■Phase 4-2 空襲

◆とある市民の回想6(本土爆撃から逃げる市民)
 ありゃぁ、空襲があるかもしれないって、役所の方から回覧板が回るようになって、テレビやラジオのニュースなんかでも注意する放送を何度も見るようになって、軍の広報車か宣伝車ってヤツが拡声器でがなり立てながら町中を巡回するようになった、ちょうど一月ほどしてからだったかなぁ。
 でも、その時オレらはまだ軽く考えてたよ。
 けっこう近くに重防空壕があってよ、戦争が始まってから定期的にそこへの避難訓練や消火訓練なんかもしてたからね。
 それに、ガキどもと金目のもんはカカァと一緒に田舎に預けてあったから、家は燃えてもてぇしたもんはなかったし、だいいち皇軍が帝都をアメ公に好き勝手させるワケないってんで、特に町のジジイ連中は訓練にすらロクに顔出さず、縁側で暢気に将棋なんて指していたもさ。
 でよ、そうやって暢気に構えていたらあの日、2月26日が来たってワケよ。
 いや、驚いたね。あ、空襲そのものに驚いたんじゃないよ。皇軍がアメ公を防げなかった事がだよ。
 そりゃねえあんた、開戦の時は不意打ちだってのにアメ公の空母やっつけて、沖縄に来た連中もコテンパンに蹴散らしたって景気のいい話しばっかり聞こえて来た時期だから、時期的にそろそろこっちが殴り返す番だと思ってたからねぇ。

 けど、やっぱ空襲は怖かったね。爆弾そのものが落ちるのは、サイレンが鳴ったらすぐ重防空壕に篭もったからどおって事なかったんだけど、怖いと思ったのは空襲が終わって、防空壕の外に出て周りの風景が一変してた時さ。
 おうよ、あたり一面焼け野原よ。特に海の方が酷かったね。何しろあっちは工場が多いから。
 年寄り連中は、大震災みてえだって言ってたけど、そんなもんじゃないと思うよ。下町の方もけっこうやられたからな。人もいっぱい死んだね。
 だからオレっちもさ、こういう時こそ助けあわなきゃってんで、空襲のあと焼け野原になったあたりまで出向いて、瓦礫の後かたづけとかしたんだけど、いっぱい見たよ真っ黒になった死体をさ。
 そん時だろうね、アメ公がホントに憎いと思ったのは。
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 1954年2月26日午後11時33分、アメリカ軍の戦略爆撃兵団のほぼ全力が帝都上空に侵入したのが、軍事的事象での結果だったが、そこに至る経緯を順に見ていこう。

 「無差別都市爆撃」。第二次世界大戦中、アメリカが連合国に対して強く批判し続けていた行いを、自ら手に染めた背景には様々な理由があるとされている。
 「計画通りの作戦」から「追いつめられたが故の暴挙」に至るまで、人によって挙げる理由は様々だが、唯一共通している見解は、この段階で原爆を使用しなかった事に対する評価だろう。
 もし、この時日本の首都で原爆が炸裂していたら、後の戦争展開のみならず、世界情勢が激変し人類全体にとってより暗い時代に突入したと簡単に予想できるからだ。だからと言って、米軍の無差別爆撃が評価されているわけでもない。これも共通する評価だ。
 そして、アメリカのこの戦争で狙っていた戦略的効果の多くは、この作戦の決行で成功するどころか大失敗に終わり、戦争の結末は日本の屈服ではなく、世界の悪玉としてアメリカがやり玉に上げられる方向に傾き、日本の反撃を世界中の誰もが認めるという、ナチス対連合国のような世界政治レベルでの戦略的敗北を呼び込み、アメリカが両国の国土を焦土と化す形振り構わない長期戦を望まない限り、恐らくアメリカの勝利はもたらされないだろうと言う状況を作り出す事になる。
 このため、この日アメリカの日本に対する二度目の敗北は決定したとする史家もいる。

 この頃アメリカの戦略爆撃機は、「B-36 ピースキーバー」、「B-39 スーパーフォートレス」と、新鋭の「B-47 ストラトジェット」から構成されていた。
 実にアメリカらしい、多彩で豊富な布陣といえるだろう。そして、アメリカ中の航空機工場では、民間機の製造を完全に停止した状態で「B-36」と「B-47」の量産が続けられ、量産が難しいだけに月産20〜30機程度のスピードながら着実な増勢が図られ、開戦初日以降大きな損害を受けていない戦略爆撃兵団は、1954年2月にはほぼ完全編成の1個航空師団を編成するまでに至っていた。
 そしてその兵力の半数をアラスカに、もう半数をマリアナ諸島に展開していた。しかも、マリアナに派兵されていたのは新鋭機ばかりで、日本が受けるプレッシャーは極めて大きなものとなっていた。
 一方の日本側だが、依然主力である「6式重陸上攻撃機・富嶽」、「9式重陸上攻撃機・富嶽改」と、こちらも増産の進む「52式重陸上攻撃機・轟山」が戦略爆撃機の主要戦力を占め、数にして約800機、このうち4分の1が新鋭の「轟山」で、それ以外の大半が「富嶽」、「富嶽改」で構成されていた。
 戦力的には、質、量共に日本側がやや優勢だったが、日本側は戦力の3分の1近くをソ連に対する備えとしており、一部は満州や欧州に派遣され、太平洋方面ではむしろ劣勢に立っていた。
 しかも、日本軍は爆撃機の何割かを原爆ミッション用の機体として常時待機させており、日本軍が戦術的に自由に使える戦略爆撃機、日本人の言うところの重攻撃機の数は、全体の半数の400機もあればよいと考えられていた。

 また、双方の戦術航空機は、日本側が満州、欧州にある部隊を除く、北部、中部、西部、南洋と4つの方面軍に「統本」の指揮のもと陸海の空軍戦力を統括的に運用し、それぞれ戦時動員により実質的に1個増強航空師団の戦力を抱え、これに海軍の対潜部隊と空母機動部隊を加えた数が日本がアメリカに向けられる全ての航空戦力となり、アメリカ側はカナダ国境、西海岸、カリブ方面に動かせない戦力があった他の全て、4個航空艦隊相当と海軍部隊を日本に向けていた事になる。
 つまり、日米はほぼ同数の戦術航空機を前線で運用し、日本側は国内兵力の一部も対ソ連用として動かす事ができないので、一見米軍有利とも見れるが、日本側は機材・教訓の面でアメリカに対して大きな技術的優位があり、しかも守備範囲が狭い事から密度は非常に濃く、出撃拠点の関係から進撃経路、攻撃場所の限定される米軍に対してむしろ有利だったとされる。これが、沖縄での反撃を日本側の一方的なものとし、ついに米軍の両シナ海突破を許さなかったと言われている。
 また、豪州方面のニューブリテンやニューギニアに展開した英国、英連邦各国軍が米軍に与えていたプレッシャーも無視してはいけないだろう。
 しかもこの時期、攻撃側である筈の米軍にとっての不利な要素は続く。
 多くは、オーヴァーロード作戦での米太平洋艦隊の大敗が原因していた。
 アメリカは沖縄侵攻作戦の失敗をうけて、一時的に大西洋の制海権喪失を覚悟して、急遽全主要艦艇の太平洋回航を行い壊滅した太平洋艦隊の再建をはかり、すぐにも連合艦隊との戦力バランスの均衡をとったが、それはあくまでアメリカ側が防戦し、日本側が攻撃する場合による均衡であり、沖縄の冒険が大失敗した以上、すでにアメリカに渡洋侵攻能力はなく、これは日本側の態勢が整った後は、彼らの反撃が待ちかまえていることを物語っていた。
 そしてそれは、短期限定総力戦でのアメリカの敗北を意味しており、アメリカ軍首脳に第一次太平洋戦争の悪夢を思い出させるのには十分なものとなっていた。
 だからこそ、アメリカは本来禁じ手であった日本本土に対する本格的爆撃計画を発動させ、これを以てアメリカ政府の政治的メッセージとして、日本を停戦のテーブルに付けようとしたのだ。
 つまり、核戦力を除けば、アメリカが切れる攻撃用のカードがもはやこれしかなくなっていた、と言う事になるだろう。

 かくして、アメリカの手による日本本土空襲作戦が開始される。
 作戦は、単に東京を大規模空襲するだけでなく、硫黄島に対する牽制攻撃と、アラスカ基地からの大挙出撃による北部地域への再度の爆撃と連動するという大規模なものであり、これは本来「フェイズ4」とされた日本本土に対する規定の作戦の最大規模での作戦発動と同規模で、約650機の大型戦略爆撃機と200機以上の旧式戦略爆撃機を用い、その爆弾投下総量は10キロトン以上という、ある意味原爆を投下するよりも歴史に悪名を残すであろう攻撃計画になっていた。
 なお、この作戦で東京には、河口部の工場地域を中心としながらも、約6キロトンの新型焼夷弾を中心にした爆弾が投下される予定になっており、米軍の意図が日本の工業力破壊よりも、人間の殺傷による継戦意欲の低下を狙ったのは間違いないだろう。

 そして、アメリカ国内の物流の流れ、米軍の輸送船団の動き、精度の低い初期型偵察衛星からの情報、各種諜報員からの報告などから、米軍の大規模な本土攻撃が近い事を正確に予測した日本側は、当然とばかりに防空体制の強化を急いだ。
 これは、満州などからの精鋭部隊の引き抜きなどに象徴され、北部方面と帝都近辺、硫黄島へ大戦力が展開され、帝都近辺には空母機動部隊すら展開可能という徹底したものだった。
 しかも、日本軍は本土防衛体制の強化を、日本軍の特徴である「敵に与える情報は少ない方が良い」という方針に従い、徹底した情報管制が行われた事から、米軍側も日本が防衛態勢を強化していることは分かっていたが、それがどの程度の規模なのかまでは知る事ができず、彼らに運用に問題があるとされた護衛用の新兵器の投入を決意させるに至る。
 また、日本軍は防衛体制を強化するだけでなく、豊富な戦力を用いて攻勢にも転じつつあった。と言っても、空母機動部隊がマリアナやサイパンに殴り込むなどではない。その多くは、潜水艦を用いた通商破壊の強化だった。
 この頃日本海軍は、開戦時から保有していた現役艦艇と第二次世界大戦中大量に建造した予備役の艦艇の現役復帰に加えて、1952年末頃よりオフレコで準備していた中型潜水艦の大量建造を実施し、何と開戦から半年間で100隻近い潜水艦を迎え入れ、200隻近い数を自らの編成上に載せ、その半数程度の陣容しかない米潜水艦隊に対して圧倒的な優位に立っていた。
 しかも、新たな主力となった艦艇は、ドイツの「XXI型」と呼ばれる極めて高性能のUボートの技術的フィードバックで作られた高性能艦で、米軍がこの戦争直前から大量に整備していた、従来型の量産型護衛駆逐艦での制圧は難しいという代物だった。
 さらに日本海軍では、「巡洋潜水艦」と呼ばれる原子力機関を動力とするタービンを装備した新世代の潜水艦の整備を、その調達価格を無視するかのように熱心に行っており、戦争が始まってから就役した最新鋭艦シリーズ(伊-700型)に至っては、米海軍の有する艦艇での捕捉はほぼ不可能で、米将兵からも「リヴァイアサン」と恐れられ、たった数ヶ月で戦略爆撃機の巣となっていたサイパン、テニアン島海域最強の魔物たちとなっていた。
 そして、常時十数隻で行われた、日本潜水艦群によるマリアナ海上封鎖は大きな効果を発揮し、米軍の攻撃開始日を当初の予定より半月も遅れさせる事になり、現地から米上層部に対する報告書に、同程度の爆撃は状況が改善されない限り一度しか行えないと書かせる事になる。
 なお、米軍の反撃が遅れたという事は、極めて短期間の間にマリアナ近海だけで大型の護送船団が丸々一つ(70隻、50万トン規模)が必要なほど損害を受けていたという事になる。

 そうした中、帝都空襲作戦「オペレーション・ソドム」のゼロ・アワーを迎える。
 「オペレーション・ソドム」に参加した米軍機は、東京空襲部隊が「B-36」と「B-47」を主力とする324機とその支援機合計約360機で、これに途中まで硫黄島に対する攻撃部隊約200機が加わり、日本北部を狙うアラスカからの約300機を合計した約900機に上っていた。
 まさに、米戦略爆撃兵団の総力を挙げた出撃で、当時の爆撃機の単価を考えると海軍の総力を挙げた戦力よりも巨大なものだった。
 もっとも東京以外の結果は、それ以前に行われた戦いの焼き直しに近いものになる。この事は、真っ正面から敵の主要拠点に大挙戦略爆撃を仕掛ける事そのもが、技術的進歩により軍事的に難しくなったという証明であり、また反対に飽和爆撃を全て防ぎきる事は、物理的に不可能と言う事を軍事関係者に再認識させる結果だけを残した。
 そして、第二次世界大戦以来の都市爆撃を巡る戦闘が、2月26日午前9時頃から開始される。
 第一ラウンドは、米軍の勝利だった。
 それは、危険を冒して秘密裏に空母機動部隊が日本列島近海に近寄り、伊豆半島沖合で待ちかまえる防空部隊の一部に強襲をしかけ、約100機の日本側防空戦闘機を大混乱に陥れたのがそれにあたる。
 もっともこれだけで日本中心部の防空網が破られたわけではなく、それを知っている米軍はさらなる一手を放つ。そして打たれた手は、日本軍の予想を超えたものとなった。何と、「B-36」を改造した機体に各1機の小型ジェット戦闘機を搭載し、それを防空隊の迎撃を受ける直前に放ったからだ。
 放たれたのは「F-85 ゴブリン」という米軍で2機種目の後退翼を備えた歴としたジェット戦闘機で、都合24機の母機から出撃した同数の「ゴブリン」は、エンジンに操縦席と翼を付けただけとすら言える、飛行機としては寸胴な醜い姿ながら、日本の誇る主力戦闘機「紫電」と互角に近い戦いを演じ、日本の防空網を食い破るのにそれなりの役割を果たした。だが、もともと数で劣る事、ウェポン・システムとして実戦での運用が難しい事、機体の限界からまともな電探を装備せず管制機の指示で戦った事、まるで初期のロケット戦闘機のような戦闘時間の短さなどもあり、母機共々帰還できた機体の数は僅かに4機で、あまりの莫迦莫迦しいウェポン・システムに、日本軍ではこの機体に「バカ」の通称を与えており、米軍の方もあまりの損害の多さに以後の運用を停止している。

 戦いのクライマックスは、富士山近辺で行われた。
 このため、日本軍では東京空襲よりも、富士山空中決戦と呼ぶ事もある。
 この場所が戦場に選ばれた理由は、日本側の電子戦により電波誘導が難しく、代わりに米爆撃機が日本本土のランドマークとして目立つ富士山を選んでいたからで、ここを基点に旋回するのが米長距離機(主に偵察機)の常となっており、今回も特に大規模な事から混乱を避けるためこのコースが取られたからだった。
 そして、ここを通るであろうと予測していた日本側もここに一番大きなヤマを張り、虎の子の全天候型戦闘機「紫電改」隊の主力と当時まだ増加試作段階だった新型機を叩き付けた。
 新型機は「震電」もしくは「栄光」と呼ばれる、系列的には「紫電改」の発展型にあたる機体で、その特徴はスマートなボディを持った「紫電改」とは似ても似つかない姿をした世界初の実用型超音速ジェット機と言う事と、新型の電探式対空誘導弾を装備できる事で、こちらは米軍の「ゴブリン」よりも少ない16機の実戦参加ながら、最初の一撃、電探誘導弾の一斉攻撃で約20機の敵重爆撃機を一方的に撃破し、米軍機の編隊を突き崩すだけでなく心理的にも大きな衝撃を与え、この空域だけで50機近くが参加した「紫電改」共々の迎撃で、進出距離の関係で護衛部隊をなくした米爆撃機群の半数近くを撃破もしくは撃退し、初戦の劣勢を覆す事に成功している。

 ただし、その迎撃半ばに高速の「B-47」は帝都上空に到達、爆撃を開始する。
 もっとも、つきまとう日本軍機と地上から降り注ぐ地対空誘導弾を前に、事前の想定通りの正確な爆撃が出来るわけもなく、爆撃の多くは本当の意味での無差別なものとなり、皮肉な事に東京を中心とした関東一円に無数の被害をもたらすことになった。
 だが、帝都侵入を許した機体の多くが世界一の搭載量を誇る「B-36」ではなく、高速が売り物の「B-47」だった事から、米軍が東京に投下した総量は予定を大きく下回る1500トン程度となり、その被害も米軍が予測したよりも遙に小さなものでしかなく、もちろん戦略目的は何も達成できていなかった。いや、軍事戦略的に無価値な破壊しかできていなかったと言うべきだろう。
 そして米爆撃機の受けた損害量も予測外のものとなり、出撃機数の半数が撃墜もしくは帰投の後廃棄にされ、特に帝都に侵入しようとした「B-36」の損害は大きく、以後機材よりもパイロットの損害の大きさから、この戦争の間米軍が戦略爆撃機を大規模運用する事はなくなる。
 なお、この時の人的損害は、アメリカ側がパイロット・搭乗員ばかり約3000人で、日本側は空戦での戦死者は米軍の10%以下だったが、民間の被害は避難させていたにも関わらず1万人以上が犠牲になり、戦略価値の全くない住宅地の多くが破壊され罹災者は20万人を越え、これは米軍が当初から住宅地の破壊を目的とした兵器を多数使用した証拠であり、当時の日本の同盟国首相に「もはやアメリカが如何なる攻撃を受けても、同情する国はないだろう」と攻撃的な発言をさせるに至る。
 そして、この日を境に日本の本格的な反撃が開始される。

■Phase 4-3 反撃