●Phase 6-2:戦力分析

 中華地域の政治的や経済的な点については、前節である程度説明できたと思うので、ここでは中華地域を中心とした軍事的側面に焦点を当てて見ておこう。
 なお、この頃私の次男が海軍でもかなり高位の階級(海軍大佐に昇進したばかりで私が以前湾岸で乗艦した事のある艦の同型艦の艦長をしていたらしい。)に昇進しており、現場の人間から生の声が私の耳元にとどいていたので(特に日本海軍が)多少煩くなるかもしれないが、その点はご容赦願いたい。
 なお、1994年当時の私の楽しみと言えば、ある事件が訪れるまでは孫達の遊び相手であり、70の大台を乗ろうとしていた年齢からすれば、完全な好々爺となっていたと言ってよいだろう。この頃の私の唯一の個人的悩みが、この年で17になり女学校に通っていた私にとっての孫、つまり次男の長女があまり言葉を交わしてくれなかった事だと言えばその程度が分かっていただけるだろう。

 冷戦崩壊により世界のミリタリーバランスは大きく変化したと言われていたが、依然としてアメリカ合衆国、ドイツ帝国あらためドイツ連邦共和国、そして日本帝国が世界のスーパーパワーだった。特に経済的覇権の大きな日米のパワーは他に懸絶していた。また次点として英連合王国、フランス共和国、ロシア連邦共和国、満州国、インド共和国などがあった。そしてその次点の中に中華民国と中華人民共和国も含まれているとされていた。これはとりもなおさずこの2つの国がニュークを保有しているからだ。
 この中でアジアに巨大な軍備を保持しているのが、二つの中華と満州、インド、そして日本という事になる。しかもこの中のうち満州国以外の全てがニューク・ウエポンを装備しており、日本と満州以外はロクな迎撃システムを持っていないという危険な状態だった。幸いにして、日本以外は大きな破壊力を持つ熱核弾頭は保有していなかったが、最も対立している国同士が危険極まりない兵器を保有している事は世界中から大きな憂慮の目でもって見られていた。また、もう一つの慰め話しとして、双方の国とも運搬手段は旧式の重爆撃機(四半世紀以上前の日独の自国改良型か輸入品)か短射程で命中精度も悪い中距離弾道弾が主力で、ごく稀に保有されていると見られていた長射程の中距離弾道弾についてもドイツ製かロシア製の旧式ロケットの改造型に過ぎず、日満が有する弾道弾迎撃システムを以てすれば大きな脅威でないと判断されている事が挙げられる。
 だがそれでも双方とも数十基のニューク・ヘッドを保有しており、軍事的タブーをあまり考えていない人民解放軍に至っては、生物化学兵器の使用に躊躇しないだろうとされていた事は、最も脅威にさらされている中華民国にとって、ある意味ニュークよりも厄介な事態だった。
 だが、彼らにとり戦場は常に彼らのプロパガンダの言うところの自国領土内であり、また彼らの持つニュークの全ては戦略的攻撃手段にして最後に切るべきジョーカーとしての外交カードで、共産中国が常日ごろから悪し様に罵る日満韓などへ投げつける予定のなけなしの中距離弾道弾ですら、おいそれと使える兵器でない点は軍事的のみならず政治的にも安心材料と見られていた。ただしこの点について彼等を自重させていたのは、1発でも使用すれば、日本の手により自らは間違いなくたたき潰されるからに過ぎず、彼等が必ずしも外交巧者だと言うことでない点を注意しなければならない。彼等は独裁国家なのだ。

 さて、下品な兵器について最低限のおさらいが終ったところで、通常兵器について見ていこう。
 二つの中華は概ね東経111度ラインを挟んで対峙しており、この国境線の長さだけでゆうに日本列島ほどもあるのだから、中華世界がいかに巨大な存在であるかをいやが上でも教えてくれる。
 そしてこの国境線沿いに双方合計で常時400万人(共:国=250:150)もの陸軍が対峙していた。数量的には、共産中華:中華民国=4:6程度の比率で、この点からでも中華民国の優位であった。だが中華民国は、これ以外にも満州国境とベトナム国境に共に10万単位の軍隊を常駐させており、ムダな兵力も多く持っていた。
 装備の面でも一応中華民国側が優位で、これは機動防御用の戦車師団に配備された日満の優れた戦車(と言っても最低払い下げの一世代以上前のものだが)とそれに付随する各種機動兵力は、主にドイツ・ロシアの旧式兵器しか保有していない人民解放軍に対して大きなアドバンテージとみられていた(彼らの財力から優れたドイツ製兵器を多数購入する事はほとんど不可能だったし、例え保有していても交換部品の不足から稼働率は限り無く0に近かった。また、前大戦の遺物とすら言える「T-34-85」や「パンターG」すら現役で保有している)。ただ、互いに祖国統一を国是としていても、基本的に中華民国は防衛を主眼に置いており、もし次の戦争があるとするなら、より追いつめられている共産中華が攻撃側になると予測され、攻撃側が戦争で最も重要なイニシアチブを握るという点を考えると、中華民国の軍事力はあまり楽観できるレベルには達していなかった。これは、一般に2〜2.5倍の実質兵力差があると見られていた二つの中華の関係を以てしても覆せないと、専門家、つまり各国の軍人達は見ていたようだ。
 そして、危険な状態である中華民国軍の頼みの綱は、比較優位にある陸軍ではなく空軍にあった。
 基本的には、アジア諸国かアメリカのお下がりばかりが主な装備だったが、相手が人民解放軍であるなら二世代前の機体であっても十分な威力を発揮する事が出来るとされ、人民解放軍に対して中華民国空軍は数量的にはむしろ劣勢にあったが、戦力的には技術的なアドバンテージから三倍以上の力があると判断され、この優位をいかに活用するかが勝利の鍵と見られていた。

 ただ、不思議と言うべきか当然と言うべきか、中華民国の防衛計画には強大な軍備を保有する一応の同盟国たる日本帝国と満州国、大韓国、ベトナムからの軍事援助はあまり考えられていなかった。
 これら同盟国の軍事力は、冷戦終結と湾岸事変での一斉在庫処分以後大幅に削減されつつあるとは言え、依然として強大の一言で語り尽くせないほど巨大な軍備であり、機会主義においては日本人以上に人後に落ちない中華民族がこれをアテにしていないというのは、海の向こうから大陸の惨状を眺めている者としては実に不思議な事だった。恐らく国内的な問題、まあメンツとやらが邪魔をしているのだろう。
 特にこれは、共産中華のニューク・プレゼンスを自国の脅威として、日満韓越が中華民国に積極的な協力を申し出ていた事を思えば、奇怪とすら言える状態だった。
 このため日満韓越は、しかたなく中華民国の了解もそこそこに、なるべく共産中華に近い地域に向けて軍備を展開する方向で対処するしかなかった。
 満州国と韓国は、中華国境線にロシア国境側に向ける必要性の薄れた陸軍の主力をシフトし、巨大な海軍を有する日本は、韓国やベトナムのそれなりの海軍を有する国々と共に、黄海、東シナ海・南シナ海に空母機動部隊を展開し、もしもの場合に備えて可能なかぎりの弾道弾迎撃態勢を整えていた。また、インド洋の艦隊も空中給油機を多めに配備してベンガル湾寄りの展開をしていた。

 極めて大まかではあるが、このような状態で中華大陸の軍事情勢は、1994年末の林彪の昏睡状態を迎えていた。
 そして、この混乱の波及を何とか防ぐべく、我らが帝国軍の準戦時動員が1995年3月に私の名により発令された。
 軍事的に言う所の「丙種警戒態勢(デフコン3)」状態だ。

 そうした中、つまり中華奥地の現代版の皇帝が死に瀕していた頃、文字通り日本を激震する事態が発生した。
 わざわざ詳細を記す必要性はないとは思うが、まだ記憶に新しい関西方面での大規模な天災の事だ。そして、この天災に際しての当時の内閣の無能を国民が痛烈に批判する事で、その余波が私にまで押し寄せる事となった。
 もっとも原因は私自身にもあったらしい。この災害に際しての首相を始めとする政府首脳部の無能を、私がとある記者に私的に語った『古来日本ではどっしり構え全てを下に任せ、それでいて物事が正確に見え責任だけは全て取れる人物こそが上に立つべきだとされているが、今でもそれは日本にある限りかわっていない。今の首相に何より必要なのもは、決断力とそれを見切る事のできる賢明さ、そして何より決断に対する責任能力だ。妙な専門知識でも内部調整能力でも、ましてや巧緻華麗な弁舌でもない。そう言った事は下の者が行えばよいのだ。』という隠居だからこそ言える主旨の言葉が外に漏れてしまい、この言葉が漏れるかもれないかという時に折からの無能をさらした内閣、日本近代史上二度目の日本唯一の完全野党である「社会党」党首による内閣は国民の激しい批判にさらされ、折りからの近隣の切迫した事態に対応できる内閣が望まれた事からあっさり崩壊。しかも、その後任人事を巡り当時あまり仲の良くなかった二大政党たる「政友会」と「民政党」が深く対立し、そして既存の小粒の政治家ではこの難局を乗り切るのは不可能だと国民は判断、事実上冷戦時代最後の長期内閣を切り回した私などが注目を浴びることとなったのだ。
 そして、混乱のまま話しが御前会議へと雪崩れ込み、超党派による挙国一致内閣組閣の聖断が下り、ためにどこかの党の首班では総理大臣となる事が難しく、いまだ存命ですでに隠居状態の大物政治家の幾人かがクローズアップされ、その中でも最も若かった私に白羽の矢が立つことになったのだ。
 ただ、その話しを受けた時の偽らざる心境は、帝より命が下りそれを引き受けた以上、一命を賭してという気持ちはもちろん第一にあったが、どうにも心のどこかに友人の借金を背負わされたような、そんな気持ちがあったように思う。
 この現代日本にあって政治的奇跡的と表現してもよいだろう私の宰相就任を、一部のマスコミはこの一連の流れをさも私自身が誘導したかのように書き立てたりもして批判もしたが、結局1995年3月、私に内閣首班の大命が、二度目の宰相就任が下った。もっとも、政友会においては若手グループの中核メンバーであった私の長男が、活発なロビー活動をしたのは事実だった事は追記しておこう。
 そして、私の第一の仕事が、軍が行った「丙種警戒態勢」の発令への政治的対処だった。
 
 さて、とにもかくにも二度目の宰相となった私の前には問題が山積していた。
 前の内閣が半ばおざなりにしていた天災に対する復興事業、傾きかけている経済対策などだ。わけても、海の向こうの大陸への対応が難問だった。このため私は、組閣に際してアメリカ大統領の補佐官のような立場の人間をいつもより多く組み入れ、派閥人事ではなく手腕的に信頼のおける人物を各大臣に据える事で自らの知識と行動力の不足をカバーしつつ政権を運営しようとしたが、大陸問題だけはどうにもなりそうになかった。事態が戦争へと傾く可能性が極めて高かったからだ。事が理不尽な殴り合いでは、いかにペンと頭と言葉を使おうともどうにもなるものではない、という事なのだろう。

 まず、必要だったのは事態の把握だった。
 正確な情報無くして正しい判断は下せない。この基本中の基本原則に従い私は各種ブレーンを集めて、様々なブリーフィングを重ねる事となる。そして、ある者は当然、ある者は軽い驚きをもってこの時示された私の軍事知識の豊富さを受け止める事となったようだ。まあ、マニア相手かとかなりうっとうしく思った者も多かったようだが、私自身にすれば過去の仕事で得た経験と軍人の息子を持ち、彼との日常から少し踏み込んだ会話から得られた、ごく当たり前のような知識だったわけで、この事は私自身の風評を周りの者たちにさらに印象を深くさせる事になり、私のニックネーム、『東洋のチャーチル』と言う名を定着させる一助のなったようだ。ただ一部では、私の軍事面での『ヲタク』ぶりをかの欧州帝国創始者にダブらせた者もいたようで、一部評論や新聞ではかの人と比較した記事がいくつか見られたそうだ。
 まあ、私の風評はとにかく、一般の方々は軍事や兵器について疎いのが普通の事だと思うので、この当時の日本の切り札の一つ、軍事力について多少深く書くことをご容赦願いたい。

 「丙種警戒態勢」が発動された当時、日本軍は前年暮れから限りなく「丙種」に近い「丁種警戒態勢」にあり、この時「丙種」発動後も第一線級の戦力はほぼ「乙種」と言ってよいほど臨戦態勢を高めていた。特に、突然攻撃されても対応しなければいけない防空組織においてそれが顕著だった。軍種ごとで言えば、最も高い警戒態勢を敷いていたのは<宇宙軍>で、次いで<連合空軍>、<海軍>、<陸軍>の順になる。また、これらの枠にとらわれない緊急展開用の部隊が存在しており、統合軍団司令部として本拠を台湾に置いて、この緊急事態に備えていた。
 この順にその概要を要約すると以下のようになる。
 まずは世界にドイツと日本しか持たない<宇宙軍>だが、基本的には宇宙空間に存在する全ての軍事的なものが彼らの管轄下にあり、また戦略爆撃機の全てと広域防空組織の過半も彼らの手にあった。要するに帝都のど真ん中・六本木の白亜の建造物の地下深くに頭脳的な中枢部を持つ彼等にとって、地球規模での戦略的攻撃と防御が主な任務で、これを一般にも分かるように数量的に示すのはかなり難しい。確かに西大平洋各地の島嶼に展開する戦略爆撃機はそうでもないが、偵察衛星が何機どこそこを周回し特殊な警戒機が支那海や日本海の空に居座り、迎撃弾が何基あると言われてもあまりピンと来ないと思う。あえて簡単に述べるなら、日本帝国はアメリカと並んで世界で最も高い偵察網と世界一密度の濃い防空網を保持しており、その攻撃手段は世界のどこにでも、少なくともアジア全域を射程圏内におさめていると要約できるだろうか。
 また、警戒態勢の増加に伴い当時最大の宇宙港のあった嘉手納基地では、多数の緊急展開衛星が大量打ち上げ型の大型ロケットを使い多数打ち上げられつつあり、打ち上げられる衛星の中には新鋭の合成開口電探(雲を透過しての詳細な電子的撮影が可能)を搭載したタイプも多数存在し、中華大陸の動向を細大漏らさず監視する態勢を敷いていた。「サーチ・アンド・キャッチ」を合言葉にしている、実に彼ららしい対応と言えるだろう。
 なお、彼等にとっての槍となる重爆撃機の群れは、硫黄島、国後島、パラオを拠点として、懐かしの「飛鳥」が2個飛行大隊(定数72機)、いまだにその奇抜な外見を誇示している「轟天」が1個飛行大隊(定数36機)存在し、腹の中に色々なものを抱える準備をしつつ、実に彼等らしい忍耐力をもって警戒任務に付いていた。
 次に<連合空軍>だが、<宇宙軍>に戦略的な事が分担されているため<連合空軍>の役割は、戦術的な任務が主なものとなり、装備も必然的にそう言ったものが主となっていた。多少なりとも兵器の名称などを用いるのなら、日本、満州、イランしか運用していない史上最強の制空戦闘機と呼ばれる「川崎=中島・80式戦闘機(FA-80-t22(天狼))」を軸とし、あらゆるスマート武器を使いこなす「三菱87式攻撃機(A-87-t12(剣山))」が槍となり、ロートルの「川崎64式戦闘爆撃機(FA-64-t43)(蒼燕II)」とルーキーの「空技廠92式多用途戦闘攻撃機(AF-92-t11(隼))」が脇を固め、これを各種支援機(電子作戦機、電子偵察機、早期警戒管制機、空中給油機)が援護するという形がとられていると説明できる。また、海軍主力の「三菱・82式戦闘攻撃機(FA-82-t22(旋風))」で最新の技術を応用した「43型(旋風改)」(機体に電波透過材と新型炭素繊維を使用、発動機に二次元噴射口、電探に甲種天弓電探を使用した贅沢な機体)が「蒼燕II」の後継機種に指定され、この当時配備が始まっていた。
 装備比率的には『戦:戦爆:攻:支=3:4:2:1』程度となり、23個航空団・約1200機の第一線機を以てして<連合空軍>を形作っていた。そして、このうち約半数が統合軍団司令部に属し完全な即応態勢を固め、九州各地や台湾・沖縄そして冷戦後に引き払った事になっている満州の奉天基地に展開しつつあった。
 一方、冷戦終了と共に最も軍備の縮小の対象とされた陸軍だが、この頃には満州駐留軍も半数が撤退し、総数も日清戦争時に近衛と空挺を足しだけの数、9個師団・22万人程度にまで激減、以下のような配置にあった。

 オホーツク:<第二師団>
 北海道   
 満州   :<第七機甲師団>
 本土   :<第六師団>(九州)
       <第四師団>(西日本)(未動員)
       <第一師団>(東日本)(未動員)
 台湾   :<第三師団>
       <第五空中騎兵師団>
 直轄   :<第一空挺師団>
       <近衛機甲師団>
       <富士嚮導旅団>

 以前に比べて南に兵力が移動している中それでも機甲師団は北に配備されていたが、これは単に北の大地に人口密集地帯が少なく、大規模な部隊の駐屯に便利だという理由に過ぎず、直轄とされた<近衛機甲師団>だけが補給物資・弾薬の過半と一部装備を船にも載せいつでも大陸に赴ける状態で、九州北部に展開しているのみだった。また、以前からの変化として<第五師団>がある種の先祖返りのような装備改編を受けて、攻撃ヘリ、ヘリ輸送を主眼とした空中突撃師団(英語の直訳、日本陸軍では通称「空中騎兵(空騎)師団」と呼称していた。)への完全改編を受け直轄に編入されてこちらも移動に便利なように台湾に送られ、他の師団も師団縮小によって発生した余剰兵器で増強され、重武装化が進んでいた。なお、「師団」は歩兵大隊6個、戦車大隊2個、捜索大隊1個、砲兵大隊4個、兵員11,000で構成されている。
 特に統合軍団司令部所属とされた部隊の中でも重装備部隊である<第七機甲師団>と<近衛機甲師団>は、さらなる装備の増加などで総兵員数22000人・各種装甲車両1000両・火砲250門という、フランスやロシアなどの基準(共産中華も同様)からすれば軍団規模に匹敵する大規模部隊(戦車3個連隊(9個大隊)、機械化歩兵増強連隊(4個大隊)、機甲捜索(偵察)大隊1個、機械化砲兵6個大隊基幹)になっていた。もちろんどちらも常時動員師団だ。このため、この大規模化した部隊の演習は国内では難しいため、共同訓練と銘打って満州国で行われるのが常となる程だった。そしてこの時も、「演習」と言う名目で<第七機甲師団>が中満国境近くで事実上の待機任務に就いていた。
 なお、陸軍においてこれほど人員削減が進んでいたのは、高度な電算化と自動化による省力化が異常なスピードで押し進められていた点もあわせて注記しておこう。

 そして最後に海軍だが、彼らは依然として巨大な軍備を保持していた。なぜなら、彼らは軍艦という自己完結性に優れ、海さえあればどこにでも速やかに展開できるという大きな柔軟性を持ち、それでいて納得できるだけの経費でそれが達成可能だったため、国からも愛されていたからだ。
 しかも、緊急展開能力と自己完結性に優れたミニ陸軍と言える「海軍陸戦隊」と平時でも決して手を抜く事のできない沿岸警備と海上護衛を担当する「海上保安隊」の二つの組織に至っては、アジア情勢の混迷化の中、縮小どころか最低でも現状維持、場合によっては拡大すらされていた。
 そして海軍の中核たる現代の「連合艦隊」にあたる海軍の主力は、1980年に予算成立した「第三次八八艦隊整備計画」で計画された艦艇の過半が冷戦終結の影響で遅れながらもようやく就役、併せて行われている高度電算化と重ねて一気に近代化を終えたところだった。なお、艦隊編成の概要は以下のようになる。
 
・連合艦隊
第一機動艦隊(在東シナ海)(艦載機210機)
原子力空母(CVN):<赤城>・<天城>
戦艦(BB):<信濃>
打撃巡洋艦(CGA):<剣>
ヘリ巡洋艦(CGH):<霧島>
駆逐艦(DDG):6隻  海防艦(DD):8隻
巡洋潜水艦(SSN):2隻
高速支援艦(AOE):2隻

第二機動艦隊(在黄海)(艦載機210機)
攻撃空母(CV):<雲龍>・<昇龍>
戦艦(BB):<甲斐>
打撃巡洋艦(CGA):<白根>
ヘリ巡洋艦(CGH):<金剛>
駆逐艦(DDG):6隻  海防艦(DD):8隻
巡洋潜水艦(SSN):2隻
高速支援艦(AOE):2隻

第三機動艦隊(インド洋(半数はローテーションで内地)(艦載機210機)
(攻撃空母)CV:<蒼龍>・<飛龍>
戦艦(BB):<武蔵>
打撃巡洋艦(CGA):<鞍馬>
ヘリ巡洋艦(CGH):<榛名>
駆逐艦(DDG):6隻  海防艦(DD):8隻
巡洋潜水艦(SSN):2隻
通信指揮艦:「房総」
高速支援艦(AOE):2隻

第五艦隊(本土防衛)(本来は第四機動艦隊所属・臨時編成)
(艦載機6機)
打撃巡洋艦(CGA):<黒姫>
駆逐艦(DDG):3隻
海防艦(DD):2隻

第七艦隊(日本海警備)(本来は第四機動艦隊所属・臨時編成)
(艦載機13機)
ヘリ巡洋艦(CGH):<比叡>
駆逐艦(DDG):2隻
海防艦(DD):3隻

第八艦隊(本土防衛)(本来は第四機動艦隊所属・臨時編成)
(艦載機22機)
戦艦(BB):<大和>
駆逐艦(DDG):2隻
海防艦(DD):2隻

・潜水艦隊
<長門級>弾道弾搭載巡洋潜水艦(SSBN):8隻
<薩摩級>巡航弾搭載巡洋潜水艦(SSGN):4隻
巡洋潜水艦(SSN):22隻
潜水艦(SSK):12隻
潜水母艦(AS):5隻

・海上保安隊所属(地方隊)
各種海防艦(FF):15隻(遠海用重武装コルベット)
各種警備艦(PV):多数(近海用軽武装コルベット)
各種警備艇(PB):多数(沿岸用小型高速艇)

海軍陸戦隊付属
揚陸母艦(LPH):「大隅」、「下北」、「国東」
ドック型揚陸艦(LPD):「三浦」、「本部」、「渥美」、「牡鹿」、「高縄」、「知床」
他揚陸艦艇・補給艦・輸送船多数(大型船14隻在籍)

直轄
通信指揮艦:「島原」
練習空母(CV):「大鳳」
練習艦:「鹿島」、「香取」、「香椎」、「橿原」
実験艦:「飛鳥」、「飛翔」
訓練支援艦:「黒部」、「夕張」
高速支援艦(AOE):2隻
高速給油艦(AO):6隻
高速給兵艦(AE):4隻
大型砕氷船:2隻
掃海母艦:2隻
掃海艇:26隻
外洋型掃海艇:3隻

他多数

当時完全に実戦配備に就いていない艦
原子力空母(CVN):<葛城>(公試中)
原子力空母(CVN):<鳳祥>(近代改装&炉心交換中)
駆逐艦(DDG):2隻(公試中・改装中)
海防艦(DD):1隻(修理中)

これら以外にも、兵員の動員さえできれば現役復帰できる予備役状態にある艦が駆逐艦や海防艦を中心に数十隻あり、数量的にもアメリカに次いで世界第二位、実戦力は依然世界一の評価を受けているダントツの大海軍を構成していた。
 他でも触れているので最低限にしたいが、個々の艦艇で特筆すべき点をあげると<天城級>原子力空母の存在が挙げられるだろう。当クラスは冷戦時代の総決算として計画された超大型空母で、満載排水量13万トン・搭載機数約90機を誇る洋上の要塞だ。一部アメリカとの協力により建造されるなどの技術的な注目点はあるが、このクラスの存在意義はまさにこの大きさがもたらす残存性の高さと搭載能力・航空機運用能力の大きさにある。
 だが、それよりもさらに先を行った存在が、1994年に就役したばかりの実験艦「飛鳥」だろう。トラック宇宙港と同じ技術を用いた浮体構造式を魔法の繊維ケブラーと新型の超軽量カーボン素材を挟み込んだ丈夫な構造材の臨時の装甲板で覆った雄大な船体をウォーター・ジェットで最大24ノットで推進させる、とうてい軍艦とは思われない外観をした艦艇、いや要塞だ。ただし、あくまでも「実験艦」でしかなく今でも同型艦は全く建造されておらず、同艦も国際テロが頻繁化した近年はカロリン諸島かマーシャル群島の環礁のどこかを拠点としつつ、トラック諸島近海で実験を兼ねた警戒任務に就いている事になっているので、一般に目にされる事はほとんどない。いわゆる一つの「秘密兵器」だ。
 全長1200メートル、平均全幅205メートル、甲板高48メートル、基準排水量35万2000トン(総重量は50万トンクラス)というチョットした飛行場並の巨体は、甲種「天弓」システムとそれに附随する誘導弾ランチャーと新型の近接防空装置が申し訳程度に設置されている他は、航空機の運用施設が全艦にわたり設置され、最大200機もの艦載機を運用する能力を持ち、さらにはSTOL機なら陸上用の中型輸送機すら通常通り運用する能力を付与された洋上の一大プラットフォームだった。さらに、スペースに余裕があるのをいいことに様々な実験装備が施されてもいた。艦載機運用のための超伝導カタパルトや高度な航空機管制システムは「空母」であるから当然として、揚陸艦としての施設、補給艦としての能力、はては「軍港」としての能力から衛星軌道からの電力受給システムまでも試験的に搭載していた。つまり海軍は、21世紀の洋上コントロールのための移動要塞のテストケースとしてこの艦を玩具にしていると言う事だ。そして、この艦の存在こそが日本が海軍をどのように考えているかという事の20世紀での最終回答と言う事になるだろう。
(まったくの余談だが、息子の話では若い兵たちはこのような宇宙開発技術を軍事に応用する事をなぜか「OT」と呼んでいるらしい。)

 さらに、多数の空母を保有する海軍であるから、これらに並の国家をはるかに上回る多数の航空戦力が含まれる事になる。
 8隻の空母にローテーションで搭載される8つの母艦航空隊(うち一つは訓練飛行隊)、その護衛艦艇群に搭載されるヘリ航空隊、海軍陸戦隊の各旅団ごとに編成された支援航空隊(戦闘爆撃機と戦闘ヘリ、輸送ヘリで編成)、5つの対潜哨戒機部隊を中核として各種ヘリや飛行艇などから構成される総数250機にも達する純然たる基地航空隊、これに臨時編成だが4隻の戦艦に搭載される軽空母並の陣容を誇る大隊編成を持つ支援航空隊までが準動員で用意される事になっていた。
 これらを全て含めると第一線機だけで1200機もの数になり、驚くべき事に空を本業とする連合空軍に匹敵する規模にまで膨れ上がっていた。これは、とりもなおさず日本帝国がいかに海軍力を重視しているかの現れであり、シーパワーこそが日本帝国の力の源泉だとの証明と言えるだろう。
 ちなみに、海軍の数の上での主力は「三菱・82式戦闘攻撃機(旋風)」の「22型」で一部に改良型の「32型」が配備されつつあり、初期型もほぼ同様の改装がなされ、海軍陸戦隊用と予備機を含めると500機以上が所属していた。また、「Jハリアー」と呼ばれる、英米との共同開発の「AV-8(ハリアー)」の日本生産型である「AV-8J」と後継機にあたる新鋭の超音速V/STOL機「92式多用途戦闘攻撃機(海軍名:海燕)」、強力な攻撃機である「剣山」が航空戦力を補完していた。なお、海軍の場合航空戦力のかなりは各種ヘリであり、連合空軍のような固定翼機の集団とは少し異なっている点は注意すべきだろう。
 そして、上記を見て分かるように、強大としか言いようのない戦力を有する第一、第二機動艦隊が本来半分の数であたる対中華シフト任務に全戦力をあげて展開しており、念のためのロシアの抑えとしての水上部隊が舞鶴を拠点に日本海にいたが、当時のロシア海軍がいかに昔年の勢力を失っているかを伺わせている。なお、日本海軍がこれほど大規模な空母機動部隊を一つのグループで複数活動させるのは湾岸事変でも行われなかった事で、日本海軍が共産中華の弾道弾攻撃をいかに警戒していたかを伺うことができると思う。また、有力な水上戦闘艦が日本近海に留め置かれているのも同様で、交替のための予備兵力という側面もあったが、やはり共産中華が万が一中距離弾道弾を発射した時、これを早期警戒し迎撃できる確率を少しでも引き上げるためだった。その証拠にインド洋から整備の為帰還していた戦艦<武蔵>までが(本来ならシンガポールのドックに戻るのが常)、母港でない横須賀で3月末からは国内で事実上の待機状態に入る予定だった。
 また、海軍陸戦隊は依然として3個海軍陸戦旅団を維持しており、各旅団は3個機械化歩兵大隊と1個戦車大隊、1個捜索大隊、1個増強砲兵大隊を中核とした強力な諸兵種統合部隊で、旅団と言う兵力単位ながら1万人以上の兵員から構成され、このうち通常でも常に1個旅団が佐世保で即応待機しており、この有事に際しては特に全ての旅団が動員を終え、直轄兵力を合流させた上で「特別連合陸戦軍団」と呼ばれる戦時にしか使用されない事になっている最大級の戦略級兵力単位となって、ゼロ・アワーに備えていた。

 そして、表面上にほとんど出る事はないが、海軍特務陸戦隊(SNLF)と陸軍特務空挺団(SAAF)についてもそのほとんどが非常呼集され、様々な目的のため中華大陸の各地に展開している筈だった。これについては合同の戦略指令部が開設され、任務に必要な多数の部隊を傘下におさめて活動している事からも明らかだった。

 このように、日本軍はその巨大な軍備を高度な警戒態勢に移行させ、中華大陸奥地で起きるであろう事態に備えていたわけだが、1995年4月2日ついに林彪死去のニュースが仮首都「重慶」の共産中華の国営放送、人民放送の手によって行われ、その後全ての放送は音楽放送のみとなった。
 クーデターによって成立した政権は、クーデターを最も恐れていたのだ。そして、これは共産中華内の林彪派の取り巻きと実務官僚団の対立によって単なる夢想とは言えず、それまでこれを抑えていた林彪本人の生存という重石がなくなったこの時、激発しようとしていた。
 帝国軍のありとあらゆる偵察情報も、中華大陸の奥地で高度な軍事態勢が敷かれ、軍の通信ばかりが飛び交っている事を伝えていた。
 そして、最も恐怖に脅えていた体制派である林彪一族派が予想通りに激発、子飼いの軍部隊や武装警察組織を用いて実質的にこの国を牛耳りつつあった実務官僚団の拘束や彼らに連なる軍人・組織の血のパージを開始した。
 つまり内乱が発生したのだ。いや実質的には第二次中華動乱とも呼ばれる、新たな大国の誕生の陣痛の始まりだった。

 世界中、殊にアジアはこの中華奥地を震源地とした政治的激震により大きな混乱に見舞われた。日本もこの例外ではなかった。だが、これを千載一遇のチャンスと考えている勢力も存在した。
 中華民国だった。
 彼らは、彼らの視点での不法に占拠された地域での内紛を、国家統合のまたとないチャンスと考えていたのだ。これは、分裂以来のもはや伝統とすら言える彼らの外交方針でもあったわけだが、それ故に当の共産中華も、同じく不法に占拠された地域にされている満州国などはこの外交方針を受入れる訳にはいかないため、この大陸での問題がここまでこじれてしまっていた。
 このままでは、事態は後はどちらかの国が先に手を出すか、という事になるだろう。そして、近隣国にしてアジアの盟主たる日本帝国としては、これに何らかのリアクションを起こす必要がある、と言うことにもなる。
 軍事用語的に表現するなら、共産中華に対して守勢防御、攻勢防御、限定攻勢、全面攻勢のどれかを選択すると言う事だ。
 当事者でないから全面攻勢は問題外、そのような事は当事者たるどちらかの国が祖国統一という大儀を掲げて、万難を排して行ってくれればいい。かと言って、何もしないというのは、これまでの日本外交を考えるとこちらも論外だ。となると、選択肢は「攻勢防御」、つまり殴られたら殴り返すというそれまでの基本戦略に乗っ取った対応か、共産中華のニューク・ウエポンの危険性を世界が認識しているのを良い事に、国家百年の計のためそう言った日本にとって脅威となる対象に対する攻撃を先に行ってしまう「限定攻勢」を、彼らが激発するであろう瞬間に行うかという事になるだろうか。この場合、できればメッセージ以上の攻撃の方が物理的には日本に益をもたらすだろう。
 ブレーンや大臣、軍人達の意見も概ねこの二つに収束されていた。積極派と軍人たちが「限定攻勢」で一部の消極的な外務関係者を中核とした消極派が「攻勢防御」を主張していた。そして、両極端な議論を振りかざす度し難い人間がいないのは、この時点で何よりの安心材料だ。

 さて、『東洋のチャーチル』は、

 いったい如何なる決断を下すべきだろうか。

 

 1. 限定攻勢案提示

 

 2. 攻勢防御案提示