●Phase 1-2:反撃
人や国家には、戦争という「祭り」がある一定期間ごとに必要という事だろうか、中華動乱の勃発により日本のあらゆる者が久しぶりの戦争に沸いていた。少なくとも、私の目にはそう映った。 政府が音頭を取り、外務省が活発に各国との交渉を行い、三軍の動員が始まり、あらゆる産業が戦争景気の恩恵にあずかろうと工場の拡張などその準備を急速に進め、そしてあらゆる国民が無敵の皇軍が「国連軍」と言うなんだかよく分からないが正義と言う錦の御旗を立てて、同じく日本人には決して分からない主義主張を掲げる不気味な敵をやっつけるために支那大陸へと赴く事に熱狂していた。 日本中が、幼稚な正義感とロマンチズムでできる戦争に熱狂していたのだ。何と言っても、一般の日本人が傷つく可能性が極めて低いのが最高だった。これに関しては私も多いに賛同したい。これこそが、日本の求めていた総力戦の形なのかも知れない、とすら当時は思ったものだ。 もちろん、私の職場も活況を呈していた。しかも戦争の拡大と日本の介入決定にしたがい大幅に増員された。例えるなら、小さなビルの1フロアにも満たなかった職場が、戦争が終る頃には一つの中型ビル一つで収まらない程に巨大化していたほどだった。 このおかげで、私はロマンチズムよりも先に忙しさに追いかけれられ、何だなんだか分からないうちに戦争が終っていたというのが正直な感想だった。まあ、私の所属する組織が大きくなり、古株だった私も必然的に高い役職へと祭り上げられてしまい、それに付随する給与明細を見てようやくそれまで躊躇していた幼なじみとの結婚を決意できた事が、私にとってこの戦争が与えた最大の変化と恩恵だったと思う。そう思えば、私は中華人民共和国に大いに感謝しなくてはいけない訳だ。人生とはかくも皮肉に満ちていると言うことだろうか。
私の事はともかく続きを書こう。 中華動乱初年の8月、日本軍を主力とした国連軍は、陸軍の軍都廣島を軸に、多数の艦艇が再動員されつつある呉と佐世保、そして大神鎮守府に集結しつつあった。 日本軍がこれほど短期間に大兵力を集結できたのは、戦争という装置が技術の進歩に伴い大きく変化していたことを何よりも物語るものだと言えるだろう。 これが第一次世界大戦なら、動員戦力を揃えるだけでこの10倍の時間はかかっていたのだから、今回の戦争は本当に驚かされる事ばかりだ。私の知人の一人、戦史に詳しい親友と言ってよい彼はそう感想を漏らしていた。 さて、ここからは実際の中華動乱に日本がどう直接関ったかを書くべきなのだろうが、先にも書いたがこの頃私は非常に忙しく、実際の作戦レベルのことは仕事に関わること以外、新聞の三面記事以上の事は知る気にもなれなかったので、ここでは少し姑息だが信頼に値する資料を転載する事で、当時の日本軍とある作戦に参加した国連軍について見てみよう。また、当時の日本の現状をおさらいできれば、なお分かりやすいと思う。もちろん、これは文章をまとめる私にとってと言う事でだ。
まずは日本帝国の現状だが、当時と言うよりも現在でもほぼ同様の国土は、四つの島と中心としたその周辺地域を含む弧状列島を中心として、樺太島、千島列島、カムチャッカ半島先端部、台湾島、遼東半島先端部、南洋諸島のいくつかの島々から構成されている。また、国連委任統治という事で、南洋諸島全域がこれに含まれると言ってよいだろう。さらに、満州国も多数の日本からの移民もあり、実質的な支配権は日本の手にあると言ってもよい時代だったので、ここもまだ日本領と言えるかもしれない。 そして、本土人口が約8000万人、台湾、樺太などに約1000万、満州などの周辺地域に約1000万人の合計約1億人が日本帝國の総人口数という事になる(これには、日本国籍を持つ海外移民者も含まれる)。当時、人口1億も抱える国、特に先進国となると世界一の金満国家アメリカ、戦争で領土を肥大化させたドイツ、これに連邦全体で英国が含まれるぐらいで、日本帝国としての国内総生産は世界の二割にも達していた。これに満州や韓国などそれなりに発達した忠実な衛星国人口の一億人分ほどが純粋な経済圏として含まれるわけだから、その規模は合衆国一国のそれに匹敵する程だったと当時では見られていた。当時の日本は明治御一新以来の努力により遂に欧米を追い越した事で自信に満ちあふれていたのだ。だからこそ中華動乱であれ程積極的に動いたのだろう。まあ、実際はその八割程度だったのだが、それでも大きな国力と言える。第二次世界大戦にも参加せずこの15年間戦争を経験せずに金もうけと謀略にだけ専念していたため、この頃の日本はアメリカと同様まったくの金満国家になっていたのだ。 次に軍備だが、このころ日本軍は憲法の改定に伴い明治の頃から大きく変革されていました。最も大きな変化は陸軍と海軍から航空隊が分離統合され、「連合空軍」通称「空軍」という三つ目の組織が設立されていた事だろう。 この「連合空軍」は、海軍の対潜任務以外の基地航空隊と陸軍の直協部隊を除く全てを集中させ、防空、制空、戦略的攻撃をその任務とするもので、戦術レベルよりも戦略レベルでまとめあげられた航空戦力と言うことだろう。 また、陸軍が陸での防波堤の役割を、主に国家予算の都合から満州国などに移してしまった事で一部の兵力を除いては防衛的な陸軍へと変化しており、それに反比例するように海軍の海軍陸戦隊(NLF)が緊急展開部隊として大幅拡張されていた。さらに海軍は、対岸のロシアや中華地域への警戒とインド洋から中部太平洋全域をその作戦海域とした事で、海上護衛と沿岸警備それまで以上に重視せざるをえなくなり、必然的にその任務にあたる部隊は肥大化し、海軍から別の組織として「海上保安隊」として半ば独立した軍種になってもいた。もちろん、数個師団をかかえ専用の揚陸専門艦艇も多数揃えたりと巨大化した海軍陸戦隊も、海軍の一部隊というよりは別組織とすら言えるもの、アメリカの海兵隊と同質の組織へと変化しつつあった。これを乱暴かつ簡単に任務で分けると以下のようになる。
陸軍:本土防衛と長期海外駐留(満州のみ) 連合空軍:制空権獲得と戦略的攻撃 海軍(連合艦隊):海洋での全般的機動運用 海上保安隊:海上護衛・沿岸警備 海軍陸戦隊:緊急展開・一時的海外派兵
身もふたもない言い方だが、年々増加する軍への投資の大きさこのような組織の細分化と任務の特化を生みだしたのだそうだ。明治のように簡単に事が運ぶ時代ではなくなったと言うことだろう。 一人の男が右手を振り下ろすことで国家の命運を左右できた時代は、はるか昔に過ぎ去っていたのだ。
感傷はさておき続けよう。次は、各軍の詳細をダイジェスト(という表現でよいだろうか)で見ていきたいと思う。 まず、一番分かりやすい海軍だが、6月28日に久しぶりそれこそ太平洋戦争以来15年ぶりに「連合艦隊」が編成され、そこに過半の戦力が集中されていた。大きくは戦艦を中心とした第一艦隊、第二艦隊、空母を中心とした第一機動艦隊、第二機動艦隊、潜水艦隊という集団に分けられ、それぞれその任務に特化した艦艇が配備されていた。 第一、第二艦隊はこの頃はまだ主力と信じられていた戦艦を中心として編成されており、世界最強の〈大和級〉戦艦を筆頭に近代改装を行った『八八艦隊計画』の重厚な戦艦たちを中心として、それぞれ8隻の戦艦を中核とした強大な打撃艦隊だった。これだけの兵力を持っている国はすでに世界のどこを探しても存在せず、この事をもって帝国海軍は世界最強だとされ、海軍そのものもそのことに大きな誇りを抱いていたようだ。 次に二つの機動艦隊は、戦艦を中心とした編成から一転して航空母艦を中心に編成されていた。それぞれ4〜6隻の大型正規空母と2隻ずつの戦艦と装甲巡洋艦から編成され、こちらはそれぞれ400〜500機もの艦載機を抱えこれを攻撃力の中核としていた。この艦隊は日本にとっても半ば実験的な艦隊たちで、航空機と電探の発達で陳腐化した水雷戦隊戦力に代わる兵種として整備され、戦艦を中心とした艦隊と新たな兵種である空母を中心とした艦隊のどちらが今後の海軍を担うのかを試そうという意図があったとされている。このため、主力艦隊と同じ規模・数の艦隊が揃えられたというのが、現在の戦史研究家の通説となっている。多少余談だが、空母という新兵種を日本海軍が最初から集中運用しようとしたのは、まとめておく事での平時の予算の圧縮という側面があった事と帝国海軍が常に一種類の兵種を集中運用するという性癖が強く反映されたものだ。 また、潜水艦隊はその名の通り潜水艦とその母艦のみで構成された一大水中艦隊で、その規模もドイツのそれに次ぐだけの陣容を誇っていた。しかも、この時日本しか保有していない欧米ではSSNと呼ばれるNリアクター・タービンを装備した巡洋潜水艦を何隻か「秘密兵器」として保有しており、この戦いでは主にドイツやロシアの同業者が支那近海に来ることを警戒することになっていた。 なお海軍には、これらの艦隊以外に支那海からインド洋までを担当する第三艦隊、中部太平洋全般を担当する第四艦隊、北太平洋警備のための第五艦隊があり、それぞれ巡洋艦を中心とした偵察艦隊兼植民地警備艦隊のような編成で連合艦隊の末席を占めていた。 ただし、海軍はこれだけではなかった。先述した通り「海軍」の柱は「連合艦隊」以外にも海上護衛と沿岸警備をその任務とする「海上保安隊」と海外への緊急展開をその主任務とする「海軍陸戦隊」が存在した。 当然、海洋帝国たる日本のものであるだけに巨大な規模だった。 「海上保安隊」の方が、軽空母、旧式軽巡洋艦、護衛駆逐艦、海防艦、駆潜艇と兵種だけなら寂しいがその反面膨大な数を抱えており、数の上なら海軍の主力と言える規模を誇っていた。当然人員数も多く、専門部隊とされた事でそれまで問題視されていた人材面でも大きく改善されており、名実ともに海軍の本分とも言える海上護衛組織になりつつあった。 一方「海軍陸戦隊」の方だが、こちらはその任務が極めて攻撃的な事から、単なる海軍の歩兵というだけでなく、ミニ陸軍としての組織を持つばかりか、戦術航空機、揚陸専門艦艇など上陸作戦に直接関りのある全ての兵種を内包した巨大組織となっていた。 このため、陸上兵力規模こそ3個陸戦師団+1個特殊戦旅団と6万人程度の規模だったが、所属する全ての兵員を数え上げると連合艦隊よりも大所帯となっている。 ただし、あくまで海軍から枝分かれした組織であるだけに、海軍としての風土は強く保持されており、精神面などでアメリカの海兵隊のような独自性は薄いとされている。このため日本海軍陸戦隊と言えば、普段はスマートで冗談好きな紳士(後にプラス淑女)の集団だが、ひとたび戦闘となれば悪鬼のごとく戦うプロの陸戦集団と海外的にも評価されている。まあ確かに士官達はそうとも言えるかもしれない。 海軍としては、これ以外に根拠地部隊としての各鎮守府・軍港・拠点の小さな部隊があるだけで、これでほぼ全戦力となる。 そして、これら複数の巨大な組織を持つ日本帝国海軍は、海軍としてなら世界最大級の組織規模を持っていた。 この戦争時期の帝國海軍は、誰もが気付かぬまま絶頂期を迎えていたのだ。 次に陸軍だが、1946年に満州国軍が大幅増強されたのに比例して大幅な兵力削減が実施された事から、この頃は近衛師団1個と陸軍師団12個から構成されるまでに縮小されていた。 日露戦争以前に戻ったと言う事だ。 ただし、それまでに生産された多数の兵器がそれら数少ない師団に充当された事から、どの部隊も非常に重武装の戦闘集団に変化しており、1個師団同士であるならドイツの精鋭師団に匹敵する重装備を有していた。なお、一個師団の兵員数は機甲師団で約1.5万、機械化師団で2万人程度である。 さらに、近衛師団と北海道の第七師団は「重」と冠せられた機甲師団に改編されており、残りの10個も4個師団が機甲師団で他も全て機械化歩兵師団となっていた。そして唯一の空挺師団と嚮導旅団が習志野と富士山麓におかれ各方面軍に配備された重砲兵旅団、戦車旅団など各種支援部隊と共に存在している。 これらを含めれば、陸軍全体の兵員数は平時で約30万人程度でこれに直協・近距離偵察部隊などの航空部隊と後方援護組織を含めて約35万人で陸軍を構成していた。これは、「連合艦隊」、「海上保安隊」、「海軍陸戦隊」とそれぞれ10万の兵員を抱える海軍の総数よりも少ない数で(海軍は軍属も含めると総数約40万人に達する)、これは世界中で見ても覇権国家としては希有の例と見るべきだろう。 最後に連合空軍だが、陸軍と海軍の組織が一つになった事で多少の混乱をこのころはまだ引きずっていたが、規模的には約3000機の作戦機を抱える一大航空集団として機能していた。これは、ドイツ空軍の次に巨大な航空兵力集団だった。 組織的には、北部、中部、西部、南西部、満州の各方面軍と戦略打撃軍に分けられており、前者が防空・制空・戦術支援を目的とした小型機・中型機を主に運用しているのに対して、後者は連合空軍での分類で「重陸上攻撃機」とされるマスコミの言うところの「戦略爆撃機(ステラジー・ボマー)」を主な装備としており、この「戦略打撃軍」は英国での同種の組織が衰退した事で、当時は世界最強の戦略航空集団(ストライコム)だった。 これはその装備そのものと数からも伺い知る事ができる。 各方面軍は、平均約400機の機体を有していたが、この戦略打撃軍の所属機は800機にも達しており、その装備の約8割が重陸上攻撃機から構成されていた。装備の方も「連山」、「連山改」を中心として、これに全亜細亜をその翼下に収めている「富嶽」が連合空軍の目玉商品として存在していた。 その他連合空軍には、地上からの防空を担当する各地の高射旅団や電探網などの哨戒組織も内包しており、20万人にも及ぶ巨大組織だった。 これらの事から言えるのは、この当時の日本帝国軍は、総兵員数約100万人からなる巨大組織であり、手持ちの兵力だけで殴り合いをするという時代を象徴する軍組織を列強に先駆けて保持していた事だろう。これは明治末期から昭和初期の三倍にも達する兵員数と言えばある程度理解できるように思える。 そして、これだけ即応体制の整えられた軍隊を有しているのは、自国軍の規模と国家予算、政治的風土の関係から存在せず、当時の日本がすでに健全な財政に裏打ちされた強大な軍備を保持する事でプレゼンスを確保するという姿勢を確立していた何よりの証と見て取ることができると思う。 ただ、金持ちにとっての武器とは、いかつい顔の門番か、居間にでも飾って自分の権威の高さを見せつけるものだというものなのかもしれないが。
少し日本そのものについての説明が長くなったが、ここからはこれから発生する一つの作戦についてもう少し視点を落したいと思う。 1950年夏、中華地域の経済の中心を狙っている人民解放軍に対して、中華民国軍は何とか最終防衛線で踏みとどまっていたが、日々の新聞などを見ている世界中の一般市民からすれば、中華民国が華南に押し込まれてしまうのは時間の問題と見ていてもなんら不思議ではない状態だった。 これに対して、日本を中心とした国連軍は一つの投機的な作戦を実施することで、戦局を打開しようとした。 作戦の骨子は、華中地域に海軍陸戦隊による強襲上陸を行ない、その後に上陸する機甲部隊により敵主力の後方を遮断、爾後一気に包囲殲滅を行ない戦局をひっくり返そうというものだった。 一見、広大な中華大陸でこれだけの作戦を行うには、準備された兵力だけではとても足りないと思われていたが、基本的に人民解放軍が歩兵の群でしかなく機動性に乏しい事、敵の後方は完全にガラ空きである事、そしてなにより自らが局地的優勢を常に確保できるだけの兵力、機動力を保持している事が軍事的にこの作戦を可能にしたと言われている。もっとも、政治的に南京、上海を失うことはできないという中華民国と日本政府などの政治的意向が強くあったことは疑いないだろう。
そして、私はこの作戦の成功を作戦の翌日、9月の残暑厳しい勤め先で目にした日本放送協会のニュースを映し出すテレビジョンで知ることなった。これは、世界史的には「華中上陸作戦」と呼ばれるもので、国連軍が上陸した場所にそれ程著名な都市などが存在しない事から付けられた名称だった(多少無理をして「青島(チンタオ)上陸作戦」としたマスコミもあったが)。当然日本の大衆紙はこれをもじり危険な作戦だったという意味を込めて「火中上陸作戦」と言ったり、支那の内戦だという事で「家中上陸作戦」などと煽っていた。 その時私も、何とも危ない橋を渡ったものだなあなどと素人ながらに思っていたが、後にその作戦の成功率について著名な軍事研究者が成功率は30%もなかったと言っていたのを知り、ああやっぱりそうだったのだと内心少し得意になったものだ。 また、これほど低い作戦成功率で日本軍が作戦を決行したのは、日露戦争での第二師団の夜襲以来とすら言われている。私的には、日露戦争での日本海海戦や太平洋戦争での海での完全勝利の可能性の方がはるかに低いと思うのだが、この点はどうなのだろうか。 とにかく、その後日本軍を中心とする国連軍は、新聞に掲載される地図を塗り替えるのを目的とするかのように中華大陸で破竹の進撃を続け、長江下流域の要衝を防衛し敵主力を包囲殲滅するばかりか、秋、10月には北京すら解放するほどだった。 この時は私もテレビやラジオに向って職場仲間と共に喝采し、呑み屋で景気の良い事を口走っていたように思う。 しかし、10月半ば転機が訪れた。 それは、国連軍が米軍すら大軍を送り中華地域を統一する事を国連の意向とした頃に発生した。いや、こうした国際政治の変化がこの変化をもたらしたのだろう。
1950年10月半ば、国連軍は万里の長城を越え一部は満州国境へと向い、もう一部は蒙古国境に向った。もちろん、再編成された中華民国軍を含む国連軍主力は、華北平原を北京を機軸に旋回し中華大陸奥地、中華人民共和国を僭称する侵略者に対する次なる攻勢の準備に入っていた。 そして、その先遣部隊は驚くべきものを見ることになったのだ。 彼らが見たのは人民解放軍の紅旗ではなく、ロシアの三色旗の真ん中に双頭の鷲ではなくハーケンクロイツを描いた旗を持つロシア(国家社会主義)共和国連邦の義勇軍、その大軍の存在だった。 この瞬間、全ての国連軍総司令部は進撃の停止を命令し、それが達成不可能と分かると十分支援を与えられる場所までの後退を許可するまでそれ程時間はかからなかった。 人海戦術を得意とする筈の人民解放軍を差し置いての、ロシア義勇軍による物量戦術が戦局を再度逆転させてしまった。 一言で書けばそれだけの事だったが、11月にはロシア義勇軍の攻撃は激化し、空にはどう見てもドイツ軍の最新鋭機としか思えない戦闘機が舞い日本軍の新鋭噴進機と死闘を演じるようになっていた。報道では制空権に関する限り物量の差から国連軍優位とされていたが、兵員数にして3対1以上の差の陸上では、それなりに優秀な装備を有するロシア義勇軍の前には遅滞防御をしつつ後退する以外手はなく、翌年の1951年1月には国連軍は再び北京を奪われていた。 この時国連軍、もとい日本軍は追いつめられていたと言ってよいだろう。 確かに後方では日本が準戦時動員を命令し本土では大軍の編成が進められており、利権確保に本格的に乗り出したアメリカ軍の大船団がカリフォルニア各地の港を離れようとしていたが、現地はとてもそれだけは華中域を保持できないと悲鳴を連日後方の司令部に送っていた。私のいた部署にも漏れ聞こえていたぐらいだから、現地からすれば余程切実だったのだろう。
そうした日、私は上司に連れられある会議に一緒に出席するようにとのお達しを受けた。その会議は単に「会合」と呼ばれ、中華動乱に対して日本がどういう道に進むべきかを極秘裏に協議する場だった。いかにも、太平洋戦争後の日本らしいと言える組織だ。 いったいなんだろうとそこに赴くと、いかにも秘密会議を行いそうな場所とは似てもにつかない、近代的な装備の施されたそれこそアメリカのSF小説にでも出てきそうなその場所には、綺羅星の陸海空の将軍達(と言っても私服だが)と政府と関係各省庁の代表らしき集団が集まっていた。もちろんその会議に出る以上私の部署もそのどれかの一部であり、その部署の中で私はなぜか軍事に明るい人間と見られていたらしく、軍隊での副官のような仮の地位で上司に連れられて来たのだ。その事を周りの雰囲気から掴んでから私は内心冷や汗のかきどうしだったが、その会議の内容を聞くうちに違った種類の冷や汗へと変わっていった。 会議の内容が、国連軍の大規模な増援が支那大陸に投入される前にいかにして現状を維持するか、もしくは戦局を打開するかについての最終決定会議だったからだ。 そして会議の方向は、それまでに海軍と連合空軍の二つの意見に収束しつつあった。 海軍の主張は、動員により稼働1000機にまで達した空母機動部隊の全力と、後方で遊んでいるような状態の連合空軍の残存戦力を用いて、敵地上軍に対する大規模な阻止爆撃を行ない時間を稼ぐというしごくまっとうなもので、連合空軍のものは戦略打撃空軍の有する新型爆弾を敵の頭と後方に何発か叩きつけて一気に戦局をひっくり返そうという戦術的のみならず戦略的にも野心的なものだった。 もちろん新型爆弾と言うのは、今で言うところの「ニューク」、原子核分裂反応弾の初期型のものの事で、1948年に開発に成功した日本帝国はこれをすでに10数発保持していると言われていた。少なくとも当時の連合空軍の高級参謀の言葉からはそう受け取れた。 そして会議は結論のでないまま深夜まで続けられ、完全に意見が二つに分かれ千日手となっていた。まあ、休憩の間に知り合った同じ様な立場の者いわく、いつもの事らしい。また彼は当時の革新政党系の首相が優柔不断だったのがいけないのだと評していたが、私にとってはそれどころでない問題が、この会議の終盤襲いかかってくる事にる。 私の属する部署は、組織の特性上この時まだ中立を維持しており、それに気づいた老人に達しようという将軍からきつい言葉を上司が浴びせかけられる事となった。 そして上司は冒頭は教科書通りの返答を行なったが、その末尾は私にとんでもない災厄をふりかける事をしてくれたのだ。 彼は言った。 「我々は、ご存知の通り組織の性格上、どちらの意見に賛成するという事は非常に難しくあります。(中略)そこで、あくまで『私見』と言う形でならお答えする事ができると思います。なお、これについては、私の背後に控える彼がお答えします。」 彼とは私の事だったのだ。上司はこれあるを予期して、自分が責任を回避するために十字架やニンニクの代わりに私を連れてきたのだ。 何て事言いやがる、と内心罵りつつも私は起立して一歩前に進み出ると、 「では、僭越ではありますが、わたくしのあくまで『私見』に過ぎませんが、意見を述べさせていただきます」と型どおりの返事を行いさらに数歩前に進み、並み居る将軍大臣たちを前に稚拙な意見を開陳する事になった。 この時の私の気持ちは、早くこの責め苦から逃れたいという事とごくごく僅かに熱心に仕事をしていてよかったというものだ。客観的な評価ができるだけの能力と表面的な知識の蓄積は仕事のおかげだったのだから。
この時私は、癖の一つである小さく舌なめずりをして口を開いた。 さて軍事に本当は素人たるオレ様は何と答えてやろうか。
1. ニュークを使用して戦局を一気に打開すべきだ
2. 機動部隊の阻止攻撃こそ至上だ