■Phase 3-2 強襲

◆とある市民の回想2(基地周辺の大学生)

 私はあの日、海軍航空隊の突然の早朝訓練でたたき起こされました。
 いや、もちろん後でそれが突然の早朝訓練なんかじゃない事は知りましたよ。ニュースや新聞はもちろん、戦中に作られた「演習ニアラズ」の映画も見ましたし、僕もあの後兵隊に取られましたからね。
 あの時は「ああ、また抜き打ちで訓練なんかして、騒音公害だと言っていた町の偉いさんはカンカンだろうなぁ」と寝ぼけた頭で思いつつ、うるさくて仕方ないので起きる事にしました。
 でも、いつもなら何度かの爆音が轟いたら終わる筈の飛行機の発進は全然止まりませんでしたから、さすがに「こりゃ、何かおかしいぞ」と思いました。
 そしたら、湖に漁に出ていた近所の親父が慌てて家に駆け込んできて、「坊主、起きろ! 戦争だ!」って突然叫んだんです。
 二十歳を越えた男をつかまえて坊主はないだろうと思いつつも、話を聞いてみると漁協の無線を何気なく聞いていたヤツが海に出ている連中の緊急無線を聞きつけ、そこにきて海軍さんの飛行機が大量発進でしょ、こりゃ間違いないってんで、そこにいた漁協の中の人間と近くで無線を聞いていたみんなに報せて、その中の一人が内の親父だったワケです。
 もうその後は、てんやわんやですよ。
 もっとも戦争一日目と言うよりは、大事故や大惨事が起きた時みたいで、近所の爺さんも関東大震災の時みてぇだって言ってたもんです。

 そんな私に変化が訪れたのは、米軍の攻撃から丁度一週間たった頃でした。
 そうです、赤紙が来たんですよ。
 もっとも私の場合は、当時筑波の大学に通っていて、そこで単位を稼ぐために軍の課程を履修していたおかげで、二等兵でなく短期現役の少尉候補生としての召集令状でしたけどね。
 ただ、私にとっての戦争は、開戦一日目の方がよほど戦争らしいものでしたよ。
 何しろ私が半年の促成教育で少尉任官(主計将校)した頃には、戦争は沖縄での戦いも終わって一段落って感じで、私のような役立たずの即席士官の配置される場所は知れていますからね。
 私は、結局あの戦争では遂に太平洋にいく事はなく、ベテランの士官と交代する形で樺太でソ連軍と睨み合っていましたよ。
 まあ、米軍と直接戦った戦友達を思えばとても幸運でしたし、戦争が終わればすぐにも大学に戻って、しかも戦争を経験した予備役中尉て事で恩給まで付いてきた上に、元将校って事で女の子にももてたんですから、文句言っちゃいけないんですけどね。
 ハイ、私にとってあの戦争なんてそんなものです。
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 日本標準時1953年5月27日早朝、日本本土を目指していたアメリカ太平洋艦隊所属・第71、第72任務部隊所属の合計約360機の艦載機は、陸地を見る数十キロメートル手前で、突如混乱に巻き込まれた。
 電探の覆域を飛ぶため、もしくはぎりぎりまで電探の探知から逃れるため、通常高度ではなく高度数百メートルの低空を飛行していた米艦載機の大集団は、高度3000メートルの横合いから逆さ落としをかけてきた日本海軍の「紫電」戦闘機の迎撃を受けた。
 突如「スカイレイダー」の編隊側面上方から現れた16機、1個中隊の「紫電」は、各24発の近接信管付きロケット弾をありったけ放ち、さらにすれ違いざまに30mmの機関砲で追い打ちをかけ、頑健さに定評のある「スカイレイダー」多数を撃墜もしくは撃破すると、そのまま海面すれすれまで降下して米軍機の前から消え去った。
 しかも、彼らの航空機が発する音は、逆さ落としを行った後から来ており、彼らが音速を超えた速度で米軍機を迎撃した事をこれ以上ないぐらいに示し、同時にそれを可能とする程日本人パイロット達が熟練者である事も伝えていた。
 そして最も重要な情報は、位置関係から日本軍が調整を取りつつアメリカ軍機を攻撃した事で、これを最も端的に現していたのが、編隊から少し離れ護衛機すら伴っていた米軍の早期警戒機の多くが(4機中3機)、小隊規模の日本軍新型機(恐らく「紫電改」)に襲撃され、初期の任務(敵の監視や誘導、電波妨害など)すら全うせぬまま撃墜された事だった。

 当然、アメリカ軍攻撃隊は混乱した。だが、彼らの母艦群は自らの位置を敵に知られぬため、依然として無線封鎖と限定的な電波管制下にあり、いったん飛び立ってしまった彼らに指示を出す事はできず、それを行う筈の早期警戒機の多くも初期の段階で失われていたため、横須賀を目指していた米艦載機たちは初期の混乱から立ち直れないまま、自らの任務を全うすべく目的地への進撃を強行した。
 だが、時間が経つにつれて、目的地に近づくにつれて迎撃に現れる日本軍機の数は増しており、最初に襲撃に現れたジェット機だけでなく、東京湾に出る頃には大量のレシプロ機までが編隊にまとわりつき、攻撃機に的を絞って襲撃する余裕すら見せていた。
 そして日本軍機の数は、最終的には500機近くになり、米艦載機はまるでタマネギの皮のような迎撃網の前に著しい消耗を強いられる事になる。
 しかも、日本軍機が攻撃を開始した頃から、日本の各地から強力な電波妨害が広範な範囲で発せされるようになり、米軍機の発する悲鳴の多くは見えない電波の壁に遮断され、彼らの30分ほど後ろを進撃する第二波攻撃隊が詳しく知る事はできない有様だった。
 もちろん第二波攻撃隊も、第一波と同様の歓迎を受け、甚大な損害を被る事になる。

 そして目的地に達するまでに半数近い犠牲(撃墜機、離脱機)を出しながら、ようやく横須賀を臨む位置まで進出した米艦載機の第一波たちは、日本軍機の迎撃を無視するかのように突撃体勢に入ろうとしたが、彼らの眼前に広がった光景もその期待を裏切るものとなっていた。
 東京湾入口で見た船舶、艦艇の急な動きから、ある程度これ在るかなを予期していた以上の光景を米パイロットの眼前に現実として叩きつけた。
 要するに、日本海軍最大規模の拠点の一つである筈の横須賀軍港は、ほぼもぬけの殻だったのだ。
 唯一の慰めは、そこから伸びる対空砲の火線が著しく少ない事だったが、これも日本本土に近づいた時から多数飛来するようになった誘導式の対空ミサイルの存在を前にしては小さな慰めでしかなかった。
 もちろん、そんな部隊ばかりではない。
 大戦果を挙げた編隊もある。
 何しろそこは、動く事の出来ない軍事拠点であり、日本の首都近くの産業中枢で、たとえ最優先攻撃目標がなくとも目標には事欠かないからだ。
 そして最も戦果を挙げた部隊は、唯一残った早期警戒機の通信から事前の予定を変更して、浦賀水道を抜ける艦船を攻撃した部隊だった。
 彼らは、大回りして浦賀水道から侵入する部隊で、当然眼下に広がる海を航行する艦船の多くを目撃する事になり、丁度そこを通過しようとしていた時、浦賀水道に大型船(5万トンクラスの大型タンカー・第二小林丸)を捉えた部隊が、最悪のタイミングで慎重に水道を通過しようとしていた同船に大量の魚雷と爆弾を叩きつけ大破炎上させ、同船は近くを航行していた小型の護衛艦艇を巻き添えにしてそのまま座礁、手の付けようのない重油火災を起こしつつ、浦賀水道を一時的に封鎖してしまった。
 そして皮肉な事に、この攻撃が米艦載機600機が繰り出した攻撃の中で最も成功した攻撃になり、全く満足できない戦果と引換に、十重二十重の日本軍迎撃網の前に半数以上の犠牲を出す結果を残す事になる。
 これは、日本の各軍港がドイツ軍港跡を研究した結果と、来るべき核戦争時代に備えて軍事基地の直接的な防備強化(設備の重シェルター化とドッグのブンカー設置)を施していた事も影響していたが、全ては日本軍機の組織的迎撃がこの結果をもたらしたのだ。
 戦術的には、米軍の完敗だった。
 しかも、日本軍の攻撃と言うべきか、米艦隊の不幸はこれで終わらなかった。
 位置が知られていない筈の空母機動部隊の方に、日本軍の迎撃の手が及んでいたのだ。

 米軍の攻撃が近いという事で1週間ほど前に横須賀の強固なブンカーを出撃した、当時最新鋭と呼んで良いディーゼル機関型潜水艦の1隻「呂-306潜」が、日本各地から送られてくる情報を長波通信にて傍受し、概略位置に進出、半ば偶然に潜望鏡の眼前に広がる大艦隊を捉えたのがその一つだった。
 そして呂-306潜は、敵艦隊の位置を最大電力で発信すると同時に、自らの最大の武器である新型の誘導魚雷をありったけ(6発)放つと逃走を開始した。
 米軍の戦後の資料からこの時の呂-306潜攻撃は、自らの小破の損害と引換に駆逐艦1隻を撃沈し、空母「ヨークタウンII」が魚雷を1発受け小破する損害を与えたが、直接的な攻撃そのものは大局に影響を与えなかったとされているが、米軍にとって笑って済まされる問題ではなかった。
 何しろ、その後24時間の間に日本潜水艦5隻の攻撃を受け、限定的な群狼戦を行った日本潜水艦(うち1隻は伊号巡洋潜水艦)の前に、空母1隻中破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦1隻大破(後自沈)、駆逐艦1隻撃沈という大損害を受けたからだ。
 米軍の損害が多くなったのは純粋な技術差もあったが、日本軍の一部攻撃が米艦載機収容の時に行われたからで、決して米艦隊の能力が低かったワケではない。
 そして、最大の災厄は米機動部隊が艦載機を収容し、一目散に逃げようとした時に訪れた。

 日本軍は第二次世界大戦後、硫黄島全島から民間人を移住させ、そこを完全な軍事要塞化し、択捉、新千歳、鹿屋、嘉手納、パラオ基地群に匹敵する日本最大級の空軍基地に作り替えていた。
 中でも半径数百キロメートル以内に簡単に民間人の近寄れない硫黄島は、事実上の秘密基地として機能しており、付近海面と合わせて日本軍の試作兵器の試験場となっていた。
 そして当時そこは、最新鋭の重爆撃機「52式重陸上攻撃機・轟山」の試験部隊が大隊規模で出張っており、各種新装備の実験を繰り返し、米機動部隊を効果的に迎撃出来る付近戦力が彼らだけだったため、実験部隊のうち1個中隊(プラス支援機)に迎撃が命令される事になる。
 「52式重陸上攻撃機・轟山」は、現在でも空軍の基地に行けば見る事ができるので多くを説明する必要もないと思うが、翼長約81メートル、全長約24メートルの全翼式の機体に8基の大馬力ジェットエンジンを装備した大型機で、当時は対放射線対策の反射塗装を施され全身を輝く銀色に包んだ、日本海軍(当時)が総力を挙げて送り出した次世代機だった。
 ドイツからもたらされた技術と満州にあった中島・ノースロップ社が自主開発した技術を応用して開発されたと言われるこのジュラルミンの翼は、当時の能力で高度1万5000メートルを最高時速900km/h以上で飛行し、航続距離1万5000km、最大積載量30トン、20mm多銃身機銃6基装備というモンスターバードで、当時ですらレシプロ機での迎撃は不可能とされ、ジェット機や誘導ミサイルでも迎撃は極めて難しく、この巨大なブーメランが現れたら死を意味するとすら言われ、その後日本軍がいち早く開発した水爆とこの機体の標準装備の存在も重なり、まさに死の翼としての悪名を轟かす事になる。
 ちなみに、英国では彼女の事を北欧神話に登場する死をもたらす天使「バルキリー」にたとえ、日本人たちも「轟山」という勇ましすぎる名前よりも、優美とすら言える機体の名称として「バルキリー」をよく用い、ジェーン年鑑にすらニックネームであるこの名が登録されている。
 そして現在でも、機体表面を特殊なくすんだ色の塗料に塗り直し、電波不透過性の強い大型機として各種任務に就いている事は、説明する必要もないだろう。

 そして、日本本土に襲来した米機動部隊の前に最後に現れたのが、この「52式重陸上攻撃機・轟山」12機の編隊だった。
 この時の「轟山」1個中隊は、別行動を取る護衛機を引き連れた早期警戒機と「富嶽改」2機による電波制圧機の援護を受けつつほぼ最大速度で進撃して、米機動部隊の防空戦闘機が成層圏に駆け上がって来る前に彼らにとっての攻撃位置に着いていた。
 もっとも、この時の「轟山」の位置は米機動部隊側にとっては、それ程警戒すべき位置ではなかった。その位置は、艦隊から15キロメートルも離れた高度1万5000メートル上空で、実際の距離は20キロメートル以上も離れた場所だっからだ。しかしそこで「轟山」は爆弾槽を開き、さらにアシストロケットで加速し距離が12キロメートルに達した時点で腹の中に抱えていた荷物、「53式(超音速)巡航誘導弾」を全て解き放ち、迎撃機が到達する直前に反転遁走を開始した。
 そしてここで米機動部隊側は、大きなパニックに見舞われる。それは、「轟山」が各12発の大型飛翔体を解き放ち、合計144発にもおよぶ大型対艦ミサイルと思われるものが、傲然と自らめがけて突進してきたからだ。
 しかも、加速した「轟山」から放たれた大型ミサイルはその後の自らの加速により軽く音速を突破し、とてもではないが防空戦闘機の迎撃できる存在ではなくなっていた。
 もちろん、射程に捉え次第各艦艇に搭載されていた各種防空火器が一斉に火蓋を切る。
 15.2cm、12.7cm、76mm、40mmと様々な火砲が空を黒くするほど放たれ、76mm以上のものには近接信管を搭載していた事から、その精度も通常の航空機が相手なら非常に高いものがあった。
 さらには強力な電波妨害や特殊なアルミ片による欺瞞などを行い、1発でも多くのミサイルを防ごうとした。中でも特筆すべきは、大天使達を守護していたエスコートたちの行動で、彼女たちは自らレーダーの反射面積が大きくなるように艦の側面をさらした事だろう。
 そしてミサイル達は、様々な障害を乗り越え米機動部隊に殺到したが、ここに日本と言うよりも当時の世界レベルでの先端技術限界を露呈する事になる。もちろん、アメリカ側の迎撃が結果として効果が絶大な効果を上げたワケではない。
 それは到達したミサイルの数に如実に現れている。
 その技術限界原因とは、同兵器を一斉発射した日本側にあり、目標に到達するまでにその4割が何らかの機械的なトラブルで到達する事ができず、またあまりにも速い自らの速度のため十分な照準・誘導を行う事ができず、せっかく発射から数十秒で目標に到達したと言うのに、最終的に米艦艇に命中したミサイルが発射時の2割程度となったのがそれだ。つまり、米軍に撃墜されたミサイルよりも、勝手にどこかに行ったり海面に激突したミサイルの方が遙かに多かったという事だ。
 しかし144発の約2割、23発の命中弾、8発の至近弾は米機動部隊に破滅的な効果を及ぼしていた。
 総重量2.5トンの音速の衝撃波が様々なものをその運動エネルギーで砕き、弾頭に搭載されていた1トンの日本製高性能爆薬は、そこで化学的反応を起こしアメリカ製の様々なものを破壊しつくしていたと言う事だ。日本側にとって残念だったのは、発射されたものが魚雷ではなく、1発で敵艦に致命傷を与えられなかった事だろう。
 しかし日本側にとって残念だったとしても、その破壊力は強烈だった。何しろ1トン爆弾が危険物の固まりと言える軍艦の上で炸裂するのだから、脆弱な駆逐艦などにとっては1発で致命傷を意味していた。
 なお最終的な損害は以下のようになる。

 撃沈
戦艦:1隻 軽巡洋艦:1隻 駆逐艦:4隻
 大破
重巡洋艦:1隻 駆逐艦:2隻
 中破
大型空母:2隻 戦艦:1隻 重巡洋艦:1隻

 端的に言ってしまえば、壊滅的打撃だった。
 これが第二次世界大戦当時だったら、日本海軍の空母機動部隊の全力攻撃により現出できたかどうかという損害であり、弾頭の中に原爆が含まれていなかった事など、アメリカ側にとって何の慰めにもならない程の破壊力だった。
 なお、この時撃沈した戦艦「ニュージャージ」は、艦の側面を晒したところに合計6発もの「53式巡航誘導弾」が殺到し、1トンの装薬の破壊力と残存していたロケット燃料による火災で艦の指揮中枢すべてを破壊され、各所で誘爆が発生、さらに舷側に命中した2発により艦の側面に大穴が二つも開き大規模な浸水が発生し、その後すぐ側に着弾した至近弾による爆圧の影響もあり、被弾23分で待避を急ぐ味方により自沈処分されていた。そして皮肉な事にこの「ニュージャージ」撃沈は、航空機が作戦行動中の戦艦を単独撃沈した初めて戦果となった。
 なお、空母の損害が少なく護衛艦艇の損害が多いのは、エスコート艦の艦長たちの勇気の発露を現しており、また日本側誘導兵器の目標選択ができていない事を現していた。

 そして、世界中に新時代の戦争を印象づけた初期の戦闘を戦訓が十分反映されないまま、両軍は本格的な戦争を開始する事になる。

■Phase 3-3 攻勢