■Turn 3:可能行動
 Phase 3-1 奇襲

◆とある市民の回想1(横須賀在住者)
 ハイ、私はあの日の朝は、学校の早番があったので、いつもより早く起きて自転車で近くの駅まで行く途中でした。
 ちょうど、木々の茂った小さな丘と丘の間を抜けている時だったと思います。街の方からウーってサイレンの音が聞こえてきました。私はてっきり朝7時の時報だと勘違いして、自転車の速度を速めたのをハッキリ覚えています。
 何しろ通っていた女学校は、家から電車で1時間以上もかかった私立の学校でしたから。
 ああ、空襲の話しでしたわね。
 そう、私が丘の一つを超えた時でした。頭の上でゴーッとかブーンとかものすごい音が突然しまして、一瞬空が真っ暗になったかと思うと煙を噴きながらプロペラをつけた深い蒼色の飛行機が少し向こうの丘に墜落していきましたから、私はてっきり海軍さんが事故を起こしたものだと勘違いして、・・・私早とちりしやすいんです。
 ですから、飛行機が墜落したのだから早くパイロットの方を助けないと、それが出来なくても何かお手伝いができるんじゃないかととっさに考えて、駅ではなくその飛行機の後をそれまで以上に急いで追いかけました。
 それから1分ほどすると近くの丘の向こうの斜面でもの凄い音がしたから、その時の急ぎようは大変なものでした。我ながらよくもここまで銃後の国民的気分を持っていたものだと、関心したものでした。
 そして自転車で5分、道から外れてさらに同じぐらい歩いた先に、回りの木をいっぱい倒して煙をあげている飛行機を見つけました。
 もっとも、イザ飛行機を見つけても何をしてよいらな状態で、しかもまだ誰も来ていないみたいでしたから、とりあえずパイロットの方の無事を確かめようと思い、大丈夫ですか? と我ながら間抜けな呼びかけをしながら近づきました。
 そこで、ようやく気付いたんですの。
 その飛行機の胴体の少し後ろの方に、白い星のマークが描かれていたのを。
 だってそうでしょう。海軍さんの大きな基地のある街に、まさかアメリカの飛行機、しかも戦闘機が墜落するなんて誰も思いませんでしてよ。
 それで星のマークを見たら突然足が竦んでしまいまして、それまで以上に頭は混乱してしまい、しかも追い打ちをかけるように海軍さんの港の方から遠雷みたいな轟きが何度も響いてきて、もうその時の怖かった事といったらありませんでした。
 なんでも、後から来た方のお話しでは、私はその場でペタリと座り込んでいたそうです。
 だから、すぐ後に聞こえてきたパトカーのサイレンの音が、あれ程頼もしく聞こえた事はありませんでしたわ。


これは、米軍による横須賀空襲の時、そのゼロアワーを体験したとある市民が戦後インタビューされた時の記録だ。もちろん、彼女自身が受けた衝撃はともかく、体験した事は軍事的にはほぼ無価値と言って良いのだが、当時日本本土の女学生だった彼女が米海軍機に遭遇した事は、日本が近代史上初めて本土攻撃を受けた事を現しており、歴史的な価値という点においては極めて興味深い内容であると言えよう。
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 その日、帝都東京の六本木のとある地下深くにある軍の施設は活況を呈していた。
 いや活況を呈していたのは、そこばかりではなかった。第二次世界大戦後市ヶ谷に本拠を構えなおした「お城」こと統合参謀本部、第二次世界大戦前から稼働していた軍の新たな中枢である横須賀司令所、そして日本の政治中枢になる首相官邸、それらを中心として日本のトップに属する全ての組織が活発に活動していた。
 そして、1953年5月に相次いで六本木のとある施設がそれら日本の中枢に送り届けた資料が、日本中枢部の活況を決定的なものとしていた。
 六本木の施設とは、後の「宇宙開発事業団」もしくは「宇宙軍」の前身にあたる当時の「宇宙開発委員会」、通称「委員会」を中心とした日本の宇宙開発を行う組織の頭脳的中枢部だった。
 そこでは、日本が宇宙に送り届けた人工物の管理・運営を一手に引き受けており、1952年4月29日に最初の人工衛星が打ち上げられてより、この時の第二次太平洋戦争勃発時までに20基以上の打ち上げを行い、80%以上の成功を収め様々なものを宇宙空間に送り届け、その大半が通信に関連するものと、高精度のカメラを備えた当時の呼称での「地表探査衛星」、いわゆる「スパイ衛星」の先駆者たちだった。
 これら、日本の手による天空の人工物は、欧州同盟国との直接通信を可能とし、地表に存在するものを数十メートル程度の精度で識別する事ができたとされている。
 そして初期型の反省を踏まえて、空襲の2ヶ月前に打ち上げられたばかりの新型「地表探査衛星」が捉えたアメリカ各地の映像の数々が、日本軍にアメリカが何をしようとしているかを教える事になった。

 当然、日本政府はこれらの活動を完全なオフレコで行っており、同じものを保有しないアメリカが政府、軍共に気付く筈もなく、知っていたものは日本の「委員会」と政府・軍首脳部だけで、断片的に英国政府が教えられていただけだった。もちろん、当の警戒態勢を強化していた日本陸海軍部隊も、最終的な情報だけがやってくる有様で、何が何やら状態だつたと言われる。
 そして米軍動員態勢から開戦が決定的と思われた1953年5月半ばに入ると日本陸海軍も「乙種警戒態勢」、つまり事実上の臨戦態勢に突入し、アメリカ政府が5月20日に発表した「東太平洋旅客機撃墜事件」(東太平洋上でハワイを目指す大圏航路上で謎の墜落をした事件)に対するアメリカの事実上の宣戦布告の行動開始の時までに、15分以内に全力で行動に移られる状態に移行していた。
 もちろん、半月足らずで日本の矛である海軍の空母機動部隊が動員できる筈もなく、アメリカに対応する戦力は事前の動員がたやすく、米軍警戒感をあまり刺激しない航空戦力が主力となっていた。
 木更津、霞ヶ浦、百里、横田、厚木、横須賀など関東一円の陸海の空軍基地を中心とした一大勢力と、米軍の空からの攻撃が予想される北衛、択捉、新千歳など北方の基地群も完全な臨戦態勢に入り、各基地は事実上の甲種警戒態勢のもと100機単位の各種航空機が準備され、日本各地の「電哨」電探監視哨が要員を全て招集した警戒態勢に移行し、海軍の基地からは網の目のような警戒網を作り上げる電探哨戒機、早期警戒機、対潜哨戒機、新型の早期警戒管制機が西太平洋、北太平洋に放たれ、水も漏らさぬと宣伝された早期警戒態勢をさらに強化していた。
 もちろん、帝都から700kmほどの位置には、常時電探哨戒艦が扇状に数隻監視任務で展開しており、日本側とすればこのどれかに何かが引っかかれば即座に行動を起こすつもりだった。
 もっとも、日本軍、政府が恐れていたのは、米軍の空母部隊などではなく、米軍の持つ豊富な戦略爆撃機部隊で、異常なまでの密度と範囲の警戒態勢も、全ては成層圏から飛来する鉄の猛禽たちを少しでも早く見つけるためのものだった。
 そして米軍も日本軍の態勢をある程度知っており、これが日本の期待通りのアラスカからの戦略爆撃機による攻撃と、日本軍の度肝を抜く事になる空母部隊による横須賀空襲となったと言えるだろう。

 アメリカの空母が本土近くまで、それこそ房総半島沖200海里まで発見されずに接近できたのは、日本の警戒態勢が主に空を指向しており、海中を指向している監視網も主要航路と沿岸地域に集中し、米軍が日本の行動ルーチンを完全に調べ上げ、その隙間を縫うように襲来したからだった。
 もちろん、奇襲を可能な限り実現するため、米軍自体の擬装、欺瞞工作も徹底して行われており、日本軍の配置も一部警戒態勢の上昇こそあったが、それは空母部隊の攻撃を予測したものではないとアメリカ側は判断しており、開戦を決意した米軍の総司令部(こちらも日本と同じく統合参謀本部と呼ばれていた)は、少なくとも空母艦載機が日本本土から数十キロメートル手前に近づくまで気付かれる事はないと考えていた。そして近距離から時速数百キロメートルで進撃する航空機の大軍に組織的迎撃を行えるシステムなど、平時においては存在しないものと考えられていた。
 つまり米軍首脳部は、自らの事実上の奇襲攻撃の成功確率が極めて高いと考えていたのだ。

 なお、この時日本本土に襲来した米機動部隊は2つの任務群に別れ、合わせると以下の艦艇から構成されていた。

 空襲部隊
大型空母
「ユナイテッド・ステーツ」(CN:ミカエル)
「アメリカ」(CN:ガブリエル)
「レキシントンII」(CN:ラファエル)
「ヨークタウンII」(CN:ウリエル)
「エイブラハム・リンカーン」(CN:シルティエル)
「ジョージ・ワシントン」(CN:バラキィエル)
「アイオワ級」戦艦:4隻
重巡洋艦:6隻 軽巡洋艦:8隻 駆逐艦32隻

 支援部隊
軽空母:2隻 駆逐艦8隻 タンカー:8隻
(途中から離脱)

 警戒部隊
潜水艦:30隻(関東地区沖合を中心に展開)

 各母艦のコードネーム(CN)は、キリスト教の聖書に出る7大天使の名であり、丁度7隻の大型空母(CVB)が米海軍内にあった事から、開戦時この名が使われていた。
 ちなみに、米軍の保有する大型空母7隻中「セオドア・ルーズベルト」(CN:ジュディエル)だけが、開戦時大西洋上で2隻の「エセックス級」空母と共に英王立海軍と睨み合っており、それ以外の全ての母艦が太平洋に投入されていた。
 そして、横須賀に押し寄せた6隻の空母だけでその腹の中には700機もの艦載機を抱え、そのうち約600機が2波に分かれて日本本土に襲来する事になる。
 編隊を構成していたのは、増槽を満載して航続距離を無理矢理伸ばしていた「F-9F-2 パンサー」と、増槽と250ポンド爆弾2発を搭載した「F-4U-4・コルセア」、魚雷や2000ポンドから250ポンドに至る様々な種類の爆弾を満載した「A-1H・スカイレーダー」、それに航続距離の短い「F-9F-2」のための空中給油の役を仰せつかった同じく「A-1H・スカイレーダー」の改良型と、この時試作段階で投入された早期警戒機の「キャッツアイ」で、それぞれ第一波約360機、第二波約240機の大編隊で日本側電探の探知を遅らせるため低空を進撃していった。
 それはまさに空を圧する光景であり、第二次世界大戦以来の規模となった。

 対する日本軍も負けてはいなかった。
 この方面、帝都を中心とした関東地区には、当時海軍の4個航空戦隊と陸軍の2個飛行集団、つまり2個増強航空師団に匹敵する戦力が展開しており、帝都防空という事もあって、その機材の6割が戦闘機という強力な布陣を持っていた。もちろんその全てが実働状態にあった。
 これを単純な数字で見ると、戦闘機数約700機という数字が見えてくる。
 そしてこれらを構成していた機体も様々だったが、総じて帝都防空と機種改変を行う基地が多かったことから、新型機の装備率も高いものとなっていた。
 「紫電」もしくは「旭光」と呼ばれた汎用性の極めて高いジェット戦闘機を陸海軍とも主力とし、これを「橘花」や「火竜」などやや旧式の初期型ジェット機などが次の座を占め、これに「紫電改」と呼ばれ「紫電」からさらに進化を遂げた当時最新鋭にして世界唯一の完全な全天候型戦闘機が、厚木と木更津に1個大隊程度ずつ展開していた。
 さらに第二次世界大戦に活躍し、いまだに戦闘爆撃機として各部隊で使われていた「飛燕II」、「疾風改」、「烈風改」を装備した部隊が関東地区にもいくつかあり、この時の迎撃に参加している。
 そしてそれらは、横田の地下司令部を中枢とした早期警戒機、実戦配備されたばかりの早期警戒管制機により的確な誘導を行い、奇襲もしくは強襲を目指して横須賀に進撃していた米空母艦載機と房総半島の沖合数十キロメートルで激突する。
 そして、慌てて高度レンジを変更した関東各地の電哨は、ぎりぎりのタイミングで低高度を飛行する米軍の大編隊を捉え、さらには海岸部などから目視情報も順次伝えられ、一部配備が間に合った地上防空部隊共々米軍機に対する付け焼き刃的ながらそれなりに効果のある迎撃を開始する。

 だが、日本機の突然の迎撃を受けた米軍が受けた衝撃は、目の前に雲霞のごとく群がる日本軍機ではなく、その裏にある、なぜ日本が自分たちの攻撃を知ったのか、どこで察知したのかと言う事だった。
 米軍の想定では、日本軍機はせいぜい東京湾上でしか組織的に現れない筈だったからだ。
 もちろん答えは、アメリカの予期せぬところにあった。
 アメリカ合衆国軍の主要基地は、ほとんど全てが日本人にずっと天空から覗かれていたのだ。
 もちろん、この当時の偵察衛星のもたらす写真の精度は数十メートルもあるとされ(いまだ機密解除されていない為正確な数値は不明)、とても細かなものまで見分ける事はできなかったが、大型の軍艦や補給艦がどこの港にいるかぐらいは見分ける事ができ、これこそが厳重な情報封鎖をしていた筈の米艦艇の動向を日本側に筒抜けにさせてしまったのだ。

 そして、何も知らない米機動部隊とその艦載機を操る男達は、優れた技量と溢れんばかりの闘志を抱いたまま、待ちかまえる日本人達の前に姿を現そうとしていた。

■Phase 3-2 強襲