■Episode. 7:20世紀前半 
パックス・ニッポニア(日本の経済発展略史)

 ●Phase 7-1:日本近代経済の発展略史(1)

 日本人たちが未来への階段を創り上げていくところを語る前に、まずは人を集め、資材を整え、土台を作るところから話しを始めたいと思う。だが、これを明治御一新やさらに遡って江戸末期から始めても、近代史という点では正しいかもしれないが、あまりにも紙面を多く取る事となるので20世紀以降、特に第一次から第二次世界大戦前後を中心にしてなるべく簡潔に話しを進めていきたい。
 
 日本の産業の近代化は明治の時代が幕開けてからほぼ同時に始まったが、真の意味での工業化が始まったのは20世紀に入ってからだ。有名な「八幡製鉄所」の1901年創業開始がその象徴だろう。ちなみに、この製鉄所の建設資金は日清戦争の戦勝で得た莫大な賠償金から2000万円も割いて建設されており、軍備にばかりでなくこうした面にも投資を忘れなかった明治の先人達の賢明さをこうしたところからも見ることができよう。この点4000万円以上の海軍費用を流用して自らのための庭園を造った清帝国の西大后の国家指導者としての愚かさは度し難いと言えよう。

 言うまでもなく、製鉄業とは重工業の基礎中の基礎であり、これなくしては国家としての自立した重工業化は語れないという程の基幹産業だ。つまり、日本がこれ以後産みだしていった国富の多くはここから始まったと言えるのではないだろうか。もちろん、異論も多々あるだろうが、重工業という側面から日本経済を見た場合、この製鉄所の建設なくしては語れないと私は考えている。
 故に、この項を語るにあたって最初にこれを取り上げてみた。
 だが、この製鉄所が稼働を始めた当初、日本産業は極めて小さい規模しかなく輸出入も輸入超過であり、今日の貿易立国日本を知るものにとってはかなりの違和感を感じる事ではないだろうか。だが、舶来ものを重宝するという日本人の奇妙な風潮からすれば、ある意味納得のいくことなのかと、埒のない愚行してしまう。
 また、同時期日清戦争で得た莫大な金(純金:ゴールド)を以て、日本の金本位制度が施行されたと言う点も見逃せないだろう。
 これなくして、日本の欧米との本格的な海外貿易の確立を語ることは難しく、主に綿糸貿易と大きな犠牲のもと形成されていた生糸産業により日本の国富が少しずつではあるが増大し、そこで得た外貨がその後の日本産業の回転資金となった事についても語るまでもないだろう。
 
 日本が本格的な重工業の育成に着手したのは、全て日清戦争以後の事だった。明治が始まってから30年近くの時間を必要としたのはその土台作りに必要だった時間が30年という時であり、そしてそれをバネとして対露政策、つまりロシア帝国に対して軍事力で何とか対抗できるようにしようという、当時の非力な日本を思えば無謀とすら言える明治政府の恐怖に裏打ちされた政策によって、ようやく基礎の土台ができたばかりの日本産業の重工業化が始められたのだ。
 このため、日本の重工業化は軍事産業に後押しされながら開始されたと言う事もできる。これは、最初に採り上げた八幡製鉄所ですら例外でない。八幡製鉄所は、その完成により日本が鉄鋼の自給をようやく可能とさせ、それら軍需産業の全てがこれに依存し、そこで生み出された鉄こそが日露戦争を遂行させる最大の原動力となったのだ。
 横須賀、呉、佐世保、長崎、神戸などの造船所で生み出された艦船、大阪砲兵工廠で製造・備蓄された数百万発の砲弾、数千万発の銃弾、日本全土に急速に拡大した鉄道と汽車、これら全てが海外からの輸入鉄鋼だけではなく、国産でも賄えたからこそ何とかあの戦争を遂行する事が可能だったのだ。
 つまり、この当時の日本の重工業化とは富国強兵と言うスローガンの最重要のファクターであり、軍事と重工業は切っても切れない関係だったと言う事ができよう。
 日本人達は、ドイツ宰相ビスマルクの忠実な後継者だったのだ。
 そして、その状態は日露戦争後も続くことになる。

 日露戦争において日本は、数十万の死傷者と共に約22億円もの戦費を使用して勝利した。この当時の日本の国家予算が無理をしても4億5000万円だったと言えばその異常さが分かると思う。日本はたった1年半でこれだけの金を、ただただ戦争のために使用したのだ。つまり、日露戦争において日本は紛れもなく国力を越えた総力戦を行ったと言える。これに対し対戦相手のロシアも約20億ルーブル(40億円)の戦費を使用したが、これは彼らの年間国家予算と同程度でしかなかった事を思えば、日本の際どさが分かっていただけるだろう。
 そして、官民いや日本民族挙げてこの祖国防衛戦争を乗り切り、表面的にはそれだけで民族自叙史になるほどの圧勝と言ってよい結果を以て戦争を終える事ができたのは、日本近代史上の中でも最大級の僥倖だった。また、世界近代史上での一大分岐点となった事も大いに評価した。それまで世界史上でパッとしなかった日本民族は、たった一度の戦争で世界を揺り動かしてしまったのだ。
 だが、その表面的な圧勝を以て得られたのが、樺太全島の割譲や満州の利権譲渡だけで賠償金がただの1ルーブルも得られなかった事は、苦労に苦労を重ねて戦争を応援した日本国民にとって到底納得できるものではなかった。その過半が軍備と重工業建設に投資されたとは言え、日清戦争の賠償金で多大な恩恵を受けたと日本国民が感じていたため、この反動は極めて大きなものだった。
 この民心を日本政府は何とかしなければいけなかった。そして何より外債で賄われた戦争の債務返済も、弱体という表現すら甘い日本の財力にとっては非常に辛いものだった。
 真っ正面からこの借金を返済し、国民に多少なりとも楽をさせてやるには到底通常の方法では対処できそうになかった。
 そこで明治政府は、欧州外交を用いたアクロバット的手法でこの苦境を乗り切ることを決意する。そしてそれが、結果的に日本経済をさらなる躍進へと誘う事になった。
 なお、この時から日本政府がアジア的外交から欧州的な外交を常とするようになった事を注記しておこう。

 日本政府のたてた計画は、いくつかの項目に分かれていた。
 まずは、日本の完全な衛星国とした朝鮮王朝(1905年大韓帝国成立、1906〜1944年までは日本の保護国)と新たに得た満州全土を主に欧州諸国、特に借款の大きかった大英帝国に対して経済的門戸を開き、この事をもって借金返済の肩代わりもしくは債務返済期間の延長を求める事とした。
 そしてこの提案に、常に新たな市場を求めている英国などが概ね了解し、中華大陸での進出と同様の行動を行い出した。この時日本政府が賢明だったのは、最終的な権限は絶対に手放さなかった事と、日本が幕末以来苦渋を嘗め続けた関税自主権や治外法権を諸国に与える事を可能な限り阻止し、日本本土と同様の条件を求めた事だろう。この件に関しては、市場開放はともかく欧州諸国はあまり良い顔をしなかったが、代わりに日本が当地での警備と軍事的な事を肩代わりするとされたのでガードマン代と何とか納得させたので、大きな問題にならなかった事も小さくない成果だろう。もっともこの点は、極東という場所がヨーロッパ諸国にとってあまりにも遠く、そんな僻地に自国の軍隊を多数派遣するなど英国以外まともにできなかったという物理的な理由が作用していた点は無視してはいけない。また、日英同盟の存在がこの状態を容認した点も無視できない。

 だが、借金を何とか待ってもらったからと言って、その肝心の返済すべき金がなければどうにもならなかった。
 幸いにして日本経済は戦後不況にあっても国全体が良性の発展途上国特有の上り調子にあり、税収も年々それなりに増大して何とか国が破産しない程度に借金を返済できそうだったが、せっかく増大した税収のかなりを借金返済にばかり充てていは、辛うじて上り調子の経済と産業の拡大を不健全に抑止し、富国強兵という国是に反する事になる。
 また、日露戦争のために創り上げ戦争中さらに肥大化した軍隊は、当時小さな体(経済力)しかもたない日本にとっては分不相応な極めて大きな武器であり、これも何とかしたいとうのが依然健全な思考を維持していた明治政府の偽らざる気持ちだった。
 そしてちょっとした契機が、一つの方向性を創り上げる事になった。
 日露戦争において最も活躍したとされる陸軍将帥、乃木稀助元帥が戦勝後の明治大帝への拝謁において、「日本国の国防を思うに陸軍国との本格的対立はできる限り避ける方が良い」という主旨の発言を行い、これを明治大帝がその真意をくみ取り「是」として、これを機に当時軍神と功臣が徒党を組んでいた軍に対し、明治の大らかで大味でもある中枢官僚達が一斉に軍備削減を行わせてしまったのだ。陸軍側としても、身内の中で一番の功労者とされる者が国家のために平時に相応しい軍縮を行うべしと言っているのにこの言葉を無視する事もできず、また戦争そのものによる物理的損害で下士官と下級将校の著しい不足をきたしているという事実が大規模な軍縮を断行させる事になった。
 この事は、政府が軍隊をコントロールするという最も重要な点での最良の例とされ、日本軍の文民統制の本格的な基礎を作り出す事になり、さらには日本的なバランス感覚はこの軍縮を陸軍だけでなく海軍にまで波及させる事となった。
 結果、日本軍は日露開戦前年の水準にまで縮小され、戦中増大した軍備の過半が廃棄される事となった。
 軍備の削減が日本経済に与えた影響については言うまでもないだろうが、ここでの契機とはこのことではない。

 軍縮の結果大量に発生した余剰兵器の事だ。ロシアの捕獲戦艦から数個師団分の小銃に至るまで、実に多数の兵器が日本軍駐屯地の倉庫を埋め尽くす事になった。
 また、官営工場が主体とは言え、軍需に特化した重工業などの産業の方向転換もしくは余剰生産の解決も重要な政府の仕事となっていた。
 そして、明治の官僚達はこれを直線的に解決する事とした。自らの衛星国となった朝鮮半島国家にこれら余剰兵器を安価で売りつけてしまったのだ。さらに、英国など欧州諸国の了解をとりつけた上で、かつての敵国だった清帝国にも武器の売り込みを行い、市場のさらなる拡大を図る事ともされた。
 この政策の実施は、日本にとっては一石二鳥どころか三鳥も四鳥も利点をもたらす事になる。
 まず第一に軍縮により国庫の負担が軽減し、第二に余剰兵器の輸出で外貨が獲得でき、第三にようやく近代化に目覚め始めた朝鮮半島が自前の軍事力を保持する事で日本の防衛負担が軽減し、第四にさらなる海外からの兵器の受注が発生し、これを捌くために日本の産業発展が促進され・・・と良いことづくめだった。もちろん問題がないわけではない。特に重工業に緒がついたばかりの日本の工業水準では、兵器の質がどうしても欧米に劣り、人件費と運搬費の点から格段に安いという点以外で買う側の利点が少ない事は、兵器輸出という点では大きな問題のひとつと見られた。また、兵器市場とは一方的に儲かる市場であるだけに列強間の国際競争が激しく、この時点で日本が国際市場で欧米と肩を並べて競争しなくてはいけないとう点も大きな問題だった。だが、この点は、製造を続けることで質の向上は可能で後々大きく改善し、第一次世界大戦で花開く事になる。
 
 しかし、四苦八苦しながら行われた兵器市場への参入は、意外なほど成功を収める。やはり、安価でそれなりの数を短期間で揃えられるという点は大きな利点だったという事だ。また、日本製の兵器が日本人の体格に合わせて作られたものが多かったため、同じような体格を持つアジア人種の国にはこの点が好評で、特に良銃との評価のある「村田式歩兵銃」系列の小銃は大韓帝国、清帝国だけでなくタイや遠く日本に好意的な中近東諸国にまで輸出されるベストセラー的商品となっていた。
 武器輸出による外貨獲得で日本経済の回転速度は大きくなり、貿易収支もそれまでの輸入超過から輸出入の均衡もしくは年によっては輸出超過となり、日露戦争から10年が経過した頃には、日本兵器は一つのブランドとして成立するまでの評価を獲得していた。もっとも、この頃日本が輸出していたのは、主に韓国・支那が求めていた歩兵用軽火器が主力で、払い下げ艦艇などが目玉商品という欧米などから見れば評価にすら値しないようなものでしかなった。例外は、「38式歩兵銃(輸出型)」で、1911年にアメリカの技術を導入して新たに建設された流れ作業式の大規模工場から、主に輸出用としてさらに改良・生産された多連発式のこの小銃は欧米でも高い評価を受け、第一次世界大戦ではこれと同じ弾丸を兵器体系に組み込んでいたロシアを中心にした連合国諸国に大量に輸出される事となった。
 そして日露戦争から10年で、日本は欧米列強の重工業国がそうであるように立派な武器輸出国家へと育ち、これを輸出基幹産業に重工業と機械業が発展、それに引きずられる形で国富が増大、当然それは税収の大幅な上昇を生み出し、これを明治政府は積極的に国内の社会資本整備、特に重工業と交通網の整備に投入し、いくつもの大規模公共事業は建設ブームという副産物を生み出し、日本を大きな右肩あがりの経済成長へ誘っていく事になる。
 これは、1905年の国家予算が4億6500万円程度に過ぎなかったのが、第一次世界大戦開戦前には約15億3000万円にまで拡大していたと言えば、どの程度かが分かっていただけるだろう。10年で約3.3倍、年単位で平均10%以上の経済成長を行っていたと言う数字を提示すればなお分かりやすいと思う。これは、銀行予算の金利と思って計算していただければいかに凄い数字かが見て取れるだろう。ただし、明治の頃の日本経済がいかに貧弱で小規模であったかという事の裏返しであり、この三倍達成という数字も世界的な絶対数で比較すればそれ程大きな数字ではなかった事も忘れるべきではない。
 
 そして、日本がアジアでの経済的成功を達成しつつあった頃、日本にとっても一大転機となる第一次世界大戦を迎える事となった。
 このあしかけ6年にも及んだ未曾有の大戦争は、欧州大陸に癒しがたい戦禍を残したが、日本経済にとっては福音や天佑という言葉では足りない程の恩恵をもたらす事になる。
 これも数字を挙げてみると、1920年の国家予算が30億円を軽く突破したと言えば分かりやすいだろう。また、明治御一新以来溜まりに溜まった債務を全て返済した上で、大戦での欧州諸国の大量の外債を引き受け、民間を含めると20億円近い債権国となっていたという事実こそが、世界的視野で見ても日本経済の拡大を端的に表しているだろうか。
 しかし、一番の驚異的な点は、大戦に自ら参戦しつつも年率12%以上の経済成長を維持していたと言う事だ。これを少し長めの視点で見ると、日露戦争からたった15年で一人当たりの収入が(極端なインフレなしに)6倍以上に拡大したいとなるのだから、今の我々の状態からは想像もつかない変化がこの頃の日本人に訪れていた事が見て取れる。

 そして、経済の拡大は当然産業の様々な分野に大きな影響を与える事となる。順に見ていこう。
 まずは第一次産業、つまり農林水産業だ。ここでの大きな変化は、大戦前後からの化学産業の発展が窒素系の化学肥料が出現させ、これが飛躍的に農業生産力を増大させていた点が第一の変化だろう。また、第二次産業の発展により都市が大量の労働力を必要とするようになった事から、その労働力が旧態依然たる小作農制度により多数の過剰労働力を抱えていた農村に強く及び、これが地主・小作制度の部分的崩壊を呼び込んだ。もっともこの頃はまだ都市近郊部においてが主であり、日本全体の農業革命とすら呼ばれる程の変化は1930年代後半を待たねばならない。また、農業の一種である畜産業も経済の拡大に伴い都市部の需要により発展し、また連合国各国への輸出、同盟国軍捕虜への供給がこの産業萌芽から拡大を助長、牧畜、養鶏などが都市部近郊の農家で広く行われるようになり、これにより自作農家一戸あたりの収入も飛躍的に増大し、都市部近郊での「農業改革」を促進させる事となる。都市部の家庭のお茶の間で卵焼きが一般的なメニューになったのはこの頃からだ。また水産業だが、日本人一人当たりの所得の増大と冷凍技術の進歩、缶詰などの加工品の生産量増大から沿岸漁業から徐々に沖合漁業へ拡大、そして大正時代の一時期にブームにもなった「鯨鍋」、「鯨揚」など鯨メニューを日本中のお茶の間に満たすべく発展した捕鯨産業を中心とした遠洋漁業が大きく発展しており、これは日露戦争で得たオホーツク海全域の漁業権の獲得も大きく作用し、日本人一人当たりの摂取カロリー量を大きく増大させる事に大きく貢献する事になる。日本人の体格が本格的に大きくなり始めたのもこの頃からとされている。
 余談だが、この遠洋漁業の発展は、一部それまで軍艦ばかり建造していた民間造船所が建造した船舶が多かったため、特に鯨漁の大型母船とキャッチャーボートは軍艦に近い構造を持っていた事から、これが後の軍縮会議で予備艦艇として建造したのではないかと議題に上っている。

 次に二次産業、つまり工業についてだが、ここでの変化は機械産業は一見それ程大きくなかった。いや新規なものが少なかったと言う表現が正しいだろう。それは、日露戦争後萌芽した武器輸出産業が規模を数倍にして行われただけだったからだ。だが、数倍の規模という事はそれだけで大きな変化であり、小さな町工場は大戦の間に中規模の工場に作り替えられ、さらに輸出力強化のために合併や合弁を繰り返し、基礎産業分野において多数の大工場を生み出す事になる。これは、欧州の戦場に多数輸出された各種武器や航空機・自動車両の生産を支え、さらにここからの受注により拡大し、日本産業の基礎体力を大きく引き上げる事となる。なお、この点では良質な各種工作機械そのものが大量に国産されるようになった点が非常に重要だ。ただし、生産管理という考え方が生まれるのは次の産業発展を待たねばならなかった。
 しかし重工業で一番の変化は、重厚長大産業において顕著で、特に肥大化したのは造船業と鉄鋼においてだった。よく伝わるひとつ話しとして、大戦が始まるまで小さな木造船を作るだけの船大工が、大戦が終われば革の安楽椅子で葉巻を吸うほどの大社長になっていたという、俗に言う「船成金」の存在が有名だろう。確かにこれは多少誇張もあったが、この時期実に多数の大型船渠、船台が欧州諸国の受注を賄うために日本中で建設され、さらにこの頃折から始まっていた日米の軍拡競争がこれを加速させ、軍備の拡大による大規模公共投資と政府助成金は日本の年間建造力をたった5年で10倍にしてしまう程だった。当然日本の船舶量も戦時標準船の大量建造・普及と共にこの頃に異常増大し、商船だけで500万頓の大台を軽く突破、大戦が終る頃には700万頓もの数字に乗せ堂々の世界第三位の海運国へとのし上がっていた。
 そして、全ての重工業を支える製鉄業も、異常な程の活況と拡大をしめしていた。特にこれは大戦前に国内の社会資本建設と武器市場の拡大を狙って多数のアメリカ式の大型製鉄所が民間の大会社の間で建設されつつあった事も重なり、それまでの八幡製鉄所の拡大は当然として、岩手の釜石、千葉の君津、大阪の堺、兵庫の神戸、瀬戸内の姫路などで欧米を凌駕する程の近代的な大製鉄所が誕生する事となる。これらは満州全土から安価で供給される石炭と鉄鉱石を使い第一次世界大戦の初期に生産を本格化、戦争が終わる1919年に年間800万頓もの鉄鋼を生産して、これを指導した日本政府そのものを驚かせる事になる。
 また、折からの石油需要の増大は、必然的に日本国内唯一と言ってよい樺太北部の油田の採掘を本格化させ、近在の不凍港湾を抱えた工業都市である北海道の小樽や釧路、青森での石油精製業を勃興させていた。さらに産業の発展、所得の増大は電力需要、水需要の増大をもたらし、双方を満たすため全国各地で大規模なダムの建設も始まろうとしていた。なお、さまざまな施設、社会資本を誕生させるための建設ブームについては言うまでもないだろう。
 そして先述したが、農業需要を満たすために化学産業も化学肥料の生産分野において大きく発展し、欧州では毒ガス製造の手段として悪しきものの代表とされた化学産業も、農業の救世主としてこの当時に大いに発展する事となった。
 そう、日本に全ての重化学工業が揃いつつあったのだ。もちろん、この頃の欧州の戦時生産への特化の間の間隙を抜く形で行われた繊維産業など軽工業分野での躍進もたいへんなものだつたが、日本の発展を重工業の進展ほど如実に物語るものはないだろう。
 これは、時の内閣総理大臣寺内正毅をして「列島大改造」発言をさせるに至り、日本の第一次高度経済成長の絶頂期を象徴させるにいたった。
 そして、第一次、第二次産業の計数的拡大は、それまで明治日本であまり大きな勢力を持たなかった第三次産業(サービス業)にも大きく影響していた。
 「大正デモクラシー」という象徴的な言葉が特に有名だと思う。そしてこの当時に日本の近代娯楽の元祖の大半が生み出されたと言って良いだろう。これらを特に拡大させたのは、当時からサラリーマンと呼ばれた官吏・会社員などの新中間層であり、彼ら都市労働者は一般的な収入より30%ほど多い所得を用いて都市的中流生活を謳歌し、近代娯楽文化を花開かせる事となる。
 そして、これらはちょうど御一新から教育に力を入れてきた日本政府の手による学問・教育の普及と専門化が一つの完成期に達していた時期と重なった事から、大衆文化拡大と共に学問や文学、各種研究も大いに発達する事となる。今でも有名な作品がいくつも出現し、近代日本文学が盛んになったのもこの頃だ。ちなみに、有名な東京駅や帝国ホテルなどの煉瓦作りのモダンな建築物が日本各地で多数建設されたのもこの時期になる。
 もちろん、産業としての側面もこれら大衆文化は大いに発展を助ける事になる。いつの時代でも娯楽とは少し違った経済理論で語られるとすら言われる産業だけに多少複雑で理屈に合わないところはあったが、国の全てが上向きだったこの時代においては、全てが是とされていた。
 また、産業的に言えば、日本独特とすら言える主に大衆をターゲットとした出版業界の発展、映画産業の勃興、ラジオ放送開始とそれに伴うスポーツの全国規模での娯楽化などである。また、変わったところで関西の阪急電鉄が行った路線沿線各地での住宅地の建設、遊園地、百貨店、歌劇劇場などの多角的展開といったものがあるだろうか。
 そして、第一次世界大戦と言うものは、このサービス業において日本社会に若干の変化をもたらしていた。それは、欧州では大量に若い男性が兵士として戦場に動員された事からその補完のために一時的に大規模な女性の社会進出が起こったが、日本でもこれをそのまま「舶来ものは正しい」というよく分からない当時の感情的理由(現代にも通じるが)で取り入れる方向になり、女性の職場への進出、社会への進出が一部ではあるが一般的に行われるようになった事だ。もちろんこれは、産業の発展に伴い女性すらも労働力として考えなければいけない時期に日本(の都市部)がさしかかっていた何よりの証拠だが、きっかけは実に日本らしく舶来ものの輸入という事になるだろう。なお、女性の社会進出が特に顕著だったのは、関東大震災後の東京一円においてと言うのも興味深い点だ。
 ちなみに、教科書などでも採り上げられる女性車掌としてのバスガール登場、宝塚少女歌劇団の発足、当時カッフェと呼ばれた喫茶店でのヒラヒラしたエプロンをまとった西欧風のウェイトレスなどが花形だろうか。当時「モガ」(英語のモダン・ガールの当時風の通称)と呼ばれた流行の最先端を行く女性が社会的に注目されるようになったのもこの頃だ。そしてこの事は、女性が社会的にオープンな存在となりつつあった事の何よりの歴史的証拠でもある。

 だが、日本に未曾有の経済発展をもたらした第一次世界大戦は終息し、この後必然的に日本経済は冷え込む事となる。
 では、次の節では第一次世界大戦後からを見てみたいと思う。

 Phase 7-2:日本近代経済の発展略史(2)