主国)
これに、大東亜共栄圏に属する蒙古共和国、内蒙古共和国(自治区)、チベット自治法国(自治区)、大韓国がその周辺地域と言えるだろう。 次に勢力状態だが、土地面積的には、中華人民共和国:中華民国:満州国=3:6:1と中華民国が全体の半分を占め圧倒的に優勢だったが、経済力となるとこれを国内総生産で見ると1:5:4となり、影響下に置かれて約半世紀、建国から約20年の間日本帝国の事実上の経済植民地として開発に力が入れられていた満州国の経済力が非常に大きなものだった。だが、人口比率となると2:7:1と満州国が最低となる。ちなみにこの頃の中華地域の総人口は約5億人である。 そして戦争という事であるから軍事力も見てみるが、どの勢力も海軍はなきに等しく、空軍戦力もある程度整備されている満州国以外は似たり寄ったりで比較できるのが陸軍兵力だけなのだが、単なる兵員数なら3:6:1と人口比率とあまり変わらない数字になるが、日本など海外の軍事顧問団が割り出していた実戦力となると3:4:3と3つの勢力が均衡していたのが見て取れる。 これは、中華民国が自国の独自路線を重視しすぎたためと、亜細亜に強い影響力を持っていた日本とこの頃政治的に対立していた事、そして日本の努力が満州以外は中華大陸にあまり向いていなかった事が最大の原因で、中華人民共和国についてはドイツそしてロシアからの大量の武器供与で短期間で大幅な質の向上に成功しており、満州国は日本などからの援助と20年にわたる自助努力により、近代的な軍隊、特に防衛を主眼とした機械力を重視した陸軍の建設に成功していたことの何よりの証明だった。 これについては、私が出張中に知りあった満州に軍事顧問として入り込んでいた米国出身の退役将校が、「満州陸軍の精鋭部隊なら、ドイツの装甲師団とでも何とか対等に渡り合えるだろう。」という感想を話してくれた事からも、当時では世界各国の軍人の間では一般的な見解だったようだ。 日本陸軍の何番目かの弟子は、その地理的環境もあり気がついたら最も優れた後継者になっていたのだ。ただ、日本陸軍そのものがドイツ軍を師匠としているのだから、ドイツの孫弟子と言う事になるかもしれないが。 この事は、さらにもう一つ付け加えるなら、大連や奉天・新京などの巨大な軍需工場で日本設計の戦車が平然と製造されていた事からも伺い知ることができると思う。当然、現在でも満州国は世界有数の陸軍国であり、陸上兵器に関する大きな武器輸出国である事は良く知られている事だと思う。
しかし、中華人民共和国は満州国を今回相手にはしていなかった。これには、万里の長城より北は「北狄」、つまり蛮族の住む地であり中華ではなかったという伝統的な考えも影響していると思われる。 そして、中華大陸中央部での覇を唱えようと人民解放軍は、全面崩壊寸前の中華民国軍を追い軍を進め、開戦二ヵ月で首都南京を指呼に収めるところまで進撃していた。そしてこの時までに中華民国の三分の一、中華大陸の半分が人民解放軍の手に帰していた事になる。もし、世界が中華地域だけならこのまま彼らに勝利の女神はほほ笑み、何年か後には新たな中華統一帝国が誕生していただろう。 だが、世界はそれを望まなかった。特に亜細亜の盟主を自他共に認める日本帝国と、日本との経済的妥協により中華地域に大きな利権を持つようになっていたアメリカ合衆国が、自分たちと違ったイデオロギーを持つ勢力による中華統一を望まなかった。そして欧州の覇王は、全てに肩入れするほど黄色人の住む大陸に興味は持っていなかったようだ。
そして、人民解放軍が南京そして上海の橋頭堡を目指し、華北平原を踏破しようとしていた頃、中華大陸に隣接する弧状列島の各港では巨大な軍事力が動き出そうとしていた。