Phase 11:1943年2〜5月 他方面・多方面

 1943年春を迎える頃、ロシア戦線は北はバルト三国の東端から始まり、スモレンスク西部からハリコフを経てアゾフ海に出て繋がっていて、その前線で反共連合軍約400万人、ソ連赤軍600万人がにらみ合っている状況に落ち着いていた。しかもその後方では、双方その半数の兵力が編成・再編成中だった。
 兵力量的には、ソ連軍が師団数で二倍、兵員数で1.5倍に達していたが、装備、練度、補給状況など総合的に判断するとむしろ連合軍が有利で、制空権など総合的な戦力で判断すると、少なくともソ連赤軍が本格的な反抗に出るのは不可能だった。そして反対に、兵力の局地的集中を行えば、連合軍側は再び攻勢に打って出る事も可能と判断されていた。
 ただし、3月に入り春の雪解けを迎えると再び5月ぐらいまでは「泥将軍」がロシアの大地では幅を利かせるため、少なくとも欧州各国の装備では満足な機動戦ができない事から、小競り合いは続いていたが強制的に停滞期を迎えていたのだ。

 では、その他の地域ではこの頃どのような動きが双方であったのだろうか。
 順に見ておこう。
 欧州ロシア正面の戦線以外でソ連が活動可能だったのは、コーカサスを橋頭堡とする中東地域、中央アジアから進出可能のペルシャ、アフガニスタン、そして長大な国境を接する中華地域と、極東唯一の大国日本と睨み合っている極東地域と言うことになる。
 まずは海洋戦線全般だが、海は全く以て反共連合軍のものだった。
 ソ連海軍は、1943年を迎えるまでに連合軍の攻撃を前にその過半が軍港で生涯を終えており、戦端の開かれていない極東でも、中立を維持している筈の日本がご自慢の世界最強の連合艦隊に事実上の海上封鎖を命令し、極東にあるおかげで何とか生き残っている艦艇も動きを封じられた状態だった。
 また、ソ連海軍ご自慢の物量を誇る潜水艦戦力も、白海、バルト海、黒海の主要な軍港が軒並み連合軍の攻撃を受けたため、そこで失われた艦も多く、また爆撃により支援施設の稼働率が低い状態では稼働艦艇数も知れており、さらに通商破壊や情報収集に出撃するわずかばかりの潜水艦も対潜水艦戦ノウハウを多く持つ英国海軍の前には「赤子の手を捻る」ような状態だった。
 さらに、亡きスターリンの肝入りで建設中だった巨大戦艦を中心とした艦艇の多数も、軍港と同様に爆撃により多くが破壊されており、ひどい場合は建造施設ごと連合軍の手に落ちてすらいた。
 こらの事から、連合軍は海でのこれ以上の兵力増強はほぼ必要ないとして、そのリソースを陸空軍の強化に振り向けるという、ソ連の初期の構想の全く逆の状態を生み出していた。
 いや、それ以上に悪いと言えた。何しろ、安全な海を通って参戦国でないアメリカと日本本土から欧州に向けて、無尽蔵とも言える物資が船で運び込まれていたからだ。

 次に各地の全般状況だが、欧州の近隣の中東はこの時まだ戦端そのものは開かれていなかった。
 連合軍のソ連本土侵攻によりソ連側に中東侵攻の余力がなくなってしまったと言ってしまえばそれまでだが、火種が全くないわけでもないし、双方の国境線に軍隊がいないわけでもなかった。
 同方面では、コーカサス戦線とペルシャ戦線が一応睨み合い状態で存在しており、互いに一個軍規模の司令部が開設され、10万単位の兵力が存在していた。
 ただ、どちらにとっても主戦線でない事から、二線級の部隊しかなかった。
 しかし、連合軍はカスピ海沿岸のバクー油田を、ソ連は中東ペルシャの石油を重視せざるを得ないので、同方面の防衛部隊には双方とも注意が払われ、防衛部隊ながら精鋭に近い兵力が多数展開していた。もっとも、防衛部隊であるだけにどちらも攻勢に転じれる兵力ではないため、この戦線ではどちらかの余力が発生しない限り戦端は開かれないだろうとどちらも認識していたと見られる。
 一方、全く戦端の開かれていない極東方面だが、英国と同盟関係にある日本帝国が、英国の債務猶予と戦時特需により少しずつ復活しつつあり、また先年の太平洋戦争で建設した巨大な軍備をある程度維持しているだけに、双方ともかなりの兵力を満州を中心に展開していた。
 これは、ソ連極東地域、満州国境線にいまだに50万もの赤軍が張り付いている事で象徴されており、彼らは参戦する気があるのかないのか分からない程の動員を行い、総数で倍近い兵力を抱える日本陸軍と不毛な睨み合いを続けていた。
 また、日本軍があまりにも強大な兵力を保有していることから、英国など欧州列強はこの地域の治安維持の大半を日本に委ねてしまっており、兵力の過半を自国周辺に戻してもいた。これこそが、この戦争で欧州が日本に求めた役割だった。
 そして、日本の軍事力の本当の意味での象徴たる連合艦隊は、この頃戦時に建造・改装の進んでいた艦艇の受け入れを行い、後生の目から見れば当時の英国以上に強大化していた。
 トハチェフスキー存命の間、ついに彼に日本との本格的戦争を行わせなかった存在と言われた、強大な空母機動部隊の存在が彼らの力の根元だった。
 この頃日本帝国海軍・連合艦隊は、戦艦14隻、大型空母12隻、軽空母8隻、重巡洋艦14隻、軽巡洋艦16隻を主力としており、これを第一〜第六の艦隊に分類し、大型空母3隻、軽空母2隻、戦艦2隻を中心とした艦隊を基本編成として、これを第一〜第四機動艦隊としローテーションを組んでプレゼンス活動に当たっており、さらに象徴的な意味での戦艦を中心とした第一艦隊を練習艦隊的な位置に置いていた。なお、第六艦隊はドイツなどにもある潜水艦ばかりをまとめ上げた潜水艦隊であり、日本海軍ご自慢の大型潜水艦の群を全太平洋に放ち、さらに遠隔地警備のための南遣艦隊、北遣艦隊、遣支艦隊などがあり、その巨大な組織の末端を占めていた。
 なお、この巨大な陣容は防衛海軍的性格の強くなった艦隊としては破格の巨大さであり、同様の性格の強いイタリア海軍の3倍以上、英国海軍に匹敵する戦力だった。しかも、一部英国に安価で売却されたが日本の各軍港でメザシ状態で保管されている外洋海軍用の膨大な数の護衛艦艇が現役復帰すれば、短期間でもとの外洋海軍への復帰が可能だった。
 もっとも、戦争そのものが陸戦中心となりすぎたため、英国がこれ程の戦力を持つ国家を抑止力としての効果を重視し、半ば放置するという状況を生み出し、この当時の強大な日本軍はソ連軍が余計な行動を起こさないよう警戒し、自らの圧倒的武力でけん制している中、ただただ練度の向上に時間と労力を費やす事になる。
 もっとも、英国は日本が表面上の軍事力はともかく、戦後を見越した世界戦略から考えるととても財政的に戦争に耐えられないと見ていたのがこの状態を作り出したと結論できるだろう。英国は、戦争を始める前から戦後を見据えていたのだ。
 なお、極東・アジア方面でのソ連にとっての唯一の明るい材料は、支那内戦において中国共産党が少しずつではあるが勢力を拡大している事ぐらいだった。

 次に政治的な状況だが、この当時の双方の陣営を構成する国家を採り上げる事で見ておこう。
 まず、世界の敵とされてしまったソヴィエト連邦だが、世界の敵であるだけに彼らと共に戦う国は少なく、彼らの傀儡国家であるモンゴルが同盟国として存在する程度だった。一時的にハンガリーなど東欧諸国を取り込んだりもしたが、それもすでに過去の話で、後の同盟者とな中国共産党やベトナムなどはまだその芽が出たばかりで、この時は一人孤独に世界と戦い続けていた。
 もっとも、味方はいないが敵対する事に積極的でない国々も多数あった。ここでの消極的な国というのは、南米など遠隔地の戦力として考えるのが難しい国々ではない。欧州諸国の事だ。まさに伝統の欧州情勢と言ってしまえばそれまでだが、フランスを中心として、ネーデルランド、ベルギー、ルクセンブルグ、デンマークが国家として列挙でき、中でも列強として大きな軍事力を持つとされるフランスとネーデルランドが参戦していない事は、反共連合にとっては大きな憂慮であった。
 もっとも、当の両国にとっては対ソ参戦よりもその主軸であるドイツに殊の外強い警戒感を持っており、またフランスは伝統の反英感情と対英外交の延長として現在の状況にあると見られていた。
 だが、これらの国々も全く何もしていないわけではなく、まわりに引きずられる形で膨張しつつある軍事力に関しては、もはやどの国も無視できないレベルになりつつあった。
 オランダは、念願の近代戦艦であるアムステルダムとロッテルダムの2隻の高速戦艦を浮かべ、これを共産主義拡大阻止のためと言う理由でインドネシアに駐留させると同時に、自国内の防衛体制の強化に勤しんでおり、列強5指に入るとされるフランスは、100万の常備陸軍と英独からは遅れていた空軍の近代化、海軍の増強に余念がなかった。
 これら二国の軍事力は、実際総力戦を戦っている英独などに比べると規模は小さなものだったが、ほぼ全力をソ連戦に投入している英独が不気味に感じるには十分な力であり、特にフランスが大規模な海軍の整備を継続している事は英独双方の海洋戦略の上では大きな憂慮だった。
 なお、この頃フランスは新鋭戦艦2隻、中型空母2隻を新たに戦力に加え、高速戦艦4隻、旧式戦艦6隻、空母3隻保有するまでの復調を見せており、戦時特需に後押しされた順調な財政状態の中で、2隻の建造中の戦艦の艤装を進めると共に、さらにさらに2隻の戦艦の建造が開始されつつあり、その上さらに強力な3隻の大型戦艦の建造計画が持ち上がりつつあった。
 これら全てが就役するには5年程度の歳月が必要と見られていたし、これでも依然列強4位の位置は変わらなかったが、全ての戦力がそろった時その力は英国海軍の半数に匹敵し、英国の戦略を大きく揺るがす存在になる事が予測され、英国にとって一日も早く自らの陣営に組み込む重要なファクターとなりつつあった。もちろんドイツの憂慮も大きく、苦しい戦況の中海軍の増強計画が持ち上がるなどの影響を及ぼしている。

 一方、世界から孤立した位置にあり、そこから欧州に向けて無尽蔵な物資を送り出しているアメリカ合衆国だが、事実上の日本に対する敗戦を原因とする国民心理的なモンロー主義回帰、その声に後押しされた民主党政権は、反共と言う意味では微妙な位置にあった。
 日本と同様に参戦していないが共産主義に対する封じ込めに参加している状態でもなく、またフランスのように完全な中立を保っているわけでもなかったからだ。世界からは、せっかくの金儲けのチャンスだけは逃さず、その結果として自由資本主義の天敵とすら言える政治勢力が減退するならそれに越したことはないという考えぐらいしか持っていないのだろうと見られていたのだ。
 もっとも、基本的には伝統の反英政策の影響により、英国主導の共産主義への戦いには参加出来ないと言うのが彼らの言い分であり、共産主義も嫌いだが英国率いる帝国主義に裏打ちされた資本主義も嫌いという、ソ連、反共連合共に頭を抱えたくなるような政治的状態を結局世界も受け入れ、彼を経済面や物質面では蚊帳の外とする事が暗黙の了解となっていた。
 ただし、アメリカは伝統的に親仏であり、また第一次世界大戦後は経済的にドイツとのつながりが強かったため、政治面ではフランスとの連携が若干見られ、武器・物資の輸出・供与についてはドイツを中心に膨大な取引が行われており、この状態こそが結果としてアメリカを蚊帳の外に置いたとも言える。
 つまり、反共連合は前大戦同様この戦争での物資補給先としての価値を認め、ソ連はイザという場合の講和斡旋相手として認識していたのだ。
 そして世界は、実質的に列強の半分だけが欧州ロシアで泥沼の戦いをし、その他が傍観者となる状態のまま、次なるラウンドへとなだれ込む事になる。

Phase 12:1943年5月 決戦? ウクライナ