■Phase 5-3 停戦

◆とある市民の回想11(原爆投下体験者)

 「ピカドン」ですか。
 ええ、あれは怖いとかそう言うレベルの話しではありませんでした。
 一種の天災みたいなものにすら思えましたよ。
 私はあのとき、春島の一番大きな飛行場にいたんです。ホラ、今トラックの開発に合わせて、大きな飛行場を作っているでしょう。

 丁度朝飯が終わって、仕事にかかろうかと言う時でした。いつものように空襲警報が鳴ったので、慌てて米軍の残したやつを手直しした防空壕に待避しようとたんですが、同僚の一人の行方が分からないってんで、私を含めて数名の人間が探しに向かったんです。メガホンから流れる情報から、重爆数機による偵察と思われるみたいな放送もしてましたら、結構楽観していたんですよ。それまでも朝飛来する敵機は偵察か、せいぜい嫌がらせの攻撃ぐらいしかしませんでしたからね。
 そしたら、突然背中の方からもの凄い光が一面に溢れたかと思うと、「ドーン」っていうこれまたもの凄い爆発音が轟いて、近くに爆弾が落ちたんだと勘違いした私は慌てて伏せたんですが、その時に見ました。
 キノコ雲になる前の原爆が爆発する瞬間をね。
 いや、瞬間というのは正しくありませんね。
 もしまともに見ていたら、私も失明していたかもしれませんから。
 でも、もの凄かったですよ。
 赤黒い大きな火球がドンドン膨らんだかと思うと、上空に向けてモクモクと白い雲が伸びていって、そして例のキノコ雲になっていくのをずっと見ていました。まあ、最初の爆風が押し寄せた時はもの凄い風だったんで、全部というワケではありませんね。熱い爆風が押し寄せた時は、慌てて近くに椰子にしがみついていましたからね。

 そう言えば、あの時落とされたのは、初期型の原爆だったそうですね。
 日本が、あの少し後に実験したという新型爆弾だったら、チョットした放射線障害で済んだ私も原爆症や火傷どころか、影も形も残っていないって言われた時は、夏島の人には悪いですがよかったと思ったものです。
 しかし、皮肉ですよね。米軍があそこに原爆落としたおかげで、戦後日本軍の基地化が進んで、あげくに巨大宇宙基地が建設される事になったんですから。

 え、夏島の様子ですか? そりゃ酷いものでした。ああ言うのをこの世の地獄って言うんでしょうね。
 写真で見たことありますか? 放射線を大量に浴びた被爆者の姿。あれはもう・・・
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 1954年8月6日午前8時15分、アメリカ軍による世界初の原爆実戦使用が行われ、グラウンド・ゼロ(爆心地)となったトラック環礁中心部の夏島は壊滅的打撃を受け、多くが防空壕に待避していたにも関わらず、軍人、軍属、邦人、現地住民など5000人が即死もしくは即死に近い状態で死亡し、その後10年以内にさらに5000人が放射線障害など原爆症と呼ばれた症状により死亡し、さらに1万人以上の重度原爆症患者を出すという、東京大空襲に匹敵する大惨事となった。
 なお、即死者が少なく原爆症患者が多かったのは、重防空壕で直撃の被害を免れた人数がそれだけ多く、日本側がある程度これを予期して重要拠点の重防空壕設営に熱心だったことの現れと見る事ができる。日本は、この時ですでに核戦争を想定したのだ。
 また、不幸中の幸いは、日本軍が同地に進出してあまりたっていない事から、日本本土から来ていた軍人、軍属、邦人の数が少なく、その多くも次の作戦準備のため沖合の支援艦艇にいた事だろう。
 もっとも、口さがないものは、日英が第二次世界大戦での戦略爆撃で行った無差別爆撃の方が非人道であり、日本はしっぺ返しを受けたに過ぎないと言う。
 だが、この爆撃は日本政府にとって、停戦への最後の幕を引く大きな一手となった。

 第二次太平洋戦争においてアメリカは、奇襲攻撃による戦争開始、多数の一般住民の住む地域への侵攻、都市無差別爆撃、日系人の強制収容など第二次世界大戦以後特にタブーとされるようになった戦闘行為の大半に手を付けており、この時の原爆投下は、全世界にアメリカは危険な国だと認識させる最後の一手となった。
 ただしこの時の米政府は、日本軍によるアラスカ侵攻時に日本側が多数の小型原爆を使用し、これにより現地部隊の防衛網は崩壊したので、日本軍の一大拠点となっていたトラック環礁に対する原爆使用は、その報復に過ぎないと発表した。
 だが、後世知られているように、事実は日本軍は核兵器の次に破壊力の高いと言われる初期型「FAE」を大量使用したに過ぎず、国連や中立国関係者立ち会いによる放射能測定でそれも証明されており、この事を翌日の世界中のメディアに載せた日本側の素速い対応が、アメリカに正義無しの論調をさらに高める事となり、報復を叫ぶ日本国内や同盟国の声と共に、日本中の核戦力を運用する戦略爆撃兵団への動員を発令する事になる。

 では、米軍が核兵器使用に踏み切った経緯を少し見て次に進もう。
 1954年4月末〜5月半ばにかけての太平洋各地での大規模な戦闘は、戦線に劇的な変化をもたらしていた。
 4月28日〜29日にかけて行われたトラック沖海戦による日米双方の打撃艦隊の一時的壊滅、特に米水上打撃艦隊は短期間では立ち直れない程の打撃を受け、戦場に投入された再建された最後の母艦戦闘群もさらに半壊し、米太平洋艦隊が攻撃的任務に使える稼働艦艇が遂に開戦時の10%程度にまで低下、この時点でアメリカ政府は理性による停戦を考えなければならなかったのだが、その暇もなく翌5月2日からの日本軍による「AL-HI作戦」が発動される。
 そして、日本軍による軍事的成功確率30%以下とされたアラスカ・ハワイ同時強襲攻略作戦発動とその完全な成功により、アメリカが有利な戦術的要素は全て吹き飛ばされてしまい、艦隊主力壊滅以後もマーシャル諸島で頑張っていた米軍部隊も、太平洋全域での制海権の喪失と、日本軍による通商破壊で現地に対する補給が途絶されたため急速な後退を余儀なくされ、7月以降は辛うじてハワイ南方1000マイルにあるパルミラ環礁にしがみついている他は、米本土西海岸とパナマ以外に米軍の軍事力全てが太平洋から駆逐される事になった。
 なお、アメリカの南太平洋唯一の植民地西サモアは、6月以降は無防備宣言を出し、同盟国としての義務として片手間で侵攻したとしか思えない少数の英連邦軍の軽装備部隊に降伏していた。
 そして、ハワイ=西海岸で両軍が戦力の回復を図る中、7月28日に日本政府より正式な停戦勧告が出され、言葉の取りようによっては今後の戦闘では核兵器の使用すら辞さずと解釈できる日本側の強気の発言に強く触発され、これが米軍側に最後の引き金を引かせる事になったのだ。

 パルミラ環礁唯一の小さい滑走路(2000メートル級)を無理矢理飛び立った「B-47ストラトジェット」3機は、途中で空中給油機による補給を受けつつ、それまで同様の通常の偵察コースを取りつつトラック環礁に強行侵入し、うち1機が「ファットマン」と名付けられた原爆を投下したのが、軍事的な事象での概略になる。
 少なくとも爆撃を担当した兵士達にとっては、チョット危険な強行偵察と大差ない任務だった。
 だが、TNT火薬で15キロトンに匹敵する破壊力は、2キロ四方程度しかない環礁内の島のひとつを破壊し尽くし、グラウンド・ゼロとなった夏島に隣接する、秋島や竹島と呼ばれた小さな島にまで大きな被害をもたらしていた。
 もっとも、これによる日本の被った被爆を除く直接的な損害は、トラック環礁の中心部の壊滅と何隻かの艦船の撃沈、撃破だけで、近隣地域一帯の放射線汚染と人的資源の損失はともかく戦略的にはそれ程大きな問題はないと言える程度だった。
 だがこれにより、核兵器に関する研究の進んでいた日本軍、政府組織は、全ての人間のトラック環礁からの待避を早急に進め、特殊な装備を持った調査隊を除く全てが他の地域へ移動する。
 だがそれが余りにも水際だった行動だったため、日本軍がこれあるを予期していたと考えるより、この地域で何かをしようとしていたと考えるのに時間はかからなかった。
 そしてこの時既にマーシャル諸島西部一帯の島々から全ての人々、原住民を含めた全ての人が待避しており、その範囲はある環礁を中心に半径300km、風下になると予測される地域では500kmの広範囲に及び、マーシャル諸島近海には多数の船舶が護衛艦艇と共に行動、もしくは移動しつつあったのが、この時のトラック環礁からの迅速な日本軍待避を実現させたのだった。

 そして、米軍の原爆実戦使用から2日たった8月8日、日本国内を含めた多数の報道関係者がマーシャル諸島沖合にある海軍の調査船に集められる。いや、正確には日本政府が当初からこの日にX-dayを決めていたと言うべきだろう。
 そして、その船の位置はある環礁から風上に約300km離れた海域で、軍広報の担当官は報道関係者に明日行われる核実験を全世界に発信して欲しいと強く訴えた。
 日本軍による、終戦のための最後の一手が始められたのだ。
 なお環礁とは、説明の必要もないと思うがあの有名な「ビキニ環礁」だ。
 同地は、1954年6月に無血撤退したアメリカ軍と入れ替わるように日本軍により奪回されたが、その月の間に軍主導による新型爆弾の実験地への転換が進められ、付近住民も米軍のさらなる侵攻に備えるためとして、地域一帯で島ごと集団疎開が進められた。
 そして7月26日には、アメリカの軍、政府に見せつけるための大型の原爆実験が開始され、本来なら9月から10月に行われる予定だった最大規模の実験開始が、米軍の原爆実戦使用により前倒しされたのがこの時の実験にあたる。
 なお、日本軍による最前線に近い地域での軍事実験を批判する軍事研究家も多いが、これは日本軍の終戦に対する決意とこの頃の双方の制海権維持能力がどの程度だったかを端的に示しているので、米軍により妨害もしくは新兵器が奪取される可能性が極めて低いと判断してよいだろう。
 実際、当時の米軍と米政府は、本土西海岸とパナマの防衛をどうするかで手一杯で、とてもではないがアクティブなリアクションを取る事はなく、8月6日の原爆投下も苦し紛れの奇手として行われたのであり、健全な作戦と政策の上に存在するものではない。

 そして、1954年8月9日午前12時、人類史上最初にして最大級の水爆実験が開始される。
 この地での水爆実験は、1954年8月9日から10月15日にかけて都合6回の地上、水面で行われ、威力は様々だったが、8月9日の第一回目の地上実験が最大で15メガトンの実験であった。
 もちろん、実験を直に見る事になった者達は、そのあまりの破壊力に度肝を抜かれる事になる。開始前、実験地から300kmも離れている事に文句を言っていた報道関係者達は、その時押し寄せた強力な熱風と一生忘れらないであろう光景に恐怖し、その時の光景を以下のように述べている。
 「実験はトラック諸島に投下された爆弾の1000倍に匹敵すると言われ、まさにその通りの地獄さながらの光景をつくり出していた。直径が数キロもある巨大な火球が、その範囲内のすべての生物に死をもたらし、粉々に吹き飛ばした。熱風が四方八方に吹きまくった。1000キロ離れたところでも感じられたこの風は、爆心点で発生した時速3500キロの衝撃波によって発生した爆風だった。環礁の遠く離れた島々でも樹木がなぎ倒され、礁湖には高さ30メートルの波が発生した。大量の海水が蒸発し、サンゴ礁の一部も消滅して何億、何十億トンもの砂や土、サンゴが吸い上げられ、放射性の粒子となって空中を漂い始めた」と。
 なお、この一連の実験の結果、爆心地の3つの島が消滅し、今では低い岩礁がところどころに顔を出してかつて島があったことの痕跡を微かにとどめているだけで、半世紀経った今日においても日本政府は同地域への再居住を許可していない。

 そして、世界中の報道関係者が記録した映像は、早いものはその日の新聞の一面を飾る事になり、合わせて発表されたトラック環礁の爆撃後の様子と、日本政府の発表を添えた形でアメリカ政府に対するこれ以上ないメッセージとなる。
 日本政府が発表した声明は、いつものような東洋的・日本的玉虫色的なものではなく簡潔かつ明瞭であった。
 曰く、「我が国は一刻も早い不幸な戦闘状態の停止を望んでいるが、アメリカ政府がこれ以上の戦闘行為を望むのなら、我々はトラック環礁の爆撃に対する報復を実施しなければならない」と言うものだった。
 要するに、今すぐ停戦しなければ完成したばかりの水爆を、アメリカの主要軍事拠点を含む都市に落とすと脅したワケだ。そして、日本が世界で唯一衛星軌道に達するロケットを有していることと合わせて考えれば、アメリカ自らによるこれ以上の抗戦表明は、死刑宣告にサインする事と同じと言え、そうでなくてもアラスカ、ハワイが日本の手にある事は、脅威以上の事象だった。
 そして、日本側は3つの空母機動部隊と1個水上打撃艦隊と相応の強襲上陸部隊という、米軍が迎撃不可能な大艦隊をハワイに集中しており、このまま戦争が継続されるなら、今すぐにもアメリカのアキレス腱であるパナマに押し寄せるだろうと世界中の人々が判断し、対してアメリカは急ぎ再建された空母部隊を一つ持つだけで、これに到底対抗できる戦力ではなく、これを覆しうるのは核兵器だけだが、それすら日本軍はさらに先に進んでしてしまい、アメリカ政府に対て極めて大きなプレッシャーとなる。

 また同時に、英国など形としてはEATO加盟国として対米参戦していた国々、そうでない国々からも両国の即時停戦を斡旋する動きが活発化し、合衆国政府も8月9日以降急速に拡大した停戦を求めるアメリカ市民の声に押される形で日本政府に対する歩み寄りを見せる事になる。
 なお、最も停戦の運動をしていたのは、日本政府の内意を受けた英国政府で、日本としては5月のアラスカ・ハワイ作戦の成功により戦争の決着は着いたと考えており、6月には停戦に関する活動が活発化し、水爆実験と恫喝はどちらかと言えば戦後の安全保障としようと考えていたと思われる。要するに、アメリカの無謀な行動により日本政府の手順が狂わされ、その怒りをしっぺ返しで食らったのが、この時のアメリカ政府と言う事になるだろう。
 そして、アメリカ政府は停戦合意に受諾する旨を日本政府に伝え、ここに1年3ヶ月にわたった日米の二度目の戦いはとりあえず幕を閉じる事になる。
 停戦はグリニッジ標準時の1954年8月15日午前12時に即日発効し、英国、フランスの仲介により10月から講和会議が開催される事になった。

■Phase 5-4 講和