■Episode. 8:2003年8月 
ニュー・ホライズン(日本の宇宙開発史)

 ●Phase 8-1:宇宙への道のり

 さて、前章で日本が宇宙への飛躍を行うための基礎体力作り、もしくは建物を作る際の基礎工事と表現できるものに重点を絞って触れてきたワケだが、ここからはその土台の上に櫓を組み梯子をかけるところを見つつも、そのさらに高みを目指す様子ついても見ていきたい。

 第二次世界大戦後、世界は大きく三つの勢力に分裂していた。今まで軍事面でさんざん触れてきた、アメリカ合衆国とドイツ第三帝国そして大日本帝国だ。この三つの大国はそれぞれの衛星国や影響圏を率いて自らの国家・陣営の繁栄と各勢力の足下をさらう事に腐心する半世紀を過ごす事になるのだが、この3国による世界を股に掛けたパワーゲームは、それまで行われていた欧州諸国列強によるパワーゲームとは些か面もちを異にしていた。
 これを見ている方の中には、欧州帝国と日米英による海洋国家連合の二極対立と、それまでの欧州のそれぞれが互いに足を引っ張る複雑な対立構造の違いだと思われる方もいるだろう。確かに、1970年代から以後20年ほどはそうだったが、1940年代後半からの20年ほどは日米の中は今ほど親密ではなく、むしろ政治的に対立していると言ってよく、この間の日本政府の努力が大東亜共栄圏の維持繁栄と共に、ロシアを前面に押し立てた欧州帝国に対抗するため、いかにアメリカと事を構えないかとという点に注がれていた事からも明らかだろう。また、日本が率先して押し進めていた万民平等(人種差別撤廃)政策が英米の接近を強く拒んでもいた。もちろん、英米によるアングロ連合も欧州対してはほぼ同じような状態だったからこその均衡がこの状態を維持したのだろうが、日本政府が20世紀前半と違い安易に戦争へと傾かないように努力していた点は間違いない。
 だが、20世紀半ば以後のパワーゲームがそれまでと違うのは、そういった点だけではなかった。
 軍事面でのハードウェアの問題が極めて大きな影響力を持っていたからだ。何しろ、それぞれの陣営は1960年代初頭に相手首都を蒸発できる兵器を保有するようになっていたと言えば、その違いの大きさも分かっていただけるだろう。
 まあ、軍事的に事をここでさらに触れても仕方ないので、本題に進もう。

 この究極の破壊兵器の中でも最大級のものの運搬手段は、一つは全長50メートルを越え、地上の全てをその翼下におさめた巨大な怪鳥で、もう一つは天空へと達する事のできる大型のロケットだった。中でもロケットは地上の物体を衛星軌道に乗せる事の出来るほどのパワーを持ったものが重要視された。
 このロケットと言う運搬手段は、第一次世界大戦後天空の覇者たる航空機と列車砲という途方もない射程距離を持った兵器の保有を厳しく制限されたドイツにおいて、その代換手段としてその萌芽を迎える事になる。
 第一次世界大戦でドイツ軍は、前線近くの陣地から射程距離が優に120キロメートルを越える、170口径の砲身(砲口の170倍の長さ)を持った砲口の大きさが21センチメートルの列車砲を運用し、その列車砲たちは彼らの兄弟と共に宿敵フランスの首都パリを当時の想像を絶した遠距離から砲撃した。命中率はお世辞にも正確とは言い難かったが、これらの列車砲の一部に「パリ砲」という別名すら与えたほど射ち込まれた側に衝撃を与えたわけだが、それ故に戦争がドイツの敗北に終わると勝利者側はこの「戦略兵器」の保有を厳しく禁じ、また塹壕や鉄条網など全く関係なく前線を越える事のできる天空からの新たな破壊者である航空機の保有も同じく厳しく制限していた。
 つまり、戦勝国側はドイツが戦略的攻撃手段を保有することを全て禁じてしまったのだ。
 このため、1920〜30年代中頃まで世界各国が細々とそれらの兵器の開発・維持を続けている中、ただドイツ一国がこれらの兵器を保有できない状態が続く事になる。その状況が、ドイツにその代換兵器としてロケットを注目させる事になったと言われている。宇宙旅行協会など民間団体の存在もあったが、現実はそれだろう。
 これは、1943年の世界初の無人ロケット爆弾兵器としては有翼亜音速ミサイルと表現される、『Fieseler Fi-103』、通称『V-1』とこれまた世界初の実用型中距離弾道弾となる通称『V-2』、『A-4』の開発へとつながっていったのだから、あながち間違いではないだろう。もちろん、この副産物というより平行して発展したような形でもあるロケット戦闘機やジェット戦闘機もあったが、『A-4』の存在は英国をして停戦の重要なファクターとさせたと言われる程のインパクトを世界に与える事になった。これは、この兵器が発射されてしまえば迎撃が全く不可能だったからだ。
 ただここで少し視点を変えてみると、それまで近代文明が作り上げた新兵器と呼ばれるものが、原型が民生用として生み出され後に兵器へと発展したのと違い、このロケットは空想癖のあるSFから抜けきっていない一部の民間団体の熱意とは裏腹に、兵器として世に登場したという点は非常に興味深いだろう。

 そしてこの兵器の出現は、生き残った世界の列強各国それぞれに様々な解釈と対策を起こさせる事につながる。
 米国は、このドイツの兵器がこの時点では直接自国領内に脅威を与える存在でない事から、当初はまるで現実逃避でもするかのようにほとんどその事を無視し、それよりもジェット戦闘機の存在を重視、この開発に熱意を挙げると共に、念のための対抗手段としての戦略兵器の開発は、得意分野である大型爆撃機の開発で応えようとした。これは、日本が重爆撃機の開発に熱心だった事から補強されていた。
 だが、英国にとっては深刻だった。
 取りあえず現行の有翼ロケット爆弾は、航空機や高射兵器で何とか対抗可能だったが、今後兵器が発展すればどうなるかわからず、しかも弾道弾(MRBM)に関しては登場したその時からどうしようもないので、この迎撃手段の開発をするのは当然として、対抗すべきブラフとして強大な国力と潜在的軍事力を持つアメリカと手を組む事で乗り切らせるという、英国にとって屈辱とも言える決意をさせるに至る大きな一因となった。
 そして、この当時最も意外だと思われたのが、日本の対応だった。日本は、このドイツの挑戦に変化球ではあるが、真っ正面から挑んだからだ。
 これは、ドイツの軍門に下ったロシア人達の領土が、自分たちの勢力圏と多く国境を接しているという点から、英国ほどではないが防衛上大きな脅威と認識していたからだと思われる。そう言う意味では、本土への攻撃を極端に嫌う実に海洋国家らしい反応と言えるのかもしれない。
 そして、第二次世界大戦当時軍備に米国よりも熱心に国費と頭脳(国外の者も多く含まれていた)を投入し、それを後押しする財政状況も順調だった日本は、『ゲ号実験』として核分裂反応兵器を開発し、その運搬用の大型爆撃機をいち早く整備して(1948年実戦配備)、それこそ自らの手による戦争の惨禍にあえぐドイツを上回るスピードでこれらを揃えて見せ、彼らが不用意に自分たちに殴りかかってくればどうなるかを見せつけて怯ませると共に、その後の事も考えた実に日本的な兵器体系の構築に邁進する事となる。
 日本人が求めたのは、当時兵器としては大ざっぱと表現してよい命中精度と芸術的とされた工作技術を必要とする「武器」を、ごく一般的な兵器体系に組み込み、普通の航空機からも簡単に発射できる「兵器」へと発展させる事だった。また、弾道弾に関しては、アメリカと同様世界一周すら可能とされる大型の爆撃機の就役で当面対抗し、あくまで良く言えば汎用性に優れた、悪く言えばどっちつかずな存在を作り上げて、どうとでも対応できる状態を構築しようとした。ドイツ人と違って日本人は冒険は好まなかったからだ。
 そして、日本にとって幸運だったのが、このロケット開発に関してドイツ程ではないが、誘導兵器の推進手段として主に海軍で開発が比較的早くから進んでおり、少なくとも固体燃料ロケットに関してはドイツよりも開発が進んでいた事と、ドイツ直伝の技術を学んだがその後祖国の状況に絶望したロシア人ロケット技術者が多数亡命してきた事だろう(他にも国家社会主義やドイツの一極支配に絶望した欧州各国民からもかなりの亡命者があり、特に欧州にあってのアジア系とされ、戦後ドイツからの扱いの低くなった東欧諸国(ハンガリーなど)からの亡命者が意外に多かった。多数がアメリカに渡ったとは言えユダヤ系については言うまでもない)。
 そして、日本政府が戦略的判断からロケット開発予算に多くの予算を早くから投入したため、ドイツに数年遅れる程度で開発を続ける事ができたのは、中華動乱が世界大戦に発展しなかった最も大きな要因のひとつだとされる程の恩恵を弧状列島にもたらしたとすら言われている(最大は熱核兵器の存在だ)。
 なお、日本の戦略的判断とは、戦略的破壊兵器の運搬手段としてではなく、自らの遠隔地への偵察力の不足を補うための衛星軌道上からの偵察情報の入手という、この種の運搬手段が宇宙への人工物の投入へと傾いていた時期であったとしても、日本民族を思うと何とも冒険的な決定だと言えるだろう。ただし、それだけ日本がドイツやアメリカを内心恐れていた証拠だと言える。

 そして、20世紀半ば以降からいまだ飽きることなく継続されている先進国間での宇宙開発競争は、主に日独の間で火ぶたを切ることになる。
 ドイツは、第二次世界大戦で自らが破壊した欧州の復興が最低限終了した1950年代に入るとその速度を急激に上昇させた。ドイツがこの年代に予算を増額させたのは、宇宙に本気になり始めた日米への対抗という理由もあったが、手品でも使わない限りそれを実現すべき予算はこの時まで第三帝国には存在せず、いかに欧州の覇者となったドイツ総統と言えど全てが思い通りになるわけではないという実に皮肉の利いた現実だった。
 もっとも、第二次世界大戦終了による必然的な欧州全土での軍縮に忸怩たる思いを持っていたロケットの父は、この追い風を受けて持ち前の馬力をフルパワーにして宇宙への道のりのばく進を再開した。
 彼は、まず既存の「A4」の安定化と量産化に力を注ぎ、軍部の信用を勝ち得ることに腐心した。いかに強引な彼と言えど、いや、ロケットのためならば悪魔からすら予算を分捕ると言われた彼だからこそ一見堅実な手を使ったのかもしれない。
 この開発は堅実であるが故にすぐに実を結び、1946年には推力を強化させた「A4」の安定化を実現し、次なるロケットの開発の大きな足がかりを築く事にも成功していた。つまり、「A9」、「A10」の成功はこの時に決定していたとも言えるだろう。
 だが、フォン・ブラウンの手によるロケットの燃料は、当時の技術的な限界から、後に主流となる液体水素ではなくケロシンを使用していた。そして、1950年を迎えても彼の望む衛星軌道へ到達できるガラスの靴にはなりえなかった。
 彼らが真なる成功を実現するには、「A10」の完成を待たねばならなかった。この完全二段式の全長60メートルに達する巨大なロケットは、何度かの試験の後ついに安定した衛星軌道に人工物を到達させることに成功する。
 時に1955年10月10日の事だった。
 この日、当時世界最大のロケット打ち上げ施設、何と2万5000人もの人員と13基ものロケット発射台を備える巨大施設、ベルリンからもほど近いバルト海に面したペーネミュンデ宇宙基地から打ち上げられた「タンホイザー3号機」の名を与えられた「A10」は、無事先端部に搭載した荷物を地上から228〜947キロメートルという楕円状の衛星軌道にのせることに成功し、約2週間の間電波を地上に向けて放つ事により人類の作り上げたものが遂に宇宙に到達した事をこれ以上ないぐらいに宣言した。
 ヴェルナー・フォン・ブラウン博士とその開発チームが、宇宙科学上で神話となった瞬間だった。
 だが、ドイツ語で「探検家」と名付けられた飛翔物体を衛星軌道上に乗せたこの大型ロケットは、いかにもドイツ的な凝った設計のものであり、そのまま大陸間弾道弾とするにはあまりにも先端工業の芸術品と言えるものだったため、本格的な大陸間弾道弾は単段式ロケットでありそれでいて低高度軌道に物体を到達させる事のできる次の「A11」こそが対向者を物理的にも恐怖させ、そしてその二つの発展拡大型、フォン・ブラウン博士が望んだ能力を持つ可能性を秘めた「A12」をして、ドイツを月面へと誘っていく事になる。

 これを見た二つの大国、日本とアメリカは、このドイツの半ば政治的デモンストレーションを自分たちに対する挑戦状とようやく受け取り、それぞれの方法で以てこれに応える事になる。
 米独日による宇宙開発競争時代の到来、フォン・ブラウン博士が最も望んだ状況の一つでもあった。
 なぜなら、対向者がある限り政治的な敗北ができないドイツは湯水のように宇宙開発に予算を投入するからだ。
 そしてこれは、日本人の成功がさらなる加速と開発熱の異常加熱を促進する事となる。
 1940年代初頭から、日本の主に海軍が主となって大型陸上攻撃機に搭載する誘導推進型の兵器の開発を行っていた。
 これは、日本的視野からすれば広大という表現すら足りない自勢力圏を保持するためには、それまでの「八八艦隊」のご自慢の戦艦達ではとうていカバーしきれる領域でなく、補完、もしくはこれに変わる新たな防人として長大な航続距離を誇る大型攻撃機と高価な機体を安全なままに確実な攻撃力を与える牙を開発していたからだ。
 余談だが、先述の理由により部内ではこの兵器機構開発の事を密かに「(八八艦隊)補完計画」と呼んでいた。
 この日本人達の努力は1943年に「3式無線誘導奮進弾」通称「桜花(チェリー・ブロッサム)」と言う形で具現化する。世界初の空対艦誘導弾(ASM)の出現だった。この誘導弾は、形状も今日の誘導弾に近くその推進力も個体燃料ロケットを使用しており、しかも兵器としての蛮用に耐えうるレベルに達している技術力によって作られていた。何より驚くべき事は、補助ブースターを付け最良の位置と速度で発射された場合、その終末速度はマッハ、音速を超える事だった。このため現場では、このロケットを「マッハ・ワン」と呼んだ。
 もっとも日本の誘導兵器は、日本がこれらを特に公表したりせずに、しかも日本が戦争をする事もなかった事から、米独の統治者たちにあまり注目されないまま事実上の水面下で発展を続け、1952年には5キロトンのニューク・ヘッドを搭載した「52式巡航誘導弾」という、ついに米独中枢を震撼させた凶悪極まりない「戦術兵器」を完成させ、50キロトンの大型弾頭を搭載する「戦略兵器」、「53式巡航誘導弾」へと進化する事になる。
 これらの兵器の恐ろしい点は、既存の過半の航空兵器に搭載できるだけでなく、発射装置さえあれば大型トラックのようなものに簡単に搭載できる汎用性の高さにあった。
 当然、日本人達はその後も努力を怠らず、三大国によるロケット開発競争が始まろうとしていたこの時、世界一個体燃料ロケットの運用ノウハウを持つ国となっていた。また、誘導兵器への傾倒は、その誘導技術が衛星軌道へ駆け上がるロケットへの応用も可能であり、この事も日本のロケット開発に恩恵をもたらす事になる。

 そして、ドイツの人工衛星打ち上げが、宇宙とはそれまであまり関係のなかったこの海軍の技術を全て、宇宙開発に応用させるよう日本政府に命令させる事となる。
 この時までの日本の宇宙開発は、アメリカほど貧弱ではなかったし、それなりに順調だったが、当面の目的がフォン・ブラウン博士のように気宇壮大でなく、対抗者の母国上空の戦略的偵察という極めて堅実なものだった事から、それ程大きな予算を与えられてはいなかった。
 ただし、1945年8月9日に旧ソヴィエト、現在のロシア連邦共和国から第一級のロケット工学の権威が亡命してきた事は何事かの始まりであり、彼の努力と政府の方針が当面合致した事から、外国人でありながら、このロケット工学の権威は科学産業省の下でロケット開発を一任される事となる。
 彼の名をセルゲイ=コロリョフと言う。
 ただ、ここでの日本官僚団の失敗に、一部組織の暴走から文部省がそれまで主導していた東大を中心とした先端技術開発というルールを横紙破りしてしまい、関係各省庁の間に大きな溝を作ってしまったという事がある。もっとも、宇宙開発そのものは、このある種のショック療法と政府の後の危機感からむしろ好転し、さらには東大一極集中の科学技術開発といういびつな構造を打破する一つのきっかけとなった事は、日本全体から見るなら大きな「成果」と言ってよいだろう。
 コロリョフ博士は、亡命するや馬力をあげて日本でのロケット開発を始める。
 3年後の1948年にはドイツの「A4」とほぼ同じ、というよりもほぼ完全な複製品である「R-1」の開発に成功、もちろん打ち上げも大成功をおさめた。
 余談だが、このコロリョフ博士の作ったロケットの「R1」の「R」とは、言うまでもなくロケットの頭文字であるが、彼の祖国であるロシアを意識していると部内では強く信じられていたらしい。
 この成功の後、博士と日本人を中心としたロケット開発チーム(後の通称:コロリョフ学校)は限られた予算をやり繰りしながら精力的にロケットの開発と打ち上げを推進した。この途中に、政府の後押しとロケットに未来の兵器を見た軍部の予算投下、同じく航空宇宙産業という新たな産業に巨大な利権を見いだした大企業の参加と続き、予算もそれなりの増額を継続、ドイツ人がロケットを打ち上げたニュースを報じた時、日本にあってかなり異質な存在となりつつあったロケット開発集団は、人員1000名を数える政府の一組織としてもかなりの規模に膨れ上がっていた。
 そして、ドイツのロケット打ち上げの報を聞いた政府により、さらなる予算の増額と人員の大幅増強、参加企業枠の計数的拡大、軍部の全面協力の手はずが整えられ、昭和日本お得意の行政指導型大規模産業への驀進を開始する事になる。
 もちろん、科学産業省は新たに誕生したと言ってよいこのロケット集団に相応しい名称も合わせて考えだしていた。今でも使われている「宇宙開発事業団」後の通称「NASDA」、日本が宇宙に対して何を見いだしているかを、これ以上ないぐらい明確に表した組織名だった。
 
 この後、ロシア人を頂点として日本人の作り上げた「宇宙土建屋集団」は、雨後の竹の子のごとく組織を肥大化し、次々と実験と開発、打ち上げを繰り返す事となる。時を同じくしてアメリカがスタートさせた宇宙開発に勝るとも劣らないものであり、国家社会主義者をして、これこそが資本主義の悪夢だと言わしめるに至った状況だった。だが、日本人達は自分たちの歴史的には一瞬になしえた今の繁栄が、何を原則として成立したか知り抜いており、だからこそ新たな挑戦に対してもその原則を最大限で当てはめたに過ぎなかった。
 「宇宙開発事業団」は、1956年4月に暫定成立しその次の年には本格稼働、そして発足3周年を待たずして人員7,000人の巨大組織となり、民間発電用原子力発電所の第一号完成と本格的南極観測基地の建設された1957年初夏、ついに日本人の手によるロケットを天空の高みに到達させる事に成功した。
 余談だが、この年はこういった未来を感じさせる科学技術が花開いた年であるだけに、それを見越して「亜細亜科学開発年」として世界に宣伝され、その一番の目玉商品だったのが、このロシア人設計によるロケットだったのだ。

 日本人の荷物を衛星軌道に送り届けた全長40メートルに満たないロケットは「R-7」と呼ばれ、4基のケロシンを燃料とする中型の液体燃料ロケットをメインブースターにして、その脇を4〜6基の大型個体燃料ロケットの実質的には第一段ロケットで取り巻き、さらに最終的には二段目(厳密には三段目)のロケットが起動して、安定した衛星軌道に到達するというシステムを持っていた。
 このため、日本のロケットはドイツやアメリカの真っ直ぐそびえ立つ塔のような形ではなく、どこかずんぐりした印象を与えるもので、この外見を時のドイツ宣伝省はいつもの常套句で激しくなじったものだ。だが、外見に似合わず日本の作り上げたこのロケットは実に優れた素性の持ち主で、その事は米独が次々に新たなロケットを設計・開発する中、1980年代まで基本形を維持しながら改良を重ねつつも主力ロケットとして運用されていた事を見るだけでもお解り頂けるだろう。
 これは、開発当初の基礎理論と基本設計が極めて優れていた事を表しており、まさに宇宙を「開拓」するために生まれた道具としてのロケットと言って過言ではないだろう。ただ、このロケットを最初に生み出してしまったため、軍事用の長距離大陸間弾道弾の開発は若干他国より遅れた点は、冷戦を考えると忘れるべき事ではないかもしれない。
 そして、もう一つこのロケットの利点は、まともな高速電算機などのない当時、日本的職人芸でなくては運用不可能と言われた大型固体燃料ロケットを初期推力として使用しているが故に大きな運搬能力を保持しており、この最初に衛星打ち上げに成功したロケットですら1000キログラムの物体の打ち上げ能力を保持していた。また、最終段ロケットを含め地球軌道に乗ったのはロケットと衛星をあわせると約10トンもあった。この数字は米独の達成した同クラスのロケットの数字よりも大きいものであり、当然グラムあたりのコスト面でも有利で、このアドバンテージが次の人類を宇宙に送り込むという段階のドイツとの差をごく僅かなものとしていた。
 つまり、歴史的にはドイツが1958年10月、日本が1959年4月に有人人工衛星の打ち上げに成功したという事になる。
 この時、人類史上最初に宇宙に到達した『宇宙英雄』とも呼ばれたドイツ人宇宙飛行士は、地上に向けて地球に対するこれ以上はないという感想を述べ、それに続いた日本人宇宙飛行士は、ドイツ人の御株を奪うような哲学的な感想を静かに語り、人々にさらなる感動をもたらした。
 そしてこの時、宇宙は日本とドイツの独断場、言い換えればフォン・ブラウン博士とコロリョフ博士の一騎打ちの場となっていた。
 ようやくアメリカが、無数の失敗の果ての1959年1月に人工衛星打ち上げに成功したが、この事はアメリカ国民の虚栄心を満たすだけの効果しかなかったと言われるほど、日独の宇宙開発は加熱していた。
 だが、そのアメリカも持ち前の国力の大きさに見合う工業力と、彼らの得意とする巨大なシステムのすり合わせ能力の高さを以て、宇宙開発を独日に劣ることのない予算を投入して継続し、1962年には人類を宇宙に送り込み、1970年までに人類を月面に降り立たせると宣言させるに至った。
 アメリカ人は、少なくとも日本人は追い越すつもりだったのだ。

 では、次の節では、第二次世界大戦後の日本の経済発展の話しを踏まえつつ、宇宙開発の次の段階を見ていこう。

●Phase 8-2:現代日本の発展と宇宙開発