■Phase 3-3 攻勢

◆とある市民の回想3(漁船乗組員)

 そりゃもう、びっくりしたのさよ。
 ・・・やんや、標準語で話さないといけませんでしたね。
 そう、その時も北衛の漁港を出て、近くで普通に魚取ってるフリしながら、こっそりアメちゃんの島の近くまで寄って魚とってました。
 あそこ、いい漁場があるんですよ。
 もちろん悪いと思ってるのさ。でもまあ、みんなしてましたし、明るい色した巡視船とかいう船に乗った海軍さんも口ではきつい事言ってましたけどさ、何かあればすぐに自分たちか漁協に報せろと言っただけで事実上の無罪放免だったもんです。
 まあ、今にして思えば海軍さんにとってみれば、警報機の代わりもさせられとったんでしょうなぁ。何しろ、あの辺は海は荒いのに、海軍さんの船はあんまり見ませんでしたし、漁協の上の方ではなんかそんな話があったらしく、こっちにも何か見つけたらすぐ報告するよう言われてました。
 したから、ワシらも薄々その事は思ってましたから、外の様子には注意してました。しかもワシの船は戦争の半年前に改装したばかりの大型遠洋漁船でしたから電探積んでまして……あれ便利ですね、何も見えないのにどこに何があるのか分かるんですから。
 やんや、そうそう米軍の話しでしたね。
 そうそう、そうやっていつものように魚とってたらさ、突然電探の画面が真っ白になりまして、遠雷みたいな轟きがした思たら、ペラを二つつけたアメちゃんの戦闘機か爆撃機が来まして、うちの船の周りをグルグル回り始めたんです。
 その時はまだ戦争は始まっていませんでしたから、いきなり攻撃はしてきませんでしたけどさ、そのすぐ後、30分ぐらいした時でしたかな、今度はアメリカの軍艦がなまらすごいスピードで近づいてきたんです。
 え、形ですか? そうですね、細長い船でたしか前に大砲が二つ並んだ角張ったのが二つ重なってましたよ。
 はぁ、アメリカの主力駆逐艦ですか。どうりでそれまでにも、よく見たことあったワケですね。
 で、なして私が臨検も拿捕もなく帰ってこれたかぬかすと、そりゃ海軍さんが助けに来てくれたからですよ。
 もうその時の感動ぬかすたらないっしょでしたわぁ。
 確か2隻、アメちゃんの軍艦よりちょびっとこったらちっこいけどさドッシリしたやつと、その三倍ぐらいありそうな堂々とした軍艦が、別々の方向から軍艦旗掲げて颯爽と登場しまして、こったらでっかい方見たアメリカの軍艦が慌てて逃げていった光景は今でも忘れられません。
 まあ、その後すぐあの上を米軍の爆撃機が大群で通過したと聞きまして、あの時のワシらに対するアメリカの態度を納得したもんでしたよ。
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 グリニッジ標準時1953年5月26日午後11時半に最後通牒がアメリカから日本政府に手渡され、その15分前にアメリカ軍機を日本軍機が襲い、ここに第二次世界大戦が始まったわけだが、戦場は帝都近辺だけではなかった。
 開戦と同時に日米双方の潜水艦が戦時に取るべき行動をすぐさま開始し、護衛部隊や対潜部隊が反対に潜水艦に対する攻撃を開始したりと、それなりに戦争が始まったことを一部の現場の人間に実感させる事になる。
 もっとも、日米本国以外の太平洋に確固たる軍事拠点が少なかった事から、航空戦による攻撃は横須賀を例外とすると他は1箇所で行われただけだった。
 アメリカ領のアッツ島から日本領カムチャッカ半島の唯一の都市北衛市に飛来した、アメリカ軍機と日本の防空隊の戦いと、単冠鎮守府に対する米軍の大規模な爆撃がこれにあたる。

 第一次太平洋戦争の結果、太平洋の防衛に強い懸念を感じたアメリカは、ハワイやグァムの代わりに条約対象外にあたるアラスカ/アンカレッジ基地の大幅拡大を図っていた。
 そして第二次世界大戦を横目で見ながら基地は拡大の一途を辿り、1946年にアメリカで「B-29」が量産配備されると、冬には氷で閉ざされるアンカレッジは空軍基地として肥大化し、太平洋最大級の軍事拠点と呼びうるまでに発展していた。
 そして1948年に「B-36」、同年「B-29」の改良型の「B-39」が量産配備されるに至り、直接日本本土を攻撃圏内に入れた事で日本軍の関心も一気に高まり、本来極寒の地で軍事作戦には不向きな大地を、軍事対立のホットゾーンとしていた。
 なお、日本側も第二次世界大戦が終わるが早いか、択捉に「連山」、「連山改」を大挙進出させソ連とアメリカに対する日本の北方防衛の要となる新千歳基地をアラスカと並ぶ巨大基地に拡張している。
 そして、1947年に量産配備の始まった「6式重陸上攻撃機・富嶽」を持ち込む事で、こちらも直接アラスカを狙えるようになり、「49式重陸上攻撃機・富嶽改」をさらに送り込み、ついには全世界をその翼下におさめた「52式重陸上攻撃機・轟山」の開発、実戦配備は、アメリカ政府を恐怖のどん底に突き落とし、開戦壁頭に択捉を攻撃させる事に繋がる。
 なお、開戦当時択捉島は、その全島に陸海軍の基地が建設されオホーツク防衛の要としての役割を果たしていた。
 単冠湾には、巡洋艦クラスが収容できる巨大なブンカーを備えた海軍鎮守府が置かれ、島の三カ所に4,000メートル級の滑走路を持つ大型の空軍基地が作られた、単なる海軍航空隊の基地でしかない新千歳以上の戦略価値を与えられ、オホーツク防衛防衛のみならず、樺太、カムチャッカ南端を含めた日本の北方防衛の重心ともなっていた。
 だからこそ、アメリカ軍は第一撃目にここを選んだといえるだろう。

 そして、4,000メートル級滑走路を4本持ち、予備を含めると400機近い戦略爆撃機が翼を休めるアンカレッジ基地では、開戦の1時間後に日本領土を領空侵犯するタイムスケジュールで攻撃を調整し、アラスカ随一の街と言うよりは、アメリカ最大級の軍事基地となっていた同空軍基地で324機の「B-36」と「B-39」が一斉にエンジンの試運転を始め、それまで静寂に満ちていた極北の大地をレシプロエンジンとジェットエンジンの喧噪で包み込んだ。
 そしてこの日の作戦の為に整備されていた爆撃機たちは、搭乗員達の多くの思惑に反してご機嫌で、日付変更線を越えてもまだ3パーセント程度の様々なトラブルによる脱落機しかだしておらず、ほぼ離陸当初の大集団のままアリューシャン列島のアッツ島沖合上空で監視任務に就いていた複数の日本側早期警戒機により捕捉され、ここに北の大地での饗宴が開始される。
 「B-36」はハイブリッド機の典型で、それまでの6基の大馬力レシプロエンジンに加えて、ジェットエンジンをさらに4基装備し搭載量も30トン以上に達したうえで、最大時速は約670km/h、巡航速度も600km/hもあり、日本の「富嶽改」、「轟山」を除けばこの時代最良の性能を誇っており、軽荷状態ながら択捉とアンカレッジの往復が可能で、この日も各機64発の500ポンド爆弾(もしくは同程度の別の弾種)を腹の中に抱えていた。一方「B-39」は航続距離を無理矢理稼いだ代償として搭載量はオリジナルの「B-29」より大きく減じ、その半分の32発の500ポンド爆弾を抱えていたに過ぎない。つまりは、4500kmも彼方の敵拠点は、「B-39」では重荷すぎたのだ。
 だが、米最高司令部は、この攻撃には大きな価値があると考えており、この攻撃が完全に成功した場合、なんと3000トン以上の爆弾が択捉島に降り注ぐ事になり、もしそうなれば択捉島基地群の壊滅は間違いなく、少なくとも半年は機能が復帰しないと米軍側は考えていた。そして、米軍の戦争目的からすれば、半年の時間が稼げればそれでよかったのだ。

 一方防衛する側になった日本軍だが、アンカレッジから択捉に至るまでに存在する大規模な軍事拠点は、カムチャッカ半島南端の北衛市だけで、それ故北衛市は潜水艦用のブンカーを備えた強固な軍港、重コンクリートシェルターや岩盤をくりぬいた格納庫を持つ空軍基地、「象の檻」と呼ばれた大きな遠距離用電探、たくみに掩蔽された高射砲、海岸砲、対空誘導弾発射施設、そして街全体に張り巡らされた主に陸軍部隊用の地下陣地(要塞)など、まるで一昔前の子供向けSFに出てくる秘密基地のような様相を呈していた。
 当然駐留機も多く、防空戦闘機だけでも完全編成の2個大隊が常駐し、この日も領空侵犯に対応するための緊急出撃がただちに行われ、詳細な情報が伝わるとソ連に備えた分を除く全ての戦力が北太平洋上に向けられ、本土の基地に全ての情報を伝達していた。
 北衛基地群からの連絡を受けた新千歳の北部方面軍司令部は、東京の意向を問い合わせると同時に自らの権限内で迎撃許可を出す。当然東京からの迎撃命令も即座に返答されていた。
 これにより北部方面軍が持つ、陸海合わせて1.5〜2個航空艦隊に匹敵する1,000機近い航空機が戦時体制で活動を開始し、対ソ連専門部隊を除く全ての迎撃部隊が北衛基地群の部隊に続く形で北太平洋上へと向かっていった。
 そして三沢、新千歳、択捉から出撃した約250機の各種迎撃機は各機上で開戦を迎え、その数分後に北衛基地部隊が迎撃を開始した事を知り、十全の体制で米戦略爆撃機群を迎え撃つ事になる。
 なお、北部方面軍がこれ程迅速に迎撃に移行できたのは、そのための準備をずっとしていたからであり、日米の緊張増加に伴いより強い対米シフトに移っていたからに他ならない。

 そして、レーダーに日本軍機を捉え速度を最大650km/hにまで増した約300機の米国製戦略爆撃機の群は、最初は北衛基地部隊による散発的な抵抗に合い、米パイロット達が楽観しそうになった1時間ほど後に、千島列島沖合で北部方面軍主力の迎撃を受け、甚大な損害を被る事になる。
 特に米爆撃機の損害を大きくしていたのは、まるで旧ドイツ軍機のような双発ジェットの重戦闘機と専用の赤外線誘導式の空対空ミサイルを装備した部隊が新千歳に多数存在していた事で、「轟燕」と言う何ともアンバランスな名を与えられた陸軍航空隊の主力迎撃機は間借りしていた択捉の基地を飛び立つと、4発装備する「51式対空誘導弾」と自らの持つ30mm機関砲で「ピースキーパー」や「スーパーフォートレス」の翼を引き裂いて回っていた。
 遠距離からの高度な迎撃システムを持つ部隊に、従来型の戦略爆撃機でしかない「B-36」、「B-39」の損害は大きく、それ以外のジェット機、高速レシプロ機による迎撃で、択捉島に辿り着けた機体の数は全体の40%程度という惨憺たる数字を残す事になる。
 もちろん、残り60%全てが撃墜されたわけではなかったが(損失は全体の35%程度)、半数以上が脱落した攻撃隊の調整はその多くが崩壊しており、追い打ちをかけるように択捉沖合で待ちかまえていた、やや旧式の短距離迎撃機群と択捉島自体から飛来する地対空誘導弾による撃墜・撃破が相次ぐと最終的に目的の軍事施設の上まで行けた機体の数は100機を僅かに越える程度でしかなくなっていた。
 しかも、調整のとれない成層圏からの高精度の爆撃など戦果を望むべくもなく、彼らが地上に放った爆弾の多くは択捉島の豊かな自然を破壊するか海に虚しく水柱を挙げるだけに終わり、1,000トンの爆弾が達成した成果、日本側が最終的にまとめた損害は、一時的基地機能の15%低下、航空機の21%の消耗、うち48%の完全損失というものになり、単冠鎮守府の艦艇の損害に対する爆撃に至っては、戦艦1個戦隊が付近海面を遊弋していたにも関わらず、至近弾で軽微な損傷を出した艦が若干あっただけで、事実上皆無という有様だった。
 そしてその代償にアメリカ第八航空軍が支払った損害は、作戦参加機34.7%の完全損失(撃墜110機)、撃破113機(うち半数は帰投後破棄)、人員損失1423名というもはや考えたくないレベルの大損害だった。
 これにより米戦略爆撃兵団は、約30%の損害を開戦第一日目で受け、ただでさえ日本に劣勢だった戦略爆撃機戦力比率を低下させる事になり、これが一種のトラウマになって戦後アメリカに一大戦略爆撃機戦力建設を決意させる一大事件となる。

 だが、日本の迎撃がこれほどうまくいったのは、事実上本土で待ち伏せ状態だった横須賀での迎撃を除くと、あまり芳しいものではなかった。
 米軍は、開戦と同時に大艦隊が護衛した一大船団をシアトル、サンフランシスコ、サンディエゴから出港させ、わずか一ヶ月足らずでハワイ・オワフ島の軍事基地化を行うと、初期の本土での迎撃に成功したとは言え混乱する日本軍の迎撃を受けることなく、完全な非武装地帯だった日本領の南洋諸島各地に無血占領状態で軍を進めていく事になる。
 日本軍の迎撃がこの時低調だったのは、横須賀攻撃の影響で浦賀水道が一時的に閉塞され、その状態が完全回復するまで東京湾が約1週間近く民間流通が優先されたように、この時の流通・経済の混乱に軍も巻き込まれたのが一番大きな要因で、戦後言われたように第一次太平洋戦争での太平洋非武装化の上に日本が胡座をかいていたわけではない。
 事実、1953年8月にトラック環礁を米軍が攻撃した時には、硫黄島とパラオ群島からの重攻撃機による攻撃は大きな効果を発揮し、日本軍が初めて使用した多数の赤外線誘導爆弾は、米船団に大きな損害を与え彼らの進撃速度を低下させるばかりか、後の補給作戦に支障が出るほどの損害を与えているし、開戦初期から行われているシーレーン確保とアメリカ側のシーレーン破壊は、ノウハウを持つものとそうでないものの差をハッキリ見せつけるような戦果を残しており、開戦一ヶ月目で早くもアメリカ海運に大きな打撃を与え、彼らの戦争経済を大混乱に陥れる事にも成功している。
 なお、日本軍側の重攻撃機による攻撃は、開戦初日の戦果に気をよくしたのか、その後海軍艦艇の展開が遅れる日本軍の常套手段となった節があり、当時高度な誘導兵器の量産・備蓄体制が不十分だったにも関わらず、大型攻撃機・爆撃機が頻繁に長駆攻撃を行い、弾薬の不足と米軍側の迎撃体制の強化から大きな損害を出す事になる。
 これが如実に現れたのが、「南鳥島沖海戦」だった。
 マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島で形ばかりの抵抗を示したわずかな数の日本軍を撃破し、ほぼ無血占領を果たした米軍にとって、マリアナ諸島確保と次なる沖縄進撃の最大の障害になっていた硫黄島の攻撃、占領を画策させ、1個海兵師団・両用戦部隊を1個空母機動部隊が護衛して同島の攻略作戦を発動させたのだが、この時現地日本軍爆撃機部隊が全力で迎撃、約150機の重爆撃機による飽和攻撃は、開戦初期のような多数の対艦誘導弾を持っておらず、一部補給された対艦誘導弾、赤外線誘導爆弾以外はそれまで通りの水平爆撃を強行する事になり、部隊の半数を占めていた「轟山」ですら20%近い損害を出し、米軍の洋上での撃退こそ果たしたが、その損害は開戦初期の米軍同様、お味方大勝利と笑って済まされるものではなく、これ以後日本軍も戦略爆撃機の攻撃機としての使用に慎重を期すようになっている。

 ただ、米軍にとって不可解な事が一つあった。それは、日本軍が当初の想定よりも遙に小さい規模の迎撃しか行っておらず、中でも相互の交通線の破壊戦以外では海軍艦艇がその姿を見せていない事だった。いや、活動しているのが潜水艦ばかりなのだから、米将兵は敵艦艇の姿を全く見ていない状態だった。
 このためアメリカは、初期の横須賀攻撃が予想以上の効果を発揮したものと解釈せざるをえず(現地スパイ網も開戦と同時に一時的に壊滅していた)、とにかく世界最強をうたわれる連合艦隊主力が迎撃に現れる前に、1マイルでも遠くに前進する事になる。
 そして、米軍が日本海軍が迎撃に現れなかった理由を知る日がやって来る。

 「オペレーション・カートホイール」、つまり沖縄攻略作戦が米統合参謀本部で決定され、その迎撃に日本軍が全力で殴りかかってきたのだ。

■Phase 3-4 侵攻