■Phase 3-4 侵攻

◆とある市民の回想4(沖縄疎開船団の避難民)
 あの時は、たいへんだったさぁ。
 秋に南洋の島を米軍が占領して、年明けには沖縄にやって来るからって子供とおじい、おばぁはみんな本土か台湾に疎開しなくちゃいけなくて。
 でもうちは泡盛作ってるから、おとぉ、おかぁは離れるわけにはいかねぇ、て言うから私らだけで疎開する事になったんです。
 まあ、大阪の小琉球って呼ばれてるところに親戚がいたから、自力で疎開先は何とかなったんですけど、そのせいかなかなか疎開船の順番がこなくてねぇ。
 ホラ、今でも嘉手納に大きな基地があるでしょ。ロケット打ち上げる。
 あそこの疎開が最優先にされていて、海軍さんの大きな船はみ〜んなそれにかかりっきりで、しかも海には米軍の潜水艦がウヨウヨいるからって、海軍の護衛がないと船会社も船はなかなか出さなくてね。
 で、年の瀬も迫った12月の末頃、ようやく大きな船団が那覇に入港するから準備するようにって言われて、まあ家族全員で泣きながら分かれて、アハハ、今思えばあんなに悲壮ぶる事もなかったんだけどねぇ。
 ああ、疎開船ね。
 そうそう、港にいくと大きな客船が何隻も来てたんで、ビックリしたさぁ。
 でも、軍艦はそこにはいなくて、日の丸やイギリスの旗じゃなくて何だか見たこともない旗ばっかりで、みんな口々に不安がっていました。
 全部で10ぐらいいたかな? 私が乗ったのは中でも一番大きなやつで、ビルやホテルが動いているみたいな大きな客船でした。他も、ほとんどは黒と白の綺麗な客船か貨客船ばっかりで、しかも船員の人のほとんどは白人の人ばっかりだったんで、もう一回ビックリしたもんさぁ。
 旗ですか? え〜と、私が乗ったやつは濃い青色に黄色い十字が描いてましたよ。ああ、スウェーデンの船だったんですか。どおりで女学校で習った英語があんまり通じなかったんですね。
 あ、そうそう他にも色々な旗がありましたよ。いろんな色の十字を見たし、赤い地色に白い月と星を描いたやつとか、柿色、白、緑の三色の真ん中に何かの車輪を描いたやつとか。
 でもまあ、私あんまりヨーロッパの事知らないし、話す言葉を聞いていると英語だとおもったから、当時もさすが同盟国だけあるなぁ、なんて思ったもんでした。
 で、いったん船に乗ってしまうと後は順調で、乗ってる船も豪華客船だったからスッゴク快適でサービスも良かったから、疎開じゃなくて旅行しているみたいでした。海軍さんの船団が守っていたくれたおかげか、米軍も襲ってこなかったです。ハイ。
 あ、そうそう、船の上で始めて向こうのクリスマス・パーティーを経験しましたよ。

 ただ、戦争がず〜っと東の方に移ったから、もう沖縄は安心ってことで帰ったらビックリしました。那覇の町はなんともなかったんですけど、嘉手納の方が穴だらけのボコボコになってましたからね。
 その時思いました。ああ、本当に戦争をしてたんだなぁって。
 で、上陸してからは酷い状況がだんだんと分かってきて・・・
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 「オペレーション・オーヴァーロード(上帝作戦)」、つまり沖縄攻略作戦が発動されたのは、開戦から半年余りの過ぎた1954年1月3日の事で、この日は第一次太平洋戦争開戦日、その20周年にあたり、アメリカにとってこの沖縄侵攻が雪辱戦としての意味を強く持っていたと、戦後研究家に言わせる主な原因になっている。
 だからこそアメリカは、無理を押して沖縄に来たのだと。だが、戦略的視点から見るなら自軍の潜水艦による通商破壊戦が低調な以上、日本を停戦のテーブルに着かせるには直接日本の海上交通を遮断するしかなく、それに最も適した場所が沖縄だったのだから、この論は根拠は薄いと見るべきだろう。
 だが、無理を押した理由は他にもあった。開戦から半年以上が経過し、自軍の予備役兵力の動員を達成したと言うのに、巨大な戦力を誇る筈の日本海軍主力の殆どは目の前に現れておらず、この戦力を一時的に撃破(撃滅ではない)しなくては、反対に自らが日本軍からの痛いしっぺ返しを受けると考え、その前に日本人達を強引に決戦の舞台に引き上げようとした時の行動の一つが、沖縄侵攻に結びついたという理由だ。
 だが、一方に理由があるように、日本側にも様々な理由があって、この時まで日本海軍主力は出撃したくてもできなかった。
 順に見ていこう。
 まずはアメリカ軍側だが、開戦壁頭の攻撃でいきなり戦艦1隻を含む多数の艦艇を日本側の予期せぬ反撃により喪失し、主戦力の片翼だつた空母機動部隊も大きく傷ついたが、太平洋をマリアナ諸島目指して突進していた別働隊の機動部隊や両用艦隊、つまりアメリカ第3艦隊主力は、日本側の混乱と低調な迎撃にも助けられ、たいした損害を受けることはなく順調な進撃を継続していた。
 このおかげもあり、初戦で深く傷ついた第7艦隊の再編成も終了し、トラック環礁を足場にいよいよ日本軍との決戦を行おうとしていた。そして、以下がこの時の米軍の主要作戦予定とその戦力概要になる。

フェイズ1「硫黄島」
目的:同島要塞の一時的無力化
戦力:CVB/2・CV/2・BB/4

フェイズ2「台湾近海」
目的:空襲による日本軍戦力の誘出撃滅
戦力:CVB/4・CV/2・CVL/6〜8・BB/9〜11

フェイズ3「沖縄本島」
目的:長期的占領・海上交通遮断を目的にした拠点化
戦力:フェイズ1、2の残存戦力全て
   陸軍2個師団、海兵2個師団
   戦略爆撃兵団の一部

フェイズ4「日本本土」
目的:日本に停戦を則すための象徴的な攻撃
戦力:サイパン、テニアンに進出した戦略爆撃兵団の全力

 見て分かるように、実に攻撃的ながら戦術の積み重なりだけではなく、戦略レベルでも作戦が構築されており、この脚本通り話が進むのなら、アメリカの勝利は疑いないものと判断してよいだろう。
 だが、1953年10月に行われた硫黄島侵攻によって発生した「南鳥島沖海戦」で、日本航空戦力による形振り構わない迎撃に合い、CV1隻喪失、CVB1隻大破という大損害を受け、しかも作戦そのものも全く達成できず、最初から大きなつまずきを見せる事になる。
 だが、米軍側はこの作戦での日本機に与えた損害判定から、硫黄島の一時的な攻撃力喪失という戦略目的は達成できた判断して、1週間のタイムラグを明けただけだった規定の作戦を若干修正するだけで、日本軍を誘い出すため艦隊主力を東シナ海へと差し向ける。
 だが、台湾と沖縄の中間海域に進出した米海軍主力は、ここでも日本艦隊主力に遭遇する事はなかった。
 派手に出迎えたのは、この時も航空機の群だった。
 日本側の記録では、都合2個航空艦隊に匹敵する全力出撃をしかけたとされ、飽和攻撃(迎撃)により米海軍の撃滅ではなく攻撃力喪失を狙い、互いの消耗を狙ったとしか思われない波状的な攻撃を繰り返した。
 そして、結果として台湾と沖縄から挟み撃ちにされた上に、必ず出てくると思われた日本艦隊に出会えなかった米海軍主力は作戦を半ばで中止し、米軍の拠点として整備の進むトラック環礁へと空しく帰投する事になる。
 もっとも、「台湾沖海戦」と呼ばれた一連の航空戦での損害は空しい程度では済まされず、本来なら次の沖縄侵攻作戦は、最低でも3ヶ月は延期されてしかるべきものだった。もちろん、日本側の攻撃もこの3ヶ月を稼ぐ事にあり、だからこそ米機動部隊をただ消耗させる戦いをしかけていた。
 だがアメリカ側は、3ヶ月も待っていては反対に日本側のマリアナ、トラックへの反撃を意味すると確信しており、これにそろそろ決定的な戦果が欲しいとするアメリカ政府の意向が加わり、無理を押してのフェイズ3が開始される事になる。

 1954年1月3日、米機動部隊は沖縄沖に到達、その後方には各方面に打撃艦隊、別働隊、攻略部隊を乗せた主力艦隊が展開し、本戦争始まって以来の大戦力が一箇所に展開する事になる。
 ただし11隻も用意された新型戦艦に比べると、母艦戦力はそれまでの消耗で大きく減退しており、超大型空母は4隻だけで他は大型空母1隻、軽空母6隻という、それまでの3分の2近い勢力しかなく、いかに戦略爆撃兵団主力が作戦参加すると言っても、彼らが目的としていた日本海軍の撃破と沖縄占領という二つの目的を達成する事は、作戦開始当初から非常に難しいと判断する見方も強かった。
 一方、米軍の侵攻に対する日本軍だが、この時に至るまで海軍主力が迎撃に現れなかったのは、ある種間の抜けた理由があった。
 もちろん、米軍の最初の一撃により海軍の多くが行動不能に陥ったからではなく、むしろ理由は極めて個人的なもので、鏡で自らの姿を見て恐怖してしまったのだ。

 開戦初日の自軍の重攻撃機の示した新たな力が、当時そのほとんどが第二次世界大戦型でしかなかった各艦艇の装備の一斉改装を促し、それが達成されるまで航空機と潜水艦だけで戦線を支えることは可能だと判断したのがその具体的な行動だった。だからこそ米軍の視点からだと、半年もの間日本海軍主力は本土にずっと張り付いていたのだ。
 もちろん、軍事拠点化されていないマーシャル諸島は、最初から明け渡すつもりもあったとされているが、実に泥縄的で笑うに笑えない事態と言えるだろう。
 しかも、台湾での米軍の攻撃は、中途半端な結果しか残さなかったが、完全に失敗したわけではなく、日本の海上護衛態勢に一時的な混乱をもたらす事には成功しており、この護衛に急遽かり出された海軍主力の一部が出遅れた事で、米軍の沖縄本島攻撃とその後の強襲上陸を許す事になる。
 日本の国土が、数百年ぶりに外国軍隊に本格的侵略された瞬間だった。
 この時米軍は、第1海兵師団が沖縄本島の嘉手納湾に真っ先に上陸し、日本の手により半ば更地となっていた嘉手納基地に、日本軍の水際迎撃に全くあわないまま橋頭堡を築くと、連邦陸軍の第7、24師団が続いて上陸し占領範囲を拡大していった。また、第3海兵師団が旅団や大隊単位に分かれ、近隣の島嶼への上陸を画策しつつ、いまだ洋上に待機していた。
 これに対し日本軍が用意した沖縄本島の兵力は、第32軍司令部を開設したにも関わらず、それ程大きな規模ではなかった。これには、那覇市が最初から無防備都市宣言をしていた事もあったが、日本側が海で撃退できると考えていたからではないかと思われる。つまり、陸軍は念のための保険程度と言えるだろう。
 このためか、米軍の上陸初日の深夜から日本軍の本格的な迎撃は開始されており、その戦法も敵軍の撃滅よりも遅滞防御に重きをおいたものとなっていた。
 つまりは、入念に擬装された陣地よりの無尽蔵とすら思える砲撃が、米軍将兵を主に出迎えた事になるだろう。

 とにかく、沖縄本島にはD-day4日目の1月7日までに約6万の米軍兵力が上陸し、ほぼ同数の日本軍と砲撃戦以外では小競り合いに近い状態の戦いを各所で展開しつつ、誰もが、そう米軍までもが日本海軍主力の到着を待ち望んでいた。強大という言葉すら不足する日本海軍主力が健在な限り、沖縄の陥落、日本の敗北はあり得ず、だからこそ米軍も必要以上の攻撃を行わなかったと言えるだろう。
 この考えは、日本においては市民レベルにまで広く浸透しており、連合艦隊来援を信じる沖縄住民の献身は、無防備都市宣言が出された那覇以外では、後の語りぐさとなる程だった。
 そして全世界から注目されていた日本海軍主力、つまり連合艦隊は、この時沖縄本島から北東方向に在り、米機動部隊撃滅を目指して進撃を続けていた。
 艦隊は大きく、打撃艦隊である第二艦隊と、空母機動部隊である第一、第二、第三機動部隊、英東洋艦隊に分かれ、大型艦の構成は以下のようになる。

 第二艦隊(旗艦「大和」)
BB:<大和>
BB:<富士><阿蘇><雲仙><浅間>
BB:<紀伊><尾張><駿河><近江>

 第一機動部隊(旗艦「武蔵」)(艦載機数:350)
CVB:<武蔵><蒼龍>
CV:<千鶴><神鶴>
BB:<葛城><高千穂><穂高>

 第二機動部隊(旗艦「大鳳」)(艦載機数:300)
CVB:<大鳳><海鳳>
CV:<翔鶴><瑞鶴>
BB:<赤城><愛宕><高雄>

 第三機動部隊(旗艦「白鳳」)(艦載機数:250)
CVB:<雄鳳><白鳳>
AC:<白根><鞍馬>

 英東洋艦隊(艦載機数:100)
BB:<インディファティガブル>
CVB:<イーグル>

 日本にとって、第二次世界大戦中のダンケルク上陸作戦以来、いや第一次太平洋戦争以来の大艦隊だった。
 しかも規模的には、第一次太平洋戦争以上、つまり史上最大規模と言って間違いなく、しかもその大半は開戦以後の突貫工事により新装備でうめ尽くされた艦艇ばかりで、何より米軍にとって恐ろしいのは、沖縄に侵攻した時点でこの強大な艦隊の正確な位置を掴んでいない事だった。
 また、英国が太平洋で本格的に戦闘参加した事も無視できない要素で、数こそ少なかったが、日本にしてみれば百万の援軍を得たようなものだった。それは、英国が目立つ場所で戦闘参加したと言う事は、それが当時の資本主義社会の意志であり、日本の国際的正義が確立されたと言っても過言ではなかったからに他ならない。
 そして、1月8日未明、日米の大艦隊の激突が始まる。

 当日の戦闘は、沖縄戦が始まってから定型化しつつある奄美大島や八重島群島からの日本軍基地航空隊による黎明攻撃で開始されたが、その日は日本軍機の襲来が止む事はなく、これに米軍は忙殺されると共に徐々に小さな損害も積み重なり、日本側の消耗戦を意図しているとしか思われない戦い方に警戒感を強くし、これを日本海軍主力、つまり「連合艦隊」が近くに潜んでいる証と判断、索敵の徹底した強化を実施した。
 そして、米軍の早期警戒機が午前8時38分、レーダースコープに映る大編隊を捉える事で、戦いのボルテージは一気に最高潮にあがる。

 この時、日本の第一〜第三機動部隊の指揮官、源田、樋端、淵田の各提督は、沖縄近在の友軍からの偵察情報から敵主力の存在を確定し、全力攻撃を貴下の部隊に命令していた。
 これにより、10隻の大型空母から第一波、第二波合計650機の攻撃隊が米機動部隊を目指して進撃し、早期警戒管制機に誘導された笹井中佐率いる第一波攻撃隊が米防空部隊と遭遇、これを圧倒的戦力を誇る制空戦闘機隊により強引に突破すると、米空母群に殺到した。
 この攻撃を受けた時米軍は、第71任務部隊に超大型空母の「エイブラハム・リンカーン」、「ジョージ・ワシントン」とエセックス級の「アンティータム」が属し、第72任務部隊は「ユナイテッド・ステーツ」と「アメリカ」で構成され、これをアイオワ級戦艦3隻以下の大量の護衛艦艇が守っていた。
 当然米軍は、防空隊が突破された段階で空が真っ黒になるような防空弾幕を張り巡らせ、この時の弾幕は開戦時よりさらに濃密になっており、ここから海戦初期の誘導兵器の損害に米軍も懸命に対処している事が伺い知れる。
 しかし、第一波350機のうち200機を占めていた日本軍攻撃機は、それを無視するかのように輪形陣の内側に突入し、次々に搭載兵器を叩きつけていく。
 もっとも、艦載機たちの搭載兵器の主力は、開戦時の「轟山」に比べると平凡なものだった。
 もちろん、小型の対艦誘導弾、赤外線誘導式の爆弾や長射程型の誘導魚雷の存在もあったが、生産・備蓄数の関係で少なく、主力はあくまでそれまでと同様の800kg徹鋼爆弾や無誘導小型ロケット弾、初期型誘導魚雷で、当然米軍の強固な防衛網に突っ込む事になり損害も甚大なものになった。
 しかし、完全損失30%の代償により得られた戦果は、戦争をひっくり返すほど巨大なものとなる。
 第一、第二波合計400機のもたらした打撃力は、米軍がこの戦場に持ち込んだ4隻の超大型空母を全てを撃沈もしくは大破航行不能に追い込み、さらには護衛の戦艦「アイオワ」すら海神の御許に送り届けていた。米軍にとっての皮肉は、エセックス級の「アンティー・タイム」が中破ながら生き残った事で、最後まで圧倒的な戦力を誇る日本艦隊に相手に奮闘した「エイブラハム・リンカーン」共々米軍の意地を見せつける事になる。
 また、日本艦隊より若干離れて行動していた英東洋艦隊は、米両用戦部隊に対して単独で攻撃をしかけ、基地機に対する迎撃の間隙を縫った攻撃により大きな損害を与える事に成功し、この後の米軍の撤退に大きな齟齬をもたらしている。
 なお、ここで日本海軍が受けた損害は、空母「神鶴」をアメリカ側艦載機の攻撃と後の潜水艦の雷撃で失っただけで、米軍司令部は空母部隊の壊滅による自軍制空権の消滅と日本艦隊健在の報告を受けて作戦の中止を指令、その後沖縄に迫る日本艦隊と増援部隊の到着するまでのスピード競争のような米上陸部隊の撤退と現地日本軍の追撃を経た、日本海軍打撃艦隊の艦砲射撃と降伏勧告以て、ここに「オペレーション・オーヴァーロード」は幕を閉じる事になる。
 ちなみに、沖縄本島での戦いで、アメリカ軍は陸海兵の戦死・捕虜を合わせると1万人以上の陸兵を失いその半数の負傷者を出し、高速輸送船と上陸用艦艇の損害を合わせて、一時的に大規模な着上陸戦能力を失う事になる。
 しかし、これでアメリカが完全な守勢に回ったわけではなく、むしろアメリカをさらに心理的に追いつめ、本来なら御法度とされていた行動に誘う事になる。

■Turn 4:算定開始
 Phase 4-1 情勢