■Phase 4-3 反撃
◆とある市民の回想7(退役軍人(海軍参謀))
「諸君、ごきげんよう・・・ ん? なん景気の悪か顔並べちょう。 おはんら、そいでん大和男児か。 仕方なか。オイが景気のよか話しばしちゃう」
長官の入室一番の第一声はそれでした。 でまあ、その後はまるでヒトラーみたいだったと、記録映像でしか見たこともないのに、みんな口を揃えて感想を述べたものです。何しろ、「良いか諸君、これは諸君らが孫の代まで語ることの出来る作戦の草案である」でしたからね。長官が若い頃生やしていたと言われるチョビ髭があれば完璧だったでしょう。 まあ、その時の話は公表されている事と個人的な事以外お話できませんが、印象は強かったですね。 当のご本人も、自分はこの時の軍の差配をするために存在していたんだ、て感じがヒシヒシと伝わってきましたよ。そのせいか、最初作戦に否定的だった参謀や戦隊司令、艦長の多くも話しに引き込まれて、最初のブリーフィングが終わった時には、7割ぐらいの連中は妙な熱気に包まれて「よしやるぞ」みたいな雰囲気でしたね。 まさに熱に浮かされていたようでした。 それまで押されっぱなしだった事への反動だと言えばそれまでですが、やはり攻勢に出る事は軍人を活発な方向に駆り立てるんでしょうね。
ああ、私ですか。私はあの時GF司令部の主計参謀の一人でした。だから、実際前線には赴いていません。横鎮のオフィス以外は、赤レンガと横鎮の指揮所に何度か出入りしていたぐらいですね。 私は、第二次世界大戦の時の一般上がりの短現士官で、戦後もそのまま軍に残った口だったんですが、ドイツから帰るとすぐに退役して商売していたヤツの誘いでそいつの会社に入るため、アメリカとの戦争が終わると予備役編入していただきました。軍にあれ以上残っても、出世は知れてましたからね。短現なので、衛門少将すら厳しかったでしょう。 で、根っからの軍人じゃなかった私ですら熱狂させた例の作戦ですが、今思えばよく成功したものだと思えますよ。 ご存じのように、作戦全体が投機的な上にかなり複雑で綱渡りでしたからね。アメリカ側の開戦からの稚拙な攻勢の事は言えないでしょう。 そりゃあ確かに歴史に残る軍事作戦でしたし、見方によっては日本海海戦に匹敵する快事だったかもしれませんが、私はあの作戦が完遂できた事こそが奇蹟だと思いますよ。 いえ、別に理論的に批判している訳ではありません。後方の人間としては、出来る限りの事をした自負もあります。ただ第三者として、感情的にそう思えるだけです。 まあ、逆を言えば、そう言った行動が成功する事そのものが、日本が歴史の潮流に乗っていた証だとも思います。 そう、感情的に言えば、あの時連合艦隊は長官の陣頭指揮の元、時代の流れに乗って勝利したんですよ。 ま、白人的に言えば、運命の女神が微笑んだってところでしょう。 ・ ・ ・ 沖縄で勝利し、本土空襲を退けた日本軍は、いよいよ本格的な反撃を開始しようとしていた。 もちろん、根拠も物資も兵も揃っていた。 日本中の軍事基地には、半年かけて8年ぶりに再動員された兵力達で溢れかえっており、何より反撃の主役となる海軍の動員・準備が完了した事が、作戦のゼロアワーを日本軍全体に告げていた。 また反対にアメリカ軍は、開戦からの連続した無理な攻勢により大きく消耗しており、特に侵攻の主力となる海軍の機動戦力と強襲揚陸部隊、そして戦略爆撃機部隊が半壊、一時的に使用不能となり、正面戦力と形だけの予備兵力しか持たずに戦争を始めたアメリカに、この損害を短期的に回復する事は不可能だった。また、日本の手による通商破壊の損害も、アメリカ経済を維持する破断界を通り越え、危険なレベルに達していた。 そう、この時絵に描いたような攻守逆転の状況が現出していたのだ。 これを象徴していたのが、日本軍全力によるマリアナ諸島奪回作戦と、アメリカ側の無血撤退だろう。
1954年4月1日に日本側のマリアナ諸島奪回作戦である「あ号作戦」が発動された時、アメリカ軍はサイパン島に陸軍1個師団、テニアン島に海兵1個師団を配備し、少し南にあるグァム島にも陸軍1個師団を展開していた。 しかし、艦艇と航空機、パイロットの損耗から、付近の米海洋戦力と航空戦力は沖縄戦以後弱体化しており、日本本土空襲の混乱も落ち着いた3月3日から一週間続いた、日本側から「雛祭り攻勢」と呼ばれる制空権獲得競争に敗北してより、マリアナ近海の制空権までも喪失し、3月13日の米戦略爆撃兵団の完全撤退により、少なくともサイパン、マリアナからは米軍機の姿は激減、4月に入るまでにマリアナ諸島北部の二つの島は完全に孤立化する事になる。 また、それ以前から続いていた日本軍潜水艦隊による付近海面での通商破壊は、東京空襲以後さらに強化され、3月半ばに入る頃には致命的レベルに達し、それまで無理して爆撃機用燃料と爆弾を優先して輸送していたツケが同島の備蓄物資にまわり、米軍側としても状況が改善しない限り5月にはマリアナ諸島全体から撤退しなければならないと報告させるに至っていた。なお、この5月というのは守備隊将兵が飢餓線を彷徨う期日であり、軍事的に意味のある時期を示しているものではない。 このため、3月の「雛祭り攻勢」以後、米軍内でマリアナ諸島のサイパン、テニアンに対する補給は、輸送船によらない高速艦艇による補給、つまり駆逐艦や巡洋艦など純然たる戦闘艦艇による輸送を検討させるまでに至り、この事実を突きつけられた米政府上層部も、自軍がそこまで追いつめられている事実を認め、渋々ながらもマリアナ諸島からの撤退を決定する。 もちろん、表面的には「日本政府に対して、アメリカがその気になれば何が出来るかを教えるという政治目的を達成した事で作戦は達成されたので、講和の環境を整えるため戦略的転進を行う」とされ、あわせて遅蒔きながら日本政府に停戦を勧告し、何とか表面的な戦略的優位を保ったまま戦争の幕を引こうという泥縄的な行動を取らせる事になる。ただし、この時アメリカは本気で停戦を考えており、その証拠に親米的なフランスなどに停戦の仲介を依頼してもいる。 だが、当然と言うべきか、EATO諸国はもちろん世界がこれを妥当なものだと見る筈もなく、日本政府もアメリカから一方的に仕掛けられた戦争を、殴られっぱなしのまま終えるつもりはなかった。 これは、「1954年4月1日までに、アメリカ政府がハワイ、アラスカを含めた全太平洋地域からの軍事力を撤収するのなら、停戦に応じても良い」という声明を日本政府は発表する事でこれ以上ないというぐらい示され、少なくとも殴られた分は殴り返さなければ戦いを止める気はないと宣言させるに至る。
そして1954年4月1日、日米同時に作戦が発動された。 それが、日本側のマリアナ諸島奪回作戦である「あ号作戦」と、アメリカ側のマリアナからの撤退作戦である「E作戦」だ。 結果は、至って単純なものとなった。 日本軍が押し寄せる寸前に、サイパン島、テニアン島からの夜逃げ同然の撤退がほぼ無血で行われ、未曾有の大部隊で押し寄せた日本艦隊により包囲されたグァム島の陸軍部隊は、米将兵が「アイアン・スコール」と呼んだ日本海軍による艦砲射撃と空襲により細切れの肉片に解体され、その後強襲上陸を仕掛けた日本軍2個師団との約2週間の戦闘の後、3分の1以下に激減した戦力が押し込められた山岳部で降伏する事で幕を閉じる。
そして、その半月後のトラック環礁を巡る争いも、米軍による無血撤退と日本軍による無血入城が行われ、4月末にはトラック環礁に大挙進出した日本軍とマーシャル諸島に撤退し、後退によりある程度補給態勢と戦力を立て直した米軍による睨み合いに移行していた。 両軍による睨み合いは、少なくとも本土で整備と再編成を急いでいる日本軍の主力部隊が、トラック環礁に進出するまで続くものと予測されたが、それは米太平洋艦隊のアクティブな反応により覆される事になる。 とは言っても、米軍が無謀な攻撃を仕掛けたとする現在の一部評価と、米軍の思惑は別な所にある。 つまり、当時の米太平洋艦隊は、日本の連合艦隊に対して正面戦力的に著しく不利であり、特に母艦戦力、洋上での航空機動戦力の差は二倍以上に開いており、1954年4月半ば現在の情報では、日本の空母の最低半数は日本本土で整備や補給を受けているものとされ、これが前線に到着してしまうと、米軍が攻撃的行動に出る事は当面不可能になるばかりか、マーシャル群島全域からの撤退も考えねばならず、アメリカ政府が望んだ戦争は、少なくとも短期的には不可能になると考えられ、日本海洋戦力を各個撃破する機会は、これを置いて他に存在しないと判断されたからだ。 なお、当時トラック・マーシャル近辺に存在した両軍の戦力は以下のようになる。
日本軍 ■トラック駐留艦隊 第二艦隊 BB(9〜12万頓):<播磨><大和> BB(6万頓):<富士><阿蘇><雲仙><浅間> BB(6万頓):<紀伊><尾張><駿河><近江>
第一機動艦隊(艦載機数:約400) CVB:<武蔵><蒼龍> CV:<千鶴><翔鶴><瑞鶴>
英東洋艦隊(艦載機数:100) BB:<インディファティガブル> CVB:<イーグル>
在トラック空軍戦力:約350機 在パラオ空軍戦力:約130機 在ラバウル空軍戦力:約110機 在マリアナ空軍戦力:約150機
米軍 ■太平洋艦隊(在マーシャル) 打撃艦隊 BB(9万頓):<ヴァーモント><ヴァージニア> BB(7万頓):<ロードアイランド><デラウェア> BB(6万頓):<オハイオ><ニューハンプシャー> BB(3.5万頓):<サウスダコタ><インディアナ>
第38-1空母機動部隊(第一群)(艦載機数:約250) CVB:<ヨークタウンII> CVB:<セオドア・ルーズベルト> CVL:2隻 BB(4.5万頓):<ミズーリ><ウィスコンシン>
第38-2空母機動部隊(第二群)(艦載機数:約250) CV:<エセックス><ゲティスバーグ><アンティータム> AC(3万頓):<アラスカ><サモア> CVL:2隻
在マーシャル空軍戦力:約550機
見て分かると思うが、戦力的にはほぼ互角であり、当時の米軍の情報収集でも、新造戦艦である「播磨」以外の戦艦戦力の存在を確認しており、日本側が一連の連続した攻勢で母艦戦力を一時的に低下させ、再編成のため後退している事を掴んでいた。なお、「播磨」については、当時は不確定な情報しかなく、米海軍ではこれを新造の「大和級」戦艦と見ていたと思われる。 また、米海軍は初戦の日本軍攻撃機に受けた損害から、戦闘機戦力の拡充を図っており、少なくとも制空権を手もなく奪われるような状況にはないと考えていた。 事実、「紫電」のフルコピーとすら言われる新型戦闘機の実戦配備が始まっており、空母機動部隊に優先的に供給されていた。 一方の日本軍は、この時トラック近在に置いていた戦力は、米軍に対する抑止戦力としての意味合いが強く、このまま攻勢に使うつもりは全くなかった、と言われている。つまり、攻勢防御的な迎撃以外考えていなかったと言うワケだ。 なお、比較対象のため、最低限の戦力的な概要を触れておこう。
戦艦数=日:米/11:10(12) 大型空母数=日:米/6:5 補助艦艇比率=日:米/4:6 航空機数=日:米/700:650
数字の上では、これがトラック沖(もしくはエニウェトク沖)で激突した日米両軍の海上戦力だが、これを見る限りどちらが勝利してもおかしくない戦力だが、個々の兵器の差がこの時の勝利の天秤を大きく揺さぶる事になる。 順に見ていこう。 まずは、戦闘の勝敗を握るとされた制空戦闘機だが、日本側は「紫電改」にほとんど機種変更しており、このため旧式空母の「蒼龍」すら徹底改装してプレ・ジェット母艦として戦場に持ち込み、その戦闘力をさらに高め、対するアメリカ側は新鋭の「FJ フューリー」シリーズを送り込み、これは「紫電」と同程度の能力を持つので、ようやく米海軍が日本軍と同等の戦闘機を保有した事になり、両者の投入機数の接近からほぼ同等の戦力と見てとれる。 また、攻撃機の方は日本海軍がデルタ翼の新型ジェット攻撃機「蒼山」を投入して、アメリカ側の「スカイレイダー」との戦力差を覆していたが、如何せんこの時の配備数が少ない事から攻撃力も互角程度で、双方の基地部隊の戦略爆撃機群も、この地域では艦艇攻撃用の装備の少なさから、効果的な艦隊攻撃を行える能力はなかった。基地防空用の戦闘機についても、敵爆撃機迎撃にこそ威力を発揮したが、戦力比較的にどちらが優れているという事はない。 つまり戦闘は、水上打撃戦により決着が持ち込まれる可能性が強いものであり、攻撃側の米軍も局地的な制空権を維持した状態で艦隊をトラック泊地に突っ込ませる事を意図した行動を取った事から、世界最後の大規模水上打撃戦が中部太平洋を舞台に展開される事になる。
そして、この戦場では双方が持ち込んだ大型戦艦がその威力を遺憾なく発揮するという、前時代的な状況を作り上げた。 そこでここで注目すべきは、両軍の超巨大戦艦である、アメリカ側の「ヴァーモント級」と日本側の「播磨」、「大和」だろう。 「ヴァーモント級」は、「Brake the YAMATO」をスローガンにアメリカが威信を賭けて1951年に相次いで就役させたたもので、基準排水量10万トン以上の船体に20インチ砲を三連装3基装備したモンスター戦艦で、対する日本側の「大和」は9万トンの船体に「ヴァーモント級」とほぼ同等の攻撃力を持っており、「播磨」は全ての戦艦の頂点に位置するかのように、全ての戦艦を圧倒する能力を与えられていた。 中でも「播磨」が注目すべきなのは、半自動装填式の主砲システムにより20インチ砲弾を30秒に1回(他は40秒に1回)発射できる事で、排水量的には「ヴァーモント級」の2割増の大きさながら2倍近い攻撃力を保持している点だろう。 また、日本側の方が電子システムで優越しており、優れた捜索システム、電算機器などの差から日本側の全ての戦艦の攻撃力は、従来型のシステムしか搭載していない米戦艦に対して大きく優越していると日本側では判断しており、とある砲術の専門家は日本側はアメリカ側の3倍の主砲命中率があると試算している程だった。 さらに、アメリカ側が2隻ずつのペアで揃えているのに対して、日本側の旧式戦艦の8隻は殆ど同じ能力を持ち、兵力の均質化による戦力向上効果から日本側有利と専門家は見ていた。 なお、アメリカ側が「サウスダコタ級」や「アイオワ級」というワンランク下のクラスの戦艦を投入している事から、アメリカ側自身も自軍の不利を認識しており、日本側戦力の撃滅よりも長期的な撃破を目的としていたと専門家の間では一致した見解となっている。 もはや米軍としては、戦争そのものが限定長期戦にもつれ込む事を期待して、戦闘を継続するしか勝利の見込みがなく、これがこの時の時代錯誤の艦隊決戦を行わせる事になる。 なお、海戦の名は日本側公称で「トラック沖海戦」とされた。