Phase 12:1943年5月 決戦? ウクライナ

 ロシアの大地は再び春の訪れを告げようとしていた時、人間達の活動も活発化しつつあった。
 最初に行動を起こしたのはソ連赤軍で、反共連合が再びモスクワを目指して大規模な攻勢を開始する前に、その機先を制した戦略レベルでの大規模な予防攻勢を開始したのがそれだ。

 1943年5月当時、ロシア戦線はバルト三国の最北にあるエストニアから始まりその後北北東に戦線は流れスモレンスク前面を通過してハリコフ前面を経てアゾフ海へと繋がっており、そしてこの戦線に反共連合からは補充を含めて約430万人、ソ連赤軍が約590万人が張り付いていた。
 もちろんこれ以外にも、ソ連国境各地にそれぞれの防衛部隊が多数展開していたが、再編成中、編成中の部隊を除けば攻勢に転じれるだけの規模の大部隊を双方置いていたのはここだけだった。
 なお、この数字はそれまでに戦死・行方不明もしくは捕虜、重度の負傷で身障者となり戦線復帰ができなくなった両軍合計600万人以上の兵士の数を除いた数字だ。
 次に双方の戦略目的だが、ソ連側はウクライナの奪回、最低でもドニエプル河までの奪還を切に欲しており、同方面、つまりハリコフを指向して二個軍集団にあたる機動戦力が展開しつつあった。
 これに対して反共連合の戦略目標決定は、春を迎えるまで混乱していた。
 主にドイツ・英国間で意見が対立していたからだ。
 ドイツ首脳部はソ連の生命線であるバクー、コーカサス方面の攻略とソ連中央からの遮断を強く望み、これに対して英国は同方面の重要性を認めつつも、ウクライナ南東部では当面防衛を固め、あくまでウクライナ北東部から南回りでモスクワへの側面突破を目指すべきだとした。さらに、コーカサス方面に対しては、戦略爆撃の強化とコーカサスから各地に伸びる交通線全域に対する空爆で必要十分な目的は達成できるとしていた。自陣営に対する石油供給に関しても、英国自身による供給とオランダ、アメリカからの輸入で十分対応でき、わざわざバクー油田を奪取する必要性はないとドイツを説得する事に腐心する。
 そして4月に入りようやく英国の努力が実ったのか、総意としてモスクワを目標とした大規模な攻勢作戦で調整が取られた。
 ただし、ドイツ軍が軍の多くをハリコフ近辺にすでに移動しつつあった事から、正面からの電撃的進撃ではなく、英国案に近い大規模な迂回ルートからの側面攻撃を主軸としたモスクワ攻略作戦で方針が固まる向きを見せ、現実問題として時間的に英国もこれを受け入れ、総数三個軍集団(正面1、側面迂回2)にも及ぶ大戦力でのモスクワ攻略が目指される事になった。

 そして、連合軍が兵力の再配置を行っているさなか、その機先を制したソ連赤軍による大規模な攻勢が開始される。
 それは航空機1,200機、戦車3,000両以上、兵力150万人を基幹とする本格的な反抗だった。
 そしてその部隊は、ドイツ南方軍集団と英第21軍集団の精鋭部隊と真っ正面から激突する事となる。
 この結果をもたらしたのは、双方の戦略目標によるものだったが、反共連合の方針決定が遅かった為、ソ連赤軍情報網がこの動きをつかみ切れておらず、赤軍が反共連合の目標をコーカサスと見て、そちらに指向する兵力とそれ以外の部隊の分断を目的とした大規模な包囲作戦を計画・発起したのが原因と言う事になる。

 泥沼の殴り合いの始まりだった。
 既にロシアの大地の偉大な「泥将軍」は去ろうとしている時期だったが、人間同士の錯誤と思惑の交錯がこの混沌とした状況を作り出してしまったのだ。
 そして、双方にとっての本来の突破戦力もしくはとっておきの予備兵力である精鋭部隊どうしが、上層部の誰もが事態を把握するまでに本格的な激突をしてしまい、がっぷり四つに組んだため、双方とも戦術目標を可能な限り変更してこの地域での殴り合いを本格化させる事になる。
 なお、双方がここで引かなかった理由は、反共連合軍はここを失う事はドニエプル河までの撤退を意味しており、同時に最も前進している地域を放棄してはモスクワ攻略が遠くなるばかりでなく政治的にまずいからで、その反対に赤軍にとってはここで引いては、全ての中心である首都モスクワが危うくなるからに他ならなかった。
 そして、双方の攻勢主力部隊が激突した事で、双方の攻撃戦力が失われ、そのまま双方にとっての大規模な防衛戦闘へと事態が進行してしまった、と言うのがこの時点での結論だった。

 戦闘そのものは1943年5月7日にソ連赤軍の無尽蔵とも言える重砲段幕により開始され、最初に攻撃した側がソ連赤軍だった事もあり、当然だがイニシアチブは赤軍が握る事になる。
 この時ソ連赤軍は、ポポフ中将率いる4個戦車旅団と2個機械化狙撃師団を中核とした通称ポポフ戦車軍団を先鋒に配したジェーコブ上級大将貴下のレッド・ガーズを中心とした2個軍を突破戦力として、当時の赤軍機甲戦力の約60%を投入していた。
 対する反共連合軍は、先述したドイツ南方軍集団と英第21軍集団の精鋭部隊、合計17個の装甲師団、機械化師団、装甲擲弾兵師団、機械化歩兵師団を主軸とした英独各1個軍の装甲集団をハリコフ近辺に集結中で、その前面を従来の防衛部隊である砲兵重視の歩兵軍団が各2個軍ずつ配置に付いており、こちらも全装甲兵力の70%を同方面に集中しつつあった。
 つまり、双方合計で300万人以上の兵力と1万両以上の装甲戦闘車両がハリコフを中心とした狭い地域にひしめき合い、消耗戦を展開する事になる。
 そしてソ連軍の予期せぬ大攻勢を受けた時、ドイツ南方軍集団司令官・マンシュタイン上級大将と英第21軍集団司令官・モンゴメリー大将は、それぞれの攻撃を受けた位置の関係もあり、マンシュタインが早々に不利な陣地を明け渡し機動防御作戦を行おうとし、モンゴメリー大将は調整のとれた戦線を維持しつつ、重厚な縦深防御陣地で赤い波をくい止めようとした。
 ポポフ中将にとって幸運、もしくは不幸だったのは、彼の攻撃位置(ハリコフの南東部)が半ば偶然に英独軍の軍集団境界線にあったため、当初二人の優れた指揮官の防戦は相互干渉する形になり、反共連合にとって不本意な後退を強いる事になる。赤軍の作戦開始3日目の事だった。
 そして全戦線にわたり思いの外重厚な防衛戦にぶつかったことに焦っていた赤軍中央は、これを戦線突破の兆しと強引に判断し規定の方針通りジェーコブ大将に同突破地域を軸に左旋回を指示。これを受けてレッド・ガーズの主力は、一気に敵主力がいる筈のコーカサス方面とウクライナを遮断すべく、アゾフ海へ向けての緩やかな左旋回に入ろうとした。
 そして、そこで英軍の重厚な陣地、通称「モンティの宴会場(モンティ・ホール)」にぶつかる事になる。ソ連赤軍は、初期の混乱から立ち直った英軍2個軍の待ちかまえる対戦車陣地の群に真っ正面から突撃してしまったのだ。
 作戦開始から1週間が経過するとソ連軍の進撃は全く停止してしまい、初期の混乱から完全に立ち直った連合軍の制空権が有機的に機能し始めた事もあり、前進は自らの血の強要を意味する程になった。
 そして、赤軍が攻勢限界に達したことを確認した連合軍の反撃が開始される。
 5月16日の事だ。
 「ハリコフ突出部」と呼ばれた、赤軍が一時的に占拠した地域を迂回するように機動戦の雄マンシュタイン将軍の装甲部隊が、得意の迂回突破で敵主力の包囲殲滅を図ろうとしたのがそれに当たる。
 そして、これを見たソ連側も最後の予備兵力、本来なら最後の突破に使われる戦力の投入を即座に決定し、ここに「ハリコフ戦車戦」が開始される事になる。
 この戦いでは、合計3,500両もの戦車が狭い地域でぶつかり合い、結果として防戦側である連合軍の戦術的勝利により幕を閉じる事になる。
 地域は小さいが、ソ連軍お得意の後手からの一撃により、彼らはこの戦場で敗退を喫したのだ。

 なお、この戦場はまるで各国の戦車博覧会の様相を呈していた。
 この戦いに参加した国、部隊は、ソ連を筆頭にドイツ、イギリス、チェコスロヴァキア、イタリアにわたり、これにアメリカと日本の輸出車両が加わる事になる。そしてこれらの国々は、2年近い戦いの経験を反映した多数の新型車両をそれぞれの国が持ち込んでいた。
 まずはソ連邦だが、無敵の「T-34-76」、その改良発展型の「T-34-85」、そしてこの戦いを実質的なデビューとする「KV-13」重戦車シリーズの初期型「KV-13A」になる。ソ連新鋭戦車の特徴は、強力な85mm戦車砲を搭載している事にあり、この砲は命中率や発射速度はともかく当たれば当時のほとんどの戦車を撃破可能だった。
 対するドイツだが、こちらはソ連以上の車両を多数持ち込んでいた。
 「IV号H型戦車」、「V号戦車 Panther」、「VI号戦車 Tiger」と、「Elefant 重駆逐戦車」を筆頭とする多数の対戦車自走砲(駆逐戦車)の数々だ。
 これらの車両の特徴は、全て「T-34-76」を凌駕するために新開発もしくは改良されたもので、特に新規開発になる「V号」、「VI号」、「Elefant」の砲撃力、装甲は当時としては破格のものだった。
 特に55トンもの重量を誇る「白い悪魔」こと「VI号戦車」は、赤軍戦車兵の恐怖の的であり、この恐怖が「T-34-85」以降の戦車をソ連軍に開発させ、早くもこの戦いに緊急投入させたと言っても過言ではないだろう。
 そして、同戦車の威力を確認したドイツでも、全力を挙げて同種の車両の量産につとめ、本次大戦中は同車両の改良(エンジン、足回りなど)でしのいだが、最終的には「V号」の改良型にその力は引き継がれ「VIII号戦車 Panther-II」として結実し、本格的な主力戦車時代の幕を開ける事になる。
 一方、この2国より遅れた形になっていた英国も、42年の自軍車両の損害に青くなり、そこから何とか立ち直ろうとしていた。
 1942年夏から全力を挙げて開発、量産にこぎ着けた「巡航戦車Mk.VIII クロムウェル (A27M)」がその代表だろう。
 ソ連戦車が相手では、6ポンド砲でも日本から緊急輸入してみた75mm野砲(90式野砲)でも威力不足が明らかな事から、6ポンド砲を積むはずの車体に無理矢理改良を加えて17ポンド砲を搭載したのが同車両になる。
 ただし、砲威力は申し分ないものの(ソ連の85mm 砲以上でドイツの36/88mm砲以下の威力)、車体規模がこの砲を搭載するのに適していないため、必然的に装甲が薄く機動力もやや低いため、戦車と言うよりは対戦車自走砲の発展型である猟兵戦車、狙撃戦車としての性格が強いものとなっていた。
 もっとも英国では、砲火をまともに受ける歩兵戦車でなければ、戦車個体の威力そのものについてはあまり重視していない節があり、それよりも17ポンド砲の純粋な対戦車砲型とドイツで威力を発揮している88mm高射砲をライセンス生産で大量に生産し、現地に大量に持ち込んで対応していた。そしてこれこそが、ソ連軍の進撃を食い止めるのに大きな役割を果たし、これがソ連軍将兵をして彼らの手による対戦車砲トーチカの群「モンティ・ホール」を「戦車の墓場」と呼ばしめたのだ。
 そして、英国以上に戦車開発に苦しんでいるその他の国々は、日米からの輸入、供与かそれを利用しての自国改良でしのいでいた。
 この当時日米は、同程度の威力の75mm砲を装備した「M4A」シリーズと「百式」シリーズを欧州に自前の大船団で大量に持ち込んでおり、イタリア以下の国々の戦車の半数以上がどちらかで構成されていた。もちろん、イタリア、チェコ、ハンガリーなどの国々も戦車を製造する工業力は持っていたが、基礎工業力の限界から大型で重装甲の車体、鋳造砲塔や強力な対戦車砲を作る能力がないため、双方の国からもたらされた戦車砲を自国車両に搭載した対戦車自走砲や、輸入した車体を自国風に改良したものを使用するに留まっていた。
 なお、ドイツ陣営に元々属していたイタリアがドイツ共々アメリカ製の車両を多数装備しており、ややイギリス寄りだったチェコが日本製の車両をハリコフの戦場に持ち込んでいた。
 また、チェコは同時に自国のCKD社の新型も多数投入しており、ドイツの「V号戦車」と同じ主砲をライセンス生産した大型戦車(自重36トン)の「LK-42」を大隊規模で投入し、列強との戦車開発競争からまだ降りていない事を主張していた。
 そして、この戦場で最も異彩を放っていたのが、英国軍所属を示すマーキングと桜の紋章を描いた1個戦車旅団の存在だった。
 それは、形式上は英国東洋軍に属するという体裁を取っているだけで、その実質は日本人義勇兵が様々な思惑によりその部隊を構成しており、彼らが日本で量産が始まったばかりの最新鋭装備で固めていたからだ。
 この部隊で最も威力を発揮したのは、「サムライ・ソード」と後に有名になった海軍砲から転用した62口径100mm重対戦車砲と、通称「イエロー・タイガー」と呼ばれた「二式重戦車」と呼ばれる大型戦車の存在だった。
 この戦場でモンゴメリーの隠し球として投入された彼らは、ドイツ軍精鋭部隊並の威力を戦場で示し、日本陸軍兵の溜飲を下げさせると共に、その存在を大いに誇示する事になる。この影響は、1個旅団の義勇軍戦力ながら、日ソ間で大きな外交問題に発展した程だった。
 なお、「二式重戦車」は、太平洋戦争中にドイツから輸入の後ライセンス生産された36/88mm砲を装備した、ドイツの虎にとっての異形の兄弟とも言える存在で、最大100mmの傾斜装甲に覆われた45トンを越える自重を持ち、どちらかと言えば車高のやや低いパンターの外見に近く、そして両者の中間ぐらいの能力を持っていた。
 日本人達はこの東洋の虎を中心に200両近い装甲戦闘車両をこの戦場に送り込み、ハリコフ戦車戦の重大な局面で活躍し、その活躍が後に日本政府の懐にさらなる外貨をもたらす事になる。
 つまりこの部隊は、外聞や表面上の言い訳をはぎ取ってしまうと、日本にとっては兵器セールスのためのデモンストレーション部隊だったのだ。

 しかし、ハリコフでの戦闘は、日本政府の甘い思惑など吹き飛ばすかのような激しさで行われ、戦闘そのものは6月に入る頃、双方が再び最初の戦線に戻る事で終息する事になる。
 要するに、派手な戦闘が行われ膨大な犠牲が発生しただけで、何も変える事ができなかったのだ。
 双方にとって。
 しかも、この5月の戦いによりソ連、連合共に年内攻勢に出る力を失っており、この戦いに於いて絶対数において双方の犠牲が等しかったため、連合軍の受けた実質的なダメージは大きく、後の戦局に大きく響く事になる。
 有り体にいえば、この初夏の戦闘により反共連合軍は、長期間の攻勢能力を失ってしまった、この戦争の実質的な停滞化はこの時決定したとも言えるだろう。

Phase 13:1943年夏〜44年春 停滞