■Episode. 6:1995年4月 セカンド・ウォー(中華統一戦争)
●Phase 6-1:原因そして発端
二十世紀の中華大陸は、歴史好きなどからは第二次春秋戦国時代と呼ばれるほど混沌と戦乱に満ちあふれていた。 同じく二十世紀、外でばかり戦争をしていた日本よりも激しい歴史と言えるだろう。 1901年の「義和団の乱」を狼煙として、外国同士が勝手に戦争をした1904〜5年の「日露戦争」を挟み1911年の「辛亥革命」を実質的なスタートに、その後1928年までに蒋介石が中華民国の実質的権力を握るまで、共産中華の勃興、「満州事変」を発端とする満州地域の分離独立、1930年代に本格化した「国共内戦」、1949年の中華人民共和国成立、1950年から3年間続いた「中華動乱」、1969年の国共の間での大規模国境紛争、1972年の「中越紛争」そしてその後慢性的に続く二つの中華の国境紛争、対立状態どころか戦争していない時期は存在しないとすら言えるほど泥沼の状態だった。 そしてこれに中華大陸や中華地域と言われる地域全体での国家分立が混乱に拍車をかけていた。 1995年当時、中華地域には中華民国を最大勢力に、中華人民共和国、満州国、モンゴル共和国、内蒙古共和国、チベット自治国が乱立していた。これに従来から従属地域と支那中央の人々が一方的に思っている印度支那のベトナム連邦共和国、朝鮮半島の大韓国が存在し、中華地域からの完全な脱却を目指して明に暗にこの地域に介入していた。そして、アジアの盟主たる日本帝国と金もうけだけが目的のアメリカ合衆国、古くから足を突っ込んでいる英連合王国、第二次大戦以後中華地域を何かと敵視しているインド共和国、いまだ形だけは共産中華を支援しているロシアなどの大国がこの地域にさまざまな形で関り、問題をより複雑にしていた。 また悪いことに世界中の列強は、それぞれがこの中華大陸に対して最低限必要とされる緩衝地帯(バッファー・ゾーン)を確保していたため、両国がニュークを保有するまで、二つの中華国家の事を単なる兵器市場か人口だけは多い経済植民地としか見ておらず、潜在的に世界最大級の大国となりうるこの地域の政治的安定をむしろ望まなかった。しかも最も近在の日本帝国に至っては、海洋プレゼンス以外のこの地域の監視と軍事圧力を自らの衛星国にほぼ任せてすらいた。 要するに、誰もが『人の海』と呼ばれるこの地域に、政治的に深く関ることをひどく嫌っていたのだ。
では、中華動乱以後の中華大陸情勢について、ここで少し見ておこう。 世界史レベルでの出来事や国家に関しては非常に大まかで申し訳ないが上記した通りであるが、この地域は様々な政体を持つ国家が存在した事が混沌の度合いを大きくしていた事が分かっていただけたと思う。念のためもう一度おさらいしておくと、大きく共産主義(共産中華)、国家社会主義(モンゴルただし有名無実化し事実上体制は崩壊)とそれ以外の勢力とされる自由資本主義である。しかも、最大勢力である筈の自由主義陣営側の二つの国家の仲が良好でないという混乱ぶりだ。 この中で最も対立していたのは中華民国と中華人民共和国で、同時に国土面積と人口的には中華地域での最大勢力だった。そしてこの二つの国に対抗できる国家は中華地域では満州国と、外様のベトナム、韓国となる。 今後の説明を容易くするため信頼すべき情報から統計数値を極めて簡略化して紹介するが、だいたいは以下のようになる。
・国土面積(中華民国(約400万平方キロメートル)を100とする) 中華民国:100 共産中華:45 満州 :30 韓国 :6 ベトナム:8 それ以外:85(主にチベット・モンゴル地域)
・人口(1000万人単位) 中華民国:68 共産中華:36 満州 :12 韓国 :7 ベトナム:8 それ以外:2
・GDP (中華民国を100とする( )内は一人当たり差) 中華民国:100(100) 共産中華:16(30) 満州 :350(1983) 韓国 :150(1457) ベトナム:170(1445) それ以外:3(103) ※1990年代初頭の中華民国の一人当たりGDPは900ドル程度、満州国で約18000ドルで濠州やイタリアと同程度。日本帝国はさらにこの二倍半強の数字となる。また、この指数(GDP)が60あれば世界比率(100%換算)で1%のGDPともなる。
・軍事力指数(中華民国を100とする) 中華民国:100 共産中華:45 満州 :68 韓国 :28 ベトナム:30 それ以外:3
これらの数字を見ると、基本的に共産中華が全ての面でいかに劣勢にあるかが見て取る事ができる。特に経済力の点では致命的な差が開いているのが分かると思う。彼らは完全に行き詰まっていたのだ。 これ以外に興味深い点は、満・韓・越の合計だと経済力が二つの中華を圧倒するだけでなく、軍事力の点でも対抗可能なほど整備されている事だろう。この点は、基本的に中華民国が満州国・ベトナムとの関係があまり良好と言えない事と、満州国が冷戦期の間、大東亜共栄圏にあって北の防波堤として、各国の援助を受けながら強大な軍備を維持していたからに他ならない。対冷戦軍備という点では韓国も同様だ。そして、中華民国自身が一応は大東亜共栄圏にあるが、歴史的経緯から満州国とは常に対立状態にあり、また1972年の中越紛争からベトナムとの関係もかなり険悪で、これに共産中華やインドを合わせると中華民国は事実上四方を仮想敵国に囲まれているという状態だった。ために、国家予算は必要以上に軍備に傾注され、万年赤字財政をより悪くしていた。それでもなお中華民国の軍事力がある程度のレベルを維持できているのは、単なる人口比率に従った陸軍力だけではなく、アジア諸国から同盟国価格で供給される優れた兵器の数々の威力があったればこそだった。ただし、中華民国単独では日満が生みだす優れた兵器を運用・維持する事はできないため、全てを供給に頼らざるを得ず、結局財政をさらに悪化させる要因であったわけだが。
だが、中華民国以上に状況が悪いのが中華人民共和国(共産中華)だ。特にこれは1991年以後、欧州の国家社会主義陣営諸国が事実上徒党を組んで自由主義に転向した事で決定的となっていた。 国境線の関係から、直接仮想敵と向き合っているのは、宿敵たる中華民国とヒマラヤ山脈を挟んだインドだけだったが、問題は実は別のところにあった。 ぶっちゃけてしまえば、経済問題とそして何より深刻だったのが、食料問題だった。この点、支那大陸の沃野を支配する中華民国とは比較にならない程大問題だった。 共産中華は他国との対抗上、冷戦時代にいわゆる「産めよ増やせよ」の政策を強硬に展開し、ロシアなどからの同盟国価格で輸入される食料を当てにして自国の食料自給率を全く無視した人口増大を図り、冷戦終結時で3億6000万人もの大人口を抱えるまでに至っていた。これにより、彼らの観点からなら戦時1000万人もの陸軍を出現できるわけだが、裏付けのない経済力と貧弱な食料自給率しか存在しない事を思うと、為政者からすれば背筋が寒くなる程度では済まされない事態だと言えた。この点、1960年代から移民を厳しく規制した満州国の人口が共産中華の三分の一程度という事実が、健全な国家と言うものの在り方を雄弁に物語っているだろう。 それでも欧州帝国が崩壊するまでは何とか国家運営ができたのだが、ドイツ崩壊に連鎖する欧州全土とロシアの宗旨替えとそれに伴う不景気は、同盟国価格で輸入される各種資源と食料の価格を国際標準価格に変化させてしまい、「何とか」なっていた共産中華の経済と食糧問題を一機に悪化させる事になる。 どんな国でも極端な外貨の減少と大幅な経済後退が起きれば国が傾くのは道理で、これに今までの不健全な経済運営のツケが加わればシロアリに蝕まれた木造家屋よりも簡単に国が倒れるのは当然と言うべきだろう。しかも、共産中華と中華民国は、共に事実上の独裁国家であり、ために国家元首の力が極めて強く、さらにこの地域の伝統である官僚腐敗と賄賂の横行が極めて悪質な状態で常態化して経済と国家運営を動脈硬化状態にしていれば、砂上の楼閣だった中華人民共和国という名の名目上の労働者の楽園が崩れ去ろうとしたのは、どこからどう見ても必然だったのだろう。 対する中華民国についても、共産中華よりいくらかマシという程度で、世界第二位の人口を抱えながら世界的には完全な二流国に過ぎなかった。これは、全て軍事優先で国を運営したからで、あの国の一部が非難するように大東亜共栄圏の国々が援助をおざなりにしたわけではなかった。だいいち、援助をアテにする時点で、独立国としては問題があると自ら認めているのだから、何をか言わんやというところだろう。この点は、努力していたとは言えアジア諸国にあって一番低い一人当たり国内総生産の数字が如実に物語っていると思われる。 ただ、この中華民国の低迷は、在外華僑で中華地域への帰属意識の強いものたちが、本来の中核である中華民国ではなく、国家として経済的に成功している満州国や日本の自治地域の一つである台湾への投資や移民を優先していたという理由も存在している。まあこのあたりの心情は、単に無用のいがみ合いを続けている同族に、一度国を捨てた人々が愛想を尽かしただけととる事もできるかもしれない。
だが、これを受入れない、受入れたくない人々も存在する。当然、この奇妙な二つの国を支配している人たちだ。 毛沢東と言う名を持った共産主義者にして愛国者、そして優れたゲリラ戦術の泰斗にして優れた独裁者、つまり最悪の統治者の一人。私見からするとこう評価したい人物を中心として中華人民共和国という国家は建国されたわけだが、ここに至までの道のりは果して平坦だったのだろうか。 また、毛沢東と同等かそれ以上に頑迷な独裁者にして現実政治家とされる蒋介石率いた中華民国はどうだったのか。数字的なものの次に、この点についても少しおさらいしておきたいと思う。なお、満州国については、中華地域より日本とのつながりがあまりにも強いので、この次の日本について書く時に先送りしておく。
戦史に様々な悪い意味での記録を打ち立てた中華動乱が終息した当時、二つの中華は毛沢東と蒋介石の睨み合いへと転化した。いや、転化したというより、単にもとの状態に戻っただけと言うべきだろう。 そしてこれ以後、両者は約40年にわたって睨み合いを続けていく事になるわけだが、欧州人のように単に睨み合うと言う事に耐えられないのか、1969年には一部で第二次中華動乱とも言われる大規模な国境紛争を引き起こし、さらに中華民国はベトナムとの経済問題のこじれから国境問題を口実にして1972年の「中越紛争」と言う国際紛争を引き起こし、先進世界から大いに失笑を浴びることとなった。もっとも、1965年から開始された「文化大革命」と言う名の資本主義の原則から見れば何だかよく分からない経済改革に大失敗した共産中華に比べれば、中華民国の同盟国への暴走はまだマシなのかもしれない。 ただこうした事からも全般にわたって言える事は、二つの中華国家の政策は常にそれぞれの独裁者と側近によって決定され、官僚によってねじ曲げられていたと結論付ける事ができよう。ここには、本来多数存在する筈の良識を持つ者たち、良心的な人々の介在する余地はほとんどなかったものと思われる。
と、ここで次へと進んでもよいのだが、一応それぞれを見ておこう。 まずは、いくらかマシな中華民国だ。 中華民国は1911年に建国され、偉大なる指導者の孫文の死を経て1928年に蒋介石が実権を握ってから1976年に彼が死去するまで完全な独裁体制を継続したわけだが、特に中華動乱以後の彼と彼の一族、その取り巻きが振りまいた災厄は以後の中華民国そのものに大きな影を落としている。新進の中華国家であるにも関らず、当初から官僚腐敗の横行と地方権力の不服従があり、民心は戦争と敵との対立があったからこそある程度政府にあったが、明治期の日本には比べるべくもないほど低いものでしかなく、当然上も下もそのような状態で国家が上向きになる筈もなく、同盟国による資本主義の恩恵にある程度あずかる事ができると言うのと、対向者に比べれば程度問題だが民主的だった点など共産中華よりマシという国民の評価と、蒋介石を頂点とする永久議院による独裁体制と軍部の強権により国家として維持されていたようなものだった。 これは、中華動乱当初から発令されている史上最長の厳戒令の施行がこれ以上にないぐらいこの国の実情を物語っている。 対外的にも、共産中華の防波堤として認識されているからこそアジア諸国からその存在を許され、僅かながらも援助を受けることが出来たわけだが、この独裁体制と硬直した政策は国際的な信用を落し、アジア以外では政治的に完全に孤立する事となった。これは、かのアメリカが金もうけ以外で全く介入しなかった事でも証明されている。
この中華民国の体制に変化が訪れるのは、蒋介石が死去し第六代総統として息子の蒋経国(しょう・けいこく)が就任してからになる。 蒋経国には、中華民国の現実を見据える政治家としての「眼」があったと言う事だろう。そしてこれこそが次なる戦争を呼ぶ事にもなったのだ。 何時果てるともない共産中華との長い国境線を抱えての対立状態、同盟国である筈の満州、ベトナムとの対立、それら様々な要因による国際的孤立。 このような状況下で、中華民国が真の近代国家としての正しい道のりに乗るには、正しい民主国家の建設と経済力の強化以外にない。 彼の目標と政策はある一定の成果を挙げ、約15年という歳月こそ必要としたが、世界最貧国待遇だった一人当たり国内総生産の額を10倍近くにまで引き上げる事に成功していた。この事から、彼を単なるただの二代目政治家ではなく、鮮やかで強力な政治手腕を持った男――欧米の人々は蒋経国を「ストロングマン」と呼ぶ事もある。この点については、私も直接何度か会ったことがあるだけに大いに賛同したい。 そして蒋経国は、その在任期間の後半に民国の漸進的な民主化に着手していた。あの巨大で腐敗しきった官僚専制国家を思えば、これはもはや奇蹟とすら言えるだろう。 確かに、ある一定の経済発展により国民の権利意識が高まり、民主化運動が大きなうねりとなっていたこと、そして長年にわたる戒厳令と政治的自由の欠落が欧米から強い非難を浴びたことが大きな理由だったが、近代中華史から見ても偉大な業績だろう。 特にこれは、1985年には後継総統を蒋一族から出さないと宣言した事と1987年に戒厳令を解除した事が象徴的だ。 だが惜しむらくは、改革が軌道に乗ったばかりの1988年1月13日、糖尿病の悪化により彼が急死した事だ。しかも、彼の後を継ぐべき政治家が国内にない事、冷戦が終り混沌が始まろうとしているこの時期にこの大国を牽引する政治家がいない事は大きな悲劇だった。 彼の死後、小粒の保守政治家と経済改革により大きく勢力をそがれたため復権を望む官僚たちによりこの国は大きく揺れる事になり、最低限の経済発展こそ継続されたものの、この二つが全てに行き詰まった共産中華にいらぬ幻想を抱かせる事になったのだ。
そして、半世紀の間に完全に行き詰まってしまった共産中華だが、1971年までは中華動乱による躓きこそあったが、国家としての状態はむしろ中華民国よりも良好と見られていた。もちろん数々の問題もあったし、あまりにも閉鎖的な国家体制がそれらを外に露出させなかったという点もあったが、彼らのプロパガンダは全てが虚偽というわけでもなかった。 中華人民共和国の最初の独裁者は、近代東洋史を学んだものなら誰でも知っているであろう毛沢東その人だ。これに周恩来が強く補佐するなどして共産中華の独裁体制は形作られていた。 毛沢東は1954年には国家主席に就任、その後全てが失敗に終ったとは言え彼らの農地改革にあたる農業合作はじめ「継続革命」や「大躍進」など官主導(という甘い表現は似合わないが)の経済改革・産業育成を積極的に推進、一時国家主席の座から退いたが、1966年に文化大革命を始めると同時に主席に復帰、これが彼にとっての永遠の転機となった。 1971年に共産中華最大の軍事官僚にして当時副首席だった林彪(りん・ぴょう)が、意見の対立から突如クーデターを起こし全てをひっくり返してしまったからだ。 このクーデターは彼単独ではなく、中華民国などの裏からの協力により実現したと言われており、この忌まわしい連携により林彪は起死回生の逆転劇を実現し、中華民国はしばらく続くであろう共産中華の混乱という政治的得点を得る事になった。もっとも、この件に関しては我が帝国のその手の組織はいまだに等しく沈黙を保っている。 イデオロギーに則すると言う悪名高い経済改革である文化大革命(文革)のさなかに行われた事から、このクーデターそのものの名称もこれと同じものとされてしまったが、その性質は大きく異なるものとなった。それまで権力を握っていた毛沢東とそれに連なる者たちのほとんど全てが粛正されてしまったからだ。例外として、当時半ば偶然に毛沢東政権で失権していた登小平(とう・しょうへい)という有能な政治家の存在はあったが、このクーデターと混乱により、共産中華は当初の文革の失敗による大飢饉の発生により一説には1000万人以上の国民を餓死させるだけでなく、これ以外に300〜500万以上もの政治的粛正者を生み出したとされている。この数字は、いまだに正しい資料が公開されていない事から真実は闇の中だが、命からがら亡命したもの達の一部証言が正しければ、最大4000万人が餓死するか粛正された事になる。 この点は、その後共産中華での経済の停滞を思えば、それ程的外れとは言えないと日本の代表的な民間調査機関の「帝国情報社」は結論づけており、これが真実であるのなら彼らは自らの手で国民の一割以上を抹殺したという事になる。これはもちろん人類史上未曾有の大虐殺であり、これが国家の手により自国民に対して行われたという事を考えれば、ソヴィエト連邦での同種の事件をはるかに上回る、史上最大の惨事の一つと言ってよいだろう。 そして、林彪と登小平の二人の手により、その後共産中華は運営される事になるが、この文革での痛手から回復できないまま欧州帝国崩壊に伴う彼らとの手切れを迎え、回復できない経済状態を20年以上抱えたまま、中華民国との軍拡競争を継続していく事になる。
そして、登小平の1990年に事実上の軟禁となる引退により完全な独裁者となった林彪は、1995年の夏まではその命が持ちそうにないという、この国にとっての終りの始まりを告げていた。