●Phase 8-2:現代日本の発展と宇宙開発
日本人たちは明治御一新以来、悲壮な決意のもと近代日本を作り上げ、前向きである種の楽天的な気持ちでそれを運営し、某有名時代小説にもあるように青空にかかる一筋の雲だけを眺めつつ坂の上を目指して歩いてきたわけだが、その腕が天空の高みに達した時ふと足下を見ると、坂を上っていたはずがすでに山の頂すら通り越し、雲の上そのものを歩いていた事に気付かされた。 日本人たちがその事に気付かなかったのは、すでに山の頂で下を眺めていた英国を追い抜いてなお、その両隣ではドイツ人がイデオロギーと言う蝋で固めた鷹の羽ではばたき続け、アメリカ人達が延々とドル札でバベルの塔を作り上げており、とりあえず彼らに遅れをとらないように懸命に歩いてきたからだった。 日本の手により有人宇宙飛行が実現した時の心理状態を端的に表すと、おそらくそのような心象風景になるのではないだろうか。 もっとも、競争相手の米独からすれば、日本は天女の羽衣(キリスト教的イメージからすると天使の羽となるが)でも付けているかのような軽やかさで自分たちに横並びしているような印象が強かったと言う。
だが、天空に達しているだけにその力は、宇宙へとその手が届いたその時、1960年頃には世界の三大パワーたるにふさわしい、世界の四分の一の富を生み出すほどの発展をしていた。 この数字は、1920年代世界の半分の工業生産力を誇ったとすら言われるアメリカが日本の約2倍弱で、同じく欧州の盟主にして工業大国たるドイツと同等と言えば、その大きさが多少はわかっていただけるだろう。しかも、今ほど世界各国が発展していない時代、人類の総人口もようやく30億人が見えてきたという時代での話だ。 ちなみに、これを世界三大勢力で大ざっぱに区分すると、米:独:日=40:35:25程度と日本の勢力、(大東亜)共栄圏の勢力が一番小さかった。つまり、アジアにあって見るべき国富を生み出している国は、一部産油国と大国たるインドをのぞけば、わずかに日本の分身とすら言える満州国とこの頃には忠実とは言い難くなりつつあった同盟国韓国ぐらいで、実質的に共栄圏内は日本単独と言ってよい時代でもあった。もっとも、規模こそ違えアメリカの勢力圏たるアングロ勢力も英連邦以外は似たようなものだから、お互い様と言うべきかもしれない。 この当時、日本の総人口は1億3000万人を突破、また科学技術開発や兵器開発においては極めて濃密な協力関係にある満州国の人口も6000万人に達していた。後者については20年前の実に二倍以上の人口増加、つまりその多くは移民による増加なので一概にこれを国力の尺度とする事はできないが、アメリカと人的資源の面で対抗するには既になくてはならない存在となっていた。これは後に、「日満韓越枢軸」と呼ばれるアジアの中核国家連合の原形のようなものに発展し、これから語る事にも大きく関わっていく事になる。これを宇宙開発についてあえて言うなら、北満一帯に多数のロシア人が居住していた事から、彼らにとってそこは第二の故郷であり、日本の宇宙開発の父でもあるコロリョフ博士も北満のハルピンに居を構えていた事が興味深い点だろう。 そして、この頃日本での人口増加は、満州と同種の問題を多く抱えていた。もちろん、移民問題だ。 1943年、日本の半世紀を決定した第一回大東亜会議開催以来、日本の国是は明確に人種差別撤廃へと傾倒し、その政治的衝撃力を最大の武器にして自らの勢力を率いて行かねばならなかった。このため、日本帝国自身も必然的に開放的にせざるをえず、また日本の産業的な発展は近隣諸国からの移民を誘うこれ以上はないぐらいの蜜の香りを放ち、日本が大人口を養うため満州などからの安定した食糧供給を確保し、一般レベルでの生活の安定した1950年代に入ると爆発的に移民が増加する事になった。 これを統計数字で見ると、1940年当時日本本土の人口は約8000万人、海外邦人、移民が合計して約500万人存在し、日本国内に住んでいる外国出身者はわずかに本土人口の1%強に過ぎなかった。しかも外国出身者の過半は隣国の韓国からの不法移民あり、欧州から戦乱を逃れてきた者もいないではなかったが、その数は国際港湾都市となった横浜や神戸を例外とするとわずかな数でしかなかった。また第二の勢力を持っていたのも、台湾から本土に多く流れ始めていた中華民国の出身者、華僑だった。 それが、中華大陸での内戦の激化が同地域からの大量の移民、流民を発生させ、その過半は当時躍進を続けていた満州に流れたが、一部が台湾を中心に日本に流入、1940〜50年の間だけで台湾の人口は自然増も含めて5割も上昇し、中華動乱から分裂に至った1954年にさらに上昇カーブが上向き、当地での大きな自然増もあり1950年にはついに1000万人の人口を数え、日本の本土地域の一つとして大いに発展する事になる。 また、北海道から樺太に至る北の大地も第二次世界大戦から中華動乱の間にその人口が著しく増加されていた。これには、農業技術の向上による耕地拡大と樺太・北海道炭田開発・樺太油田拡大による製油産業の発展があったが、一部に黒いロシアの成立が原因していた。 かつての帝政ロシアの人々を追い立てた紅い旗を振る人たちが、今度は鍵十字に追われ多くが流れてきたからだ。ただし、今度流れてきた人々の多くはコサックではなく、かといって夢破れた共産主義者でもなく、ポーランド地域とロシア地域に多く住んでいたユダヤ教を信奉するユダヤ民族の低所得階層に属する人々であり、その数は約10年の間に12万人にも及んだ。これは満州や日本を経由してアメリカに流れた数を合計すると50万近い数字に達し、一部には自らの域内にユダヤの存在を否定しなければならないドイツの手により計画的にされたものだとすら言われているが、恐らくその一部は真実なのだろう。でなければ、これ程短期間に大量の流民がこの遠隔地に発生する筈がないからだ。 そして、日本政府としても産業発展の中にあって、しっかりとした基礎教育を受けた労働力はいくらあっても足りないぐらいという有様だった事と(ユダヤ人は貧富を問わず教育に熱心な民族とされている)、その国是、ドイツに対する政治的対抗心もあり、アメリカなどアングロ系国家各地に移民できる財力のなかったなどの理由で定住を希望したこれらの人々を全面的に受け入れ、場合によってはさらなる移民の支援すら行い、樺太や満州には政府の援助の元多数のユダヤ人居留区が作られる事になる。また、これら一部の人々は日本の本州の都市部にも流れ、札幌や東京、横浜、神戸などに今日のユダヤ居住区を作り上げている。村や街の一角に独特な屋根をした教会のある地域がそれだ。 なお多少余談ではあるが、ユダヤ教という強固な結束力を持つ宗教を信奉する彼らが、最終的に日本の勢力圏に多く止まった理由は、日本人の宗教性の薄さからくる迫害の著しい少なさにあったとされるが、「島国根性」と言われる日本人本来の潜在的排他性を思うと、これがどれほど真実かは当人たちに聞いてみなければ分からないだろう。 また、さらに余談を重ねるが、日本で中華料理やロシア料理が一般的なお茶の間の料理となったのは、南北から移民してきた彼らが母国の料理をもたらし広めた事に始まっている。中華料理に関しては中華動乱で出征した日本の兵士たちがもたらしたとも言われているが、この両方の影響だろう。またこれは、さらに後から入ってきた共栄圏各地の料理が、和製カレーなど明治から根付いていたごく一部を除いて遂に日本の一般的な料理とならなかった事と対照的と言えるかもしれない。
1945年に台湾が正式に日本領土に編入され統計上の人口が一気に増加、翌年には総人口が1億人を突破、さらにその後2%前後の自然増加を続け1960年には1億3000万人に達していた。なおこの後、治安悪化などを懸念した政府の意向により、移民にはかなり厳しい制限が設けられるようになったが、それでもそれなりの人口増加を続け、さらに四半世紀後の1985年には日本本国の人口は1億5000万人の大台に乗り、共栄圏の産業中枢とされる「日満韓越枢軸」の内包する人口は4億人を数え、これだけでドイツ第三帝国崩壊後の「欧州共同体」地域に匹敵する経済的パワーを持つに至っている。 さらに日本は、この大人口に比例するだけの大きな一人当たり国民所得を有し、その巨大な国民総生産(GNP)の約2%を軍備に投資し、さらに1960年代からは1%以上もの巨額の予算を宇宙開発に使用していた。これは、この約3%と言う数字が当時数千億円に達していた国家予算(現代(2003年)では約1兆1000億円・1ドル=0.9円)の四分の一にも及んでいた事が何よりも雄弁に物語っていると思う。
そして、日本がこれほど国費を軍備と宇宙開発に投入する(できる)ようになったのは、1960年までに国内の社会資本の整備の多く、特に都市部における整備を完了していたからであり、またそれまでの産業育成から重厚長大型産業を中心とした企業グループの発言力が大きくなっていた事が大きく影響していた。これは、関東大震災復興以後、1930〜40年代国内産業で大きな勢力を誇っていた国土建設省率いる日本帝国内の土建屋集団が、その役目を終えたと判断され農地改革の時のように1950年代から政府の強引な行政指導で他業種に転向させられ減少傾向にあったため、この流れは年を経るごとに強くなっていく。 そして、国家や国民でなく企業集団が宇宙開発に利益を見いだした事が強く影響して、日本の宇宙開発は利益追及を極端に求めたもの、初期開発以外では商業ベースを考えたものが主となる。 これは、1960年頃宇宙開発を主導していたコロリョフ博士を中心とする開発集団が、有人宇宙飛行の次はドイツやアメリカと同様月を目指すべきだとする感情的意見と大きく異なっていた。 だが、すでに老齢にあったコロリョフ博士も彼の同士もしくは後継者、弟子である日本人博士・技術者たちの多くも、宇宙に対しては今は足場を開発、開拓すべき時であり、冒険を行ったり望楼を作るべき時でない事は承知していた事から、フォン・ブラウン博士により暴走していたドイツや、国民の熱狂により推進されていたアメリカが月、そして火星を目指そうとしていた時、他の競争相手からは突然とも言えるぐらいにこの競争から降りる事を伝えた。 月に対して行われた事は、月軌道上に人工衛星を飛ばし、月面に小さな探査衛星を着陸させ、自分たちが行けないから月を目指さないのではない事を示した行動だけだった。 なお、東大を中心とする一部日本人たちが宇宙の商業利用に反ばくし、彼らを後押しする文部省が彼らを支援し小型のロケットすら打ち上げたりもしたが、宇宙に子供じみたロマンチズム以上の感情を持たなかった大半の日本人から置いていかれ、1970年代には事業団に合併され消滅する事になる。
日本が1960〜70年代に第一に目指した場所は、地球衛星軌道上の中でも最も到達が簡単な低高度軌道となる。そしてそこへいかに大量の物資を、可能なかぎり安価に打ち上げるかに心血を注ぎ込んだ。 そして、1961年春米独に対抗して日本政府がぶち上げた宇宙開発のスローガンは、『1970年までに恒久的軌道基地を建設する』だった。 同時に、大量の偵察衛星の打ち上げなども米独同様行われたし、それに払われた努力は時には米独をしのぐものがあったが、日本人は自らの民族性に忠実な歩みを進める事としたのだ。 日本人は基本的に農耕民族であるからこそ、新たな土地への「挑戦」は構わないが「冒険」は厳に慎むべきだと言うことだ。
この日本政府の決定に従い、また米独との宇宙開発競争に遅れをとらないため、それまで以上のばく大な予算が宇宙開発事業団に与えられた。その額は最大、国家予算の12%にも達し、1960年〜70年の間の計画に対しては、『第二次宇宙開発計画』の名が贈られた。そして、この時日本の宇宙開発が完全な国家事業へと変化し、日本産業を維持・発展するための主要産業にして、大規模公共事業の最優先事項に含まれるようになった事の証でもあった。 日本人たちは当面軌道基地を建設するとしたが、その目的は「事業」であるだけに当面の利益と後の収益ための準備のためのものとなった。 当面の目的とは、先に書いた軌道基地つまり有人宇宙基地を作り上げる事により、そこで無重力空間でしかできないさまざまな長期的な実験を行い、それによって直接的な利益を挙げ、その成果を後に活かす事だった。また、軌道基地建設の過程で副産物的に可能となる大量の物資を最も安く衛星軌道に投入する能力を確保する事で、今後需要が爆発的に増大するであろう世界の宇宙市場を席捲しようともした。さらには、将来的には電力の完全自給を目的とした太陽発電衛星の開発も始まっていた。 さすがに大きな利益を得るのにしばらくかかったが、計画が持ち上がって次の計画が実働する頃には実を結び、主にコスト差から日本国内や共栄圏のみならず世界中から注文が殺到、結果としてばく大な収益を挙げた事で同計画を推進した者たちを十分に満足させた。これにより、宇宙空間の商業的利用という目的が誰にも否定できなくなり、日本政府はもとより宇宙にメリットを見いだした世界中の全ての企業が、同地域へもっとも大きな進出能力を持つ自分たちを無視することなど、少なくとも向こう四半世紀は誰にもできないからだ。 これは、ドイツ人とアメリカ人が、イデオロギーと競争意識の赴くまま月を目標とした経済性を無視した単体での大質量打ち上げ能力を持った「だけ」のロケット開発に狂奔していた事で大いに補強されていた。 そう、日本人は月へ行くために特化されたロケットの持つ大質量投入にはそれほど興味を持たなかった。日本人たちは何よりも経済性を重視したロケットを愛し、それゆえ生産性、管理性、稼働率、打ち上げ成功率が最も高いレベルでバランスのとられた「R-7」系列ロケットの改良型の大量打ち上げへとまい進した。 1962年に最初に打ち上げられた「R-7」の改良型である「N-1」、そのさらなるコストダウン型である「N-2」ロケットは、初期加速に大量(4〜6基)の大型個体燃料ロケットを使用した日本伝統の「2.5段型ロケット」で、米独の大型ロケットに比べるとかなり小さい全長60メートル程しかないものでしかなったが、クラスター型と呼ばれる4基のメインエンジンを並べた方式のメインロケットが生み出す推力と得意の個体燃料ロケットのパワーにより低高度軌道へ24トン、高軌道には2〜4.5トンの投入能力を持ったもので、特に各種ロケット技術の安定性の高さが低高度軌道への安価な物資投入を容易にしていた。 このロケットは、改良を重ねながら使用され、革新的な新型が登場した今日ににおいても補助用として細々と打ち上げに使用されており、その優秀性を見せつけている。このためか、アメリカでは「R-7」に対して「スタンダード」の通称を付けていた。 また、この時点で日本が大推力の大型エンジンでなく、中型エンジン複数によるクラスターロケットを採用したのには、今後のための大きな布石となっている。 そして参考までに記載しておくと、米独の月ロケット、火星ロケットは、全長100メートル以上、総重量3000トン以上と言う巨体で、低高度軌道(LEO)へ100〜250トン、月面へは40〜50トンもの運搬能力を持った巨大なもので、ロケットの外見的な代名詞にすらなっているが、その経済性においては日本の量産型ロケットとは比べ物にならないぐらい、非効率的なものである。 なお、この月ロケットで興味深いのが、アメリカとドイツで建造された同種のロケットが共に似通った外見をしていた事だ。結局、同じ方向に特化した事で作り上げたロケットそのものも似通ってしまったと言う事だと思われるが、やはり同じ白人国家のメンタリティーをあらわしているのではないかと思えてならない。
そして、未曾有の宇宙開発に際して、日本の様々な地域で多数の象徴的なものが建設された。二、三挙げておこう。 1963年に本土の濃尾平野地域の某所に大きなラインの組まれた「N-2」ロケット生産工場群は、距離感を狂わせる程の巨大さを誇っており、5万トンクラスの大型船が接岸できる港を近くに持った巨大なもので、そこではまるで大陸間弾道弾を作るかかのようなスピードで大量のロケット建造を行った。さらには、特注の大型クレーンを装備した、専用運搬船も何隻か整備されていた。 これを見た国外の友好国の同業者たちは一様に、いったい日本人達は何をそこまで急いで宇宙を目指すのかに全く疑問に思ったと言われるから、よほどの規模とスピードだったのだろう。 日本人にすれば、単に経済原則に則っただけであり、一度坂道を転がりだしたら自分たちで制御できないぐらい規模が大きくなるのはいつもの事だったが、確かに急いでいるように見えるのは当然といえば当然なのだろう。 なお、この様を対向国側の軍人の一部は、いつでも大陸間弾道弾を「量産」できる体制を維持する事で、劣勢な正面弾道弾戦力を補完しようとしていると考えていると見ていた。 だが日本人達は、そうした海外の目を全く無視するかのように、これらの工場を頂点としてその絶頂期には(と言っても状況は現在も継続中だが)、小は親父さん以下数名しかいない下町の小さな町工場から大は100万トンもの建造能力を誇る1000メートルドッグを持つ巨大造船所までが、この新たな「産業」へ積極的に参加し、競争原理の働きから日本人の視点から見るなら実に大きな成果がこのときに得られる事になる。もちろん、得られた事は政府のみならず各企業が投下した莫大な開発資金と基礎技術の広範な成長、経済原則に伴うコストの低下だ。
そして、その無尽蔵に作られたロケットを打ち上げるための施設も新たに建設された。 それまで日本の宇宙開発の牙城は、1940年代は鹿児島・内浦湾の「飛翔体発射施設」、1950年代は南西諸島にある「種子島宇宙基地」だったが、この新たな計画の前にはそのどちらも利用、たとえ限界まで拡張しようとも無理があった。 そこで政府は、海軍から広大な南洋の基地を一つ召し上げ、それを宇宙開発事業団に好きに使ってよいと言う言葉とともに明け渡した。もちろん、ばく大な予算と人員と共に、である。 海軍が取り上げられた基地は、中華動乱で巨大化した東シナ海最大の基地・嘉手納。 そう、「嘉手納宇宙基地」、「カデナ・ベース」誕生の瞬間だ。 事業団は、新たな玩具を与えられた子供のようにはしゃぎながら自らの新たな足場の建設にまい進し、基地を渡されてからたったの3年後の1964年には、そこで最初の「N」系列ロケットの打ち上げを行っていた。 もう、ものすごい馬力としか言い様のない状態であったが、1970年までに総重量500トンもの物資を地上から400キロメートルの宇宙空間に上げてしまわなければその存在価値を疑われる彼らにしてみれば当然の行動であり、さらに本土では次々にロケットが建造され、それに搭載する衛星の開発も進んでいるので、もはや種子島では限界であり、一日も早い新たな宇宙基地の開発が重要だったと言う理由から、その後もスピードを落とすことなく、次々に発射台を作りそこにロケットを据えて打ち上げをどんどんおこなった。最盛時には、何と隔週で「N-2」ロケットの打ち上げが、15基並べられた発射台のうちのどれかで行われていた。 カデナ・ベースが完全稼働に入ると、宇宙開発に直接関わる人員の数、つまり事業団に属する人々は末端まで含めると5万人を突破し、規模においても日本は米独と肩を並べる事になる。しかもこれは米独が月、火星を目指している中、一人低高度軌道へと努力を傾けているという状況でだ。 確かにこの勢いは異常だった。
この間、1968年にドイツ人が、1969年にアメリカ人が月へ人類を送り込む事に成功したが、日本人はひたすら衛星軌道上のみを見つめ、そこに必要と思われるものを次々に送り込んだ。 多くは、軍用の各種偵察衛星、通信衛星であり、民間用の様々な衛星だった。一般市民に目に見える成果としては、日本が世界最初に衛星放送を実現した事と、アジア全土をカバーする気象観測衛星を打ち上げが挙げらると思う。この民間分野での日本の宇宙での躍進は、米独、特にいずれは世界の宇宙開発事業を牛耳ろうと目論んでいたアメリカを焦らせ、彼らが月に到達して以後彼らに無理な宇宙開発を強要し、予算不足などの足かせから数々の失敗を経て、アメリカ人自ら日本人に握手を求める行動をとらせる事につながる。
そして1969年10月10日、日本政府は2日前に打ち上げられた「N-2」ロケットが打ち上げた物体が、低高度軌道の衛星軌道上のとある幾何学的な構造物の一部となった時、大々的は報道を行った。 何とその報道は、政府が設けた嘉手納宇宙基地の特設会場と、衛星軌道上のその奇妙な幾何学的な構造物の中からの二元中継が行われ、世界中の度肝を抜いた。当然、世界中に衛星放送で伝えられた。 なお、日本人が建設した「軌道基地」、事業団が国民投票で決定した愛称「ひかり」(次点に「きぼう」、「みらい」、「はるか」、「のぞみ」などがありどれもが明るい未来や宇宙を連想させる日本語であり、後の施設名に使用される事も決まっていた)は、総重量500トンに達し、最大長100メートルを越えるサッカー場よりも広い範囲に広がる巨体であり、もちろん衛星軌道にありながら人間が目視が可能なものの中で人類が生み出した最大の建造物だった。 基地の主な動力は当初原子炉が予定されていが、多数の人間が活動する場所で汚染の危険を犯すことはできないとして、結局大電力を生み出せるだけの太陽電池を展開することで対応された。このため「ひかり」は、見た目のかなりの部分を太陽電池が占めることになり、一見太陽電池を並べただけの太陽電池発電所のような外見をしていた。だが、その中には常時6名、最大10名もの長期滞在が可能なだけの居住空間とそれだけの人間が実験を行うための施設が備えられていた。この規模は、日本が1964〜5年にかけて、この「ひかり」のテストケースとなる3人滞在型の小型軌道基地で実験して以来の人類の長期宇宙滞在だったが、その規模は人類を月に送り込んだ米独の及ぶところではなかった。 また、これだけの大計画であるだけに日本一国だけでは財政面、人材面で力不足は否めず、このため日本は大規模に低高度軌道を目指すと決めた段階から、積極的に共栄圏各国の計画参加を促した。桃太郎は、技術というきびだんごをエサにお供を宇宙へ連れていこうとしたと言うことだ。 これにその国是から満州国が真っ先に参加を表明し、あくまで対等のパートナーとして、そして関連技術供与を条件にインドも全面参加を表明、少し遅れて経済発展を始めていたベトナムが続き後は芋づる式だった。自国の独自性を訴え最後まで自力でのロケット開発を行おうとしていた韓国政府、財界も国民のバスに乗り遅れるな的煽動に屈し、日本の計画への参加を表明していた。 この日本の姿勢は、「共栄圏が一体となって・・・」と言ういつものプロパガンダのもと実行されたが、上記したように経済的、人的資源面では極めて大きな効果を挙げ、対抗国をして日本の宇宙開発は学術目的という本来の道を離れ、経済的な総力戦と勘違いしていると非難させるに至っている。 米独にそう言わせたのは、ドイツの独善的な宇宙開発に欧州各国ではフランスなどが独自の宇宙開発を始め、アメリカにおいては英連邦の英国、カナダ、豪州などが宇宙開発に参加できる程度の総合的な国力を持っていたが、英国が各植民地の独立騒動で揺れ、豪州が地理的な関係からアジアとの結びつきを強めている事などからほぼ単独で月を目指していたのとは対照的だったことが影響している。 もちろん、多数の国を巻き込み企業の参加する状態だから機密漏洩の危険は加速度的に高まるが、事業団と政府は技術漏洩を考えてなお、得られる利益の方がはるかに大きいと考えていた。そして、結果的にもその通りとなる。 また、副産物として、アジア各国の結束をより強くする事にも貢献し、この時代の宇宙開発がやはりイデオロギーや対抗相手との政治的な競争である事も確認されていた。 さらには、共同開発で必然的に発生する問題も多く見いだされ、実際後に大きな弊害も発生させるという苦く貴重な経験を日本と事業団にもたらしてもいた。
軌道基地「ひかり」は、1965年の中枢部4基の一気打ち上げとその接続による一部始動から約5年後の1969年に完全稼働を開始したが、その後もモジュール構造という利点を利用して陳腐化もしくは老朽化した区画の交換とさらなる拡張を繰り返していた。 その間、月・火星競争から一時解放された米独の宇宙開発が、今度は火星を目指すための準備として低高度軌道開発に向き、ドイツ人が火星旅行の長期滞在データ収集のため、アメリカ人に先んじて3人の人間が長期滞在できる軌道基地を建設した1973年、アメリカ人がそれに続いた1975年、そして1977年には、世界で4番目にフランス人が独自に実用大型ロケット打ち上げに成功していた。ただ残念な事に、日本に亡命したコロリョフ博士の祖国ロシアは、先端技術の面では完全にドイツの付属物とされており、ほとんど大型ロケットの開発能力は持っていなかった。ロシアについてドイツ人と欧州人共通の潜在的恐怖感がそうさせていたのだ。 そして、それを眺めながらも日本人の宇宙空間最初の領土である軌道基地は順調に拡張を続け、完全稼働開始10周年には1000トンの質量に達し、その最大長は150メートルにも及び、しかもそれまでの単なる太陽電池の塊でなく、中核にかなりの数の構造物を含むようになっていた。もちろん、そこに滞在する人数も増加し、10周年の記念行事として世界最初の民間宇宙旅行者をその年の間に8名も迎え入れ、自らの低高度軌道での圧倒的優位を誇示していた。 日本人達は、自分たちの生活を犠牲にしないで、さらには国富を拡大しつつ宇宙にどれだけ投資でき、その成果を得られるかを身をもって証明してみせたのだった。 だが、低高度軌道に盤石の基盤を作り上げた段階から、日本の宇宙開発は次にどこを目指すべきかについて混乱をもたらす事になる。 部内に大きく3つの派閥が構成されていたからだ。 ある一派は、盤石である前進拠点たる軌道基地を利用して短期間で月に人間を送り込み、自らも米独に劣るところなどない事を示すべきだとした。さらにこの一派は、そのまま米独を追い抜いての火星到達を図ろうと計画していた。当然、感情面では最大の勢力を誇っていた。 別の一派は、関係各省庁から派遣されてきた官僚たちによる一派で、これが最も混乱を呼び込んでいたもので、自らの組織の利益を反映させるために何の専門知識もないのに計画を拡大しろとか縮小すべきだと騒ぎ立てていた。そしてその中でも最大の意見だったのが、しばらくは国防と商業利用の人工衛星打ち上げのみに専念して、その歩みを少し緩めるべきだというものだった。 そして事業団内部で最大の勢力を占めていたのが、高軌道上への軌道基地と実用的な宇宙発電衛星の建設、それを可能とするための大量打ち上げ能力の確保を図ろうとする、現計画に最も則したものであり理屈の上ではこれ以外選択すべきではないと言うものだった。しかもこの一派は、部内で「ブラック・ボックス」もしくは「コロリョフ学校」と呼ばれる事業団で一番発言力の強い科学者・技術者グループが最も強く支持していた。 幸いな事に計画縮小の方向に事業団全体の意見が傾く事はなかったが、だが二つの道がまだ残っていた。
日本の宇宙開発は、無邪気な感情の赴くまま米独間の競争に参加すべきか、一人さらなる高みを目指すための準備に専念すべきか。 さて我が国はどこへ征くべきだろうか?
1. 月、そして火星へ
2. 足場の固め直し