■Turn 4:算定開始
 Phase 4-1 情勢

◆とある市民の回想5(新興企業家)
 ええ、私はあの戦争の頃新京にいました。東京じゃなくて新京、満州国の帝都ですよ。
 知ってらっしゃる通り、ウチはその頃はまだ新興の飛行機メーカーでしたから、工場の主力も満州にありまして、あっちで仕事をした方が都合がよかったんですよ。
 それにしても、あの頃の新京、いや満州は凄い勢いでしたね。現地の役員連中に煙たがられながらあしかけ5年ほど滞在しましたが、街の様子や満鉄から見える情景がみるみる変化していて、見ていて気持ちのいいぐらいでした。その中に、私の工場もその中に含まれていたからなおさらでしたね。まあ、あの戦争は、私にとってはそんなもんでした。
 もっともウチが勝負をかけたのは、むしろ戦後になってからですがね。
 え、何を作っていたか、ですか?
 そうですねぇ、あの頃は「紫電」や「紫電改」のエンジンを主に作っていましたね。陸軍も海軍も目の色変えて、それなりの性能でもいいから信頼性の高いジェットエンジンを欲しがってましたから、ウチのような会社でもいくらでも注文は来ました。あとは・・・そうそう、対艦誘導弾も作りましたよ。ロケット燃料はウチの得意分野でしたからね。しかもあれは、1発で昔の酸素魚雷数発分の値段がしましたから、主に海軍からの注文でしたが、エンジン作るより儲かったかもしれません。
 映画でもあったでしょ、ブーメランみたいな「轟山」の編隊が空一面に発射するミサイル、あれですよ。
 でも、さすがに中島と石川島播磨が牛耳っている「轟山」のエンジンには食い込めなくてね、悔しい思いをしたものです。
 まあ、その時の悔しさのおかげで、今の我々があるとも言えるかもしれませんけどね。

 ああ、そうそうあの頃の話しでしたね。
 新京は人でいっぱいでしたね。もちろん疎開者じゃなくて、色んな国の移民者で溢れていました。
 おかげで、戦争を見越して作った工場、作るとき内地の人間からバカにされたほど大規模な工場の工員募集も順調でしたよ。日本人、朝鮮人、満州人、支那人、モンゴル人、ロシア人、ドイツ人それに満州に完全に籍を移したアメリカ移民もいましたね。彼らは、まあ色々な理由で仕事取り上げられていましたから、身辺調査だけは満鉄調査部の知り合いにお願いしてから雇ったもんです。何しろ彼らは、支那からの経済難民とちがって教育受けている事が多いですから、ウチのような工場には何かと入り用だったんで。
 そうそう教育と言えば、ユダヤ人がずいぶん増えましたね。ホラ、第二次世界大戦のあとエルサレムが国際管理都市になって、あの辺りで揉めていた彼らの国の建国が国連決議で凍結されたでしょう。
 あれから、満州にユダヤ人が俄然増えましたね。日本人移民より多かったかもしれません。少なくともそう見えましたよ。
 え〜と、ロシア語とポーランド語を話すユダヤ人が多かったですね。あとドイツ系もけっこういましたよ。もちろん英語を話す方もね。
 え、よく知っているですか? そりゃあ彼らはたいてい教育程度が高いから、うちでも積極的に採用していたからですよ。それに世界中にネットワークがあるから、対外交渉にも重宝しました。

 工場の経営陣も多彩でしたよ。ウチは実力主義でしたから。でも、結局日本人とユダヤ人、華僑が多くなりましたね。あとロシア人が何人かいました。
 ウチ、白系ロシア人には人気あったんです。
 雇用条件は日本人と同じだし、何しろ満州で赤いロシアと対峙するための兵器をいっぱい作ってましたからね。
 株主の中にも、パリに住んでる亡命ロシア貴族様なんて人もいましたよ。まあ、株主総会の時に顔を出した、お人形さんみたいなかわいい人が、大株主だって聞かされた時には流石に驚いたもんですけどね。
 とまあ、当時のウチの満州の方は、あの頃の日本の縮図みたいなものでしたよ。
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 主に日本近海で、短くも激しい戦いが行われている頃、意外な事にそれ以外の世界は比較的平穏に包まれていた。いや、正確には日米の戦争の成り行きを、洞ヶ峠よろしく見守っていたと言うべきだろう。多くの人々がこの戦争の帰趨が明らかになれば、第三次世界大戦の幕開けだと考えていたのだ。

 この時活発に活動していたのは、火事場泥棒的行為を行っていた中華大陸の二つの勢力ぐらいで、他は日本とアメリカのどちらが勝つか、もしくはどちらが優勢になるかを見極めてから行動に移る準備をしていた、いや第二次世界大戦で最も勝ち組となった日本が、どれほど勢力減退をするのかを見極めていたと表現すべきかもしれない。
 そして、戦後すぐの共産中華の目も当てられない惨状から、先走ったことをしなくて良かったと、ロシア人にすら思わせる結果を残しているのは、よく知られているだろう。
 では、一旦戦場から目を離し、当時の各国の状況を少し見ておこう。

 1953年5月末に始まった第二次太平洋戦争は、単に日本とアメリカの戦争ではなく、日本が「EATO」という極めて攻撃的な条約に加盟していることから、外交的にはアメリカ対資本主義陣営というある種奇妙な体裁を取っていた。意外に知られていないが、アメリカは数十カ国から宣戦布告をされていたのだ。
 もっとも、条約がもともと対共産同盟だったし、物理的にアメリカに対して本格的に戦争を吹っかける事の出来る条約加盟国もほとんど存在せず、同盟の二大巨頭たる大英帝国にしても、日本に対するおつき合い程度の兵力をカナダ、太平洋、大西洋、カリブ海に展開し、アメリカの兵力のいくらかを引きつけただけだった。
 その他の加盟国については何をか言わんやというレベルで、わずかに満州や韓国の一部部隊が海上護衛や防空などで直接参加したぐらいだ。
 だが、経済面ではアメリカにとって致命的な効果を及ぼしていた。それはアメリカがそこまで悪い事態を想定していなかっただけに、深刻だった。
 その事態とは、開戦と同時に共産陣営以外のほとんど全ての国が、日本との同盟条約に従いアメリカとの貿易を断絶、対外資産の凍結を行い、自らの国力、軍事力、そして経済力を過信するアメリカは、たとえ日本との戦争になっても世界の過半の国は形だけの宣戦布告をする以外は、何もしないだろうと考えてろい、それ故彼らに痛烈極まりない打撃を与えた事がそれにあたる。
 これによりアメリカ経済は、戦時統制の中にあってすら大きな混乱に見舞われ、この時の躓きは日本との停戦が実現した後も大きな影を投げかけ、戦争前より状況が悪くなるという当然の結果をもたらし、この戦争までに形作られた「アメリカ=貪欲な金の亡者」という風評、つまり「アメリカ=悪」という図式を一般的なものとし、その後のさらなる混乱を迎える一大転機となっていく。
 また戦中に、日英そして復興しつつあるドイツなどに自らの市場のほとんどを奪われ、戦後もその多くが継続した事も大きな影を投げかける事になる。
 もちろん、この戦争はアメリカにとってマイナスしか生み出さなかったのは言うまでもない。

 対する日本の株は上がる一方だった。
 ただでさえ、第二次世界大戦までに有色人種唯一の先進工業国で、その上責任ある覇権国家として高い地位を得ていたのに、この戦争では言われなき理由で突然殴りかかられた被害者として見られるようになる。しかも、日本が万が一敗北すれば、それは対共産主義包囲網の崩壊を意味しており、また有色人種の希望の星が輝きを失うというので、国際的な日本ロビー活動はかつてないものになっていた。
 特に、日本近隣のアジア諸国、共産主義と直接対峙しているドイツ以下の東欧各国、北欧各国、ユダヤ人国家の建設を結果的に阻止した事にも恩義を感じているトルコ以下の中東各国の日本に対する感情の高まりは異常とすら表現できるもので、端的に現している現象が様々な形で具現化していた。
 日本の戦時国債の異常な程の好調な売れ行きが最も端的な事象だったが、それ以外にもアメリカ製品の民衆レベルでの非買運動、日本への物資の無償提供、船舶、車両の供与・貸与など、日本の一番の同盟国である筈の英国が戦争面、情報面以外では活動する必要がないほどだった。一般的に有名なのは、沖縄戦の時に日本の要請で各国の船舶が、我先に自国の国旗を掲げた疎開船を直接寄越してきた事だろう。トルコなどは、半世紀以上前の出来事を持ち出して、今こそ恩義を返すときだと国家レベルで運動したのが知られていると思う。

 なお中でも変わっていた親日ロビー活動は、日本への義勇兵志願の異常な増加だった。
 当時日本は世界(設立当初はアジア圏のみ)に対する警察活動の必要から、そこで必要とされる部隊は、国内での徴兵だけでなく様々な地域の民族で構成されていた方が有効だとして、海外からの志願兵による移民を奨励していた。もっともこれは日本の衛星国だった満州国で始まった事で、厳正な審査を経たレベルの高い市民の確保を図ろうとしたものでもあった。
 また、この戦争まで初期の頃は華僑や韓国系、もしくは白系ロシアが構成員の主力で、第二次世界大戦以後は何かのブラック・ジョークとしか思えないが、ドイツからの元職業軍人とナチスの天敵とされたユダヤ系が多くなったのだが、これがこの戦争で「いざ鎌倉」とばかりに義侠心に駆られた近隣アジアはもとより、東欧、北欧、中東各国からも募集が殺到し、日本軍に慌ててフランスの外人部隊のような規模の大きな部隊を設立をさせる事になり、今日まで続く緊急展開部隊用の精鋭部隊として日本軍の一翼を担う軍事力を組織させ、日本の総人口1億6000万人のうち約5パーセントを東アジア系以外の民族で構成する重要な役割を果たすまでに発展する(なお日本国内では、完全帰化以外の移民・定住を1960年代以降厳しく制限しているし、移民そのものにもかなりの制約がり、このため在日華僑や朝鮮人もほぼ消滅している)。
 そして、今日でも2年〜2年半の従軍で簡単に市民権が得られるこの海外志願兵制度は、競争率が高く審査が厳しいにも関わらず、各国からの絶えることない質の高い人の流れを作り上げており、この人の流れこそが日本の繁栄の象徴ともされている。そう、豊かな国でなければ、誰もその国の国民になどなりたがらないからだ。
 もっとも口さがない者は、この時作られた軍事組織をナチスドイツの親衛隊になぞらえ、「JAP-SS」と呼び日本の無定見さ、無節操さの現れと忌み嫌っている。もちろん、この最大勢力はソ連とアメリカ国内に多い。また皮肉だったのは、外人を潜在的に阻害する日本国民に合法的移民をなっとくさせるのに、「もと兵隊さん」というのは極めて有効だった事だろう。
 話が少しそれたが、この戦争は日本が正義でありアメリカが悪で、子供にも分かる戦争の図式までが、初期のだまし討ちに苦しんだサムライが、色々な民族の手助けを受けながら悪のガンマンをやっつけるという有名な戦争風刺画が全てを物語っているだろう。

 しかし、日本にとっての一番の収穫は、別のところにあった。それは先述のアメリカのところで触れた、貿易地図の決定的な変化だ。
 この頃と言うよりも20世紀後半になるまで資本主義社会は、アメリカが方便として訴え理想としているとする自由主義というにはほど遠く、各陣営の経済圏は帝国主義時代の残滓を浴びながらかなり厳密に区切られていた。俗に言うブロック経済圏による資本主義社会という構図だ。
 そして、この戦争でアメリカ製品が各国から駆逐された事と、日本の株が世界中で一気にあがった事から、第二次世界大戦中から形成されつつあった日本の新たな経済圏地図が明確に世界の主要地域の全てを含める形に固定され、戦争が終わってみると日本のGDPは世界の25%程度ながら世界の半分以上の市場を押さえ、以後の日本のさらなる拡大を約束し、経済的繁栄における新たなローマ帝国の出現、「パックス・ニッポニア」もしくは「パックス・ジャポニカ」を作り上げていく事になる。
 そして、結論としてこの戦争は、日本が世界帝国となるための最後のイニシエーションだと定義する事ができるだろう。

 では、日米は以外の他国はどうだっただろうか。
 1950年代初頭の列強は、国連常任理事国とドイツ、満州、中華民国などが挙げら、日米だけで世界の半分の能力を持っているとされていても、その影響力は計り知れなかった。
 特に大きな影響力を持っていたのは、落日の最後の残滓を浴びている大英帝国と新興帝国と言ってよいソヴィエト連邦だろう。
 それ以外の国は、そのほとんどが第二次世界大戦の復興半ばか国家建設の途中であり、とてもではないが外に向かって大きな動きをできる状態にはなかった。そして不用意に動けばどうなるかは、共産中華が身を以て証明しているので、説明の必要もないと思われる。
 では、世界的に身動きができるとされた大英帝国とソヴィエト連邦はどうだったのだろうか。

 当時大英帝国は、英連合王国とそれ以外を含めて英連邦と改称し、サー・ウィンストン・チャーチルの二度目の内閣のもと国家の再編、つまり最盛時世界の4分の1の陸地を支配した大帝国の解体・再編成の途上にあった。
 このため国家としての総合的国力の減退は急速であり、他の列強に比べ本国人口の少なさも重なって、このままでは世界帝国の地位を維持することは不可能であった。もっとも、それまでに作り上げられた世界帝国としての基盤である、軍事力、金融力、政治力、情報力などはいまだ日米と対等以上の能力を持っており、このアドバンテージといまだ保持されている多数の植民地、連邦地域の富により世界規模での帝国を維持していた。
 そして、二度目の日米戦争に際しても、日露戦争の頃のような日本ロビー活動を活発に展開し、また反対にアメリカ封じを積極的に行い、日本の戦略的優位を作り上げ、自らの利権保持のために日本人に恩を売る行動を行っている。
 一方、ソ連の活動は極めて低調だった。
 そして日本や英国はなぜソ連の活動が低調かを知っており、この事が日本が安心してアメリカとの殴り合いを行わせる重要なファクターとなっていた。

 では、ソ連の活動が低調だった理由はなんだろうか。
 答えは意外に簡単で、単に自らの大粛正と飢饉、第二次世界大戦によるドイツから受けた戦災(総数2500万〜3000万人の死者、欧州ロシアの工業力壊滅など)で基礎国力が低下しすぎていて、とてもではないが世界に対して挑戦出来る状態になかったからに過ぎない。また、戦争末期にドイツや東欧主要工業地域を自らの手により押さえられなかった事も影響しているだろう。
 これを、戦中・戦後の自らの統計情報と、占領後のドイツからの情報、亡命ロシア人、ユダヤ人、ソ連邦の反体制派民族などから知った日本人と英国人はこの事を隠し、何らかの形で外交的に利用しようとしていた。
 なお、日本と英国がこの事実を隠した背景には、大戦末期ドイツがソ連領内、特にウクライナ地域から多くのものを破壊するか奪い去り、日英もドイツの復興のためこれに目をつぶったという理由があり、また自らの態勢が整った後にソ連に殴りかかろうと考えていた節が伺える。もし日米の二度目の戦争が発生しなければ、日本は同時期に対ソ戦争を始めただろうとする研究者もいる程だ。
 また、20世紀末のソ連崩壊後に公開された資料などから、第二次世界大戦以後もソ連はスターリンの恐怖政治のもと重工業重視・兵器生産重視を続けており、軽工業など生活に必要なものの生産は完全におざなりで、一般国民の生活程度は帝政ロシア以下でしかなく、肝心の軍事と重工業もドイツとの戦争でウクライナなど欧州ロシアの主要地帯は壊滅的打撃を受け、そこからいまだに立ち直れておらず、戦争が終わり連合国の援助が停止した時、国家的には危機的状況にすらあった。
 そして、日本の偏執的とも言える反共姿勢により、いとも簡単にしかも極めて短期間に冷戦構造が作られたため、ソ連は戦勝国として戦争の利益を得る事がほとんど出来ず、日本との勢力圏獲得競争にも敗退しておりと、良いところはなかった。
 つまり、この当時のソ連の国家経済は軍事偏重のため全く弱体化しており、その軍事力も侵略軍としては正面装備だけの見せかけでしかなく、彼らの宣伝する科学的成果の多くも虚飾に満ちたものでしかなかったと言うことだ。何しろ、ドイツから全てを奪った、いや戦争の果実を得たのは日本と英国だったからだ。
 なお、第二次世界大戦後しばらくして、日本などからアドルフ・ヒトラーを上回る世界最悪の独裁者・虐殺者とされたヨシフ・スターリンは、1953(昭和28)年3月5日モスクワで死去しており、この戦争中もソ連中央はニキータ・フルシチョフへの権力委譲と政権交代、その混乱のさなかにあって、とてもではないが海外的リアクションが取れなかったという理由も存在している。

 また、ソ連が日本、もしくは日本近在に火事場泥棒的な戦争を吹っかけるという絶好の機会に動けなかったもう一つの理由がある。ドイツの急速な復興だ。
 第二次世界大戦での敗戦からの復興が進んでいたドイツでは、ヒトラーとナチスを悪者にして全てを忘れ去り、反共を再度目的に掲げての何度目かの祖国の復興に向かって突き進んでいた。
 そして日本などドイツを共産主義の防波堤にしようとする列強からの援助、借款なども順調で、それを回転資金に戦災から生き残ったプラントを稼働させ、各国に対する戦時賠償を払ってなお大きな利益を上げるまでの復興を見せていた。
 当然国力の復活と共に再軍備が進められており、どう見てもドイツの技術の延長線上にあるとしか思えない日本製の新型戦車のライセンス生産をできる程に復興した巨大な工業力を使い、急速にソ連に対する防波堤の役割を担いつつあった。
 これは、日本や英国が基本的に海洋国家で、西ポーランド駐留を何としてもドイツに肩代わりさせようとする政治的行動の結果でもあったが、ドイツにとって軍備の再編は急務であり、これを拒む理由などどこにもなく、日英からの技術供与を求めながら、再独立からわずか5年で欧州随一の陸軍国への復活を遂げていた。
 当然これは、フランスなど欧州各国からの反発を招いたが、ソ連という新たな脅威が全ての反論を沈黙させ、冷戦時代最盛時、重装備の16個師団、12個郷土防衛旅団を中核とするEATO随一の陸軍力を作り上げていく事になる。
 もちろん、この当時の戦力はそれ程巨大ではなかったが、ソ連に行動を躊躇させるには十分なものであり、満州国の国家としての整備が進んだ事も重なり、最終的にソ連赤軍の外への歩みを全くさせる事はなかった。
 なお、ソ連赤軍の身動きを抑制したと言う点においては、建国から20年を経てほぼ国家としての形が固まり、大きな軍事力の構築が実用段階に入っていた満州国の存在も忘れてはいけないだろう。
 そして、この二つの国の事は、日英、主に日本が第二次世界大戦後作り上げようとした反共包囲態勢が明確に機能していた証だった。
 だが、日本の反共政策が唯一機能しなかったとされるのが満州を含めた中華大陸で、ソ連の援助を受けてウイグルや中華奥地で国家として成立したとされた中華人民共和国が、中華民国に対する事実上の戦争(第一次中華紛争)を開始し、第二次太平洋戦争後も無軌道に戦い続けた彼らは、結果として1953年末の時点で中華地域の4分の1を実行支配する事に成功したが、反対に世界から国家として認識されるどころか、共産主義の悪しき印象を高める結果も生み、日本の唱える反共政策を助ける役割も果たしているので、結果から見ればむしろ日英側の思惑通りなのかもしれない。

 そして、総括として言える事は、1953年の時点で日英が新たに敷いたレールは既に軌道に乗っており、少々の事でこれを覆すことは出来ず、それを確認できたからこそ、戦争後半日本政府はアメリカに対してあれ程アクティブな反撃を実施する事ができたのだろう。
 だからこそこの時の戦争は、戦中そして戦後長らく言われていたように、日本が追いつめられていたのではなく、第一次世界大戦から始まっていた日本の世界帝国に向けての最後のイニシエーションと私が考える理由の大きなファクターなのである。

■Phase 4-2 空襲