Phase 13:1943年夏〜44年春 停滞

 1943年、この年は空の年だった。
 世界最大規模の大戦車戦が行われたにも関わらず、多くの戦史家はそう結論付けている。
 これを端的に示す言葉として、「バトル・オブ・モスクワ」、「バトル・オブ・ウラル」、「バトル・オブ・バクー」という言葉がある。
 もちろん、この状態を生み出した原因は、5〜6月に行われた世界最大規模の地上戦が単なる消耗戦だった事の総決算として、陸ではソ連軍の相対的優位、空では連合軍の優位という状況が生まれた事が最大の要因だった。
 もちろん、外にも色々ある。
 連合軍が新型の爆撃機の開発、実戦投入に成功した事、ソ連空軍の態勢、特に防空態勢がようやく整いだした事、ソ連のウラル山脈での生産体制が本格化した事、戦略的な陸での敗北により連合軍の足並みに乱れが生じた事など、数え上げればキリがないのどある、と言われている。

 1943年夏当時、ソ連空軍は数の上での主力である「Lavochkin LaGG-3」、高々度迎撃専門となった「Mikoyan-Gurevich MiG-3」、低高度制空戦闘機として威力を発揮した「Yakovlev Yak-1」系列の機体が主力戦闘機を構成しており、そして中型攻撃機でもあった「Petlyakov Pe-2」の夜間戦闘機(重戦闘機)型が、押し寄せる反共連合の夜間爆撃機を迎え撃っていた。
 また、攻撃機は「シュツルモビク」、「Pe-2」を中核としつつも、連合国に対抗するため4発の大型爆撃機の「Petlyakov Pe-8」がやや低性能ながら頑張っていた。もっとも、当機が行った開戦当初のデモンストレーションのようなベルリン爆撃が、ヒトラー総統をして、米軍重爆撃機の大量購入を決意させたと言われている。
 そして反共連合は、これらの戦力を圧倒する数をロシアの空に放っていた。
 もともと英独の工業力がソ連を上回っている上に、米日から大量に輸入・供与されているだけにその機材は実に豊富で多彩だった。
 ドイツの「メッサーシミット」の代名詞とすら言える「Bf109」シリーズ、「フォッケウルフ」、英国の「スピットファイア」、「タイフーン」が戦闘機の中核となり、これにイタリアの「マッキ」シリーズ、ドイツ、イタリアなどがアメリカから輸入していた「P-38(ライトニング)」、そして英国が日本の川崎飛行機に発注して作らせた本次大戦最強をうたわれる高性能多用途戦闘機、日本採用名「3式戦闘機」こと「マスタング」が存在している。
 そして皮肉にもこの空での戦いでは、日米から輸入された機体こそがその真価を発揮する事になった。
 両者の共通の特徴は、欧州の機体にはない中型爆撃機並の航続距離の長さであり、この事から空での戦いがいかなるものであったかを端的に知る事が出来る。
 つまり、連合国の空の主役は、前線で赤い星を描いた車両を壊して回っていた軽量級の対地攻撃機ではなく、もちろん華やかな戦闘機でもなく、様々な重爆撃機だと言う事だ。

 この頃連合国戦略爆撃部隊は、2年前の状況からさらに強化されていた。
 英独伊などを合計すると、常時3,000機もの機体が稼働状態で用意されており、週に一度は1,000機爆撃をソ連のどこかの街に敢行していた。
 ドイツは、自国領のダンツィヒやポーランドのブレストを拠点とし、英国は黒海沿岸都市オデッサに本拠を構え、その他の国々が東欧のロシア国境近くに拠点を構築していた。
 また、それらを支援する長距離戦闘機の群は、ロシア領深く入った、リガ、ミンクス、キエフ、場合によってはドニエプル河に接するドニエックなどからすら飛び立ち、赤い星の防空戦闘機を駆逐すべく爆撃機と共にロシアの大地奥地に進撃する事になる。
 この年の戦略爆撃では、黒十字を描いた「ライトニング」と蛇の目を持つ「マスタング」が制空戦闘機として随伴するとしたが、これは一部の高速重爆を運用した昼間爆撃の場合であり、夜間爆撃では様々な大型機の独壇場だった。
 両軍とも標的指示機や夜間戦闘機となる「デ・ハビビラント・モスキート」、「Me410(ホルニッセ)」、「He219(ウーフー)」を露払いとする布陣だ。
 そして、重爆は連合国が最も国力を傾けて整備しているだけに重厚な布陣だった。
 英国の誇る「ランカスター」、ドイツ独自の重爆としてようやく量産化された「He177グライフ」、そしてアメリカの「B-17」、「B-24」、日本の「零式陸攻」、「三式重攻」となる。
 このうち日本の「零式陸攻」は既に供給も停止された事から数は減じており輸送や偵察任務などに回され、「ランカスター」、「グライフ」、「B-24」、「三式重攻」が、共にそれまでの機体よりも長い足を利用しての長距離進撃を行っていた。
 また、数の上では「ランカスター」、「B-17」が最も多く、1,000機爆撃の主力もこのどちらかとなっていた。
 ただ、昼間爆撃となると「ランカスター」、「B-24」、「グライフ」では防御力に不安があるため、何より防御力が自慢の「B-17」と日本航空業界が威信をかけて送り込んできた「三式重攻」が主力となっていた。
 もちろん、英国が「三式重攻」を使い、ドイツ、イタリアの機材は依然として「B-17」となる。
 そして、「三式重攻」は数はせいぜい一度に100機程度ながら、ソ連防空隊にとって最も脅威が高いと言われ、この機体に脅威を感じたアメリカが慌てて当時試作段階だった「B-29」の開発を促進させたという逸話がある。
 「三式重攻」は英国では日本から来たと言う事で日本で付けられた「連山」や「タイプ・スリー」とは呼ばれず、零式の後継機と言う意味か「メビウス」と呼ばれていた(「零式陸攻」はそのまま「ゼロ」)。
 カタログデータは、「22型」として43年初頭から量産されたそれは、全長約28m、全幅約41m、自重28トン以上という巨体に20mm連装動力砲塔4基、12.7mm機銃4丁という重武装を施し、この巨体を中島=ロールスロイス2550馬力の空冷エンジン4基の大パワーで最高時速が590km/hを実現しつつも、爆撃半径2,500km(軽過状態)を達成していた。
 ただし重武装、重装甲、高速発揮など機体そのものに対する高性能化がたたり、爆弾積載量は最大でも6.7トンと平凡な数字で、日本の技術的限界から与圧隔壁も限定的なものでしかなかった。
 このためか日本でもこの機体を、「重爆撃機」ではなく「重攻撃機」と呼称していた最大の理由だと言われている。
 もっとも、日本としてはこれを最初から輸出用として作った訳ではなく、1944〜5年の反共連合への参戦のための切り札として用意していた兵器の一つで、これを樺太や満州の中心部から長駆バイカル湖にまで送り込み、数が揃った後背からソ連に殴りかかるつもりだったと言う説があり、欧米に対する供与、輸出は問題点を全て洗い出すためのテストだったと言われている。当然だが、さすがに雷撃能力は与えられていない。
 そしてこの事は、欧州での数年にわたる戦いのおかげ、つまり英国の債務猶予と戦時特需により、5年にわたる太平洋戦争のダメージから日本の財政状態が復活しつつあると言う事で、これはアメリカも同様だった。こういう視点から見ると、第一次世界大戦と状況が少し似ていると言えよう。
 ちなみに、日本がこの頃参戦しなかったのは、参戦の条件を欧州戦線でのどこかの街の陥落としていたからだと言われている。

 ただし、反共連合による戦略爆撃は、彼らの予測していた程成功していなかったし、実際の損害も前線でむしろ増えているとしか思えないソ連赤軍を前にして疑問符を持つものだった。
 特にソ連の工業施設の多くが疎開して、1942年夏頃から本格稼働し始めていたウラル地帯に対する爆撃効果は芳しくなかった。距離の長さもありあまり大規模な爆撃をしかける事も出来ず(爆撃機は、航続距離の関係から満載状態で飛び立てない)、何より無尽蔵に林立しているソ連防空軍の高射砲の森とこの頃になると練度を上昇させ始めていた、ソ連空軍の防空戦闘機隊が、連合軍が送り込んできた様々な航空機の跳梁を阻んでいたからだ。
 この傾向は、ソ連の生命線の一つと言われたバクー油田地帯についても同様だった。バクーに関しては黒海に日米が保有するような巨大な空母機動部隊などで奇襲的に制空権を奪ってしまえばまた違った結果になったとも言われているが、英国海軍にはそれ程の威力はなく、それ以外の欧州列強では言わずもがなだった。
 ただし、近距離での戦略爆撃は大きな効果を挙げていた。
 特に、英独合計2,000機もの爆撃機を用意して2ヶ月間に合計6度も行われた、モスクワ近郊のツーラに対する飽和爆撃は、数十万人規模の街に1回あたり1,000トン以上、合計7,000トンもの爆弾の雨を見舞って、同市に対して破滅的な効果を及ぼしていた。
 また、モスクワそのものに対する爆撃は、異常なまでに防御された外郭陣地の存在と空軍親衛隊の鉄壁の守りの前に、嫌がらせ以上の効果はなかったが、その前面や周辺部の中規模都市に対しては、その反動もありそれ程強固に防衛されておらず、また連合軍の援護機の随伴も容易だった事も重なり、隔週でどこかの街に1,000機爆撃をしかけ、一つずつコンクリートと鉄骨で作られた巨大な悪魔のオブジェに作り替えていた。
 この最たる例が、ツーラに対する爆撃だったのだ。
 さらには、バルト海、黒海でいまだソ連の手にある街に対しては、英国海軍を主力とした大規模な艦隊が押し掛け、戦略艦砲射撃と言われるハンマーでクルミを叩き割るような攻撃を行っていた。
 特にこれは、1942年9月に行われた、セヴァストポリ要塞攻撃でそのピークを迎え、クリミア戦争の頃より海からの攻撃に対しては難攻不落を誇っていた同要塞を更地に変えてしまう程の戦力が投入される事になった。
 この部隊編成に当時の反共連合海軍の決意を見て取る事ができる。と言うよりも、かつてあれほど苦戦した同要塞に対する当てつけと見るべきかも知れない。
 この時、同要塞に対する砲撃には、英国海軍は当然として、イタリア海軍もその過半の艦艇を参加させており、象徴的な意味からドイツもわざわざバルト海から同方面に少なくない艦艇を派遣していた。
 戦艦の数で見ると、英国21隻、イタリア4隻、ドイツ2隻の合計27隻を中核としており、これを多数の空母を含む機動部隊が制空権獲得と落ち穂拾いのため展開しており、まさにこの当時の反共連合海軍の全力を投入した作戦と言えた。
 もちろん、地上からの侵攻作戦と丸々1個航空艦隊にも及ぶ空軍が別に存在している事も、単に一つの要塞を陥落させる事を考えると異常だった。
 結果は言うまでもなかった。最大45.7cm、最小で32cmの長大な射程距離を誇る近代的な艦砲を搭載した戦艦群に対して、いかに強固に防衛されていようとも、攻撃力はせいぜい30cmクラスの旧式戦艦の砲しか備えていないのだから、なぶり殺しに近いものでしかなかった。
 このため、かつてのクリミア戦争に対する当てつけと後世言われているのだ。もっとも、英国としては前大戦で失敗したガリポリ作戦に対する復讐戦なのかもしれない。
 かくして、図上演習並の機械的な艦砲射撃により、旧式戦艦の砲しか備えていないような要塞は呆気なく破壊され、連合軍の宣伝材料の一つを提供する事で幕を閉じる事になる。

 だが、このように反共連合にとってうまくいった作戦はそれ程多くはなく、戦争は相手がいるのだと前線全ての将兵に納得させていたが、戦略爆撃の表面的な成功は、連合各国首脳の判断を戦争に対する楽観へと傾けさせ、最後に大きなしっぺ返しを受ける事に繋がる。
 つまり、空での成功が陸での停滞から目を背けさせた、もしくはロシアに侵攻しいまだ押し続けているという事が、欧州人にロシア人がいかに粘り強いかを忘れさせてしまったと言えるだろう。

Phase 14:1944年6月 攻勢