●Phase 7-3:大東亜共栄圏と日本経済の発展略史
日本帝國の経済力と工業力は、第二次世界大戦が終る頃には世界第三位(一位はアメリカ、二位はドイツ)へとのし上がり、次なる対立の時代を迎えると共にさらに飛躍していくのだが、それは到底日本単独でできるものではなく、アジア諸国との連携なくして成しえないものだった。 ここでは、日本とその衛星国と言えるアジア諸国の歴史的流れに沿った経済を少しだけ見ていきたいと思う。
近代日本にとっての最初の衛星国、同盟国にして植民地的経済圏となったのは、今更言うまでもないかも知れないが日本から最も近在に在った朝鮮半島国家だ。 当時彼の地には、「李氏朝鮮」と呼ばれていた旧態依然たる封建国家が存在していたが、この国は形式上清帝国の従属国のような位置にあるため外交的自主性にも乏しいという、江戸時代末期の日本よりも政治的状況の悪い国家と言えた。 この国は、明治に入り日本が握手を求めると最初日本との国交を拒み、ために日本がアメリカにされたのと同様の手法でもって開国させられ、以後清帝国と日本帝国、そして大英帝国、ロシア帝国など大国(総人口1300万人の彼らから見たら明治日本でも十分大国である。)のパワーゲームにさらされ、大波にさらされた木の葉のように翻弄させられる事になる。 だが、1905年に日本がロシアとの戦争に勝利した事で、この地は日本の好き勝手にしてよい地域として国際的に認知され、以後日本の保護国と言うかたちで日本とそのバックにいた英国の言うがままに近代化の道を歩む事になる。 朝鮮半島が近代国家へと歩み始めた頃には、「大韓国」と国号を改め(1897年大韓(帝国)成立、1910年大韓国に改称し日本の保護国となる)、明治日本を見本とした一大改革を東アジア人特有の機会主義により突然推進し、日本から半世紀近く遅れで彼らにとっての坂の上の雲を目指して歩き始めていた。 ただし、かの半島での御一新は日本以上の苦難の道のりとなる。 確かに、社会資本の整備や産業の発展の一部は、日本が英国に借金の肩代わりとして人身御供にしたため自国人によるものではなく、特に初期においては英国とそして宗主国の日本人の資金により様々なものが作り上げられ、この地域のその後の健全な発展を大きく抑止する大きな原因となっていた。これは彼らが言うように事実も含んでいる。 だが、もともと20世紀に入るまでの朝鮮半島全体における社会資本が極端に乏しく、中華帝国のデッドコピーと言える身分制度と儒教の好ましくない側面が出た倫理観と社会通念のため民衆の教育レベルは低く、何より身分制度、官僚制度がどうにもならない程旧態依然としたもので、統治側の官僚腐敗と賄賂は当然と言う、中華系国家にあって最悪と表現してよい状態が、まずもって朝鮮半島全体の近代化を阻んでいたのだ。 このため一時期、朝鮮民族の方で日本の併合を望む声が大きくなった時期もあった。 しかし、日本は1905年に事実上満州全土と樺太島全島を手に入れた事から、一応の独立国たる土地よりもそちらへの投資と努力を傾けねばならず、必然的に朝鮮民族自身により全ての建設を行わなくてはならなくなっていた。日本にしてみれば、満州が手に入った今、朝鮮半島が他国(主にロシア)の勢力圏に入らなければそれでよかったのだ。 だが、日本帝国は世界的に見れば実によく衛星国の面倒を見ていると言ってよく、まるで口うるさい叔父のように彼らを近代化させて行く事になる。もちろん異論を挟まれる方もいるだろうが、私的に文献などを見たかぎり日露戦争以後半世紀はどうみてもそのような関係にしか私の目には映らない。
1910年から先の韓国は、20世紀なかば以降の多くのアジア・アフリカの独立国がそうであるように、軍事政権的色合いの濃いものとなった。これは、前近代的な民度と教育程度しかない国での民主主義など不可能と言う現前たる事実があったが(日本に議会が設けるために建国から30年必要とし、それまでは明治政府自らかなり官僚専政の強い政府を自認していた事を追記しておこう)、当時の弱肉強食の国際環境も影響している。武力がなければどの国も相手にしないのだから、無理をしても武力を持つしかなかったのだ。また、朝鮮半島にはびこる旧利益集団を多少なりとも殲滅するには、軍事政権の鉄拳により粛正するしかなかったという側面もある。 そして、他の事に目を向けていた日本がその事に気付かされるのは、1932年の満州事変を待たねばならなかった。 現代なら侵略や紛争、国際テロ行為と言ってよいであろう侵略に、現地日本軍部の一部とかなりの数の韓国軍部が深く関わっていたのだ。 そしてこれに恐怖した日本政府は、裏から韓国国内の事実上のクーデターを画策し、太平洋戦争の直前にこの国のクーデター政権にそれまでの旧態依然たる韓国政府、軍、官僚、地方組織などほとんどの政府機関に対しての徹底したパージを断行させ、その上で近代的な思考と体制を持つ強力な権限を持った新政府を樹立させた。事実上の建国から約20年以上たっていたので、日本政府の尺度からすれば議会制民主国家建設は可能だと判断したのだ。 この大事件により、ようやく韓国は日本が求めていた近代化を始めるようになる。もっとも、韓国が近代的な法整備を整え最低限度の社会資本を整備し経済的に浮上してくるようになるまで、それからさらに20年を必要とした。 これは、英国など西欧各国が資本投下した分野以外の全てに当てはまっており、日本人たちは口うるさく言いつつも技術指導はしたが、結局のところ諸外国が半島に本格的な資本投下をしなかった事と、何より軍事政権時期に培われたと思われる実体のないプライド面から当人たちがそれを拒んだ故に、朝鮮人たちは自らの力により全てを作り上げなければいけなかった結果、20年、大韓成立から数えれば50年以上の歳月が必要だったのだ。 だが、この時の日本の余りにも露骨な内政干渉とそれまでの(彼等の視点から見ての)日本の韓国に対する無関心が、その後の韓国政府の日本離れを作る事になり、日本をより満州へ傾倒させ、さらに韓国の子供じみた感情面での日本嫌いを醸成するという悪循環を作り上げる事になる。 だが歴史的な事実としては、中華動乱での戦時特需で日本が発展した事で生じた生産コストの差を利用して大きく軽工業生産を延ばすことに成功し、ようやく日本の一歩後ろを歩くように世界へと乗り出し、以後も経済的には日本と一蓮托生の関係を維持しつつ、日本にとってアジアで重要な同盟国の一つとしての位置を占め続けているのは、今更説明するまでもないだろう。 まあ、何かと朝鮮半島の方が感情的な対抗意識を燃やし、政治的・感情的に対抗しているという構図の方が今日においては一般的かもしれないが、実質はそうだと断言できよう。 ただし、日本にとってその後アジアにおける友好国建設の際の反面教師となった点は、イスラム教圏ですら成功させた点において非常に価値があったと言える。
次に、日本に大きな変化をもたらした近在地域は満州だった。 この地域は1932年に「満州国」として独立、日本の手により中華地域から分離され、以後日本の最も忠実な同盟国として歩んでいく事になるが、初期において日本の実質的な経済植民地であるだけに韓国と違い日本から莫大な投資が行われ、発展の速度は日本や韓国の半分以下、約20年で本格的な重工業生産力を持つまでに成長する事になる。 ただ、そこに至るまでの道のりは平坦とは言えなかった。また、19世紀末からロシアと日本のパワーゲームの舞台だった事も、独立後の発展を容易にした点から重視すべきところだ。 19世紀末、伝統的南進政策をとるロシア帝国は、この時期太平洋での躍進を構想(もしくは妄想)し、異常なまでの熱意と努力でもって極東地域と呼ばれる地域への進出を強化した。これは近在で唯一近代国家を建設した日本にとって最大級の脅威であり、必然的に強い対決姿勢を以て望み、また日本にとっても国防のため進出すべき場所が朝鮮半島、満州であった事から対立の度合いを強くする事になる。そして、ロシアの膨張を望まない英国や、支那市場でのロシア利権の拡大を阻止したいアメリカなどがこれに首を突っ込み、結果として日露戦争が勃発。この戦争で、ロシアは皇帝の権威、軍の威信と戦争と満州の全てを失い、日本本土の三倍という広大な面積を持つ満州地域は日本人の管理する所となった。 以後、日本と英国を中心とした外国資本が、清帝国の政策により半ば更地状態だった満州の大地に降り注ぎ、この地域が鉄鉱石、石炭など鉱産資源が豊富だったことも重なり、また広大な平原は農地としても十分活用可能だった事から、雨後の竹の子のような勢いで発展していく事になる。 ただし、満州国建国までの発展の範囲は、大連からハルピンに至るまでの満州鉄道沿線に限られており、また工業の発展も大きなものはなく、鉄道経営以外ではフーシュン炭田と鞍山鉄鉱山地帯の鉱業開発とそこでの産物の輸出が主力産業だった。
次に満州に多少なりとも変化が訪れるのは、ロシアでのソヴィエト・ボルシェビキ政権の成立の時だった。日露戦争以後、満州主要部全ての利権を日本に握られたとは言え、北満州にはかなりのロシア利権が残され、アムール川に至っては事実上ロシアが単独で利権を有しており、この辺りは当時の国家間の力関係をあらわすもだった。そして、互いの利権が混在した地域の統治を円滑に進めるため、日露戦争後日本とロシアは表面的な友好関係を維持し、共に満州での利益を享受すべく何となくではあるが共存していた。そしてそれが、ロシア革命により御破算となったのだ。 もっとも、ソヴィエト連邦成立による多数の政治難民が北満に流れた事をのぞけば、その後満州事変まで日本人とロシア人の関係が結局のところ大きく変化する事はなく、蒋介石の中華統一事業が訪れるまで比較的平穏な時を満州の大地は過ごすことになった。 だが、支那中央地域の形だけの統一政体の出現は、満州に莫大な権益を保持する勢力の危機感を強くさせ、それが暴発した一つの形が「満州事変」だったのだ。 ここではその歴史的経緯や経過などは割愛するが、1932年2月18日正式に満州国は独立する運びとなり、満州での大きな経済的変化が訪れるのはこの独立以後から、と言う事になる。 満州地域が支那中央から切り離され、日本が強い影響力を持つ独立した行政地域になった事から満州全土に莫大な投資が始まったのがその発端だった。 また、折からの対米対立の激化が、満州地域を日本の経済圏とさせる事を促進させ、東洋史上最大級の財閥たる満州産業(旧日産をその母体とする、後の巨大コングロマリット「東亜グループ」)を出現させる温床にもなった。余談だが、たまに娯楽小説・映画などで出くわす地平線の彼方まで続くような屋敷を持つ常識を母親の腹の中に置き忘れたような財閥のモデルは、この満州産業を支配した一族であると言われているのは意外に知られていないらしい。 この会社は、当初は日本政府などからも莫大な初期出資を受け、また日本が有していた全ての満州利権を引き継ぐ形で各種系列企業を形成し、満州国建国からたった5年で日本最大級の財閥に匹敵する規模に膨れ上がっていた。しかも、その成立の経緯から「(満州)鉄道調査部」と呼ばれた半民半官の巨大な情報収集組織(基本的には総合シンク・タンクだが、一部諜報機関、俗な言い方でのスパイ組織的部署すら持っていた)を有するというこの当時の日本の企業としては少し特殊な企業集団であり、以後この財閥(グループ)は日本での三菱財閥がそうであったように、満州と一心同体と言える巨大企業として共に発展して行くことになる。
巨大な、国家そのものと言ってよい企業を内包したこの奇異な国は、その後日本の国益に大きく後押しされる形でいびつな発展を驀進する。そして、この企業が持つシンク・タンクの情報収集能力と分析能力を縦横に活用する首脳部が企業トップ、政府、軍部を占めた1936年、本格的な活動を開始した。また、宗主国たる日本もこの地域を、今後の東亜のための政治的な実験地域だと強く認識していた事から、満州国独自の方針には比較的寛容で、むしろ自国のたどった経緯と違う発展路線を後押しし、日本のコントロールを離れず日本人の望むものを生み出す限りにおいては容認されていた点も見逃す事はできない。つまり、満州国は新国家建設における巨大実験場であり、国家社会主義とは対局をなす一企業集団による利益追求国家としての出発をしたと言って良いだろう。 しかも、この国にとって幸運だった点としては、国防においては当面日本がその肩代わりをしてくれ、さらに必要なものは金から人に至るまですぐに手に入った事、主要市場たる支那中央の隣であり必要な労働力は支那中央を逃れた難民、移民によりいくらでも確保できた事、そして工業化に最も必要な鉄鉱石、石炭そして石油資源が国内において事欠かなかった事が挙げられる。さらには広大な平原は多少寒冷な地域ながら農業生産にも比較的適しており、地に足のついた開拓を行えば巨大な人口を賄うばかりか輸出も可能なほどの生産力を持っていた点も無視できない。ただし、自国領域内での産業開発が終わるまではその資金を得るためと、日本の需要を満たすためその莫大な資源は海外へと持ち出されていたので、この地域が大きく発展するには、準備期間としての時間と、各種工業施設の建設が開始され第二次世界大戦の勃発による未曾有の需要の発生するまでの約10年を待たねばならなかった。 そして第二次世界大戦勃発と共に、さらに巨大な国家プロジェクトが計画的に推進されて行く事になる。その内容は、新たな都「新京」の建設(しかも建国当初から100万都市を目指し、半世紀後には肥大化を重ね1,000万都市となっていた)に始まり国中の鉄道、道路網の整備、各種産業基盤の整備と重工業国家が必要とするありとあらゆるものを5年区切りに段階的に建設し、15年で近代化・工業化を果たそうと言う極めて野心的・意欲的なものだった。その上第二次世界大戦勃発時は丁度その第二期目に入ったばかりで、戦争の流れに乗るかたちで工場建設の規模はさらに拡張され、アッと言う間に隣国の韓国を追い抜き、第二次世界大戦が終わる頃にはアジア世界第二位、世界的に見てもかなり有力な重工業国へと変貌する程の発展を見せていた。 特に大戦中期は、ソ連からの受注に最も応えやすい立地条件の産業地帯だったため生産力が大幅に拡大し、当初の計画が大きく前倒しされ、最も重視されていた鉄鋼・製油以外にも機械産業など重工業全般の産業が勃興し、満州産業首脳部をして驚きを以て迎えられたと言われている。これは、この頃満州の産業育成に大きく関わった後の日本国首相岸信介が従兄弟にあたる佐藤栄作にひとつ話しでよく語っていたのだから相当なものだったのだろう。 まさに、利益主義と合理主義、機会主義など極端な思想(と呼んでよいだろう)のみを重視した国家政策だけがなし得る技であり、その達成された成果の下に埋もれた幾多の犠牲を差し引いても歴史的にはある一定の評価ができよう。だが、企業主体であるだけに国家の体制が整え出すと、いち早く各種労働法の施行など国民(社員)を保護する法制度やインフラそして衣食住環境の整備、娯楽産業の普及に力を入れるという面も見られる点も非常に興味深い。なお、1950年代後半には北欧諸国並の労働基準にされたのだから、その急速な変貌ぶりがこの事からも分かる。 余談だが、この国を少し悪く揶揄する時に、「日本の国権は天皇にあるがそれは形式的なものに過ぎない。だが、満州は全てを『経済』という名の見えない天帝が実質的に支配している」という表現を使うがまさにその通りだろう。この点においては、アメリカ合衆国にすら勝ると言われている。 また、満州の開発は日本にとってもいくつか大きな影響を及ぼした。日本の国力そのものが大きくなった事は言うまでもないし、資源の安価供給を最大の功績とする意見もあるだろうが、もう一つ大きな変化がある。それは、日本からの大規模移民だ。1930年代初頭自らの国力増大・産業化による食糧自給率の低下を殊の外恐れた日本政府が、日本国内での食い扶持を少しでも減らす為積極的に海外移民を推進し、必然的に広大な平原の広がる満州が注目されたのだ。 日本政府は1936年に「20年間で100万戸、500万人の移民」を行うと宣言し、日本では農村部において村の半分が丸々移民するという、それまでの常識的な移民を越えた大規模な国策としての移民が以後10年以上推進される事になる。 これは、特にその初期においてそれまで当地に住んでいた住民を追い立ててという場所もあり、さらに匪賊や馬賊と呼ばれたゲリラとの戦いもあり、移民団の一部は軍隊が同伴するというかなり血なまぐさい植民地的搾取であったし、歴史的にも罪の方がはるかに多いとされるものだったが、満州国が国家としての体裁を整え、日本も正統な方法での移民方式に切り替えてからはそのような事もなくなり、計画期間中に300万人もの日本人が移民、今でも国民の10%近くが日本人か日系人で占めらているのは、たいていの方はよくご存じだろう。また、この満州での円滑な移民の推進は、それまでハワイ、北米、南米を指向していた日本人移民を満州一点に集中させる副産物ももたらし、1940年代以後の日米問題から移民問題を実質的になくした事は、違った側面から見ると非常に意義深い出来事と捉えてよいだろう。
なお、満州国は「五族協和」、「王道楽土」を国家的スローガンとしていた事、宗主国の日本が世界の中にあって唯一発展した有色人種国家である事から、人種差別問題には少なくとも政府レベルもしくは表面的には寛容で、楽天的に見ればその撤廃に熱心であったため、実に多数の人種が溢れかえる事になる。実質的な支配者である日本人とそれに結局付き従う韓国人、一応の主人である満州族を始めとする土着民族、大多数を占める支那中央系諸民族、紅いロシアもしくは黒いロシアから逃れたロシア人たち、その中にはかなりの数のユダヤ人も含まれていた。特に黒いロシアが成立した時には多数のユダヤ人が遠く欧州、欧露から逃れ、その一部が満州を新たな故郷としている。 このため満州国は建国10年程度から、一部特権階級的存在だった日本人を実質的な例外として、おおむね人種差別が法律でも規制され、一般レベルでもそうした偏見が薄かった事から人種問題での先進国と言われるようになっていた。余談だが、この当時「満映」と呼ばれた国策会社の満州映画協会がこの宣伝機関として果たした役割は非常に大きく、時折ドイツ第三帝国の宣伝省とすら比較される事もある程だ。もっとも、満映が行った宣伝映画の製作は第三帝国の宣伝省とは正反対な、表面的には完全な娯楽作なのだからあまり正しい比較とは言えないだろう。まあ、私などの当時の若い世代は、満州渡来の銀幕に映る李香蘭を始めとするトップ女優達に鼻の下を長くしていただけだから、その効果はあったのかなかったのかは微妙かもしれない。 さらに余談だが、私の友人も中等学校時に満州へ修学旅行に行ったのだが、そこでの日満支露と混ざり合った異国文化には大いに驚いたものだそうだ。特に、東洋のオリエント急行(何ともおかしな表現だが当時はそう呼ばれたのだ。)と呼ばれた満州鉄道の「あじあ号」車内での体験、中でも食堂車の給仕をしていたのが生粋の若いロシア女性であったことには視線がしばらく釘付けになったそうだ。この事は、日本にとって満州はそれ程カルチャーショックを与えると共に、日本人の国際化に貢献した事の何よりの証明だろう。
以上、第二次世界大戦以前の日本にとっての重要な同盟国にして経済的に成功した国とはこの二国だけで、他に第一次世界大戦で獲得した南洋諸島と太平洋戦争でアメリカからさらに割譲させたグァム、ウェーク島を手に入れ、新たにフィリピンを半ばアメリカと共同という形だったが衛星国に組み入れていたが、南洋の島々は産業圏とするにはそれぞれの島の規模が小さすぎ、フィリピンについても勢力圏に組み入れてから第二次世界大戦から10年程度では、日本お得意とすら言えるの近代国家建設が効果を発揮する事はさすがになく、市場としての価値はともかくアジア経済を共に牽引していく力は全くないというのが実状だった。 また、衛星国ではないが、例外として完全に日本の一地域となった台湾(特別自治区)がある。 ただ、ここは今では公用語の一つに北京語と上海語が含まれるだけで民心においても完全に日本の一部なので、本来ならここで触れるべき事でないかも知れないが、他に触れるべき機会もないので最低限だけ見てみたい。 台湾は、1894年に清帝国との間に勃発した日清戦争の結果、日本が清帝国から割譲した総面積3.6万平方キロメートルという日本本土の10分の1しかない、九州程度の大きさの島だった。 この地は当時清帝国の政策もありほぼ未開状態で、いくらかの先住民族が住んでいるだけの南洋の島の一つという存在でしかなかった。また、阿片や疫病が蔓延していた事から日本の植民地経営は最初から困難を極める事になる。要するに清帝国が半世紀以上かけて怠った負債の返済から始めるようなものだったのだから、その苦労たるや今を生きる我々の想像以上だった。 だが、明治の先人達は、明治人特有の生真面目さとある種の楽天さを以てこの地の経営を熱心に行い、第二次世界大戦が終わる頃には民心に至るまでほぼ完全に日本の一地域と呼べるほどの統治状態を創り上げる事に成功する。これは、1934年の太平洋戦争での当地での兵員公募で競争率2000倍を示した事でも明らかだし、戦後今日に至るまで軍への志願率が最も高い地域だと言う事が如実に表していると思う。 また、半世紀かけた社会資本の整備と産業育成は、場合によっては日本本土よりも整備され、特に南方特有の疫病撲滅のため上下水道と医療体制の整備は本土の大半の地域より早く、こういった地道な努力が先住民族の民心を日本政府が獲得できた主な原因だろう。もちろん、産業の発展も社会資本の整備と教育の普及に呼応するように計画的に進められ、第一次世界大戦に軽工業一般が勃興して日本産業の一翼を担えるまでの生産力を示し、次の第二次世界大戦では重工業一般も勃興、本土と遜色ないほどの発展を示し、当然現地の所得水準も本土に迫るほどとなった。そしてこの発展は、戦後すぐに「大東亜共栄圏」の理想の実現という政治的デモンストレーションに押される形もあったが、植民地から完全に日本の一地域となる大きな要因だったのは間違いないだろう。 また、この台湾が満州と共に、大東亜共栄圏の新興独立国のモデルケースとして海外に大いに宣伝された事は言うまでもない。 この成功例としてベトナム共和国などがある。
では、「大東亜共栄圏」という1930年代後半から1940年代全般にわたり、日本とアジア全土席巻したこの言葉が出た所で、第二次世界大戦後、つまり世界史的に「現代」と呼ばれる時代を見ていくと同時に、ようやく本編の最終目的である宇宙開発についても見ていきたいと思う。
■Episode. 8:2003年8月 ニュー・ホライズン(日本の宇宙開発史)
●Phase 8-1:宇宙への道のり ▼