■Case 01-01「ウォー・ファクター」
グリニッジ標準時1949年5月15日午前6時3分、英国沿岸に設置されたRDF警戒網が無数の光点を捉えた。 光の帯と呼んでも差し支えない光点の群は、北欧諸国があるスカンジナビア半島から始まってフランス・ノルマンディー半島にまで及び、海を挟んでブリテン島をすっかり包み込むように押し寄せつつあった。 またその海上もしくは水面下では、一足早く激突が開始され、ロイヤル・ネイビーは多数の敵を海神の御許に送り届けたという報告と共に、数え切れない程の損害も報告してきた。特に致命的だったのは、大西洋航路に使われる港湾都市が奇襲攻撃に近い形で襲撃を受けた事で、攻撃による混乱とそれによる船舶の破壊・沈没がもたらした災厄は、空襲を受けるまでに港湾機能の大幅な低下をもたらしていた事だろう。 もっとも、ロイヤル・アーミーが最大のライバルとしていたドイツ国防軍は殆ど動きはなく、特に英本土を指向していると思われる軍事力は、一部の船舶待機部隊ですらアクティブな行動には移っていなかった。 そしてこれを確認した英国政府は、この度のドイツの仕掛けてきた戦争行為が、少なくとも現時点において多分に政治的側面を含んでいると判断するに至る。 つまり、英本土を孤立させ籠城戦に持ち込み、英本土そのものを人質として英本土の国民に現政権を支持するか、ドイツとの友好を求める新政権を望むかの選択を強要させるための戦争が今回の彼らのウォー・プランという事になると判断したのだ。 もっとも、攻撃する側のドイツ軍そのものが、そこまで明確なウォー・プランを以て今回の臨んだかと言うと、その判断は極めて難しいものだった。 まずはここまでに至る経緯を見てから、戦争に至る内実を語ろうと思う。
1948年末、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、二度目の対英戦争を決意したと言われる。 まずはこの点が重要だろう。 確かにドイツは、ナチスとそれを率いるヒトラーによる一党独裁国家であり、ヒトラーが政権を握ってからは、ヒトラーの決定の数々がその後のドイツの運命を大きく左右し、投機的、賭博的、向こう見ずなど無茶、無謀を表す全ての言葉を以てしても不足するほどの政策実行により、1945年に第二次世界大戦での大勝利と、欧州の事実上の統一を成し遂げた。 そしてこの一見偉大な成功を追い風として、ドイツ国内の抵抗勢力を押さえ付け、強大な軍事力によって欧州全土を支配する体制を作り上げつつあった。 それが大戦以後の数年の流れだった。 だが、このヒトラーによる欧州統一にとって大きな問題が、英本土を政治的・軍事的に屈服できなかった事であり、科学技術の向上した時代にあって、政治的にはともかく軍事的には致命的とも言える弱点として残される事となった。 長距離爆撃機、準中距離弾道弾(MRBM)(この時点ではドイツしか保有しないが)などの兵器を以てすれば、簡単に英本土から直接ドイツ首都を狙える事は、ドイツを中心にした欧州新秩序には極めて不安定なファクターとなっていた。 しかもその英本土には、第二次世界大戦以後も反ドイツ政権が維持され、彼らは自らの生き残りのための形振り構わない政策を採っており、ドイツから見れば常に心臓に短剣を突きつけられているようなもので、新たなライバルである、アメリカ合衆国、大日本帝国との世界レベルでの競争を不利にする最も大きなファクターとなっていた。 唯一の慰めは、ドイツにとって新たなライバルであるアメリカ、日本が、共に英国と不仲だと言うことで、ドイツに匹敵する巨大な軍事力が英国と連携していない事だったが、これすら英国の形振り構わない様を見ていれば、到底安心できる要素とは言えなかったし、米日双方が英国を橋頭堡として欧州利権に首を突っ込みに来る可能性も十分にありうると考えると、到底安心できるファクターではなかった。 これが、この時のドイツの、いやヒトラーの新たな戦争計画を呼び込んだと言えるだろう。 つまり、ヒトラーの計画した二度目の対英国戦争は、短期間に英本土を孤立化させたうえで城下の命を誓わせ、英国が日米と連携するもしくは、米日が英国に助けの手を差し出す前に全てを決してしまい、それにより欧州大陸全てを安定させようとしたのが、この時の戦争目的だと言えるだろう。 多くの戦史家は、英国を屈服させることで、彼らの持つ世界ネットワークを手に入れ、それを橋頭堡として米日へ挑戦しようとしたと言うが、ナチスとヒトラー政権の政策の基本が、大陸国家特有の防衛本能に裏打ちされたものである以上、それはあまりにも過大な評価と判断でき、純然たる防衛戦争を自らの傷(経済・軍事共)が最小限で済む形で済ませようとしたのが、この時の英国に局地戦争とすら言える状態を作り上げたと言えるだろう。
だが、一見きれいにまとまった戦略により組み上げられたヒトラーの何度目かの挑戦は、ドイツ国内では必ずしも好意的とは言えなかった。 とどのつまり、ドイツは周りに敵を多く抱えすぎていると言うことだ。 このため、英本土だけに的を絞った、ドイツにとって都合の良い戦争などとうていできる筈もなく、自らの限られた戦争プランだけを用意するのは、極めて危険だとする反対が続出し、そんな事をするぐらいなら、戦争などしかけずもっと外交努力をすべきだと言う非難すら一つや二つではなかった。もしくは、やるからには世界中を相手にして一撃で粉砕できる状態まで待つべきだという過激な意見もあった。
ドイツ国防軍は声を大にして言った。同盟軍を含め80万人もの兵力が展開するロシア戦線(と彼らは常に主張する)があり、それ以外にも多数の地域に兵力が分散され、英国正面とドイツ本国の兵力では到底英国との戦争は許容できない、同じするなら部分的な動員を行いその準備が整うまで開戦を伸ばすべきだ、と。 大海艦隊は消極的に異を唱えた。我が海軍には、牽制・陽動・小規模作戦以外の行動は期待しないでいただきたい。もちろん、潜水艦隊は全く別だが、これとて彼らの対潜水艦能力を考えれば、かつてのような楽観的な考えを持たれないで頂きたい、また米日が大挙して欧州近海に押し寄せたら、我々の出来ることは自らの勇気と国家に対する忠誠心を示す事だけだ、と。 いまだゲーリングの支配する空軍は、そのゲーリングが大言壮語を吐いてヒトラーの新たな戦争を肯定したが、現場レベルではせめてもう1個航空艦隊を英国正面に持ってこれる態勢が作れるまで、もしくは新たに誕生しつつある兵器の増産体制が整うまで待てないものだろうかと嘆息していた。 しかも武装親衛隊すら、ヒトラーの考えには反していた。もちろん、武装親衛隊が意図して総統に反対したワケではない。彼らは、ただどう猛で盲目の忠誠心を持つだけのドーベルマンがそうであるように、相手に噛みつくことしか考えてなく、自分たちに是非とも英本土上陸の一番槍をと懇願していたのだ。 もっとも、意外な事に戦争に賛成したのは、ヒトラーが最も信頼する軍需相だった。 軍需相であるアルベルト・シュペーアは、英本土が自らの影響下に入る事の価値を考え、極めて短期間の限定戦争であるなら財政、経済、生産力への影響が最低限に止まり、成功確率が比較的高い単一正面への兵力投入を、主に統計学の上から賛成したのだ。 もっとも彼とて文句を付けなかったわけではない。彼は成功の条件として、戦略的奇襲を成功させるべく、ドイツ側が戦争を仕掛ける直前まで自分たちの行動を可能な限り秘匿し、即応体制の高い英本国軍はともかく、米日が本格的介入ができない状況が確認できない限り開戦すべきでないとし、もし米日が開戦前に何らかの大きなリアクションを起こしたのなら、ただちに方針を変更すべきだとした。 もっともシュペーアの真意は明らかに非戦にあり、戦争に賛成したのは、あくまで開戦するならという仮定の上での話でしかない、と言われている。
当然ヒトラーは、それらに対して反論した。いつものように詳細なデータをいくつもあげ、一つ一つ論破しにかかった。 ただしその様は、ヒトラーを悪く捉える人がイメージしがちなヒステリー的なものではなく、家庭教師ができの悪い生徒を教え諭すようなものだったと伝えられており、その結果か短期間で対英開戦が決まり、会議は次の実務的な事を協議する段階へと移行したと言われる。 ただ、この時大きな問題とされたのが、いかにして英国との戦争を開始するか、そして英国がドイツの戦争を納得して矛を収めるかであった。 しかし戦争の幕の引き方については、ドイツ側の意思統一と戦後のビジョンを固める以外は事実上の問題先送りとされ、それよりも如何にして始めるかがこの時重視されていた。 いかにも軍事国家的な目の前の事象だけを追い求めがちな行動だったが、戦争というものが水のように流動的な事を思えば、止む終えないと言えるかもしれない。
1945年のニューヨークでの講和会議で、国際法上英国との戦争関係は終了しており、このまま一方的にドイツが英本土に殺到しては、今後外交的に不利に立たされる事が確実だからだった。 一連の会議の上では、ドイツ側の秘密裏の準備が全て整った段階で、英国が依然として大きな軍備を保持し続け、これにドイツが強い脅威を受けている事を訴えたうえで西欧方面のみ軍縮会議を提案し、これが蹴られた時、正々堂々開戦するという方向が大勢を占めた。 欧州世界を軍事力以外のファクターを以て統治するには、それなりの大義名分も必要であり、この程度が落としどころだろうと大方の人が考えた末の結論だった。 もちろん、ここで英国が軍縮に乗り出せばそれに越したことはなかった。国力差から後はどうとでもなると大抵の人が考えていたからだ。
だが、他にも色々策は考えられた。もちろん水面下で、だ。もちろんその手段の多くは謀略と言うことになる。 一つは、彼らの中で「アメリカ方式」と呼ばれた。 つまり、敵国から自分たちが攻撃されたという「事実」を自作自演で演出して、非道な敵に不意打ちされた事を開戦理由とするものだ。(彼らは自らの引き起こした「ポーランド方式」はあえて無視している) もう一つは、「カイザー方式」。それは第一次世界大戦のように、ドイツの同盟国と英国の同盟国や衛星国の間で軍事問題を引き起こし、ドイツ側の国に英国に宣戦布告させ、それを軍事条約を盾にそのまま対英戦争に雪崩れ込むというものだ。 そしてもう一つが、「日本方式」(なぜこう呼ばれたかの真意はいまだ明らかでない)。 これは国際世論を強引に操作して、英国が悪という図式を短期間で作り上げ、宣戦布告と同時に圧倒的な軍事力で奇襲攻撃してしまうという、最も荒っぽい手法だった。 なお、最後の手法では、開戦初期に核兵器による攻撃がオプションとして含まれていた、と言われている。
そしてドイツの明に暗にの活動の結果、ヒトラーの決断から約半年経った1949年5月15日の開戦へと繋がっていく。 なお、ドイツが英国に戦争を吹っかけた理由は、途中までは全体の会議に置いて了承された「正攻法」の手順を進んでいたのだが、5月10日にノルウェー沖でドイツ海軍の駆逐艦が正体不明の敵に撃沈された事件を契機として流れが変わり、その結論が出されないままドイツ側が強硬な態度に転じるという、ある種分かりやすい流れに沿って開戦へと至っていた。