●Phase 7-2:日本近代経済の発展略史(2)

 1923年、帝都を襲った関東大震災の発生により躍進を続けていた日本経済は突然の急停止を強いられることとなった。それまで、何とか第一次世界大戦での好景気の余波を継続していた日本経済は、関東平野中心部で100億円と言われる戦争の惨禍すら上回る天災による被害を受けることで一気に不景気に突入する事となる。不幸中の幸いは、この当時の産業の中心はまだ阪神工業地帯にあり、東京湾一円は消費地帯であり、工業分野、二次産業での産業圏としてはまだ副次的だった事だろう。
 だが、この天からの変化の強要は、結果として日本経済にプラスに働く事となる。
 時の内閣総理大臣山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)は直ちに大規模な戦災復興案をぶちあげ、大蔵大臣も日銀などを動かし20億円もの救済融資を行う事となったのが発端だった。
 そして、それだけでは不足とばかりに、大戦後停滞しつつあった建設業と重工業の余剰生産力に対する手当も見込んで大規模な東京復興という未曾有の公共事業を議会に提出する事になる。彼はあくまで偉大なる創造的な人物だった事が、この国家事業を成功へと誘う事になったと言えるのではないだろうか。
 これは、当時「八八艦隊計画」という未曾有の大海軍建造計画を推進中だった海軍においても、国民の人気取りという面と国難にあって莫大な血税を消費し続けているという後ろめたさから、後で予算を復活してもらうという政府との約束で一部造船・鉄鋼産業の軍需から民需への復興転換と予算の一部返納、各種人的協力を行い、陸軍も海軍への対抗心から工兵隊を中心に復興のための建設要員を兵士の中から出し、官民軍の総力を挙げての東京復興計画が推進される事になった。
 これらにより「帝都復興」のかけ声のもと、当時の山本内閣はまるで戦時の挙国一致内閣のような性質の内閣へと変貌を強要され、まるでいずれ訪れる未曾有の不景気に立ち向かうような体制の準備段階もしくは予行演習を日本に与える事となった。
 またこれは、最も安い労働力として兵隊が生産活動に大規模に活用されるという最初の例となり、社会主義国や全体主義国で行われた同種の事業と同じ効果を日本にもたらし、これを最初の例として以後も何度か、「国家事業」の際には行われる事となる。

 震災復興という大規模公共投資は、年内は流石に効果を表すことはなかったが、翌々年の1925年には関東一円の雇用の促進に伴う一般消費の拡大をもたらし、首都圏が息を吹き返した事でそれは徐々に日本全土、日本経済圏全てに広がり、それまでの日本経済と違う内需の拡大という経済状態を以て景気の回復が図られつつあった。もっともこれを可能としたのは、第一次世界大戦でため込まれた外貨と外債による国富の増大と蓄積があったればこそで、もしこの財源がなければ日本は関東大震災により未曾有の不景気へと突入していたと言われている。
 また、この景気対策は、後にアメリカで行われ大失敗に終わった大規模公共投資とよく比較される事があるが、日本がこの投資を成功させたのは半ば偶然に日本経済圏全体が良性の内需拡大という方向に向かったからこそであり、本来ならアメリカのニューディール政策と同様に経済政策としては失敗したと言われている。そしてまた、内需拡大という方向は、徐々に官主導という体制から民間主導の経済への移行を必然的に強要し、そう言う点でも全体主義的傾向の強いニューディールとは性質を異にしていると言えるだろう。
 なお、この東京復興においての象徴的な建造物は、東京を取り囲むように掘られた大運河と、これからの需要拡大を見越してつくられた放射線状に広がる自動車用道路網、そして各鉄道沿線に作られた西欧風の瀟洒な分譲住宅地だろう。
 また、この時の投資により東京一円の下水道網が完全に整備された点も社会資本の整備という点では見逃すことはできない。ただこれを実現したのは、海軍が1年間戦艦の建造を延長したおかげだと言われ、実際戦艦1隻の建造を断念すれば大都市一つの下水道網が完備できたとされるだけに、大きな皮肉をもって語られる事となる。そして、ちょうど関東大震災での破損で建造中止に追いやられた戦艦の名からこの下水道網と大運河の事を、今でも「天城運河」や「天城下水道」と呼ぶ地域も存在しているのは事実である。
 なお余談だが、銀座など現在でも一大繁華街とされている区画が整備、発展したのも関東大震災後の復興からだったり、地震により陶器の食器の多くが失われた事から江戸前寿司が桶に入れたり、板の上に盛ったりするようになったのもこの関東大震災を契機としてという事が有名だろう。

 だが、この日本の未曾有の天災と来るべき不景気を救ったもう一つのものが存在する。武器輸出産業だ。
 1911年に発生した中華大陸での政治的激変は、1920年代に入ると各勢力入り乱れての泥沼化の様相を呈しており、このため世界中の列強が第一次世界大戦終了で発生した余剰兵器の売り込みをこの地に行っていたが、それまでの当地での市場開拓でそれなりの信用を勝ち得ていた日本が、労働コストの差からくる単価の安さと輸送コストの低さと近在の市場と言う事でアフターケアが容易だという地の利もあって比較的優位に展開しており、武器輸出は必然的に外貨の一方的な獲得だけを自国にもたらし、被服から重厚長大型産業に至るまでほとんど全ての工業生産を必要とした事から、日本の輸出産業はこの兵器輸出により何とか常態を維持できたと言っても過言ではない恩恵をもたらしていた。
 また、兵器というある種冷酷な産業によるさらなる欧米との競争は、日本の「製品」水準を大きく引き上げさせる事になり、折からの未曾有の大艦隊建造とこれまで日本がその血でもって手に入れたいくつもの戦勝が信用度を補強していた。そして、第一次世界大戦の欧州の戦場で日本の兵器が欧米のそれと何ら変わることなく使われていた事も信用度を大きく引き上げていた。それでも受注の少ない造船などは、自国での大艦隊建造計画やそれに付随する日本での受注を割り振ることで何とか乗りきらせる事にも成功していた。
 なお、こうした民間への軍需の受注の拡大は、それまで軍需工場にだけ集中していた日本の先端産業技術が民間にも広がる効果も及ぼしていた点も見逃せない点だ。
 そして、日本人にとって意外だった事に、有色人種として列強となるまで国を発展させ、日露戦争でロシア帝国と戦いこれを破り、欧州大戦においてすら大いに活躍した事は、主に民衆レベルで世界の中での日本の株を大きく引き上げ、純粋な白人国家とは言えない欧州諸国、南米諸国、ロシア近隣の独立を保っている欧州諸国、アジア諸国など世界中からの顧客が押し寄せ、日本の製品、特に武器を買い求めるようになり日本の工場で作られた兵器の数々は、弧状列島にさらなる外貨をもたらす事になる。
 この象徴的な事として、共和国として独立する前後から現在に至るもトルコ共和国で日本の兵器が輸入、使用されている揚げられる。これは特に彼らにとってのいちおうの宗主国であるドイツと日本が対立していた時期も変わらず行われ、あまつさえ日独の橋渡しをトルコが行ってさえいた点からも興味深い点だ。また、現代まで続く世界の兵器市場の2割を日本が占めている形はこの頃形作られている。
 そして、この状態は1930年の世界恐慌まで続く事となった。
 なお、このさらに10年の間はそれまでのような経済の大躍進とはいかず、せいぜい3〜5%の成長を維持するのが精一杯だった。だが、これとて世界レベルから見れば成長を維持しているというだけで特別な例外であり、ここでの日本経済の踏ん張りが後の躍進の準備段階となっていた。

 そしてここで世界中を震撼させる大恐慌がニューヨークを震源地に発生するわけだが、国内的には大震災後の産業体制を維持して突然の不景気に抵抗力を持っていた事と、景気にあまり関係のない武器市場での国際的シェアをある一定レベルで確保していた事などもあり、アメリカそして欧州、世界を襲った大恐慌からの被害を最小限に留める事ができた。また、この時すでに四半世紀を経てなお日英同盟が継続されていた事は、日本経済に大きな恩恵をもたらし、当時まだ世界最大の勢力圏を誇る英国市場に連なることでブロック経済を組み上げ、継続して続けられた内需拡大と武器輸出を補強財力としてこれを乗り切る事に成功していた。しかも、単にこの未曾有の人災を乗り切る事は、日本国内においては国内的にはすでに始まっていた不景気の対策として行っていた生産コストの削減と合理化、商品の高品質化が功を奏し、自国経済圏だけでなく各国が強固に築いていたブロック経済障壁を乗り越え、繊維や鉄鋼を中心にコストが安くそこそこの商品を世界中に販売する事につながり、さらに国内的には満州での事変を契機として彼の地での開発促進によるさらなる内需拡大が喚起され、世界中が不景気にある中経済の維持から上昇カーブへの転換を始める動きすらでていた。

 この時点でおおよそ1933年頃の事だ。
 だが、ここで日本にとっての歴史的汚点の一つとなる事件が発生する。「満州事変」だ。
 この事件と一連の流れについては、近代史において必ず学校で教えられる方針が採られているので、多くを説明する必要はないとは思うが、関東軍と呼ばれる満州に駐留していた在満日本軍と大韓国と改称した朝鮮半島国家の一部軍人達が独断専行で引き起こした歴史上空前の大事件の事だ。
 この事件の首謀者だった、ある種楽天的もしくは市井の政談家のような気分で行った者たちは、その後常識と良識を維持していた軍部と政府中央により厳しく処罰されたが、事が軍という国家の組織が大規模に行った事だけに(そうすでに過去形なのだ)、政府としてはこれを完全に否定する事もできず、また当時の民衆からの支持が強かった事と、結局はそこから得られる利の大きさもあり満州地域を日本の手で支那中央から分離独立させる事になる。
 幸いにして、国際的(列強間的)に満州は日本の既得権と了解されていた事と、英国を始めとする欧州列強からは裏から色々と手を回した事から事態を容認されたため、国際的な日本の失墜と孤立に繋がらなかったのは天佑とすら言ってよいだろう。
 そして、この事件をしていくつかの功罪ももたらされていた。
 功績の方は、この事件の反省として軍のパージが行われ政府の文民統制がより一層強化、軍の一部にはびこりつつあった同種の勢力の排除に繋がった事、そして形はどうあれ満州全土が完全に日本の勢力圏となった事だ。
 罪の方は、事変のどさくさで当時、強引な彼らの経済進出と日本製品の北米での浸透を原因とする経済問題、経済的・人種問題を抱えた移民問題などから排斥運動と反感気運の高まっていたアメリカ資本を締め出してしまった事と、満州を手にした事で軍備の増強を、せっかく海軍の拡張が終ったばかりなのに今度は陸軍で行わねばならなくなった事だろう。
 前者については、アメリカが国内で行っていた日本移民の規制や関税障壁による商品締め出しなど、人種偏見に基づいた不当な政策に対する報復でもあったのだが、そのような東洋人の理屈など通じない当時の彼らとの間がこれで極度に悪化する事になる。
 そして、世界一の大洋を挟んだ隣国との状態はにわかに緊迫度を増し、これは必然的に同国での日本製品排斥につながり、大規模な軍備の増強は国庫を圧迫し、日本経済はアメリカとの未曾有の総力戦の準備をオフレコで行いつつ、多少いびつな形であるが必然的な加速を迎えつつあった。

 ここで近代史で必ず触れられる、近代アジア史の転機の一つと言われる太平洋戦争が勃発する。
 相手は言うまでもなく、不景気にあえぐ経済の巨人アメリカ合衆国だ。
 戦争原因は、アメリカ政府中枢に入り込んだコミンテルンの陰謀などとも言われるが、実質面では彼らは自らの景気回復の失敗を、外征で国民感情を発散させ新たな市場を獲得する事で何とかしようとした事がアメリカ側の戦争の原因だった。
 そして、その目標が達成しやすい相手として欧米列強よりも政治力・経済力に劣り国民が感情的に敵と認識しやすい日本が指名されたのだ。
 経済的成功でアメリカと戦争する必要などない日本にとって、まったくもって傍迷惑な話だったが、この戦争は幸運にも、そうまさに日露戦争並かそれ以上の幸運により日本の圧倒的勝利をもってたったの1年で幕を閉じ、弧状列島は英霊となった数千の御霊といくらかの軍備の損失以外、特に大きな損害を受けることなく、そればかりか戦勝により僅かながらさらなる領土と市場と賠償金がもたらされる事になった。
 驚くべき事に、この戦争は日本が国を傾ける寸前まで国費を注いで建設した『八八艦隊計画』の戦艦達による戦術的勝利の積み重ねだけで、圧倒的戦略的勝利をもぎ取ってしまったのだ。一見日露戦争と似ているが、この点は近代戦史上の奇蹟とされている。
 そして何よりアメリカが、軍備(戦略的海軍戦力)の点で今後5年はまともに日本に挑戦できない状態となった事は、欧州での混乱が始まろうとしていたこの時代において何より大きな外交的勝利ともなった。つまり、向こう5年間アメリカは日本の砲艦外交に全く対抗できないと言う事だ。
 また、この戦争で使われた戦費を思えば、5億ドル(10億円)の賠償金だけではその全てを賄う事など到底できなかったが、長期戦を見越して主に設備投資に力の入れられた軍民挙げての産業体制、つまり重工業を中心とした総力戦体制が、戦後強力な指導体制を発揮した日本政府と民間の努力でスムーズに民需に転換された事と戦争債務の一部なりとも戦時賠償で解消された事(戦後大幅な減税を実現した)は、経済のさらなる加速を約束していた。
 この時日本のこれ以上の強大化を阻止すべくアメリカが講和の時に行った日英同盟の解消も、国民にとっては未曾有の戦勝の前にはどうでも良い事だった。
 そう、世界最大経済力を誇る国家に対する戦勝は、国民の民意、あやふやな表現を用いるなら「気分」をよい方向に向けさせ、これにそれまでの努力が加わり、太平洋戦争後の1935年から日本にとっての二度目の長期にわたる好景気の起爆剤となったと言って良いだろう。また、1940年の東京オリンピック開催の決定とそれに伴う首都圏を中心とした建設ブームもこの「気分」をより上向きにさせた事は言うまでもない。
 これは、ちょうど次のオリンピックが東京と決定した1936年に、時の蔵相高橋是清により打ち出された「所得倍増計画」が10年を目標としたにも関わらず、1939年から欧州で再び大戦争が勃発した事による長期戦争特需も重なりたった6年で達成され、日本は再び年率平均12%以上と言う大躍進を開始する事となった。
 しかし今度の経済の大躍進は、すでにこじんまりとした経済と貧弱な産業基盤しかもたない発展途上国の成長ではなく、1936年度で国家予算45億円(ドル換算で20〜23億ドル)という欧州の大国と十分互せる数字を持つ国家の経済大躍進だった(と言っても総体的には、景気拡大開始時点では第一次世界戦前のフランスと同程度だし、欧州諸国との人口差も考えなくてはならないが)。そしてさらなる経済的飛躍が約束された第二次世界大戦が始まる直前の日本の国家予算は90億円という、明治の貧乏日本を思うと現実の数字とは思えないほど巨大な国家予算を編成するに至っていた。しかもこの数字は、累進課税制度を採用する前の7%程度の所得税率により達成された数字であり、一部未熟なところは存在したが人口約9000万人を持つ先進工業国の誇る経済力の姿だった。
 この数字を一つの例を取ってあげれば、単年度あたりの総力戦での戦時国家予算として最低でも200億、多少無理をすれば比較的簡単に300億円もの数字を達成できると言えば多少わかっていただけるだろう。さらに、今と比較するなら今の物価がその頃の20倍程度と言えば多少分かりやすいと思う。

 ではこの時の好景気について、細かな経済や文化に関する象徴的な事を見て次に進みたいと思う。
 まずは、重工業化の一つの尺度でもある鉄鋼生産量だが、1920年代から600〜700万トン程度で停滞したものが、震災復興特需で上向きに転じ、1932年から満州事変とそれに続く太平洋戦争の戦時特需で急激な上昇を開始、太平洋戦争後は民需の異常な建設熱などに煽られる形で順調な伸びを示し900万頓の大台にのり、その3年後の1938年には年率+10%以上増の1200万トンに達し、1939年の第二次世界大戦勃発に伴う輸出向け製品の原料としてさらに生産力が拡大され、この間に新たな大規模製鉄所の開業などを迎えつつ、第二次世界大戦が終り戦争により一期遅れて開催された東京オリンピックの開かれた1944年までに2000万トンの大台に達していた。これは、英国とソ連が戦争で敗北した事も重なりアメリカ、ドイツに次ぐ世界第三位の生産量でもあった。また、もう一つの重厚長大産業である造船だが、こちらも1932年からその10年後には総合力において約2倍の伸びを見せ(月産15万トンが30万トン、試算では戦時建造の24時間操業を行えば月産50万トン以上の数字すら可能だった。)、日本の船舶保有量も中立国と言う有利もあり1500万トンもの数字を突破していた。この数字も日本と同様に国富を肥大化させていたアメリカに次ぐ大きさであり、こちらは英国を抜いて世界第二位に浮上している。
 また他の大規模産業も、機械産業など加工業において大きく躍進していた。これも国内需要だけではなく、全欧州が未曾有の大戦争を行ない、ここで使われる様々な兵器の需要を満たすため、主に英ソが日米から様々な手段を以て買い付けた事に起因していた。ソ連においては様々な資源によるバーター取引で買い付けを行っていたのだから、その有り様が多少は分かろう。彼らの東への大動脈たるシベリア鉄道は、数十両の巨大な列車が無数に行き交い、欧州からウラジオストクや大連に行く時は、様々な資源が代金の代わりに満載され、その帰りに入港していた日本の貨物船から載せかえられた、彼らが大いに不足している各種部品や機械、石油精製物、自動貨車、はては戦車など本格的な兵器すら積載されていた。英国においても、はるばる日本本土まで来るもの、シンガポールなど英国のアジアの拠点で日本の船から積み替えるもの、日本の船に高い金を払いインドやはるばるペルシャ湾、スエズ運河まで来させるなど船を活用して実に大量の買い付けを行なっていた。特に太平洋やインド洋がドイツ海軍の実質的な活動圏外にある事から、一時期は危険な大西洋を使う対米取引よりも頻繁に使われる程であった。そして、そのどちらもが日本に莫大な冨がもたらした事は言うまでもない。また、日米は英ソとの取引において彼らの先端技術や軍事技術を手に入れており、日米の軍事技術に大きな変化をもたらしている。
 そして工業で言うなら重工業だけでなく、軽工業の分野も活況を呈していた。日本国内の大規模な内需拡大と未曾有の大戦争がありとあらゆるものを必要としたからだ。しかも、重工業製品のようにアメリカと真っ向勝負しなければならない製品と違い、まだ欧米よりも低価格でこの頃には高品質となっていた繊維産業分野では、先進列強の中では日本の独断場だった。
 ちなみに、重工業分野では日本が育て上げたような国である満州の伸びが大きくなり、日本の基礎体力をより大きく躍進させる効果をもたらしていた。

 そして、これら工業の大躍進は、日本の他の産業や文化にも大きな変化を強要していた。最も端的な変化は、江戸時代から続いていた農業制度が完全に崩壊した事と、日本臣民全ての中産階級化が急速に進展していた事だ。
 順に見ていこう。
 まずは、農業だが日本の工業の進展はこの産業に余剰していた労働力を、第一次世界大戦時とは違い今度は日本中の農村余剰労働力を根こそぎ必要とし、これに対応すべくそれまでの地主や名主と呼ばれた大土地所有者たちは、不足となったマンパワーを機械力で補うべく多数の耕作機械を導入、必然的に自らと新たな企業的な雇用契約で残った元小作農の手による大規模農業経営へと移行、それができない(する気のない)地主農家には政府が強引(法的)に土地を買い上げ小作農に安価で分配する方策が採られ、結果として一部の大土地所有の農家と圧倒的多数の一般自作農が誕生する事になる。そして、この好景気が完全に終了した1946年での産業全体での第一次産業が占める人口比率は15%(現代は僅かに4%程度)に低下するまでの変化を強要していた。
 これは、近郊野菜農業と牧畜業の異常拡大も重なり、それまでの農村イメージを完全に払拭する事になる。
 もっとも、林業と漁業においてはそれ程極端な変化はなく、機械化が大いに進展して規模が拡大しただけで、1950年代に至るまで旧態依然とした状態が根本的に解決される事はなかった。なお、今日においても山地主が多数存在しているのは、この時政府が適切な対応をしなかったからだ。(政府のこの方面での努力は、急速な国土の開発による森林破壊からくる自然災害の抑止と国家財産としての自然環境・景観の保護を目的として原生林の多くを買い上げ国有化したぐらいだ。ただしこれはこれでかなりの面積に及び、今日世界遺産に指定されている地域も多いから、この点大いに評価されるべきだろう。これなくして今日の日本アルプス、九州、東北、北海道の原生林は、ほとんどが消えているとすら言われているからだ。)
 また、この大土地所有者の存在が、土地を投機的対象とする向きを(法的にも)抑制した事を思えば、皮肉な現実と捉える事もできるかもしれない。
 なお、この頃の政府が農業部門における改革と近代化に熱心だったのは、人口の爆発的増大による食料自給率の低下を極端に恐れていたからであり、単位面積当りの生産力拡大の切り札とされた自作農の育成は、国家として死活問題と当時は考えられていたからだ。

 次に工業分野だが、工業生産に関しては先述した通りだが、社会資本での説明が抜けていたので補足しておこう。
 この時、日本国内でモータリゼーションが起こりつつあった事と鉄道の高速化が進んだ事、通信技術が進歩した事などから全国規模での高速道路網、高速鉄道網、複数回線の電話線の敷設などが行われ、さらに全国各地の海岸部において多数の埋め立て地の造成と工業地帯発展があった事が大きな変化と言えると思う。この時の様々な大規模な社会資本建設事業により、今日の我々の良く知る近代的景観の基本が形作られたと言っても過言ではないからだ。
 最も象徴的なものは、関東大震災後から建設の始まった帝都高速道路(帝高)と地下に埋設された首都圏送電線(+電話線)網の完成、そしてオリンピックを目指して東京から大阪をつないだ「弾丸特急(ブリッツ・エクスプレス)」と「東名(+名阪)高速道路」だろう。
 弾丸特急は、満州鉄道でも同時期に建設された現代では東亜標準の高速鉄道網であるが、山河の多い日本での建設は艱難辛苦の連続で、莫大な予算の投入と持てる限りの技術が注ぎ込まれてなお、1932年の建設開始から8年後の1940年9月にようやく開通し、49年にはいまだに軍都と呼ばれる廣島までの開通を達成、日本の技術力を世界に見せつける事となった。なお、この「弾丸特急」という通称はマスコミや国民向けの宣伝文句で、愛称は今日よく知られている通り「つばめ」、「はやぶさ」であるのは今も昔も変わりない。ただ、部内では全く新しい鉄道網と言う事で単に「新幹線」と呼ばれていたと言う。
 線路は1920年代から国鉄全線で変更が進められていた標準軌が採用され、曲線一般基準2500メートルと極めて高速性を重視した全く新規の路線が建設され、枕木も初めてコンクリートのものが使われ、この上を流線型のボディーで覆った大型機関車が最高時速120km/hで走り、東京〜大阪間を5時間半で結ぶという当時としては画期的な鉄道だった。
 今日においては、北海道の旭川から九州の鹿児島まで、そして台湾特別自治区、満州国全土、ベトナム(ハノイ)=(サイゴン)間に同種の高速鉄道が整備されているのは皆様もよくご存じだろう。
 また、もう一つ紹介しておくと、帝都新宿の浄水場後に建設された副都心や大阪の砲兵工廠の一部を解放して造成された商業公園と呼ばれる高層建築物の群が建設され始めたのもこの頃からだ。それまで都心部の広大な地域を占めていた政府所有地を民間に売却し、ここに発展した商業活動の拠点として多数の超高層ビルが建築が開始されたのがその始まりだ。これと同種の事は1950年代にも各地で大規模に行われ、土地建物関係の法律緩和によりその頃に今のような摩天楼の群が日本各地の大都市に出現する事になる。

 最後に民衆の暮らしと三次産業だが、大正デモクラシーから始まった大衆文化の発展は、この時期に一つのピークを迎えることになった。全国各地に7000店もあった映画館の存在がこれを如実に表している。
 また、出版文化も多数の雑誌・文庫小説の大量販売の促進とそれに伴う町の本屋の増大(これはほとんど日本独自と言って良いと思う。)、ラジオ文化の全盛など、日本中の国民が共通して持てる文化が大きく進展したのもこの頃だ。
 つまり、それまで都市文化に過ぎなかった大衆文化が、日本全土に浸透したのがこの時期という事だ。
 また、1941年冬にテレビの試験放送が開始された点も見逃せないだろう。
 そして、好景気はさらに人々の懐を豊かにし、特に学業以外悩むべき事のない大学生や高等学校生徒たちは、当時からなぜかアルバイトと日本で呼ばれた時間単位労働に従事して、そこから得られた収入の全てを趣味や遊興費に投じ、大衆文化の大きな牽引車となっていた。もちろん、一部の学生はインテリ(知的階層)を自称する存在であるだけに、反抗期の一つの形も重なり共産主義や全体主義思想など反政府運動を実践すべくそう言った運動に身を投じる者もあったが、日本とその影響圏では本気でこれらの運動を行う者は完全に少数派で、彼ら若い世代はその溢れんばかりのエネルギーを、諸国の若者達が戦地で散らしているその時、日本文化の邁進のため使っていた。余談だが、当時の私自身もこの動きに迎合していた楽天的な一学生に過ぎなかった。
 また、この時期平和な文明国と言う事情から、アメリカと日本に多くの欧州の人々が亡命もしくは疎開しており、彼らのもたらす様々な文物も日本文化に大きな影響を与えていた。何を採り上げればよいか分からないぐらい多数のものがもたらされたが、町中で横文字の看板が増えた事で日本語の横書きの方法が左右逆にされるようになったのが文化面での一番大きな変化だろうか。もちろん、彼らのもたらした欧州の高いレベルの科学技術、伝統的文化・芸術などを無視するわけではないが、見た目での一番の変化は何かと問われればこれが一番大きかったように思う。
 また、今日日本が世界に誇る大衆文化として盛んである「漫画(+アニメ)文化」が大衆化したのもこの頃からだ。今では漫画界の神様とすら言われる兵庫県出身の偉人がデビューを果たしたのもこの頃だ。
 そして、多数の高層ビルディング、碁盤の目のように整備された道路とそこを走る多数の自動車、都市近郊の瀟洒な住宅街、それらが作り出すネオンと照明による夜景は、世界一の経済力を誇るアメリカに匹敵する輝きを作り出し、日本の繁栄を飾る事となる。
 この時代において、日本は名実共に先進国列強となったのだ。

 また、各種電化製品の発達と広範な普及は、一般家庭に劇的な変化をもたらしていた。1930年代後半の三種の神器と呼ばれた「ラジオ」、「洗濯機」、「炊飯器」のうち、特に「洗濯機」、「炊飯器」は重労働と言われた家事における労働力を、一人当たりで一日2時間以上軽減したと民間調査会社の報告書は結論しており、さらに一般文化の西欧化と都市部でのガスの普及による「文化厨房」、今で言うダイニングキッチン出現は、それまで北向きで地面に直に接していた不便で冷たい台所に比べると(これは前時代なら利に叶ったものだ)、たとえその広さが狭くとも夢のような環境であり、日本の主婦にとってのラジオに置き換わる三種の神器の一つで、これら3つこそが女性の本格的な社会進出を可能とし、男性の一人暮らしや単身赴任を可能としたと言って過言ではないだろう。この時代、日本は人材面の経済競争において総力戦体制が確立されたのだ。
 もっとも1940年代半ばには、この三種の神器は「自動車」、「冷蔵庫」、「テレビ」へと移行し、派手さにおいて後者に全く対抗できないこれらの品々の果たした偉大な功績は長く忘れ去られていたため、この事が世間一般に知識として認識されたのは、かなり後の事になってからとなる。また、これらの製品をごく普通の一般家庭に普及させた事そのものが、日本の発展そのものを何よりも雄弁に物語るものなのかも知れない。

 余談ではあるが、この頃の私は某私大の学生であり、今では卒業式で辛うじて見る事が出来るほど貴重となった厳つい学生服に身を包み、銀座の小粋な喫茶店で店内に流れるレコードの音色を聞きながら、黒服に白いエプロン姿のハイカラなウェイトレスが運んだカフェを飲み、その傍らでたまにラジオから流れてくる欧州の戦況を聞きながしていたものだ。大方の日本人にとって遠く欧州の彼方で行われた第二次世界大戦とはそのようなものであり、徴兵もない最も暢気者の最右翼たる文系大学生にとっての戦争とはラジオの向こうの出来事でしかなかったのだ。
 言い訳がましいが、戦時による青天井の好景気で生活は豊かになるばかりなのだから、人々が戦争に無関心になるのも無理ないだろう。緊張していたのは、当時の政治家や一部の官僚、そして職業軍人達ぐらいのものだった。
 そうして、日本にこれだけの変化をもたらした第二次世界大戦に、未曾有の欧州での大乱に日本が加わる事はなかった。第一次世界大戦のような同盟国すら存在しないという第一の理由があったが、戦乱に際しての経済原則と近隣での市場(影響圏)の拡大をまず第一と大日本帝国が決断し、植民地を抱える欧州列強に対して民族自決を政策に掲げる日本が欧州の政治に対して安易に妥協しなかったからに他ならない。
 では、次は戦後の大東亜共栄圏各国の第二次世界大戦までの発展と日本帝国の関わりについて見ておこう。

(経済の発展に関する話しは、宇宙への飛翔のための雛鳥の段階と言うことで続けるので、今しばらく宇宙開発についてはお待ちいただきたい。)

 Phase 7-3:大東亜共栄圏と日本経済の発展略史