■Phase 5-4 講和

◆とある市民の回想12(軍属系技術者)

 戦争ねぇ・・・オレにとっちゃあ、あの時の戦争なんてより今の方が戦争みたいなもんだぜ。
 そりゃ、まえのヨーロッパの戦争で徴兵された予備役の特務士官だったからってんで、あん時も引っ張られて、挙げ句の果てにアラスカの侵攻作戦にまで同行して、そのまま基地再建にもかり出されたさ。
 こう見えても腕には自信あるし、素性はともかく御上や企業のエライさんもそれは認めていたみたいだからな。
 だから、日本の国際的貢献とやらのために、今でもこうして世界を飛び回っては、世界の皆様のために色々教えて回ったり、色んなもん作っているってワケよ、わかる? どこに行っても、ボルトはボルト、ナットはナット、言葉なんていらねぇのよ。
 部下にも色々いるよ。白、黒、金色選り取りみどり。たいていは真面目で気のいい奴らばっかりだね。何より熱心だ。ま、仕事柄女っ気は、ほとんどねえけどな。

 で、何だっけ、そうそうアメ公との戦争の話しだったな。と言っても、オレは技術屋だから、戦場の話はほとんどないぜ。鉄砲よりもレンチやハンダ籠手握ってたからな。
 まあ、色んな場所には行ったぜ。
 開戦時は硫黄島で慌てて爆撃機飛ばしてよ、しばらく硫黄島で張り付いていたけど新鋭機の世話するために「武蔵」に乗って沖縄の海戦に無理矢理連れてかれて、「武蔵」がそん時被弾したから大神の工廠にドック入りして、そこでオレを引き抜いた妙な海軍技官に言われるまま「備前」の最終艤装に付き合わされて、腰を落ち着ける暇もないまま、桜が咲く頃には、そのまま「備前」に乗って単冠よ。
 で、とりあえずオレ様の仕事は単冠にいる間に終わったから、ようやく戦地に赴く皆様をお見送りかと思えば、今度はそこにいた「むつ」に乗り組めって言われて、弱電関係の調整に走りまわってる間に船が出航しちまって、気が付いたら北太平洋でホーエルウォッチングしてるんだから、我ながら呆れたね。で、日本がアラスカ占領したら、今度はそこの再建に付き合えって来たもんだ。そこで、すったもんだしている間に停戦しちまったってところかな。

 え、オレの専門? さあ、何だろうね。とりあえず航空工学と電気関係じゃねえかな? ま、オレは変わり者だから博士号とかロクにないが、何でも出来るけどよ。こんど何か発明してやろうか?

 で今は、衛星通信関係さ。
 人工衛星を介した通信網を世界中に張り巡らせて、我らがライジングサンの旗を世界に翻させるべく奮闘してるってワケよ。
 どうよ、オレ様の偉大さが少しは分かったか?
 日本を支えているのは、オレみたいな技術屋なんだぜ。
 ・
 ・
 ・
 日米による二度目の停戦会議は、アメリカ側が日米双方の領内はもちろんEATO加盟国内での開催を渋った事で開催が一時的に遅れる事になる。
 これは日本政府が当初は両者の中間位置として、先の戦争と同様にハワイ諸島、無防備都市宣言のおかげでほぼ無傷だったホノルル市での開催を望んだのだが、停戦が決まった9月現在、同地域には日本軍の大兵力が停戦が決まらなかった時に発動予定だった大規模作戦のため集結しており、これをアメリカ政府が不快としたのが理由とされている。確かに20インチ砲を突きつけられながら話し合いをするなど、あまり気持ちのよいものではないだろう。
 また、アメリカが合衆国領内自身での開催を望まなかった理由は定かではないが、一般的には合衆国が敗者としての側面が強くなるからだとされているが、停戦交渉で来るであろう日本の軍艦を前にして、市民の間に発生する混乱を恐れたからだろうと言われている。

 とにかく、数ヶ月の混乱を経て、日本政府がアメリカとの停戦仲介を頼んでいた国の中からスウェーデン王国が選ばれ、同国の王都ストックホルムで開催される事が急遽決まり、日米はそれぞれ巨人輸送機を何機もしたてて同地域に講和使節団を送り込み、単なる停戦に過ぎないため両軍が東太平洋を挟んで睨み合う中、言葉の剣を交わし合うことになる。もちろん、殆ど形式上アメリカに宣戦布告したEATO諸国もこの会議へと足を運んでいた。
 ちなみに、この停戦が決まって後も日米双方はハワイと北米西海岸で大兵力を向けて睨み合い、「大和」、「武蔵」、「播磨」、「備前」という異形の四姉妹以下、戦艦、空母共に10隻以上を擁する巨大な海軍力と、ハワイ、アラスカに進出した戦略爆撃兵団による圧力は、到底この時のアメリカ軍に防ぎきれる戦力ではなく、北米西海岸ではパニック状態が継続し、そこでのパニックによる死傷者数が1000の単位に達した事と、市民による黄色人種に対する無軌道なリンチは、戦後日米の間にいらぬ溝を作り上げる事になる。

 停戦会議において日本政府、その意志を受けた代表団の方針は明確だった。このため、停戦前から様々な準備と根回しが行われ、当然とばかりに交渉相手のアメリカにも日本の内意が伝えられた。
 日本政府が会議前にアメリカ側に根回ししようとした要求は、直接的に記すなら以下のようになると言われる。
 「戦争責任をあえて求めるなら、それは世界中の人々が認めるように一方的に戦争を開始したアメリカ側にあり、アメリカ政府がこれを認めて日本側に公式に謝罪すれば、現在占領下にあるハワイ、アラスカからの軍事力の撤退と領土の早期返還を行ってもよい。もちろん、これに関して戦時賠償は要求しない。」というもので、付帯条項として「なお、アラスカ返還には、アメリカ合衆国が反共姿勢を明確にする必要がある。」とされていた。
 これは、戦術的・戦略的共に圧倒的に優位にある筈の日本が示せる最大譲歩の停戦条件であり、また日本がアメリカとの実弾による戦争は望んでいないと言う意志表示に他ならず、これはアメリカの返答を聞かないまま、ホスト国や会議に参加していた各国にもおって内示され、アメリカ以外の当事者は多少の問題は発生するだろうが、大筋において同意に至るだろうと考えていたと言われる。
 世界は、二度目の日米の戦いが日本の勝利に終わる以上、それはお互いにとってのガス抜きなようなものであり、それが終わったのだから歩み寄るのが先進文明国であろうと、度重なる大戦争の教訓からそう思い込んでいたのだ。
 もしくは、世界中に存在する楽観主義的な人々にとっては、かつてのライバルが遺恨を越えて本来の敵に立ち向かって行くという、三文小説のような展開を望んでいたと表現すべきかもしれない。
 なお、日本政府が戦争開始責任について最初に言及したのは、国家としての戦争の正義、「正義の味方」という国際的認識が今後の世界国家としての日本に必要だと認識していたからだ。
 だが、日本の軍事力と現在の戦況に怯える市民の突き上げを食らったアメリカ政府とその代表団は、日本政府が内示した条件を無視するかのように、日本側が現在占領している全ての合衆国領土の即時返還と日本軍の全太平洋地域からの撤退を求める行動に出た。
 ゼロかパーフェクトしか選択肢を持たない、もしくは無軌道な市民に左右される、実にアメリカらしい選択だった。
 そしてこれは、表面的に決定的な勝敗がついていない戦争の結末の難しさを見せる一つの例と見る事もできるだろう。
 
 停戦会議は結論の出ないまま2ヶ月の間継続され、そろそろ共産主義者達の動きが気になる日本が、兵力の撤退などでさらなる歩み寄りを見せていたが、戦争責任となると双方とも譲る気配を見せなかった。
 日本が正義を重視したのと同様、アメリカもそれを重視したのだ。それは、「ジャスティス」こそが人工国家アメリカを一つにするために必要と考えられていたからだ。
 なお、日本側が兵力の即時撤退を渋ったのは、この時の講和会議が単なる停戦をした状態だったため自らの安全保障を優先した事と、アメリカの要求があまりにも日本の実状を無視していたから、そして共産主義者が気になっていたからだった。
 日本はアメリカとは違い共産主義者とも対立している事を、国内政策だけを優先させたアメリカが、意図的に無視してそこから何かを引き出そうとしている事に我慢ならなかったと言う事だろう。

 だが、意外な事件がこの時の決着を即す事になる。
 なお、この原因は日本にもあったが、この件にアメリカの存在はなかった。
 最大の原因は、中華人民共和国を自称する支那大陸内陸部を実行支配する共産主義者たちで、彼らは第二次太平洋戦争勃発で日本のアジアでの覇権が一時的縮小したと考え、1953年夏頃より中華民国との内戦を活発化させ、度重なる日本政府を始めとするEATO諸国の勧告を無視した挙げ句に、ソ連から供与される武器・物資により戦線を拡大、ついに1954年11月に満州国との国境紛争・ゲリラ活動にまで発展し、そこで起こった事件が全てを変えてしまう事になる。
 「熱河虐殺事件」、一般にはこう呼ばれる事の多い、中華共産ゲリラによる満州国西部熱河省辺境部にあった入植地に対する住民全体に対する虐殺事件が、日本、満州の世論を激昂させ、「業突張りなアメ公なんてどうでもいい、それよりもアカを何とかしろ!」というロシアの共産主義政権誕生以来の日本・東亜本来の論調になり、またこの時虐殺が行われた入植地の住人が、日本人だけではなく当時満州で異常な増大を示していたユダヤ人により占められていた事が世界世論を変えてしまう。
 要するに、ナチスに続いて共産主義者にまでユダヤ人は虐げられたという論調であり、世界は意固地なアメリカをほったらかしたまま、日本と共産主義との本来の対立構造に目が向き、日本政府が行ったこの時の軍事行動がその後の世界情勢を決めてしまうことになる。

 もっとも、日本と共産中華の紛争は、日本側は相手を国家として宣戦布告しなかったため事変と片づけられ、その短期間も極めて短期間で終息する。
 この時日本政府は「警察官活動」、「報復攻撃」として、アメリカとの停戦会議中にも関わらず、躊躇する事なく相手陣営の中枢に対する総攻撃を行ったのが政治的事象だったが、日本がこれほどアクティブな行動に出たのは、それだけ反共姿勢が強い事を内外に示したかったからだとされているが、アメリカに対するさらなる恫喝だったとする説もあり、結論はいまだ機密文書の中にだけ存在している。
 なお、日本軍がとった攻撃手段は、中華共産党の本拠地に対する飽和爆撃、新兵器の実験というよりアメリカ軍に使う予定だった余り物の「FAE」を用いた、政治的メッセージとなる短期集中型の戦術爆撃だった。
 これは日本が、中華地域の共産主義者の本拠地を最初に叩いてみせる事で、その背後にいるソ連に対する痛烈な政治的メッセージをこの時送ったのであり、これを誤解しなかったソ連政府と、その後も延々と中華民国との内戦を継続した共産中華ゲリラ(当人たちと共産圏は、あくまで中華人民共和国と呼ぶ)は、日本政府にあまりにも幼稚な罵詈雑言こそ浴びせかけたが、それ以上の行動に出る事はなく、この時の中華地域での内戦も急速に沈静化する事になる。
 なおこれ以降の共産中華は、一連の爆撃で毛沢東、周恩来を始めとする政治的首脳部の多くを失ったため、前線指揮のため現地にいなかったため無事だった首脳部の一人、林彪将軍により掌握され、共産主義組織というよりは単に軍閥的色彩の強い軍事政権的組織として、半世紀後に世界の癌と呼ばれる道のりを歩んでいく。
 ちなみに、日本軍が共産中華に対して「FAE」の大量使用を行ったのは、同種の爆弾は長期間の保存が難しいにも関わらず、アメリカとの停戦時までに多数を用意しすぎており、その処分に困りその時丁度良い処分先が見つかったというのが真相で、攻撃を受けた共産中華こそいい面の皮というところだろう。そして、広大な延安の要塞地帯主要部全てを焼き払い、その爆圧で地下要塞すら破壊する程の「FAE」を、いったいアメリカのどこに使用するつもりだったか、という点も非常に興味深い。そして、これ程の大量使用が初めてだった事から、日本軍すら予測しなかった破壊力を示した事が、この状況を呼び込んでもいた。

 そして、中華大陸での行方を横目で見つつ継続された日米による講和会議、歴史的に「ストックホルム停戦条約」とされた会議は、中華大陸での日本のアクティブな行動の影響もあり、ついに日米間の正式な講和条約が成立する事はなく、日本帝国が戦術的、戦略的優位を維持した現状のまま固定化し、アメリカは日本に対する暗い感情を持ったまま、以前より少しマシな緩やかな対立状態と現状の停戦ラインでの睨み合いを継続しつつも、自らの態勢再構築を画策していく事になる。
 つまりは、日本の覇権だけが拡大したのが戦争の結末であり、日本の太平洋帝国としての確立とアメリカの地域大国化という覇権縮小だけをもたらした、経済面での戦略的優位獲得を目指して戦争を始めたはずのアメリカは、全ての目標を達せなかったばかりか、それまで持っていた優位すら失い、世界からますます孤立するという結末を迎える。
 もちろん、この第二次太平洋戦争でのアメリカ軍の卑怯者というレッテルは、その後世界中のみならずアメリカ国内でも一般的認識になり、これ以降のアメリカ連邦軍は最低限度の国防戦力の維持以外では、アメリカ市民からも冷遇されるという、不遇の時代を迎える事になる。
 そして1954年以後の世界は、戦後の反動から修正モンロー主義と言われる政治的ハリネズミ状態になったアメリカ、第二次世界大戦の戦災から立ち直るのに結局四半世紀を要したソ連・共産主義陣営、そして日英(後に独・満)を中心とする資本主義陣営という構造により、国連、EATOを触媒とした日本による相対的世界覇権が維持される事になり、世界最大の海洋と世界最大の大陸での主導権を持つ日本の影響力は、アジア、中近東が発展するまで継続し、その間の1960年代〜70年代初頭にかけての日米の経済的妥協の成立、そしてソ連共産党体制崩壊による冷戦解消と言う流れと共に、次なる時代へと歩んでいく事になる。
 そして、これを端的に示しているのが、1950年代以後のアジア、太平洋各国の通貨に見る事ができる。
 満州円、香港円、オーストラリア円、ニュージーランド円、シンガポール円など、当初ポンドやドルがほとんどだった国で、日本の円(¥)が基軸通貨にその名が使われているのがそれだ。

 なお、当然であるが日米の戦闘停止状態は1954年8月以降そのまま維持され、その時に講和のための会議の継続も約束されており、日米が正式には戦争を終結させないまま実質的な戦争の幕が降り、その後は日本政府とアメリカ政府が、ハワイ、アラスカの帰属を巡ってホノルルで会議を行うのが半ば伝統行事のようになっていく。
 そして、日本が反共包囲網と資源問題からアラスカ(+アリューシャン)を当面手放す気がないのは知っていたが、日米両政府の妥協によりハワイの返還は可能としてハワイに的を絞ったねばり強い返還交渉が継続され、1957年の「岸・(ジョセフ)ケネディ会談」における「(アメリカ政府による)潜在主権」の確認、61年の「池田・(JF)ケネディ会談」における対ハワイ援助協議、66年の日本政府内における対ハワイ問題特別作業班の設置、67年の「佐藤・ジョンソン会談」における早期返還の確認などの動きが見られる。
 その間の65年8月には、当時の大統領ジョン・F・ケネディが戦後の大統領では初めてハワイを訪問、「ハワイのアメリカ復帰が実現しない限り、アメリカの戦後は終わらない」と演説、復帰はにわかに現実化し、69年11月、「佐藤・ケネディ共同声明」で72年のハワイのアメリカ返還復帰が確定した。
 これは、当時ソ連・共産主義陣営の勢力が拡大傾向を示しており、今までの体制では力不足と日本政府が判断したが故の政治的転換を物語っているが、それ以上にこれ以後の世界経済に与えた影響は大きく、四半世紀後に日本政府をして大きな驚きを経験させる事になる。
 なお、71年6月「ハワイ諸島及びジョンストン島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」が調印され、1972年3月の批准書交が交わされる事により、正式にハワイはアメリカ領土に復帰する事になる。
 そしてようやく「第二次太平洋戦争」は終結したと両国首脳が発言し、ここにペリー来航以来の日米両国の対立はとりあえずの終息を迎える。

No.3 Return Match Fin

■あとがきのようなものへ