Phase 16:1945年7月 参戦そして終幕

 1945年7月1日未明、欧州ではない北の大地で一斉に砲火が轟き、全天を鋼鉄の翼が覆い尽くした。
 『関特演』、日本軍がその軍事力がその総力を挙げて「関東軍特別大演習」と呼ばれる対ソ軍事侵攻を開始し、日本帝国が反共連合の一角として遂に戦争に参加した瞬間だった。

 この年の夏、連合軍が嫌がらせのような局地攻勢を断続的に続け、ソ連赤軍の行動を縛り、戦略爆撃を強化する戦争方針を打ち出してきた事に、ソ連首脳部はこの夏を楽観する。自らの作戦は図に当たり、連合軍の兵力は大きく消耗しているのだ、と。
 そして、だからこそこの時の日本軍の極東全域での全面攻勢は大きなショックを与えた。
 日本軍の極東での軍事行動の結果は劇的だった。
 赤軍が得意とする筈の物量戦を、日本軍に対して弱体化していた極東全軍相手にされた事がこの状況を作り出していた。
 この時日本軍は、159万人、43個師団の正面陸上兵力と5600両の装甲戦闘車両、陸海合計4,400機の航空機、200隻の艦艇を投入し、その兵力をオホーツク方面軍、満州総軍、ザバイカル総軍に分け、約7,000門の野戦重砲の一斉砲火によってソ連軍の横っ面に殴りかかった。
 これに対するソ連極東軍は、数の上では50万人規模を維持しており、現地にある700万人の住人から構成された義勇兵力を加味すれば、数の上では対抗可能な兵力が揃えられる事になっていた。
 だがその実勢は張り子の虎以下でしかなく、まともな機動戦力は皆無と言わないまでも少なく、航空機の数も日本軍の十分の一程度の数百機レベル、海軍に至ってはただただ標的になるのがその任務でしかない状況で、とてもではないがこの時の日本軍の攻勢を止める力は存在していなかった。
 しかも、この時日本軍は徹底した情報秘匿を行っており、欧州に大挙派遣されていた軍事顧問団の多く、特にソ連側に動きがマークされている人間にはあえて何も伝えないと言う徹底ぶりだった。このおかげで欧州に赴いていたメージャー・シマダは最後まで戦争の茅の外に置かれてしまったのだ。
 そしてこれが、圧倒的戦力を用いた事実上の奇襲攻撃を実現した。ウラジオストクを奇襲した空母艦載機の打電した「トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功セリ)」という電文は有名だろう。

 日本軍の攻撃は、計画的かつ執拗だった。
 徹底した砲爆撃と空挺部隊による後方攪乱、全通信帯に対する強力な電波妨害を行った後、開戦当日の午前6時05分、最初の部隊が国境を突破した。
 東から順にそれぞれを見てみよう。
 オホーツク方面軍は、オホーツク海沿岸のソ連領中小都市を海軍との協力で攻略するのがその任務だった。
 このため七個師団しか属していない方面軍ながら、陸軍唯一の着上陸師団と言える広島第五師団が同方面軍に属し、また海軍陸戦師団の過半もこちらに投入され、戦艦、空母を中核とした電撃的な戦力を背景にした侵攻で、短期間のうちにまともな抵抗力を持たない同地域の過半のソ連赤軍部隊を殲滅し、その後は自動車両を多数有する軽機械化(自動車化)師団による東シベリア全域に向けての進撃が開始された。
 なお、これに要した時間はわずか5日間で、ここからも日本軍の周到性を見る事ができる。
 一方、軍主力が投入された満州総軍も電撃的だった。
 4個方面軍、21個師団が投入された同戦線では、先述した海軍機動部隊によるウラジオストク奇襲攻撃に代表されるように航空先制奇襲により始められたが、ここで活躍したのはそれまでの日本軍からすれば異常な程投入された重砲戦力と各種自走砲部隊で、満州との長い国境線に沿って薄いながらも強固な陣地に籠もっているソ連軍国境警備隊の頭を上げさせない弾幕射撃を実施し、その間に重装甲で鎧った自走砲部隊がソ連軍砲火をものともせずに進出、その強力な貫通力を持つ速射砲で次々に陣地を撃破し部隊の突撃路を啓開、後続部隊の進撃を容易にしていた。
 ただし、同方面は自動車化された部隊こそそれなりの数がいたが、戦車師団や甲編成師団(機械化歩兵師団)はほとんど配備されておらず、ハバロフスクへの電撃的進撃をその任務とした第五方面軍もウスリー州を制圧する第三方面軍、アムール川流域を総なめする第二方面軍とも一部の特殊な師団、重要箇所を攻撃する空挺部隊とウラジオに強襲上陸を仕掛ける海軍陸戦隊以外は、どちらかと言えばそれまでの日本軍らしい進撃を継続していた。その証拠に、それぞれの部隊が最重要戦略目標を攻略するのにかかった時間が2週間程度となっており、これはこれで15年程前に立案された計画の数倍の速度だったが、ごく常識的な数字と日本軍側では判断していた。
 なお、極東主要地域の制圧を二週間と関東軍が考えていたのは、各都市の人民義勇兵達が動員され実働状態に入る時間をこの程度と考えており、ロシアの大地が人の海で埋まる前に全てを決してしまうとしたからだ。
 そして、全てが日本的でなかったのがザバイカル総軍の行動だった。
 同総軍は、中華民国・モンゴル国内のゲリラ組織との密約でモンゴル方面からバイカル湖目指して進軍する第12軍を隷下においた3個方面軍から構成されていたが、同総軍の各部隊が最低でも半自動車化されているのがその最大の特徴だった。
 同総軍は、戦車師団4個、甲師団(機械化歩兵師団)3個、乙師団(自動車化歩兵師団)4個、丙師団(半自動車化師団)2個、空挺師団2個、砲兵旅団(自走化)4個、独立戦車旅団6個から構成された日本最大規模の機械化戦闘集団で、旧敵アメリカからすら輸入された大量の自動車両で固められた精鋭部隊だった。
 また近衛総軍、第一軍など本来なら日本本土にいるはずの最精鋭部隊が属している事からもこれが見て取れる。そして、日本軍が投入した5600両の装甲戦闘車両のうちの3,000両が同総軍に属しており、その威力を増していた。
 同総軍は第六方面軍、第七方面軍、近衛総軍が北から順に並んでおり、第六が北を第七と近衛が南を大きく迂回する事で、第一攻略目標のチタ市を目指して突進していく。その進撃速度は最大1日80kmにも達し、最初のソ連軍部隊を圧倒的な鉄量の投入で撃破して後は、まるで無人の野を行くようなものでしかなく、1週間を待たずして同市を包囲するところまで進撃する。
 しかし同総軍の最終目標はバイカル湖畔にあるイルクーツク市であるため、そこで歩みを弛める事はなく、伸びる補給線を気にしながらも勢いを落とすことなく進撃を継続、日本軍の進撃に慌てたソ連欧州赤軍がシベリアにやってくる前に戦争を決してしまっていた。
 そして、欧州から慌てて転戦してきたソ連軍戦車部隊を迎え撃ったのは日本軍の巨大な装甲戦力で、ソ連軍ご自慢の「ミハエルII」すらドイツ軍のハトハトにやられた時のように易々と撃破された事で、さらなる動揺が広がっていた。
 もっとも、ソ連軍重戦車が手もなくやられてのも当たり前で、彼らの前に立ちはだかったのが欧州戦線でも活躍した「二式重戦車」に加えて、日本軍の主力戦車として登場した「四式戦車」の主砲はドイツ軍の守護神達が持つ56口径88mm砲もしくは英国の17ポンド砲のライセンス生産版で、精鋭部隊に少数だけ投入された「五式戦車」には海軍両用砲を改良した「サムライ・ソード」こと62口径100mm重対戦車砲を装備していたからだ。

 1945年8月2日、イルクーツクからさらに100km近く西に進んだ場所で日本軍の進撃はようやく鈍りを見せた。
 ただしこれは日本軍が、当初目的を達成し兵站態勢がそれ以上整わないから勝手に停止しただけで、ズタズタな状態のソ連赤軍・西シベリア軍集団がその力で押しとどめたワケではなかった(極東と東シベリア軍は司令部ごと壊滅していた。)。
 しかも、早くもチタ市を拠点として日本軍の長距離爆撃部隊が活動するようになっており、一ヶ月前まで安全圏だった筈のシベリアに安住の地はなくなっていた。
 当然このシベリアでの激変は、欧州戦線にも影響を与え、若干手薄になったソ連軍を見た反共連合軍側も一部戦力の引き抜きを行い次なる攻勢のための長期的な再編成に着手し、シベリアに削かれたソ連防空軍の弱体化によりさらに容易になった戦略爆撃を強化した。
 勝利は目前と思われた。
 遅くとも翌年春に開始される東西からの挟撃により、ソヴィエトという名の人工国家は消滅するものと世界の誰もが信じていた。

 しかし最後の変化が訪れる。
 1945年8月6日、東欧の中核都市の一つワルシャワが消滅。世界で初めて核分裂反応兵器が使われたのがその始まりだった。
 これがトハチェフスキーの最後の切り札だったのだ。
 本来なら彼らの次なる大攻勢の決定的瞬間に使う予定だったと思われるが、日本の予期せぬ全面参戦が彼をして禁断の兵器の使用を早めさせたのだ。

 当然、世界中が混乱に見舞われた。
 この日赤い星を描いた日本製の「三式重攻」、つまりソ連軍に捕獲された英国空軍が使っていた機体のうちの3機が、成層圏を西にひた進み、3機のうちの1機が急降下爆撃でもするかのような機動を見せ中の荷物を解放、彼らの遁走から数分後にワルシャワの街が地獄の業火に包まれる。
 同地が攻撃対象に選ばれたのは、ドイツ軍を中心とする連合軍の一大補給拠点だったからで、比較的後方にある事から防空体制も低いのがその理由だったと思われる。もちろんその先にベルリンがあるという、政治的ファクターが最も強いと考えられていた。
 本来なら、ソ連軍はベルリンを狙いたかったものと思われたが、ベルリンはソ連の報復を恐れるドイツ首脳部の方針で異常な程防空体制が固められており、それまでの偵察でソ連空軍が極めて危険と判断していたと見られ、折衷案として同都市が爆撃対象になったものと連合軍側は観測した。
 当然同都市中心部は消滅し、市全域も壊滅状態になり、死傷者の数は死者だけで20万人、重度の負傷者を含めると30万人に達していた。
 まさに地獄の現出だった。
 だが、連合軍側も負けてはいなかった。やり返したのは英国だった。
 この戦争において英国は、戦場から遠く離れていたため戦災が小さく、第一次世界大戦のようにシーレーンを脅かされる事もないので戦時経済は順調で、それ故存在する物的・資金的余裕を利用し、さらにソ連が連れ去らなかった世界中の科学者を結集し、同種の爆弾の開発に成功していだのだ。
 しかも、開発成功はソ連よりも早く、彼らの手による実験弾の炸裂こそが、同種の現象の最初のものになると見られている。
 そして1945年8月9日、蛇の目を描いた「三式重攻(メビウス)」の特殊改造型が3機単位でソ連領空を多数侵入、そしてオデッサから飛び立った編隊の一つがボルガ川の中核都市ボルゴグラードに「ファットマン」と名付けられたソ連軍と同様の物体を投下、ワルシャワと同様の地獄を現出させた。
 なお、ソ連が最初に使用した爆弾はウラニュウム爆弾で、英国が使用したのがプルトニウム爆弾なため、形状などはかなりの違いを見せているが、技術程度は同じで、ここからソ連の先端科学技術レベルが決して低くない事を見て取れる。

 そしてこの二度の宇宙レベルでの瞬きと同じ現象が、この戦争の決め手となった。
 英国が自らの戦略的優位を確認し、同時にソ連側の新型兵器開発におびえた、また逆にソ連も英国同様に考えた結果、双方合意による一時的な休戦が成立し、その後の停戦が確定する事になる。
 休戦の調停は、それまで戦争で何の役割も果たしていなかったフランスがあたった。英国とソ連がそれぞれのルートからこれを持ちかけたのがその理由だった。そして、国際政治にうまく顔を出す機会をうかがっていたフランス政府は表面上は渋々、内心は狂喜乱舞しながらこれを受け入れ、中立国として双方の政府を駆け回り、自らの都のそば、ベルサイユに再び集まるよう準備していった。
 そして、理性としてそろそろ今回の戦争を手打ちにしなければならないと考えていたそれぞれの列強は、フランス人が用意した交渉のテーブルに付く意志を固め、休戦が決まるが早いかパリに続々と集まっていく。
 もちろん、休戦になかなか賛同しなかった国もあった。基本的に独裁国家、全体主義国家であるドイツと、参戦間もなく元気いっぱいの日本だった。
 だが、英ソが持つ究極の破壊兵器の脅威が双方の国にも交渉のテーブルに付く事を強要した。
 何度目かのベルサイユ講和会議の始まりだった。
 休戦は1945年8月15日を以て発効し、早くも翌月の9月には一歩進んだ停戦会議が始まる事になる。

 会議には、英国、ドイツ、ソ連と東欧・北欧各国、そして最後に参戦した日本が当事者として席を占め、オブザーバーとしてホスト役のフランスなど欧州の中立国が名を連ね、またも対岸の傍観者として過ごしたアメリカも代表を送り込み、第一次世界大戦の時の同地での会議並に大規模なものとなった。ただし、アメリカは完全なオブザーバー席しか与えられず、欧州諸国の彼らに対する態度をこれ以上ないぐらい示していた。
 このため、日本は英国のごり押しにより参戦したとは言え、戦争に直接首を突っ込んでよかったと、会議参加者の述懐に書かせる事になる。

 会議は当然と言うべきか紛糾した。
 ソ連と英国、ドイツ、日本が会議を主導する事になったが、それぞれの意見がほとんどかみ合わず、完全な敗者を出さない近代戦争の講和会議の難しさを際だたせた。いや、人類初のイデオロギー戦争だったからこそ、話がまとまらなかったとも言えるだろう。
 問題だったのは、列強がソ連領内に踏み込んだ形で前線が固定されていた事に端を発する領土問題だった。
 なお、各国が賠償交渉だけは出さなかったのは、誰も負けたと考えておらず相手が受け入れるわけないと全ての者が考えていたからだ。これは、トハチェフスキー率いるソ連ですら例外ではなかった。
 だがソ連代表団は、ソ連各地に踏み込んでいる各国の即時撤退だけは断固として主張し、もしこれが受け入れらないのなら戦争再開も辞さないと各国を事実上脅した。もちろん、この脅しにはワルシャワを焼き払った新型爆弾の存在が大きくものを言った。
 だが、英国はそれ以上に譲歩しなかった。彼らもソ連と同種の新兵器を持っており、英国は同盟国を含めた各種生産指数などの資料から自らの方が戦争遂行能力で優位に立っている事を確信しているだけに、ソ連以上に強気だった。そう、英国は容易く次の原爆を用意できるが、ソ連はそうでない事を知っていたのだ。
 そして英国が出した主な条件は、ソ連が併合した領土の返還とバルト三国の独立復帰、ウクライナ、ベラルーシの新規独立だった。そして、ソ連はウクライナ、ベラルーシの独立だけは譲れないとして対立した。
 一方、最後に参戦した日本は、占領した広大な地域の過半からの早期撤退をちらつかせながらも、自らに優位な新たな国境線の確定や租借地の譲渡をソ連に迫り、日本の手により旧政権(共産党政権)が倒されたモンゴルの帰属問題ともどもソ連と対立した。もちろん日本は英国追従も忘れていないので、この点でもソ連と意見は食い違っていた。ここから、日本政府としてはソ連に何が出来るかを示した事で、外交的にはおおむね満足していたと見るべきだろう。もしくは、占領したシベリア地域を国力的に維持できないことを、日本政府がよく理解していた証と取れるかも知れない。
 一番大きな問題だったのは、ドイツの出した条件だった。
 英国同様、領土返還、バルト三国の独立復帰、ウクライナ、ベラルーシの新規独立に加えて、カザフやコーカサス地域の独立などかつてのブレスト=リトフスク条約以上の講和条件、つまり実質的なソ連邦の解体をソ連代表に叩きつけ、連合国側の混乱を大きくしていたのだ。
 そしてこれこそが、ナチスドイツの政治スローガンいやヒトラーのドグマであるオストラントの「生存権」獲得のための最重要項目だけに、ドイツ人達は絶対に譲ろうとしなかった。
 そして、この混沌とした会議で大きな役割を果たしたのが、意外にもホスト国のフランスだった。
 結局どの列強も、自らの主張が全て通らない事など最初から知っており、フランス人達がタイミング良く出した折衷案を叩き台として、各国が譲歩を見せ講和が成立したからだ。そう言う意味では、実に欧州的な政治的決着と見るべきだろう。
 もちろん、どの国もおとなしく引き下がったわけではなく、ほとんどの国は暗い気持ちを胸にしまいつつ次の機会を待つ事とし、この時の中途半端な状態が次なる戦争を呼び込んだと言われる結果を残した。

 1946年3月に出されたベルサイユ講和条約では、各国はソ連領内から全て引き上げる代わりに、バルト三国の独立復帰が認められ、あわせてソ連が割譲した北欧、東欧各国の領土全てが返還され、ウクライナ、ベラルーシは半年以内の各国の撤退と共にソ連邦に復帰するが、共産主義によらない民主主義国家として独立するという内容になった。これに関しては、1943年の時点で両地域に新たな政府が出来ており、住民投票でもソ連邦の復帰を望まなかった事が大きかった。そしてこの後ウクライナは、東欧問題をさらに大きくする行動に出る事になる。
 だが、これがこの二度目の欧州での戦乱、欧州列強と共産主義国家との戦争の結末とされた。
 そしてどちらかと言えば欧州的な戦争の決着の付け方だったため、この時の講和会議を20世紀のウィーン会議と呼ぶ事もある。
 もちろん、ドイツの出した案の殆どは受け入れられる事はなく、この後ドイツは全力を挙げて新型爆弾とその運搬手段の開発に狂奔させる事になり、東欧地域でソ連とさらなる対立の道を歩む事になり、日本やフランスなど同種の兵器を保持しない列強にまで、この開発を促進させたのは言うまでもない。
 ただし、この時の講和会議は、二つの大きな問題を発生させた。
 一つは、戦後、日本政府の決断した講和案を不服とした陸軍を中心とした軍部がクーデターを断行し、日本帝国、満州国の中心部は一時無政府状態になり、結果として形式上の日本国元首の言葉が混乱を鎮圧する事につながるが、これにより日本では軍事独裁色の強い政権が以後続き、アジアに大きな混乱をもたらす事になる。
 もう一つは、アメリカ合衆国だ。
 戦中アメリカは大量の外債を買い込み、反共連合国各国に多大な援助をした事に、特に市民層は満足したのだが、欧州列強の手により戦争の茅の外に置かれたアメリカが完全に拗ねてしまい、これが急速な反動を生み、アメリカ共産党の成立と台頭、これに対抗するアメリカ国家社会主義党と台頭、そしてそれまでの民主党と共和党を交えた壮絶な選挙戦の末、ついには1949年のアメリカ大統領選挙で、初の共産党出身大統領を選出させるに至り、共産主義が本格的に世界に広がる暗黒の時代を迎える事になる。

Fin. or to be next?・・・「Missions. 2:第三次世界大戦?」


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