●Phase 8-3:宇宙港建設

 1981年のその年、日本の次の宇宙開発計画である、「第四次宇宙開発計画」が国会で可決した。ほぼ同時に「大東亜会議」として発足し、1972年に「亜細亜連合」と変名・改変された全アジアを内包する世界の三大パワーたる巨大国際組織での全体会議においても、次なる宇宙開発計画を承認、日本の計画に全面的に協力する方針を明らかにした。
 日本の宇宙へ向けての暴走の開始が、このとき決定したのだ。

 もっとも実際の計画に参加した国で、資金や人材を拠出するなど物理的な面で主体となる国は、日本以外では「東亜宇宙機関(EASA)」を構成している満州国、ベトナム共和国だけと言ってよく、他はよく言えば応援団か後援団体、悪く言えばただのやじ馬や冬山の枯れ木のようなものだった。そして日本にとって当面はそれで十分だった。彼らは良き顧客となってくれるからだ。
 これは、1960〜70年代の宇宙開発のアジア連携の折りに、インドがその技術で大陸間弾道弾を製造してしまい、当時インドと他のアジア諸国の間の関係が若干冷却化していた事と、韓国が宇宙での自主開発による独自路線を目指し始めた事で、 日本を中心とした宇宙開発の人材と資金を拠出できるだけのアジアの大国が実質的に「日満越」だけとなっていたからだ。また、共同開発などと言うものがどういう結末をもたらすかという結果を、これ以上ないと言うぐらい日本に教えてもくれた。
 しかし、この参加主要三国だけでも1980年の総人口で3億4000万人、国内総生産額は世界の30%近くに達し、アメリカ合衆国単独に匹敵する国力となるのだから、計画を主導する日本の事業団としてはまずは十分な数字と考えていたようだ(日本単独では総人口1億5000万人、GDPは世界の21%)。それに、1980年当時は宇宙開発がまだ列強間の競争の場と考えられていた最後の時期であり、そういった雰囲気も少数精鋭的な宇宙開発に肯定的だったと見られているし、何より満州国は日本の分身という雰囲気が彼ら自身の心情面でまだ強く、満州国が日本が世界に挑戦すると言うのならそれに参加するのはむしろ当然という気運があった事も影響している。ベトナムについては、自らが半世紀にも満たない間に大きく発展できたのが誰のおかげかをよく知っており、その恩返し的意味合いが強かったというのが民意の面で日本の計画に積極的に参加した背景となっていた。なればこそ、日本は何かと面倒の多い共同開発にこの二つの国を桃太郎のお供とする事を許したのだ。

 ではここで少し横道に逸れるが、第二次世界大戦後、東亜にあって大きく経済発展した満州国とベトナム共和国について少し記しておこう。
 満州国は、1932年に事実上日本の手により建国されたが、第二次世界大戦までは触れているのでそれ以降と言う事になる。
 満州国は第二次世界大戦後、それまでと何ら変わることなく日本の忠実な同盟国、衛星国として振る舞う事になる。これは、何も支配層に日本人が多いからではなかった。国境の半分を最有力の潜在敵であるドイツ第三帝国をバックに持つ黒いロシアと接していたからだ。だからこそ、国民の過半が日本が宗主国である事に曲がりなりにも納得していたのだ。
 ロシアが満州を欲した事については、今更ここで触れるまでもないだろうし、多少は先述しているので割愛するが、この日本本土の約三倍の面積を持つ満州地域は、国を富み栄えさせるのには比較的良い条件が揃っていた。多少寒冷とは言えそれなりの降雨量を見込める平地が多く、またその地下には多くの鉱産資源、燃料資源が眠っていたからだ。労働力についても、混乱の続く中華地域中央からいくらでも流民・移民として流れてきており、ここに適度の秩序と資本さえあれば豊かな国を作り上げるのは、かなり容易な事と考えられていた。そして、幾多の苦難と無理を押し通し、日本人が中心となってここに東亜で第二の国を作り上げる事に成功した。これが、第二次世界大戦が終わった時の満州の状態だ。
 戦後の満州は新たな対立構造の中、東亜の北の防波堤としての役割を受け持たされ、国民一人一人がこれに大きな危機感を持っていた事から当然のように国是とされ、以後も殖産興業と富国強兵に力が入れられる事になる。
 満州国の産業は、先にも述べたように「満業」と言われる企業集団、今の言葉で言う巨大コングロマリット(多国籍企業)がその多くを牛耳っており、徹底的に効率を重視した国家運営が成されていく事になる。特に人権問題が強く取りだたされるようになる1960年代までは、低所得層国民に対してかなりの無理を強いたりもしたが、1960年代には国家制度も国際的に見ても第一級のものとなり、多方面からの移民の受入と自然増加で総人口も一億人を突破、重工業に力点を置いた産業発展も功を奏し国民所得も全体的に見ても高く、建国から40年で世界規模での一等国と言ってよい大国へと成長していた。
 もちろん、その裏にはその国力を利用する日本帝国の影が常につきまとっていたが、日本も自らの国防と産業の要である満州をかつての欧米列強が植民地を扱うような荒っぽさはなかったので、英連邦におけるカナダのような位置へと自然なっていた。
 そして満州国は、清帝国の皇族の血を引く一族が国の「象徴」として君臨する立憲君主国だったが、日本の皇族との婚姻がなされた1960年代半ば以後は、中華思想からの呪縛からも解放され完全に日本にとって英国の英五大連邦のような存在となり、双方それを意識した関係を作り上げ、今日に至っている。国民の総意においても、日本の無二にして第二のパートナーとしての考えを自然に持っており、主要構成民族の80%近くが各種中華系民族(中華中央と違い中国人や漢民族と言う意識は全体的に低かった)であってもそれは変わっていなかった。国民は、自分たちが豊かで安全な生活ができるのが、誰のおかげかをよく知っているという何よりの証明かもしれない。まあ、少なくとも表面的にはそう言う事になっている。
 その力は21世紀を迎える頃には、総人口1億2000万人、総生産力で世界の6%と言う、人口が欧州一般の国よりずっと多い分大きな国力を持つに至っていた。共栄圏内でも経済的に第二の大国であり、世界的に見ても第4〜5位に入るGDP(おおむね米・日・独・満・英・仏の順)を誇っていた。

 南の国ベトナム共和国だが、この国は第二次世界大戦のさなか1943年に独立宣言を行い、近代化の歩みを始める事になる。
 もちろん、ここを植民地にしていたフランス人がこれをアッサリと認める事はなかったが、母国が戦火に焼かれドイツの軍門に下ったフランスが、アジア・太平洋圏で膨大な軍事力を持つ日本の明に暗にの支援を受けたこの国の独立を止めることは結局できず、最後まで抵抗した現地軍も1946年には日本の艦隊に睨まれつつ完全撤退し、約100年ぶりに越南の地は静寂を迎えることになる。
 もっとも、だからと言ってすぐに日本のような国ができたわけではない。
 むしろ約100年もフランスの植民地になっていたため、日本がそれまで近代化してきた自らの弧状列島、台湾、朝鮮半島、満州よりも、豊かで平和な国を作り上げる事は大変な事業だった。
 だが、植民地のくびきから解放されたベトナムの人々と、これを東亜の新たな友にして有力な市場にしたいと考えていた日本は、フランスの圧政で荒れ果てた国土を熱心に作り直し、発展へと導いて行く事になる。
 ベトナムの開発は、日本がそれまで他地域で行った事を現地の気候風土に適応させた計画を以てあたる事とされた。特に参考とされたのは、台湾の開発だった。これは、ベトナムも台湾もそれまで他民族から支配され、そして共に南方に存在していたからだった。まあ、この点日本人達は、かなり安直かつ杓子定規に物事を考えていたとも言えなくもない。
 なお日本が熱心に援助したのは、自らと台湾での行いがそうであったように、国民全体への一般教育と全国規模での医療制度の普及だった。この二つは社会資本の整備の中でも最も時間と経費がかかる事ではあるが、単に民主主義の導入や殖産興業、富国強兵だけを行をうとしても、こうした足下を固める事を疎かにしては、まともな国家はできないし、豊かになるものもならないからに他ならない。これ以外にも治水・治山、上下水道、鉄道道路の建設、治安維持体制の確立など国が必要とするありとあらゆるものへの物心両面からの援助と人的指導が行われた。
 しかし、日本が熱心にベトナムに援助を行ったのは、何も善意からではなかった。個々人でのそれと同様に全く善意がなかったわけではないし日本的お人好しさも否定できないが、日本の国防上と海運安全のために南シナ海に安定した国が欲しいと感じたからであり、歴史上一度も自らの手による国を持ったことのないという民度の低いフィリピンでは、その達成が短期的に困難だと判断され、その代わりとしてベトナムが指定されたからだ。
 その証拠に、同じフランスの植民地となっていたカンボジアやラオスには、ベトナムほどの援助はなされていない。
 もちろん、ベトナム人自身による国家建設も熱心に行われた。そして、それまでの歴史において中華地域からのさまざまな影響を受けつつも自ら国家を作り、生活を営んできた下地があったればこそ、ベトナムは近代国家として発展する事ができたと言えよう。でなければ、資源もなく農業生産も決して豊かと言えない、日本や韓国と同様の立地条件にあるこの国が、半世紀に満たない時間で産業立国として成功する事などあり得ないからだ。日本の援助は、ベトナムの人々の努力をほんの少しだけ後押ししたに過ぎない。また、2つの中華国家への脅威がバネとなっていた点も無視できない要素だ。
 そして、ベトナムの人々は、特に民意において南方に住む民族特有と思われる大らかさから、自らの国造りを大いに助けてくれた日本に対して強い友好感情を持ち、1980年代には高度経済成長を開始し、特に21世紀に入って重要性の高まっている軍事の面でも軽空母を整備するなど力強い面を見せており、今日においても日本にとっての最も信頼できる友好国の一つとなっている。
 なればこそ、日本も彼らが自らの宇宙開発参加に熱心だったのを是として、肩を並べることを認めたのだ。
 ちなみに、日本帝国が共栄圏を含め世界中で信頼を置いている国は、自らの分身もしくは息子と言える満州国を筆頭として、ベトナム共和国、以下イラン共和国、ビルマ共和国、インドネシア共和国、タイ王国、インド共和国の順だと言われている。これにおいて韓国の順位は元対抗国である英米よりも低く、感情面での厄介者と見ている節が強いとされている。

 さて、話が長く逸れてしまったが、宇宙開発にもどそう。
 「第四次宇宙開発計画」、通称「四次宙」の根幹となるものは、拡大というよりも肥大化しつつある宇宙開発の新たな拠点の建設と、高軌道(静止衛星軌道)への打ち上げ能力の拡大を図るというものだった。つまり次への飛翔のため、もう一度足場を固め直すのが「四次宙」の計画の骨子だった。
 新たな拠点の建設は、いずれ近いうちに打ち上げ能力が限界に達する沖縄に代わる、より南にあるどこかにそれまでの規模を数倍にした宇宙基地を建設する事であり、打ち上げ能力そのものの拡大は、「往還船」と呼ばれる新たな大型ロケットの開発、実用化であった。
 順に見ていこう。
 まずは、日本人は足場を作り上げる事を何よりも重視した。砂の上に城を作る気はさらさらないという感情を具現化させる「カデナ・ベース」に代わりうる新たな打ち上げ基地の建設だ。
 当時「嘉手納宇宙基地」のある沖縄は、経済的に本土と横並びになった台湾と本土の中間地点と言う利点と宇宙開発に関わる人の流れから観光業以外の面でかなりの経済発展と人口増加を示しており、そのような場所で近隣に頻繁にロケットの打ち上げをする場所があると言うのは何かと問題が多いというのが政府や地元自治体、軍部などの言い分だった。また、事業団側としては、このままのペースでは嘉手納ですら1990年代後半には手狭になるのでその代換地か同規模の基地をもう一つを欲しており、渡りに船とばかりにこの話しにのる事にした。だが、事業団から出向してきた基地建設を担当する技官たち(宇宙基地建設公団)による次なる基地についての説明は、宇宙に関わる者以外の全ての者を驚愕させる事になる。
 何と事業団が要求した基地の規模は、最終的(半世紀後)には最低5キロメートル四方、最大15キロメートル四方の安定した平面空間とそれに附随する工場など周辺区画と言う、途方もない数字だった。しかもそれは、建設場所によっては空港や港湾施設、商業地区、はては職員用のベッドタウンと歓楽街も用意しろ言う贅沢な要求だった。対テロ用部隊を含めた四軍の基地については言うまでもない。
 要するに、100万人都市に匹敵する土地とそれに付随する全ての物を要求していたのだ。そして彼らは、日本が宇宙を欲するのなら四半世紀以内に必ず必要になるだろうと断言していた。
 それはまるでノアやモーゼが神託を告げる時のように確信に満ちていた。
 これが最初に話されたのは、1970年頃だと言われている。
 そして、関係者は等しく頭を抱えた。宇宙事業はすでに国家事業であるから今更さまざまな理由から縮小などできないし、むしろ拡大すべきなのは分かり切っている。それに、そこで発生する経済波及効果と国富拡大には大いに期待し、政府側としても大いに後押ししたいところだった。
 だが、それだけの土地は、21世紀には総人口1億6000万人が見え人口が飽和状態になりつつある日本列島のどこにもなかった。だから頭を抱えてしまったのだ。外郭地の台湾や樺太についても例外ではない。
 取りあえず、海軍から極東最大級と言われた広大な嘉手納基地を召し上げそれを与えたが、それでさえ当面はともかく四半世紀後には手狭になると事業団の誰もが言った。しかも、彼らはその新たな場所が、可能な限り赤道に近いほうが良いとも言った。
 なればこそ、政府は日本本土最南端と表現してよい沖縄の嘉手納を事業団に与えたのだが、彼らはまだ不満があった。赤道に近ければ近いほどロケット打ち上げがしやすく、これは経済性を最重要に置く彼らにとって死活問題だったからだ。
 確かに、日本帝国は赤道以南の西太平洋全域を、大半がいまだに委任統治という形だったが領土として保持しており、海洋面積と言う点では世界最大級の「領土」を有していたが、その島々の過半は珊瑚礁か火山島のなれの果ての小さな島ばかりで、とても巨大な宇宙基地を建設できる平面は存在しなかった。一時は、マリアナ諸島のサイパン島の南半分とサイパン島に隣接する平面の多いテニアン島を全て与えようかと言う話しにもなったが、南洋の保養地として発展しつつあったここを国民からとり上げることなど、1970年当時の民主化の進んだ日本では不可能に近かった。いや、不可能だった。それに、宇宙基地は先端技術の牙城であるだけに、国防という点も考慮しなくてはならない。となると誰でも気軽に訪れる事のできる観光地に帝国の未来の拠点を作るなど論外だった。なればこそ、嘉手納から出ていかなければならなくなったのだ。これは、ドイツ人がついに国外に発射施設を建設しなかった事からも自明の理で、フランス人のようにギアナという南米の僻地の植民地に、基地を建設できるほどの楽天的な民族は稀だろう。(もちろん21世紀に於いては、この考えは後進的だが。)
 こうして新基地建設計画は嘉手納を与えて以後事実上頓挫し、今後をどうするか角をつき合わせての会議が何度も行われたが、全く出口は存在しなかった。彼らは嘆いた。世界の三分の一を支配する国家がちょっとした土地の事で悩む羽目になろうとは、と。
 そして、途方に暮れふと横を見ると、同じように日本の土地事情に苦労し、そして開き直りとも言える手法でこれを解決しようとしている団体を発見した。その団体とは、21世紀までに全アジアにアメリカ合衆国となんとか互角に渡り合える民間航空網を整備しようとしている政府のとある組織、公共事業系土建屋最後の希望、空港建設公団だった。
 1960年代当時、彼らは技術の進歩に伴い肥大化するであろう民間空港の展開をどうするかについて協議していた。そしてある結論に達する。東京、大阪、博多、台北、新京、大連、ソウル、サイゴン、シンガポールなど東亜の大都市近傍(マラッカ海峡より西については別問題とされている)に欧米のような巨大空港を建設する事は、アジア各国の人口密度の高さを考えると新京など一部を除いては不可能。特に、既に大きく市街地が広がっている日本国内の東京、大阪、博多、台北と半島先端部という狭い地域にある大連においてはほぼ絶望的であり、これをどうにかする必要がある。しかも、四半世紀以内に。
 彼らは様々な試行錯誤を重ねて、一つの結論に達していた。この5つの大都市における未来の国際空港は、海に建設するより於いて他にない、と。

 かくして新たな方針のもと、まず東京での実験を兼ねた空港整備計画が開始された。時に1964年の事だ。
 この新たな航空政策で、都市部にある横田空軍基地が軍部から召し上げられ、これを小型民間機専用空港として道路で言うところの支道としておかれ、本道として1920年代から民間空港として稼働していた羽田空港の徹底拡張が開始された。この規模はある種の実験であるだけに当時の日本としては破格のものであり、1960年代2500〜3000メートル級滑走路が横風用を含めて2本あるだけだった羽田空港の沖合を航路の限界まで埋め立て、10年間で4000メートル級3本、横風用3000メートル級1本、乗降施設2箇所というほぼ三倍の規模に拡大した。将来はこれでも手狭になると予測されたが、20世紀間はこれで何とか対応可能と判断された事から、次なるステップへと移った。次とは、建設当時その奇抜さから脚光を浴びた「関西国際空港」の建設だ。
 この空港の奇抜さについては、ここで枚数を重ねる必要はないと思うが、要するに「浮体構造物方式」と呼ばれる工法、つまりコンクリートの堤防で囲った中に鋼鉄で組み上げられた人工の島を浮かべて、その上に巨大飛行場を建設してしまうというものだ。
 利点としては、埋め立て地に付き物の地盤沈下が全く存在しない事、そして何より埋め立てに比べて建設期間が非常に短くできる事が挙げられる。また、拡張も単なる構造物の集合体のため非常に容易で、これ程の巨体となると波の揺れによる問題も一部が非難した程の事はなかった。なお最後の点は、これだけの規模の構造物が揺れで使えないような状態なら、飛行機そのものがとうてい飛べる状態でない可能性が極めて高いという、ある種滑稽な理由もあった。さらには、日本とアジアを牽引していると自負している重厚長大産業企業体が、自らに大きな発注が来る事が確実なこの事業を大いに後押しし、計画は模型を使っての実験を入念に行ってから始動された。
 建設場所には、交通の便利さという商業目的において非常に重要なファクターを満たすため、大阪湾の中でも大阪市沖合があえて選ばれ、当時ゴミ捨て場としても埋め立ての進んでいた沿岸の巨大埋め立て地のさらに沖合に建設される事になった。工事は1978年に早くも開始され、何とたった6年でその姿を洋上に現す事になる。
 第一期工事においてすら、4000メートル級滑走路2本を含む、約4.3×2.5キロメートルという途方もない人工物が建造された。しかも2005年までに規模がこの二倍以上に拡大される事が第一期工事完成時点ですでに決定しており、最終的には余剰空間を利用してコンテナヤードや港湾施設、商業施設も増設し、単なる空港島ではなく一つの複合商業区画を建設しようとしていた。
 まあその、未来の洋上都市と言うヤツを目指したのだ。
 余談だが、そのあまりの偉容に完成当時はその存在そのものが一種の観光名所とされ、専用の展望台が内陸側の埋め立て地に作られた程だった。

 そして、この空港の建設は、当時国際間の価格競争原理から需要が冷え込みつつあった日本国内の造船や橋梁関係の企業の息を吹き返させ、彼らはその勢いのまま博多と大連に建設される新空港は同じ方式が採られる事を決定させた。しかもそれだけでなく、2010年開港を目指した帝都の新空港を、東京湾の沖合に史上初の人工洋上都市と共に建設させる事も決定させていたし、それ以外の未来の洋上都市(オーシャン・コロニー)として日本各地に同種の構造物の建造を多数認めさせてすらいた。
 だが、空港や限定的な海上都市の建設はいずれ限界に達する上にそれはまだしばらく先の出来事で、さらに言えばできうるならせっかく始まった新たな事業をさらに拡大したいと言うのが企業であり、彼らはさらなる需要を求めて世界中に目を向けた。
 そして、事業団の基地建設関係者と真っ先に目が合った。
 もう語り合うまでもなかった。後は、徒党を組んで適当な場所にそれぞれにとってのシャングリ・ラ、桃源郷にして、自分たちの仰ぐ旗を持つ国の新たな帝国の都を建設するだけだった。いや、海に作るのだから竜宮城と表現すべきかもしれない。
 これに折からの宇宙開発、低高度軌道上での成功に気をよくした政府と国民の全面的な後押しを受けて、宇宙開発のさらなる拡大が決定され、当然事業団にとっての新たなノアの箱船の建造場所を作る事も、その規模を考えれば驚くほどスムーズに了承された。
 しかも、事業団は浮体構造物式で行くと決めると、すぐにも建設できるようにと予定地の物色を既に完了していた。
 候補地は、巨大な環礁の存在する赤道近在の島嶼。ついでに、電波、電探施設を建設するためのそれなりの高地があれば言う事ナシと言う条件に合致する場所で、最終的には三つに絞りこまれた。マーシャル諸島にあるエニウェトク環礁、カロリン群島にあるパラオ諸島、そしてトラック環礁だ。そして、最終的には立地条件と国防上の観点からという何となく納得しやすい理由により、西太平洋のど真ん中に存在するトラック環礁に宇宙開発に携わる者たちの集う未来の梁山泊の建設が決定された。時に1985年3月の事だった。
 もちろん、ここに至るまでの道のりは平坦ではなかった。特に建設に伴い発生するあまりにも巨大な利権と関係各省庁の縄張り争いは、人間と人間が作り上げた官僚組織、政治組織の醜悪さを最大限に見せつけるような様相すら呈したが、計画の大元たる事業団は断固たる決意を以て自らの新たな巣穴建設に邁進していたし、それを後押しするグループが日本そしてアジア最大級の企業集団だった事から、一部の人間の醜悪な行動を後に喜劇として語らせてしまうものとした。また、比較的簡単に勝負が付いた理由は、「浮体構造物方式」の最大のライヴァルの「埋め立て方式」を後押しすべき土建屋集団が、1950年代ならともかく1980年代には国力にあわせた規模に縮小しており、世界の巨大構造物建造シェアの3割を牛耳る日本帝国巨大構造物建造集団には対抗できないという物理的な理由があったからだ。

 事は決定した。
 事業団は、第一期、第二期工事により一辺約12〜13キロメートル以上、総面積約150平方キロメートルと言う途方もない大きさの浮体構造物をトラック環礁に建造し、そこで未来に向けての歩みを行う事となった。
 その完成は2001年4月を予定。
 1986年から建設が開始されるのだから、たったの15年で「20世紀のバベルの塔」や「現代の万里の長城」とアメリカのマスコミが揶揄したこの巨大施設を建設してしまうと言うのは、ごく普通に考えれば無茶を通り越して、無謀かと思われた。
 当時すでに帝国を失いつつあったドイツにすれば、自らの初代相総統がその常識を疑われつつ建設したドイツ国内の4つの都市の巨大建造計画など霞んでしまう巨大プロジェクトを前にして、ただ呆然と傍観するしかなかった程だ。
 だが、日本人と彼らに付き従う事を決めた有色人種たちは大まじめだった。何しろ、これを創り上げれば自分たちの懐はさらに豊かになるからだ。
 彼らは、国から未曾有の予算と人員を与えられるが早いか計画を始動させ、彼らの音頭取りに従い、日本のみならず計画に参加した全ての企業・国家が世紀の大事業への驀進を開始した。
 しかもこの建設計画は第一期、第二期工事の予定であり、2020年までにはさらにひと回り大きくされる事が予定され、基地工事としての最終工程が終わる第四期工事が完成すればその規模は一辺約20キロメートル、400平方キロメートルという途方もない大きさ(大阪市と同規模)になる予定だった。

 この巨大建造物に関してここで細々説明するより、専門書を見ていただいた方が早いと思うのでさわりのみとするが、「太平洋の湖」と称された巨大な珊瑚礁でかこまれたトラック環礁、最大長100キロメートルに達する巨大な環礁のほぼど真ん中にこの構造物の建設は行われる事になっており、基本構造は関西国際空港などで採られた堤防で囲んだり、杭を打ち込みそこに固定するのではなく、石油採掘船のような箱型の構造物そのものが単に環礁内の海面に浮かび、自らが生み出す自重そのものとその箱の中に海水を引き入れ、それを慎重に制御する事で安定を図るという画期的なものだった。関連産業に対する国内での技術蓄積と、さらなる利益を求めた企業の莫大な研究投資がこれを可能としたのだ。
 私などの技術の素人でも分かるように言えば、常に水面に姿を現した潜水艦のようなものと言う事になるらしい。それとも目的も用途も全く違うが飛行船や気球が多少近いかもしれない。
 まあ、その制御の為だけに最新鋭の超高速電算機が複数設置され、施設の注排水を制御すると言うのだから、素人考えの及ぶところではないと言う事だろう。
 そして、もう一つの特徴としてモジュール構造と言う方式が採られていた。これは、巨大という言葉すら不足するこの構造物の生産性を少しでも高めるために、日本中の造船所などで同じ構造物を量産し、それをつなぎ合わせる方法をとる事で1日でも早く1円でも安く作ろうと言う意図があった。また、日本本土からの運搬を考えると曳船の規模から、分離構造にしなければどうにもならないという問題もあったし、安全性の面での区画を最初から区切っておく事により何らかの問題が発生した時の損害を最小限に止める目的もあった。
 なお、ひとつのモジュールは一辺約100メートル、水面からの高さ50メートルほどの上層の構造物の大きな洋上石油採掘船のような形をしており、日本本土で内部の艤装も多くを終えてから運ばれる方式がとられ、このため1986年の建造開始からたったの3年、最初のモジュールが運び込まれてからたったの1年半ですでに中枢部は業務を開始すると言う離れ業を見せていた。この建造には、日本中の手空きの造船所はもちろん、大規模造船能力のある満州やベトナム、韓国果てはシンガポールやアメリカ西海岸などにまで仕様を共通化して発注され、世界最大級の造船ドッグのある三菱長崎造船所の999メートルドッグでは、その生産性の高さを見せつけるように一度に5つも同じモジュールを作ると言う離れ業を見せ、似たような情景を大なり小なり東亜全土に現出させていた。このため、1990年代の世界の超大型タンカーの代替建造スケジュールに遅れをきたしたり、欧米にシェアを奪われるなどすらしていた。
 なお、このモジュールの数でこの施設の巨大さ数字で多少なりとも分かりやすく見ると、1キロメートル四方でこのモジュール100個分必要であり、15年でなんと1万5000個ものモジュールがこの施設の建造に必要という事になる。単年度単位でも年間約1000個、一日3個ものモジュールをまるでベルトコンベアーでの流れ作業のように作らねばならないのだ。確かに、東亜全体が総力戦のような体制で建造をしなければならなかったわけだ。
 建設による経済波及効果は、直接的なものだけで最低1兆1000億円(1兆ドル)と言われた。

 そして、この巨大宇宙港の建設開始は、日本列島そのものにも大きな変化を強要した。
 日本近代史上最大級とすら言われる「平成景気」、もしくは「重工バブル」と呼ばれる好景気の到来だ。
 この時の実質GDPの伸びが平均7〜8%に達していると言えばその凄まじさが分かるだろう。そう、この好景気の間のたった6年でGDPは40%以上も上昇していたのだ。そしてこれは、世界でアメリカに次いで豊かな国とされる日本での話しと言う点が異常だった。
 また、政府の宇宙開発という巨大東亜共同プロジェクトは、それまででさえ直接関わる者の数だけで150万人、この宇宙港建設によりさらに数百万の参加者を産み出した。
 当然これを産み出すために、巨大建造物の建設に伴うための設備投資の増大が計数的に発生、後は第二次世界大戦での欧州各国のような総力戦の様相を見せつつ内需消費中心の未曾有の好景気を驀進していった。この好景気をあらわすものとして失業率の異常な低さがあり、特に専門技術者に関しては猫の手も借りたいという状態を生み出している。このため、日本国内では1980年代半ばからにわかに工業系の専門学校の増加すら発生していた。

 国を代表するような企業群の巨大な設備投資が起爆剤となって莫大な内需拡大を発生させ、それが高度経済成長期のような好景気をもたらしたのだが、この頃少し遅れて電算機・ロボットや通信の先端産業分野での革命的な技術進歩がこの好景気を引き継ぐように牽引していく事にもなる。
 なお、余談ではあるが、電算機による好景気は、日本経済が経済原則から一時的に失速しかかった1992年に始まるわけだが、ここにも宇宙開発が少なからず関わっていた。
 これは、1970年代後半に日米で開発された、コンピューターを動かすための基本ソフトが原因していた。1980年代前半、急速な電算機の進化と一般家庭への普及の到来に際して、日本政府とそれに付き従う国々、政府、団体はこぞって日本国内で開発された「TRON」の採用を決定した。商売敵の国が作った「MS-DOS」などに、これからの機械の中枢を委ねるなど思いもよらないのは覇権国家としては当然だったが、一時期これが当時の経済バランスの関係から日本優位で進展していた日米貿易摩擦のやり玉に挙げられ、腰砕けの官僚と企業人の一部の目先の利益しか見ない無定見な動きから、これが覆される向きが強くなっていたのだが、時の事業団理事の一人が「そんな小さな目先の利益など無視しろ。儲けなら、これから「TRON」を標準OSソフトとして使う我々がいくらでも取り返してやる」と息巻いて語った事が、最終的に世界のオペレーション・システム(OS)が世界で二分する事になったとされているからだ。
 今日、日本の「TRON」、アメリカの「MS-DOS(Windows)」が世界の二大OSなのは有名だが、「Windows」が一人の企業家が権利を持っているのと違い、「TRON」は極めて良性の職人気質の開発者の意向で完全に解放された存在だったため、「Windows」がそのパテント料の存在から単なるパーソナルコンピュータ(PC)のOSとして普及したのに比べ、日本の「TRON」は単なるPCのOSとしてだけでなく、高度な電算制御を必要とするありとあらゆる製品の心臓部のOSに応用して使用され、パテント料と言う絶対的なコスト差により日本側が圧倒的に優位に立ち、これが1990年代の日本の景気を持続させていたと言っても過言ではないだろう。なお、PCのOSのシェアは日米のそれはほぼ半々だが、それ以外の全てを含めるとその差は計数的な差で「TRON」が圧倒している事はあまり知られていないと思うのでこれを追記しておきたい。

 さて、話が少し横道に逸れたが、この日本経済の状態が戦争と違う点は、それが単なる浪費ではなく、そこから様々な利益が産み出されるので、経済を言う歯車を大きく回転させる事だった。
 そして宇宙開発とそれに関わる産業こそが、7年にも及ぶ右肩上がりの好景気を現出させ、しかも世界情勢がこの頃に大きな援護射撃をおこなった。冷戦の終結とそれに伴う軍事支出の大幅削減と、兵員減少による若年労働力の確保だ。
 これにより、日本最大級の大規模公共投資である宇宙開発と宇宙港建設はさらに潤沢な予算と人員を配分される事になり、好景気に伴う税収の増大は、国債発行をゼロにしても数年前の何割増しと言う活況を呈し、当然事業団が受け取る国費の額も増大していた。
 さらには、事業団が行っていた軌道上での努力が大きく実を結び、これに折から発生していた地球規模での衛星事業の莫大な利益が事業団に転がり込んで、彼らの資金をより潤沢にしていた。
 そして仕上げに、日本のみならず全アジア、全世界の投資家が日本の宇宙開発の異常な順調さに目を付け、これにさらに投資を行っていた。
 これらにより、NASDA、宇宙開発事業団が消費する予算は、最大数値を示した1995年の会計予算で国家予算予算の15%にあたる1500億円。1986から10年間に運用する諸計画の資金は1兆円(=×0.9ドル)近くに達するという、日本の年間国家予算にすら匹敵する規模に達していた(なお、宇宙開発予算は、平均国家予算の8〜12%程度)。この数字は、1980年代に国鉄と道路公団など政府外郭団体を完全民営化した事と、社会資本の建設を維持すること以外に多くの予算を割かなくなった事も大きく影響していた。なお多少余談だが、この宇宙開発計画を往年の国を傾かせる程の大軍備建設計画になぞらえ「現代の八八艦隊計画」と揶揄する時もあるとされる。
 また、事業団の組織そのものの直接構成員の数も予算規模に比例して増大し、10万人を軽く突破していた。しかも新たな施設が誕生すればそこに勤める全ての人間を合計すると、それけで20万人を軽く突破する予定だった。これには最初の歩みを行ったコロリョフ博士も草場の影で苦笑しているだろうと部内ですら言われた程だ。それ程の規模だったのだ。
 日本人たちは、対抗者との競争のためではなく、自らの生活のため、儲かるから宇宙にお金を投資し、さらなる利益を目的として半世紀もの間1円でも多くのお金を使い続けてきた結果がこれだった。
 余談かもしれないが、この新たな施設の建造が単なる宇宙施設でなく、あらゆるものを内包した施設だったため、関係各省庁の予算のかなりもこれに投資されており、臨時予算を含めるとこの数字はさらに15%は大きくなると言われている。もちろんこれは、民間が自ら投資した額を別にしてだ。

 2000年12月8日、好景気の追い風と生産合理化の努力により予定よりも半年早くトラック環礁の第一・第二期工事が完成した。
 1辺12キロメートルに達する、人類が歴史上産み出した最大級の人工構造物の完成だった。なお、このサイズは東京・山手線の内側全域ほどの規模と言えば、その大きさが多少は理解いただけるだろう。しかも地上50メートル以上の上に築かれた表面積の分だけで、である。これが施設全部の総床面積をあわせるとさらに数倍の規模に達し、しかも海面から約30メートルのあたりまでは太い鋼鉄の支柱が無数に存在するだけのまるで巨大なギリシャ神殿のような何もない空間であり、そこを利用して巨大な工業区画や港湾施設などを作り上げれば、「街」としての規模は優に100万都市を凌駕するものがあった。
 なお、余談ではあるが12キロメートル四方という数字だけを他のものと比較するなら、唐の時代の長安の街がすっぽり入るぐらいにあたるので、多少はその大きさがご理解いただけるかもしれない。もっとも、そこにある目立つ構造物と言えば、壮麗な朱色の宮殿などではなく、広大な緑地区画以外に目に付く物はモジュール内に納まり切らなかった大規模な組立工場や各種電波・電探施設、そして無数の幾何学的なロケット打ち上げ台と目玉商品の大型リニアカタパルトぐらいだった。

 施設内には、単にロケット打ち上げに必要な施設だけではなく、広大な敷地内の移動のための道路網とリニア軌道の交通システムが網の目のように整備されたのは当然として、本国から遠く離れた異境の地と言う事で性風俗業など極端な娯楽施設をのぞく、人間が居住するのに必要な全てのものも同時に備えていた。これは、住環境のために整備された人工の大地、わざわざ建造物の上に土を盛って造成された巨大な緑地公園や、数十万の人口を支える生鮮食品を作り出すための大規模な水耕農場すら存在していたと言う点からもその徹底度が伺い知れる。この事から、この施設を世界最初のアーコロジーと呼ぶ建築学者もいる程だ。もちろん、役所から病院、学校、警察、消防、銀行、郵便、四軍の基地に至るまで、ありとあらゆる日本の社会システムを維持するための政府施設も存在していた。
 また、本土から加工したものを運ぶコストと時間が無駄であるとして、巨大な下部空間を利用した工業区画も第二期工事から平行して整備され、エネルギー備蓄のための石油・天然ガス備蓄施設や巨大発電所なども含めると、それだけで一つの工業都市を凌駕する規模にすらなっていた。なお、電力に関しては、施設内に内包する各種発電所の他に、本土に先駆け太陽熱発電衛星の受信施設が作られ、2005年からは電力の10%以上を賄う事が予定され(当然順次拡大予定)、実働したその時には天空からの実用送電がすでに開始されてもいた。
 さらに余談だが、この施設が完全に実働した時、トラック環礁にある日本人の数は都市として末端まで含めると何と20万人にも達していた(完全稼働当初の直接の事業団関係者は末端まで含める7万人程度。人口には当然職員の家族や社会の維持のための全ての人々が含まれる)。
 本土からの日帰りすら可能にした超音速旅客機の果たした役割も大きかったが、衛星通信と光通信技術・電算技術のおかげで、本土との情報的・物理的時間差がほとんどなくなっていた事がこの「街」の現出を容易にしたのだ。しかも、この施設の「都市規模」は、最終的には50万人に達する予定だった。

 そして、この新たな「都市」は、明治御一新以後近代日本がなし得た一つの頂点が形を成して現出した姿でもあった。
 このため、事業団はかつてないほどの宣伝を行った。
 歴史上初めて「宇宙港」と呼称される事になる(一般にはトラック宇宙港と呼ばれた)この新たな彼らの拠点の完成に際して、事業団はリーフェンシュタール監督もゲッベルス博士も真っ青になるような宣伝事業を行う事を宇宙港開港と同時に予定し、それを実行したのだ。
 「国際宇宙博覧会」と言われるトラック諸島全体を利用した万国博覧会の開催と、開港に際しての派手やかなオープニングセレモニーがそれにあたる。
 当然最大級の見せ物は、事業団が宇宙港建設を当時に進めていた、次世代型ロケットの打ち上げ(しかも1週間おきの連続打ち上げを予定)だったが、1円でも1銭でも多くの資金を得るために国と国民からの支持を是非とも必要とした彼らは、かつてのドイツ宣伝省並と海外の同業者から悪し様に言われる事の多い事業団広報部に破格の予算を与えて、宣伝に務めるようその任を与えた。
 もちろん、広報部は期待に応えた。
 国際宇宙博の開催はもちろん、それと同時にオープンする世界最大級の航空宇宙博物館の建設、そして実働すれば宇宙港で働く事になる7万人の職員、20万人の住人のための本当の意味での歓楽用・娯楽用の町の建設(これは、かつて海軍がここを利用していた頃に作り上げた陸地の町を徹底的に拡大発展させたもので、何と地上100メートル級の超高層多目的ビルが林立する程の本格的な規模だった。)、とにかく何でもした。
 中でも世界中の度肝を抜いたのは、オープニングセレモニーのために世界中から人を呼び、その為の娯楽、宿泊施設が環礁内の既存施設では全く不足するとして、世界中から豪華客船や大型クルーズ船と言われる客船という客船に声をかけ、破格の金額で環礁内にその多くを臨時のホテルとしても呼び込むべく、無理矢理スケジュールを変更させてしまった事だ。警備と称して環礁内に停泊していた日本海軍の大型戦艦と共に優美な客船が無数に並んでいる光景を目にした方も多いだろう。
 さらには、この世紀のビックイベントに観客を呼ぶ為なら何でもした。特に、宇宙開発にそれ程感心を持たない国内の若年層を呼ぶためだけに、当時日本や共栄圏で最も人気のあったアーティスト(今時のJPOPアーティストと言われる人たち)をセレモニーイベントに多数呼び、最大級の打ち上げが行われるスケジュールでコンサートとセットの旅行パックを日本中にばらまいた。また、周辺地域のリゾートとセットにしたパックツアーも大々的なキャンペーンを張って宣伝された。宣伝部が唯一ほったらかしにした若年層は、「ヲタク」と呼ばれる国内の一部マニア層だけだと言われたぐらいだから相当なものだろう(見に来る人間は放っておいても万難を排して来るらしいからだ)。ちなみに、この若年層の呼び込みは大成功をおさめ、白亜の宇宙港での打ち上げには、年末年始という日本最長の休暇シーズンのひとつと言う事も重なり、博覧会来場者も合わせて実に10万人もの国内の若年層がひしめくという光景を現出させていた。もちろん、それは50万人もの人々が開港セレモニーに訪れたと言われる打ち上げ場所にあっても大きく目立つ勢力であり、海外のメディアは日本の若者の宇宙への感心の高さの現れとして伝えていた。
 余談だが、この時呼ばれた共栄圏内で1000万枚以上のCD売り上げを叩き出す、その当時最も人気のあったアーティストのコンサートには、本土からの遠隔地であるにも関わらず2日間でのべ10万人もの若者が詰めかけ、その設備には日本(事業団)が持つあらゆる技術を惜しげもなく提供して作られた、何か最新技術とその労力の使い方を大きく間違えたかのような派手な舞台装置が用意され、その光景を見た旧ドイツ帝国宣伝省のベテランをして、リーフェンシュタールの後継者を発見した思いだったと苦笑させ、ハリウッドの大物監督をして最新のコンピューターグラフィックスでもこれだけの莫迦騒ぎは作り出せないだろうと呆れさせたと雑誌などでも紹介されている(歌手の登場のために、垂直離着陸戦闘機の練習機を特別に塗装してチャーターするほどの派手さだったし、レーザー光線や最新の技術を用いた様々な音響・(立体)映像・照明技術を用いたりもしていた。そして何より南洋にこつ然と出現したこの宇宙港の施設が作り出す景観・奇観、セレモニー用イルミネーションはそれだけで十二分に常軌を逸していた事が影響している)。
 まあ、この一種おかしな光景は、日本人が宇宙開発をどう捉えているかを、最も端的に現した光景と言うことなのだろう。

 そして、新年、しかも21世紀の到来を告げる時の音が響くと同時に、日本にとっての新たな出発の号砲のための「祭り」が開始された。欧米やマスコミ向けには「ヘヴィ・リフター」、部内では「往還船」と呼ばれる釣り鐘状の巨大ロケットの打ち上げがその号砲だったが、その様は宇宙開発という未知なものに対する挑戦への荘厳さよりも、何かの祭りのような派手やかさに満ちたものだった。
 それを象徴するかのように、ロケット打ち上げの前、新年の到来とともに若者向けのアーティストによる大規模なコンサートが大音響と共に解放された整備中の別区画で行われていた。
 なお「往還船」の打ち上げそのものは、2001年1月1日の午後2時に予定通り打ち上げが行われた。ちょうど、21世紀イベントの深夜のばか騒ぎに疲れ果てた人々が宿泊場所から復活する頃でもあったため、純粋に宇宙港とロケット打ち上げを見学に来ていた人々と合わせて、最低でも40万人がこの打ち上げを目撃する事になった。
 そしてこの一見ロケットを単なる宣伝用の打ち上げ花火のようにしてしまった事に、少なくとも事業団のトップと宣伝部はそれなりに満足していた。
 新たな天の岩戸が開け放たれたこの目出度き時に、その事を踊り騒ぎ、そして祝う事は自らの事業を思えば重要だったからだ。要するに、この莫迦騒ぎは一つの工事が終わったことに対する祝賀のための宴会騒ぎ、つまり日本人のいつもの光景の延長に過ぎなかったのだ。
 それに宇宙開発事業をこのような祭りにされては、宇宙開発に反対する一派も反対のしようがなかった。当人たちが真面目に取り組んでいると思い込んでいるだけに、ここまで莫迦騒ぎをされてはかえって自らが道化と化してしまうからだ。
 
 さて、宇宙港の完成を技術面以外の事象から追いかけるのが一段落したところで、1980年代からの事業団のもう一つの目的であった「往還船」についても少し見ておこう。
 「往還船」とは、その名の通り宇宙に打ち上げられ、その任務を終えた後再び五体満足で戻ってくる能力を与えられた次世代のロケットの事だ。
 似たようなシステムに、このロケットよりも分かりやすい存在として、アメリカ合衆国が1970年代心血を注いで生み出した「スペース・シャトル」と呼ばれるロケットシステムが挙げられるだろう。また、さらに進歩的な存在として同じくアメリカで開発の進められている「X-30」の開発名称を与えられた新世代の技術を満載した宇宙往還機も同じ系列に属する。
 この宇宙往還機と呼ばれるものは、日本でもドイツでも同様に開発されていたが、ドイツは帝国を失ったことでその開発予算までも失ってしまい、日本人たちは主に人間を運搬するための機体、しかも新技術満載という危険度の高いものを作り上げることに慎重であり、いかに潤沢な予算を与えられた日本人と言えど21世紀に入らなければ実用化は不可能と当時は考えられていた。なお、アメリカの「X-30」も彼らの祖国が予算を渋っている事から開発は大きく遅延しており、実用化にはまだかなりの時間がかかるのではないかと計画発表時から予想されていた。
 ドイツ人に負けないため、アメリカ人達が執念で実用化した世界最初の往還船システムである「スペース・シャトル」は、ドイツ同様その運用技術の高さと結局のところ打ち上げ方法が普通のロケットと変わらない点から、コスト面では必ずしも成功しているとは言えず、同種の研究を適当な成果が出たところで中止してしまった日本人たちと対象をなしていた。もっとも、日本人たちは、軌道基地からの帰還用に小型でメイン・エンジンを装備しないグライダー状の帰還シャトルは開発しており、それを改良により安価な中型ロケットとなった「N-2A」ロケットの先端に搭載し、主に軌道基地用の人員もしくはちょっとした物資運搬に運用していた。このため、事業団の部内ではこの簡易シャトルの事を「こだま」と言う愛称ではなく、「はしけ」や「渡し船」よく呼んでいた。そして、「スペース・シャトル」よりも堅実な技術しか用いていない点から稼働率も高く、有人・無人用合計で8機作られたそれらは、今だに無事故でその任務を果たしている。

 話が少し逸れたが「往還船」ついて続けよう。
 「往還船」は、外見はお寺にある釣鐘か、バケツや細長いドンブリ状ののものをひっくり返したような寸胴な形状をしており、その寸胴の胴体の下部の中心に燃料である液体水素とその燃焼のために必要な液体酸素を搭載し、どんぶりの縁の周りにグルッとエンジンを並べ、そして上部の巨大な搭載区画に数百トンもの物資をのせ低高度軌道に至り、そしてそのままの姿で帰還するというものだ。
 帰還に際しては、ドンブリの全面を覆い尽くした耐熱タイルをさらしつつ大気圏を突破した後は、機体を打ち上げられた時の姿勢に戻し、高度1万メートルあたりから残存した燃料を噴射しつつゆっくりと地上に着陸、高価なエンジンを含めた機体の全てが再利用できる経済性を追い求めた日本の宇宙開発が20世紀の時点で到達した究極の存在だった。
 その使用されている技術も、規模はともかく堅実なものだった。 
 クラスターロケットに代表されるロケットの多数同時燃焼はもはや日本のお家芸だし、形状は単なるずんぐりしたロケットに過ぎず、事故に繋がりやすいとされる耐熱タイルも可能な限り単純に張り事故の元となりやすい剥落の可能性を最も低くした形状が選択されていた。
 なお、この「往還船」の最大の「売り」は、運用効率の高さ、つまり同じロケットの次の打ち上げまでの時間の短さにあり、最短1カ月で次の打ち上げが行えるという効率の良さだった。
 通常は安全性を考慮して2カ月のスケジュールが組まれる事になっていたが、それでもその効率はそれまでの通常のロケットとは比較にならず、建造にもそれ程の手間がかからない事から試作型の「H-I」は1隻、増加試作型の「H-II」は有人と無人の合計2隻、そして何と実用型の「H-II A」は初期計画で5隻、21世紀に実働する宇宙開発計画の頃の第二期には初期型を含めて都合12隻もの建造が予定されていた。このため、海外では「H-II」シリーズの事を「十二使徒」と呼んだりもしている。当然この数は常時5隻しか保有されなかったアメリカの「スペース・シャトル」の追従できる数ではなかった。もっとも、物量については日米の宇宙予算の差が生み出したものだから、一概に評価はできない。
 余談だが、事業団ではこの「H-II」、「H-II A」には日本の旧暦の名称をひらがなで付けていた。「むつき」、「きさらぎ」というアレだ。このため、「H-II」シリーズは部内では「こよみシリーズ」と呼ばれる事もあり、大いなる愛着と多少の茶目っ気を交えてロケットを「ちゃん」付けの愛称で呼ぶのが一時期流行ったそうだ。
 なお、「H-I」の実験を含めた運用開始年1986年で、3年間に合計9回の実用と試験を兼ねた打ち上げなどが行われ、その運用試験を踏まえた「H-II 」が1991年、そして全東亜に取りあえずの平穏が訪れた年の丁度一年後の1996年8月に「H-IIA」打ち上げへと続いた。なお、「H-IIA」は1999年までに初期計画の5隻全ての建造を終えており、事故で失われなかった残り1隻の「H-II」と共に、ほぼ毎月のペースで大量の物資を様々な衛星軌道に送り届けていた。本来なら毎週の打ち上げも可能だったが、打ち上げ予算全体の問題と実用発電衛星計画実働まではそんなに沢山打ち上げるものがなかったため、ローペースの打ち上げとなっている。

 とにかく、この「往還船」のおかげで低高度軌道にあった「ひかり」軌道基地はモジュールの交換と拡張が続けられ、21世紀を迎える頃には総重量2000トンを通り超え当初の宇宙の実験センターと言うよりは、次なる高みを目指すための宇宙の飯場のような場所へと変化しつつあった。また、日本の夢の一つであるエネルギーの自給と言う目標を達成するための太陽発電衛星が実験型、試作型、実用試験型と次々に送り込まれ、20世紀が終わろうとしていた時、トラック港への試験的な実用送電を行えるまでになっていた。なお、トラック港は最終的に必要とされる電力エネルギーの80%をこの宇宙からの送電により賄う事が予定されている。他にも様々なものが大量に打ち上げられ、一気に半ダースもの衛星を打ち上げて見せると言うようなパフォーマンス紛いの打ち上げも何度も行われるようになった。1990年代、宇宙事業は日本の独断場となっていたのだ。
 また多少余談だが、今でもトラックの専用打ち上げ区画に行けば「H-II A」シリーズは誰でも見学できるので、機会があれば見に行くとその巨大さが分かると思うし、スケジュールさえあえば比較的簡単に打ち上げも見られる。なお、打ち上げは、事業団が旅行社と結託して旅行パックを組んでいるので、どこにでもある街角の旅行代理店の窓口で簡単に行く手だてが整えられる筈だ。

 多少話が横に逸れたので元に戻そう。
 基本的に「H-II」と「H-IIA」は同じ能力を持っており、コスト面で試験型の「H-II」に分が悪いだけだった。それも打ち上げの繰り返された数年後には部品のかなりが「H-IIA」と同じものに交換されているので、ほぼ同じロケットと言って良いだろう。
 また、技術的な点を表面的な能力だけでも記載しておくが、「H-IIA」は、LE-5Dエンジンと呼ばれる強力で安定性の高い液体燃料ロケット8基と、ロケットの周りを取り巻く初期加速用の4基の固体燃料ロケットを使用しており、この点は将来の人員輸送のため開発が進められている飛行機型往還機用のRGE-7シリーズのエンジンに比べ安定性も信頼性も格段に高く、既存の技術からの発展であるだけに何ら問題はないと言われている。
 そしてこの大推力が全長70メートル、離床時の重量が補助ブースターとペイロード抜きで5000トン以上という巨体を低高度軌道(LEO)へと持ち上げ、低高度軌道で荷物を解放するか、中に搭載された第二段ロケットを切り離す作業を行い、再びトラック港に帰ってくる事になる。
 打ち上げ能力は、240〜400キロメートルの低高度軌道には300〜350トン、事業団が次に目指す高軌道上においても単独で40トン、中にさらに第二段ロケットを搭載した場合は60トンもの数字に達していた。もちろんこれは、そのまま月や火星に放り込める重さの数字であり、単なる数字の上でようやく米独の月ロケットより大きな数字を達成した事になる。
 そしてそれまでの量産型中型ロケットよりも桁が一つ大きくなっているだけでなく、トン辺りの打ち上げコストの低さは世界で最も低く、まさに日本人達が求めて止まなかったロケットと言うことだった。

 「往還船」そのものは、トラック港の完成を待つまでもなく沖縄でその運用が開始され、トラック港が完成するまでには沖縄においても主力ロケットと呼びうるものになっていたが、この打ち上げのために最初から特化した施設を有していたトラック港が実働すると、すさまじい勢いでの打ち上げが開始された。そして21世紀最初の打ち上げこそが、その始まりだったのだ。
 21世紀最初の元旦に打ち上げられた「往還船」は、低高度軌道で入れ子の中のロケットに後を託し、静止衛星軌道つまり赤道上空の高度約3万6000キロメートルの円軌道へとロケット込みで60トンもの荷物を打ち上げ、その一週間後に遅れて同じ高さにやって来た似たような物体とのランデブーとドッキングを完了した。もちろん、そのどちらにも人間が搭乗しており、一連の作業を行いそのままそこの最初の滞在者となった。
 ついに高軌道での軌道基地の建設が開始されたのだ。

 だがこの頃、正確にはドイツ帝国の崩壊した1990年代初頭からの国際的な流れとして、宇宙開発の方向が転換される兆しが強くなっていた。
 それは、これまでの各国の間での競争を強く意識したものではなく、それぞれに役割を分担して国際プロジェクトで大規模な計画を推し進めようと言うものだった。そしてそれは、世界中で宇宙に最も投資している日本にとって、必ずしも利点が多いとは言い切れないものだった。アメリカや欧州を率いるドイツとの共同歩調をすると何かと問題が多いと考えられたからだ。
 何しろ、日本と欧米が目指している宇宙は微妙に違うからだ。
 それに先端技術を扱うビッグ・プロジェクトを国際開発でしては、できるものもできなくなる恐れがある。
 このため事業団は、月面基地の開発が始まるまでは本格的な国際計画には強く反対していた。事業団が許容していたのは、軌道基地への他国の居候と離れ家の増築ぐらいだった。

 さて、日本としてはどうするべきだろうか?
 物事をあえて楽天的に捉えて、人類皆仲良く宇宙を目指すべきだろうか、それとも孤高のままさらなる高みだけを見て歩んでいくべきだろうか。

 

 1. 欧米との国際開発への道に乗り出す

 2. 日本(東亜)のみによる独自開発を継続する