●Phase 6-3-2:戦闘

1995年○月○日

 その日、ビルの10階より高い位置にあるそこからは、入り組んだ海岸ぞいに咲き誇る桜と春の新緑と海と空の蒼が見事なコントラストを作りだしているのが見て取れた。風にのってここまで桜の花びらが舞ってきている事などまさに日本的情緒を思わせていいて、これが花見だったらと夢想せずには居れないほどの花見日和だった。
 だが、この時私は軍艦の艦長で、その艦がこれから重要な任務に赴かねばならないとなれば、如何ともしがたかった。この借りは、後で何倍にもして騒動を引き起こした彼らに返したいところだと思ったものだ。
 それにしても、この時は正直驚かされた。何しろそれなりの成績でしか卒業できなかったのに、ほぼクラスヘッドで大佐に昇進できたとその事を何より喜んでいたら、その二度目の任務が日本に4隻しかない巨大な軍艦の艦長だったからだ。いや、世界でも数えるぐらいしかない巨艦の艦長と言うべきだろう。
 別にこの手記・・・自身の記憶力の低さを補うためのメモのような、日記とすら言えないものが世の中に出ることはないだろうから軍機も書いてしまうが、私がこの時艦長の任務にあったのは「大和」。1944年に世界中の全ての対向者を圧倒すべく、日本帝国がその威信と国家の存亡を賭けて都合4隻も建造した巨大戦艦のネームシップだった。
 予備役に編入されても、何度も改装を重ねられては度々現役復帰しながら、半世紀もの間防人の任に就いている事には驚くほかないのだが、私自身が彼女を任される身とあっては驚いてばかりもいられなかった。
 幸いにして司令長官の広瀬少将は、以前同型艦の艦長の経験もあり、人格、指揮能力共に不足があるとされる人物でなかったので仕事はやりやすかったし、空母のお守りが今回の任務でないという点は、私にとって何よりも明るい材料だ。少なくとも共産軍の弾道弾が降り注ぐ可能性の高い黄海で空母のお守りをしている東郷大佐のような気苦労はしなくて済むというのは、初めての大戦艦の指揮において非常にありがたかった。まあ、私が東郷大佐のように練達した戦艦艦長であるなら別の感想を持ったのかも知れないが、対馬海峡周辺での敵弾道弾警戒任務を命ぜられた時は、正直ホッとしたものだ。
 だが、この時はどうだったのだろうか。場合によっては、いや明らかに危険な任務を命ぜられたのだから、空母のお守りよりも重荷と感じるのが普通なのではないかとすら思える。だが、どうやら私はこうした事にはとんと無神経らしく、それどころか任務の後の大宴会では、『艦長は任務の間中、上機嫌であられました』と部下達にさんざん言われたのだから、余程好戦的・攻撃的な性格をしているのだろう。多少は自身でも思っていた事だが、まさかこれほどだったとは思わなかった。

 とにかくこの時私は軍艦「大和」の艦長として昼戦艦橋で日本本土に一時の別れを告げ、祖国を守る防人の任に征こうとしていたわけだが、一番に思った事がこの任務のおかげでこの年の花見が邪魔されたというチョットした八つ当たり的な気分だったのだから、我ながら何とものんきなものだと呆れてしまう。
 なお、この時艦隊は、広瀬少将指揮下で以下のような編成にあった。

・第八艦隊
  戦艦(BB):<大和>
  駆逐艦(DDG):<皐月>・<水無月>
  海防艦(DD):<朝霧>・<天霧>

 これに、「大和」が搭載している「Jハリアー」が8機に、各艦が搭載している対潜ヘリがあわせて12機あり、軽空母1隻分の搭載機を持つという変則性はあったがそれなりの水上打撃艦隊を構成していた。
 もちろん、後方からは空母機動部隊が援護してくれる事になっていたが、「天弓システム」を搭載していた艦の比率が6割もあるのだから、この艦隊がいかに強固な防空能力を与えられているか、その任務がいかに危険かを編成表を知らされた時に思ったものだ。まあ、どちらにせよ敵潜水艦をほとんど気にしなくてよいと言う事はありがたかった。ほとんど、と言うのはこの事変前後、軍では味方である筈の中華民国軍に対してもかなり神経を尖らせており、脅威度こそ低かったが仮想敵の一つと指定され監視対象にしていたからだ。もっとも、中華民国軍は我々からみればロクな海軍を持っていなかったし、その装備の大半も我が海軍のお古、場合によっては二世代前のシステムだったので、ドイツ海軍相手のその道一筋の対潜参謀にしてみれば、素人相手でしかも相手の手の内を見ながら麻雀をしているような気楽な仕事でしかなかったそうだ。
 ついでに言ってしまえば、この出撃の時日本にとってのまだ戦争は始まっていない。だが、日本などの諸外国からすれば、クーデターによって成立した新政権は、武力をもって成立した不当な政府であり、これを誅する事は十分世界的にも正義が成立するとなる、らしい。
 単なる口実だったのだろう。
 日本にすれば、これを機会に潜在的ライバルの長い手だけをへし折り、しばらく頭が上がらないようにしておけばそれでよかったのだから。
 そして開戦の選択権を、錦の御旗を持った日本が握っているような状態だったので、作戦行動を行う側としては隠密行動にのみ注意しておけばよく、比較的気楽に目的位置まで到達する事ができた。それは、内陸国家である中華人民共和国が相手なので、鼻歌を歌うほどでないにしても、ドイツやロシアを想定した訓練より簡単な任務だったからだ。

 4月9日から10日にかけての深夜、天空には丁度半月状態の月の輝くこの日、艦隊は目標地点に到着していた。そしてそこで呉鎮守府からの最終命令を待つ事になった。
 この時海軍が待っていたのは、日本が国連を通じて中華人民共和国政府に通達していた様々な要求の回答であり、その期日が4月10日までだったからだ。そして、国連つまり日本を始めとするアジア諸国とアメリカは、中華人民共和国が要求を受入れない時は実力を行使する事も辞さないと宣言していた、つまり日付が変わったその時が攻撃開始のゼロ・アワーというわけだ。
 この時緊張していたのは、ほとんどぶっつけ本番となる新兵器による攻撃を担当させられた武器士官たちと、通信、電探科の兵たちで、艦長たる私は部下たちに妙なプレッシャーを与えないようにする事が最も神経を使う仕事となっていた。指令が下るまでは広瀬提督についても同様だが、年期の差か人徳によるものか、それともこちらが政治家の息子で向こうが軍人一家だと言うことも影響しているのか、私よりも上手くやっているように見えてしかたなかった。まあ、単に艦の指揮と艦隊の指揮という職分の違いというものかもしれない。
 私がそうした思考を弄んでいると日付がついに翌日へとかわり、その丁度5分後、呉から断続的にほんのコンマ数秒だけ通信が行われ、その中のいくつかが本艦(艦隊)に宛てたもので、受信後通信士官たちの手により直ちにファイル解凍と暗号解読が行われ、必要な部署のモニターに情報を表示した。
 もちろん、最も重要な情報は艦長たる私と艦隊司令のもとに送られていた。
 指令内容は、極端に要約すれば『事前ノ指示通リ攻撃ヲ開始セヨ』と言うものであり、その点は出撃前大神鎮守府のブリーフィングで聞かされていたから特に大きな驚きはなかったが、その指令の末尾に『戦果ヲ期待ス』と昨今全く使われなくなった激励文で結ばれていた事が、この時一番驚いた事だろう。
 隣りで同じ文面を見ていた広瀬提督も同様に思ったらしく、私と顔を見合わせるなりニヤリと笑い、「こりゃ、爺様みたいに『Z旗』でも掲げた方がいいかな」と冗談を言ってきた事を今でも強く記憶している。もっとも、これに私自身が何と返したか、いまいち正確に覚えていないのが残念でならない。

 指令が全艦隊に通達されると、その中枢である「大和」の戦闘指揮所(CDC)も活気に満ちるようになる。乗員数1800人を数える大戦艦の艦長たる私もようやく忙しくなり、あれこれと降りかかってくる士官達からの報告と指示を求める声に応える事となった。
 ただ、核の直撃以外全ての攻撃を防ぐとされる特殊なカーボン素材とケブラー繊維、さらには鉛すらサンドされた強固な装甲で囲まれたCDCの中は、機械音と人間の出す様々な音で喧騒にこそつつまれていたが、飛行甲板周辺部以外無人の艦外で蠢いているであろう様々な兵器や電探の音は全く伝わってくる事はなく、海の香りすら目視の見張り員や昼戦・夜戦艦橋に張り付いている航海科の連中以外には関係のない事とすら言え、黄海の静かな海を圧しつつ進む10万トンの戦艦にあっては波濤すら船に慣れたものなら意識するレベルのものにはならず、呉の司令部とさして変わらない感慨すら抱かせるものだった。
 だが私の感傷などお構いなしに、80年代後半から大幅に取入れられ、最近小規模な改装でさらに電算化の進んだ「大和」は瞬く間に戦闘準備を完了し、訓練通り、そして命令通り、暗号受信からわずか10分足らずでその持てる牙の全てをむき出せる姿に変貌していた。
 もちろん外から見てもほとんど変化はないはずだが、CDCにあっては全ての兵装が『使用可能』と緑色で表示されている事がそのことを何よりも雄弁に物語り、巨大戦艦は艦長たる私にいつ自らの無数の剣を抜き放つのかを問いかけていた。
 そして、私と同様に全てを把握していた広瀬提督が私への指示、つまり攻撃開始命令を「艦長、やってくれ。」という何気ない一言を枕詞に下命した。
 それを受けて私も「全火器発射自由」という通常の全力戦闘の指示をまず下し、その命令達成を受けて、「(N弾頭搭載以外の)全巡航誘導弾発射開始」と言う主旨の最終指令を下した。昔で言うなら、いまだ彼女に最大の魅力を与えている主砲の一斉射撃開始命令のようなものだ。
 そして、命令を復唱した武器士官たち(うち三分の一は何と女性士官だ)のまるでピアノを弾くような軽やかなキーボード操作と力強いスイッチを押す動作により、彼女の持つ全ての巡航誘導弾が発射された。
 発射された数は、「大和」だけで150発。艦橋構造物を囲むように装備された装甲ランチャーに4発ずつ納められた32発のうちの28発と、艦の前後に装備された垂直発射装置の半数を突貫作業で入れ替えて搭載してきたものだ。(念のため書いておくが、発射されなかった4発はもちろんニューク・ヘッドを搭載したものを含めたランチャーだ。)
 発射そのものは、驚異的なレベルで自動化された発射システムにより、システム的にはゆっくり発射されたにも関わらずわずか数分で完了し、発射の有り様を外から見ていた随伴艦艇からは「大和」全体がまるで爆発したような、文学的表現を用いるなら突然活火山が出現した、もしくはディズニーランドのナイトカーニバルの一場面のような情景が見えいたはずだ。まあ、最近の若い連中にすれば、テレビアニメのような戦闘シーンと簡単に表現したかも知れないが、他の艦に乗っていた者たちは「まるで昼間のようだった」と何とも分かりやすく表現してくれたものだ。

 そして「大和」にとって、艦隊にとっての戦闘、少なくとも攻撃はこれで終了だった。あとは、発射した巡航弾がめでたく目標に命中してくれる事を願うしかなかった。まあ、その情報はしばらくは自身の電探によって、遠くに離れてからは他の友軍が早期警戒管制機や衛星情報で伝えてくれたので、何がどうなったかは一目瞭然だったのだが、どうにも打ちっぱなし兵器というのは味気ないものだとこの時程感じた事はなかった。まあ、砲弾を放ったと思えばよいのだろうが、こんな事を戦闘中に思うとうい事は、私は好戦的な人間なのだろう。それとも日露戦争のような戦闘に憧れる時代錯誤者なのかもしれない。

 この間、唯一驚かされた事は、大和の近くで突然多数の光点が出現した事だったが、これは友軍の「水中戦艦」が大和の攻撃を隠れ蓑に、巡航弾の一斉発射を行ったために発生したもので、一応知らされていた事とは言え、何とも得体の知れないものを感じさせられたものだ。

 そして、攻撃の効果は完璧だった。
 他の艦隊などからも同時に行われた巡航弾の一斉飽和攻撃は、完全な効果を中華人民共和国にもたらし、都合約600発もの高性能の電算機を備えた現代の自爆機(と呼んでよいと思う)たちは、任務を完璧に達成していた。まさに、海軍が目指していた兵器のスマート化のホープだけの事はあった。
 特に、それまで実用射程1000km程度だとされていた巡航誘導弾からさらに1000km近くも奥地を攻撃されるとは思っていなかった人民解放軍に対する効果は、後に合成開口電探による写真を見せてもらったが、それは目を覆わんばかりのものだった。大陸奥地にあった彼らの迎撃システムは、全く対応できなかったのだ。標的となった施設では、恐らく避難すらできなかったのではないだろうか。
 そしてそれを成し遂げたのが、私が艦長をしていた「大和」が行ったものであり、艦全体は目標への命中を伝える通信士官の言葉にそれなりの任務達成の興奮に包まれ、私や提督や副長などと握手して攻撃の成功を祝したものだ。

 だが、日本軍(アジア軍)全体の攻撃はこれだけではなかった。
 開戦壁頭の徹底した奇襲攻撃を教科書通り実践すべく、日本軍と満州軍などによる航空飽和攻撃が行われた。
 湾岸事変と同種の攻撃、もしくはイスラエルが1980年代に行った、イラクの原子力関連施設に対する航空奇襲に似ているかもしれない。もっとも、覇権国家が行った全力攻撃なだけに、規模がまるで桁違いだった。
 攻撃の効果をより完璧にすべく、空中給油機により遠距離進出した海軍機動部隊の艦載機もこの攻撃に多数参加していた。しかも、実験艦と言うよりも当時まだ秘密兵器扱いだったメガロフロート空母「飛鳥」が適当なお供を連れて、暇な母艦航空隊を満載して展開していたらしい。なんでも、この時「飛鳥」は、まともな戦闘艤装をほとんど持たないため揚陸艦でもある事を活用し、個艦防空力の上昇のためだけに近くで待機していた陸軍近衛師団の「81式対空誘導弾」、「87式対空戦車」など近接防空部隊を大隊規模で搭載し、整備員の乗り損ねた分はSTOL輸送機で運ぶほどのあわただしい出撃だったそうだ。
 そして攻撃は、湾岸事変より徹底していた。
 宇宙軍の戦略爆撃機の群による巡航誘導弾の第二撃にあたる一斉飽和攻撃、限定的な電波透過機である「剣山」攻撃機、戦爆装備の「天狼」を主力とする連合空軍所属の数百機による一斉出撃、海軍の空母7隻分、つまり日本本土近海とインド洋にある全ての艦載機を投入したアルファ・ストライク、これに満州国軍の空軍戦力のほぼ全力が加わり、韓国、ベトナム空軍がその側面を固めていた(印度軍の攻撃は、彼らの熱意はともかく今後の外交を考え控えられたそうだ)。
 投入された攻撃機の数は、たった数時間の間に1000の単位に達し、都合1万トン以上の高性能弾薬が人民解放軍とクーデター政権の頭上に見舞われる事となる。特に、弾道弾サイロなど重防御施設を破壊するため1トン以上の単体重量を持つ重貫通爆弾を多数抱えた凶悪な攻撃機がほぼ全力で投入され、大規模な核爆発の直撃にも耐えられるとされた様々な施設を破壊し尽くした。もとがドイツの土建技術に通常兵器で打ち勝つために造られた兵器だけに、時代遅れの共産主義者が相手では哀れにすら思える程の破壊力だった。
 実質的な技術格差が30年以上あるとされているのだから、相手からすればもはや謎の異星人と戦っているようなものだったろう。
 蛇足だが、この頃アメリカの新型爆撃機やドイツ帝國最後のモンスター「ステルス・ホルテン」に対抗すべく一般的な表現で秘密兵器として、もしくは「轟天」の後継機として極秘理に開発の進められていた新型の全翼式の透過型巨人爆撃機(95式重攻撃機(蒼天))も初めて実戦に投入され、遠く硫黄島の宇宙軍秘密基地から腹の中に巡航弾を満載して飛来していたらしい。
 共産中華全域を制圧する各種電波兵器を満載した様々な電子作戦機については言うまでもないだろう。彼等の活躍により中共軍は迎撃はおろか、全ての通信が途絶され司令を出すどころか、インターセプターを離陸させる事すらできなかったからだ。
 ただよく知られているように攻撃はただの一撃を以て終了した。どさくさに紛れて中共の武力統合を目論んでいた急進的な中華民国軍が行動を開始するいとまもない程の早業だった。事が数時間で終ったので、軍が配置に付く時間すらなかったのだ。まあ、後から聞いた話では、中共に対する電波攻撃の余波を強く受けていたせいもあったそうだが。
 とにかく、まるで辻斬りのような攻撃で、日本を始めとする各国は最低限、いや最大限の目標を達成していたと言うことになるのだろう。
 
 そして、その空襲のさなか再び重慶で地上の砲火が短時間煌めき、その翌日正午に全世界に新たな声明が出される事で、この時の事変は当事者にとっても急転直下という表現を用いてよい素早さで収拾される事となる。
 この下りは当時のニュース記録や歴史の本でも読めば分かることだから端折るが、林彪派のクーデターにより一瞬で殲滅された筈の実務官僚団の一部が地下に潜伏しており、彼らがこの攻撃を一つの機会として起死回生の反撃に転じ、逆転大勝利を納めてしまったという歴史的な事件の事だ。
 まあ、事実は小説より奇なりという一つの例なのだろう。

 このニュースを、私は任務を終え本土に向けて針路を取っていた艦内のガンルームで見る事となった。
 新政府が樹立された中華人民共和国は、何とそれまでの方針をすべてかなぐり捨てて、国際社会にその身を自ら投げてしまったのだ。
 中華人民共和国の新書記長・江沢民氏による演説とその後すぐに出された世界に対してと各種国際組織に、新生(共産)中国は国号を中華人民共和国から中華連邦共和国に改称し、あわせて一党独裁の廃止、民族自決による連邦制の導入、大規模破壊兵器の査察受入及び破棄、国連調停団の介入容認、経済解放、各国際条約への批准および加盟など、それまで国際社会が口酸っぱく言っていた事を全て受け入れる用意があると明言し、さらには今すぐにも国連の使節を送り込めとすら強く要請してきたとなる。
 つまり共産中華は、国際社会に身売りする事で滅亡寸前の祖国を、中華民国からの生き残りを図ろうとしたのだ。
 そしてこれをそれまで共産中華を天敵としか見ていなかった日本帝国、インド共和国がこぞって受け入れ、アメリカなども巻き込んで国連など国際社会を動かし流れを作ってしまっていた。
 この顛末に関しては、中華民国がいかに弁を尽くそうとも、外交的主導権を大事な時期に得られなかったという失点は大きく、そのままでは最短で10年、最長でも四半世紀内に必ず滅亡を迎えていたであろう国家が永続的残る事が確定され、中華地域中央は統一国家を作る機会を少なくとも半世紀は逃したのではないだろうか。これは共産中華各地に眠っている各種資源を日米(そして印度)が欲しているだろうから、かなり確実な事のように思われる。
 そして世界は、本来なら「中華統合戦争」もしくは「中華統合紛争」と歴史的に呼ぶものになる筈だったこの紛争に対して、単に「第二次中華動乱」と言う名称を送っただけだった。
 ただ、これを見たとき、私の内心はこの劇的情景が共産中華の一部と日本などの間で仕組まれていた事ではなかったのかと思ったものだが、まあ偶然と必然の産物だったのだろうと今では思う事にしている。

 父の言葉を使えば、人民をそれまで『指導』していた政治家と軍人と中枢官僚の大半は意図的に滅ぼされ、厄介だとされた軍事力も周りから見れば許容範囲に減少し、片方の権力ピラミッドが自らの手で瓦解する事で、中華地域の半分はあるべき姿へと立ち戻る機会を得る事になり、周辺国は最低限の出費で今後四半世紀のそれなりの安定を手に入れ、3億6000万人の人民達は屈折した共産主義の顎門と飢餓から解放されたと言うべきだろうか。
 しかも、21世紀において躍進と超大国化を約束された筈の中華民国の発展が、その後の彼等がアジア諸国への憎悪を募らせた事から軍国主義への傾倒したため、経済的成長を抑制する事になったのは、たとえ彼等の軍備が多少大きくなったとしても大きな利点だと言えるだろう。
 と言ったところになるのではと思う。
 それに、3億もの人間を抱える国家が他の国家に併合できるなど、あの大陸の人間以外には全くの不可能事だと考えられていたのではないか、とも思える。

 どちらにせよ、私にとっての第二次中華動乱と呼ばれる直接の関りはこれだけで、戦争や戦闘行為を行ったと言うよりは、派手な総合演習を行ったという感想が主となるようなものだった。
 ゆえに、ここに駆け足ではあるが、個人的な記録を残す事とした次第だ。
 記憶の薄れないうちに。

誤字と句読点の誤りがいくつかありますね。
次からは気をつけてください。
あと、日記は机の上に広げたまま置いてはいけませんよ。

 カワイイ赤ペン先生より

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 これを記した私の息子が軍人であるだけに、その経過も事件のクライマックスとなった戦闘面が主となっているので、現場からの視点という面では私のこの手記とはまた違ったものとなったのではないだろうか。
 また、最後の書き込みは、この手記を結果的に白日の下にさらす直接のきっかけになった、彼の娘つまり私の孫の手によるものだ。この落書きを息子がとがめたが故に、こうして私によって転載される事となった事を追記しておこう。

 なお、この手記では触れられていないが、日本軍などの手による中華人民共和国に対する攻撃は、この空爆以外にも空挺師団や海軍陸戦隊の精鋭部隊によるゲリラ的急襲が関係各国との共同作戦で行わたと、まことしやかに語られている点について一つ追記しておきたい。これは、他国の軍人、軍事研究家やミリタリーマニアの間でよく囁かれている逸話だが、彼等の弁によると爆撃だけでは近隣諸国にとって邪魔な要人の暗殺や各種施設の徹底した破壊は不可能であり、最後は特殊部隊が暗殺・制圧・破壊したとなるのだ。
 確かに、中共の巻き返し派や国府軍以外が彼等の国を打倒するには必要な一手だろうが、本格的な地上侵攻を伴わなければよほど特殊な場合を除いて結局のところあまり意味はなく、一人の好事家としては少し首を傾けざるをえない意見だ。
 もっとも真実か否かについては、日本帝国国防省の機密解除がなければこの一連の攻撃を命令した私の口から言えるはずもないので、気長に待っていただかねばならない。もっとも、真実だと思われたなら、と言う条件が付くかもしれないが。

 さて、何はともあれ、この時の戦闘とその後の政治的激変により二つの中華国家は新たな歴史のレールに乗る事となったが、これからもそれぞれ違うルートを辿るのは確実で、歴史上初の人口10億をかかえる巨大国家が誕生する機会を失った訳だ。
 そればかりか、一夜にして共産中華はアジアの有力な同盟国となり、中華民国は世界の敵、21世紀に入ってアメリカの言うような『悪の枢軸』と呼ばれるまでの政治的激変を迎える事にもなっていた。
 そして、そこで発生した余波は、短期的にも近隣諸国にも当然波及していくことになる。
 当然、日本帝国もその例外ではなかったが、日本自身と日本と特に親密な近隣国家においては、とある成功が主に民心と政治的衝撃力の点で中華地域での混乱を上回り、民心の向上は景気の回復をうながしていた。
 特に私にとっては、この成功が私の首相在任期間中に計画を最終的に承認した事はチョットした幸運だったと思う。
 なお「とある成功」とは、日本の宇宙開発での成功と念のため追記しておこう。

 では、最後の章について語るまでに日本がここに至るまで、そしてさらなる未来の扉を開くまでの道のりをその前に綴っていきたいと思う。

■Episode. 7:20世紀前半 
 パックス・ニッポニア(日本の経済発展略史)

 ●Phase 7-1:日本近代経済の発展略史(1)