■END 1:テイク・オフ
2003年8月15日、世界初の実用型軌道往還機が、30万人を越える直接の観衆の目の前をトラック港から発進していった。 リニア・カタパルト、リニア・ラン・ウェイもしくは超伝導カタパルトと呼ばれる電磁加速式の滑走路の上を、日の丸を付けた平べったい独特の形状の機体が滑り出すように発進し、10キロメートルにも達するやや傾斜した電磁の滑走路を最初はゆっくりと、最後は砲弾のようなスピードで走りきると、そのままの勢いで南洋特有の澄み切った青空を一気に駆け登り、肉眼ではそれこそ「アッ」と言う間に物理法則に逆らった流星となっていた。 それを眺めていた私などのような人生そのものから退役間際の老人からすれば、「何がなんだか」という感想すら抱きたくなるような拍子抜けするほどの呆気なさだった。数年前に見た巨大ロケットの打ち上げの方が、大きいだけに幾分張り合いのあるものだとすらも感じた程だ。 発進から数十分後に、施設内の全アナウンスが「はるか」と名付けられた往還機の打ち上げ成功を伝え、その宇宙での模様を大望遠の追尾カメラがライブで伝えていたが、打ち上げまでの高揚感と期待感に比べるともの寂しさはやはり埋まるものではなかった。 孫や曾孫たちだけでなく私ですら、「これでもう終わり」と思わすにはおれないものだった。 だが、ここに至る道のりは必ずしも平坦なものではなかった。
初期開発名称「STO(単段低軌道往還機)-X」、実用機名称「STOM(単段有人低軌道往還機)-II」、開発中やマスコミ向けには単に「軌道往還機」、「宇宙機」、「スペース・プレーン」、「オービタル・プレーン」などと呼ばれた完全な飛行機形状の新世代の宇宙船の開発が始まったのは、その萌芽という観点からなら1981年、「第四次宇宙開発計画」により次世代の宇宙船に関する計画研究費が当てられたのがその発端だった。 そして、この宇宙船が構想された当時は、SFでもなければ実現は不可能と思われる技術が使用される、日本の従来の宇宙開発からはかなり冒険的なものだった。日本がこの開発に研究であっても踏み切った背景には、珍しく対抗者の計画の存在があった。火星を目指していたドイツ人達が、衛星軌道への大量打ち上げ機として1970年代半ばからこの開発にまい進していたのだ。 だが、ドイツ人の作り上げようとしている新世代の宇宙船は、技術的には日本の目指す同種のものよりもかなり実現が難しいと当時から言われていた。特にその初期計画での往還機システムが、胴部で100メートルを超える巨人超音速輸送機の上に宇宙へと駆け上がる機体を載せて、そこから切り離して打ち上げよう言うかなり無茶なものだったからだ。それは、成層圏での実質的な航空機の速力限界が一時的にマッハ3出るかどうかというの時代に、その巨大な母機はマッハ5に到達するという事からもお分かりいただけるだろう。 もっとも、ドイツ人の次世代往還機計画は、軌道修正の結果何とかアメリカと同様のシステムによる飛行機型の宇宙船を送りだす事には成功していたし、その足跡は日本人と違って月面にまで到達していたが、宇宙への過剰な投資への無理と自らの経済体制の不備、日米との軍拡競争と自ら深みに嵌まったアフガン紛争の結果、経済的に自壊してしまった事から陽炎のように立ち消えとなり、そのままなら日本人の計画もそのままスローダウンする筈だった。 ところが、そうはならなかった。なぜなら、日本人と同じような経緯からアメリカ人が「往還機」の開発を進めていたからだ。しかもアメリカ人達は1980年代初頭に「スペース・シャトル」と呼ばれるそれまでのロケットとのハイブリッドと言える往還機システムをドイツよりも早く実用化しており、日本としては軌道上での荷物打ち上げという競争に負ける事など、それまでの自らの努力からプライドに賭けてできないという感情的な理由があり、日本人の歩みをむしろそれまで以上に早ませる事になる。 これは、「往還船」という「宇宙貨物船」と呼んでよい宇宙船の完成で比較的早期に実現するが、人間を大量に宇宙に送り込むという点においては、「スペース・シャトル」を有するアメリカに対して必ずしも納得いくレベルでない事から、飛行機型の宇宙船の開発・建造は遂には潤沢な予算を投入して大規模に進められる事になる。 これが、1990年代初頭の事だった。 そしてこの頃に日本が建造すべき新たな宇宙船の基本計画が固まった。 日本の計画した「軌道往還機(はるか)」は、アメリカの「X-30」とそのコンセプトが似通っていた事からその姿や使用される技術に類似点が多数あった。なお、アメリカの軌道往還機は「X-30」と名付けられている通り軍もその計画に加わっており、この名称も軍用機としての試作名称で、宇宙開発を専門に行うアメリカ航空宇宙局(NASA)では「国家航空宇宙機(NASP:National Aero-Space Plane)」と呼んでいる。 アメリカのNASP計画の目的が、「スペース・シャトル」がそれまでのロケットのように打ち上げられていたのと違い、日本と同様普通の飛行機のように滑走路から飛び立って、衛星軌道へ直行し、任務を終えたら滑空して滑走路に着陸するスペースプレーン形式の宇宙往還機を開発する事だった。 専門用語で言うところの単段式軌道直行(Single Stage To Orbit)を実現するため、「X-30」では大気吸入式の極超音速燃焼ラムジェット(スクラムジェット)エンジンで、1550秒というロケットとは文字通り桁違いの比推力を計画していた。この数字はこれよりも規模の若干大きな「はるか」においてさらに大きな数字となり、このため日本の開発はアメリカのそれをはるかにしのぐ莫大な予算を投入してなお10年以上の歳月を必要としたのだ。なお、推進剤には、どちらもかき氷状の水素(slush hydrogen)を用いる予定だった。 しかしアメリカのNASP計画は、NASA全体の予算不足から技術開発段階以降には進めず、結局実験機の製作すら中止された。NASP計画で開拓された技術のいくつかは、他の計画に転用される事で次世代スペースシャトル計画に有効活用されたが、唯一日本の計画だけが生き残り、その後の開発・建造が継続される事となった。 「はるか」の形態は、超音速重爆撃機として有名な「轟天」を大気圏内での空力試験機の一つとして使用したにも関わらず、アメリカの「X-30」ような幅広の揚力を発生する胴体(リフティング・ボディ)とは少し違い、日本のそれはどちらかと言えば機体上面が緩やかな弧を描いたような形をしており、その胴体の形状に合わせて大きな三角翼とスポーツカーのような尾翼とセットになった3枚の垂直尾翼が付いた形状だった。この形状を人によっては、日本的優美さだと褒め称え、民族性の違いが機体にも表れていると表現した。 だが、どちらも胴体下面の前半はスクラムジェットの吸気圧縮斜面となっており、後部に張り出した部分に燃焼室が設けられていた。胴体最後端は通常のジェットエンジン(と言っても、日本のものは二次元可変ノズルと言われる新機軸を使用している)とスクラムジェットのノズルとなり、胴体先端にコクピットがあり、実験機から2名の乗員が乗れるようになっていた。 基本的な構造は、大気圏内での飛行をより考慮した日本のものの方がアメリカの同種の計画よりも飛行機らしい以外、基本的な構造は同じだった。いかに資金を投入しようとも、技術的な問題から今の時代ではこれが実用限界だからだ。 「はるか」の大きさは、全幅46.8m、全長82.7m、離床総重量は約400トンと、機体の見た目の大きさはともかく、その重さは高層ビルディングほどの容積のある「往還船」や打ち上げ重量が2000トンを超える「スペース・シャトル」に比べれば小さき規模であり、これが効率的な人員輸送を第一の目的としていたのがここからも伺い知れる。なお、貨物室部分には低高度軌道へ10トンの物資を送り届ける貨物スペースか、高軌道へ最大12名の人員を運搬できる旅客スペースをモジュール構造で搭載する事になっていた。 なお、実際の打ち上げは、さらなる経済効率を考え初期加速用の超伝導カタパルトを用いる事もあるが、基本的には地上でジェット・エンジンを使って普通の航空機のように滑走路から離陸し、超音速に達した時点でスクラムジェットに切り替え、スクラムジェットで上昇しながら加速し、約15分間の燃焼で約8km/s(約マッハ30)の最大速度に達して一気に衛星軌道に乗り、軌道上での任務を終えると大気圏に再突入し、滑空しながら滑走路に着陸するという、宇宙に行くという事をのぞけば普通の飛行機と一見大きな違いはなかった。 これが「軌道往還機」の全容だ。 専門用語ばかりで、他書から引用している私も実のところあまり理解できていないのだが、飛行機のように飛び立ちそして帰ってくることのできる宇宙船と言う事がいかに凄い技術であるかは、この開発にかけられた予算の額からも容易に想像できる。 また、この機体が万難を排して建造された背景には、単に人を簡単に衛星軌道上に送り届けようと言う意図があるのではなく、その自己簡潔性を応用した宇宙船をこの機体のデータを元に建造し、次世代の地上と軌道上の物資の輸送システムにしようとした事が挙げられる。 物資などは単に「貨物船」として開発した「往還船」による運搬で全く問題ないし、軌道間の物資の輸送システムも事が宇宙空間なら単なる小さなロケットで十二分に事足りたが、日本がこれから予定している宇宙開発は膨大な項目に及んでおり、その最初の玄関口に大量の人間を送り届けそして入れ替わりに多数を降ろさねばならず、そのために是非ともこのシステムが必要だった。 要するに日本の宇宙開発にとって、スペースシャトルのような貨物船を兼用した中途半端な船ではなく、客船やフェリーとしての宇宙船が必要な時代がすぐそこまで来ており、この開発が急務だったのだ。この事を以て、「軌道往還機(はるか)」の事を宇宙最初の交通機関と呼ぶ者もある。
だが、このシステムの開発は日本の宇宙開発に於いては珍しく、道半ばまでは挫折の連続だった。 特に本格的開発の始まった1992年から5年ほどの間は、往還船の順調な開発を後目に失敗ばかりしていた。宇宙開発に敏感な特定の民放ですら途中で飽きてしまったのではと思われる程だった。扱われた技術が、当時からすれば高度すぎたからだ。 特にスクラムジェットエンジンの開発は難航した。 実験中の事故で死者が出た事など一度ではなかった。 特に地上での第一回目のエンジン全力運転の時の爆発事故では数十人単位の死傷者を出し、開発は一時頓挫、最悪中止されるのではないかという危機な場面すらあった。 また、同様のシステムを開発しようとしているアメリカが共同開発を持ちかけてくる事があり、その時の政府の無定見な対応が計画そのものを遅延させると言う場面もあった。 さらには、アメリカが宇宙開発の予算不足から同種の計画を中止した時も、野党と与党の一部が宇宙への無駄遣いを即刻中止せよと、当時あまり順調とは言えない同計画の中止を訴え、当時の内閣の気骨のない対応から予算が減額されると言う局面もあった。 しかし、計画は中止されることは遂になかった。これは、日本官僚主義的な行動様式ばかりが影響していたのではなかった。 事業団は、政府・世論を問わずに訴えた。広報部は普段の大らかで楽天的な報道からは信じられない程なりふりすら構わないほどだった。 彼らは言った、「この計画こそが、人類の宇宙旅行の夢をのせているのであり、さらには人類の月への本格的進出の架け橋の一つとなるのです。そして、諸外国で次々に中止、縮小される宇宙計画の中にあって、最後の希望たる我が国がこの計画を中止する事は、人類全体の宇宙進出が最低で10年、最大で四半世紀遅れる事を意味しています。」と。それはまるで、欧米圏のある種の理想を持った人々のようですらあった。 日本の一般大衆は、別段この演説まがいの言葉に表面的な感動をする事はなかったし、ましてや熱狂的に支持を表明するような事は一切なかったが、この事業団広報部のキャンペーン以後、反対派の議員、政党の支持率は大きく低下し、宇宙開発推進の是非を問う民間の無作為アンケート結果の賛成票の大幅上昇が全てを物語っていた。また、日本人が宇宙開発を「是」としたのは、当時推進されていた往還船とトラック宇宙港計画の順調な伸展があった事も否定出来ない。
1997年の地上でのエンジン爆発事故からその原因究明のため計画は1年の遅延を余儀なくされたが、1998年に再開されたエンジンの開発そして機体に必要な全てのものの開発はそれまで以上のスピードで行われた。 これは1999年7月のエンジン全力運転テストの成功で報われた。地上であっても、エンジンが完全な機械である事が証明できれば、ロケット、宇宙船は完成したも同然とされるからだ。 しかし、度重なるそれまでの失敗から、事業団はいつになく慎重だった。 各種の試験機を用いての空力実験、大気圏突入実験、量産化されたエンジンの度重なる試験と考えられる全てのテストを経て、2001年8月にようやく雛形の試作機(STO-X)が完成した。 この実物大模型が、トラック宇宙港開港のおりに展示されていたのを覚えている方もいるだろう。 この雛形は、雛形であっても実質的には全ての行程をこなす事のできる機体であり、試作機と言うよりは実用試験機と呼びうる存在で、実際この機体で得られたデータを元に実用機が建造される予定になっており、11月に行われた全力発揮運転試験の完全成功を受けて、本格的な建造が開始されていた。 事業団は、この試作機の完全成功を受けて、2年後に大気圏離脱、そして帰還というプロセスの全てを試験するための実験を実用機を用いて行うと、いつもの通り大々的に発表していた。 また、この試験成功を受けて量産型である2号機(STOM-II)の建造が開始され、2010年までに実用的な宇宙観光旅行を可能にしてみせる、修学旅行が月面になる日も近いだろうと豪語した。 日本人たちは、ついにここまでの高みに到達したのだ。 明確な目的意識を持った将来計画、それ故半世紀にも渡る潤沢な予算の投入を可能とし、またそうであるが故に国家事業となり膨大な人的資源を投入した事がこれを可能としたのだ。 また、米独のように夢や冒険、好奇心を満たすための開発をほとんど行わなかった事は、国際的にあまり高い評価を受けるものではなく、特に1980年代の日本の一見妙に見える努力に対しては批判が多かった。 諸外国は悪し様に訴えた。日本はそんなにも宇宙で金儲けがしたいのか、と。この言葉に事業団は声を大きくして叫べるなら、こう答えただろう。 「オレ達の掲げている看板をもう一度よく見てみろ。オレ達は宇宙を開発するため作られた組織なんだ、夢やロマンなど悪逆な宇宙人が現れてからでいいだろう。そんなオポチュニストだからおまえ達の宇宙は遠くなったんだ」、と。 そして、その声なき回答こそが、2003年8月15日の「軌道往還機(はるか)」の発進であり、この機体が最初に届ける荷物の送り先、つまり建造開始からわずか2年ほどで総重量1000トンを越え静止軌道に存在する新たな宇宙基地「きぼう」であり、建造を可能とした「往還船」の量産で、そしてこの光景を見た時私が立っていた表面積150平方キロメートルにも及ぶ人工の大地「トラック宇宙港」だったのだ。 今や日本の宇宙開発事業団の数分の一の予算しか与えられず、初期の冒険のツケを払いながらいまだ低軌道で苦労しているアメリカ航空宇宙局やドイツ宇宙省と比べればその差は歴然だった。もちろん、アメリカやドイツが月や火星や深宇宙に対してなし得た宇宙科学分野での成果について全然否定するつもりはないが、長期的視野からみれば誰が最初にコーナー・トップを通過したかは一目瞭然だ。それぞれの勢力から勝手に離脱した、フランスや韓国については見るまでもない。
そう、文字通りのスタートから半世紀以上続いた宇宙開発競争の第一ラウンドは、日本の勝利に終わった。そう言っても全く過言ではないだろう。 これからどうなるかは分からないが、世界が共同で行う月の本格的開発が実働するであろう四半世紀先までの優位は動かないと言われているし、実際経済原則から考えれば自明の理だ。 もちろん、ナンバー1はこれまで以上の批判にさらされるだろうし、失地回復を狙うアメリカや欧州勢力が虎視眈々とトップの座を奪おうと挑んでくるだろうが、孤高でありながらあまりにも自信に満ちたこの時の光景を見る限りは大丈夫だろうと思わせるに十分なものだった。 日本は、自らの意志を貫くことで、宇宙を手に入れたのだ。 だが、これからの道のりは孤高であるが故に平坦ではないだろう。現に欧州とアメリカが共同開発を発表し、世界が日本に挑戦しようと言う動きが本格化しつつあった。 宇宙に関わる楽天的な連中は、ようやく自分たちのまともな競争相手が出現したと、これで競争原理がマトモに働き自分たちに良い刺激になると強気だったが、果たしてそうだろうか。 まあ、最後に欧米風に一言付け加えるなら、「願わくば人類の未来に幸多からん事を」と言ったところだろうか。
では、私がこれを書くにあたって見てきた最後の情景まできたところで、多少竜頭蛇尾ではあるが最後にしたいと思う。
Fin.