■Case 01-02「バトル・オブ・ブリテン 2ndステージ」

 1949年5月15日早朝、ドイツ空軍の各基地を飛び立ったドイツ空軍部隊は、東から英本土を囲むようにスカンジナビア半島一帯に展開する第五航空艦隊、ベネルクスを中心に布陣した第六航空艦隊、そしてフランス沿岸に展開する第三航空艦隊で構成されていた。
 これ以外にドイツ空軍は、本土防空を担当する第一航空艦隊、地中海、中東に展開する第二航空艦隊、ロシア・東欧に駐留する第四航空艦隊が展開していたが、半年前の編成とはいささか変化していた。
 第五、六航空艦隊がそれにあたる。
 第五航空艦隊は、第二次世界大戦後の改変で実質的な海軍用の海上航空隊となっていたが、対英開戦決定を受けた戦力増強の対象となり、同部隊から純粋な海軍艦艇運用部隊を切り離したうえで、遠距離攻撃部隊を中心に増強して北海、北極海全域をカバーする遠距離航空部隊に再編成し、この度の英本土戦に対応させたものだった。このため、珍しく大型爆撃機が多数編成に含まれており、ドイツ空軍で初めての遠距離空軍としての機能を持った実験的な部隊とも言えた。これはドイツが欧州での地域大国から世界レベルでの大国になった一つの証と見てとれるだろう。
 一方の第六航空艦隊は、各航空艦隊からの抽出戦力を背骨として新設の部隊加えた全く新編成の航空艦隊で、当初から戦時編制が取られた増強航空師団としての編成がとられており、当然その戦力は通常の航空艦隊よりも大きく(1.2倍程度)、特に制空権奪取を重視した編成が取られ、新型のジェット戦闘機の割合が非常に高く、「対英本土航空艦隊」と言うニックネームを冠するほどだった。
 そして、これら3個航空艦隊が運用する航空機の数は、スペアを含めた各種合計で1,900機に達しており、先のバトル・オブ・ブリテンで用意された数の上では少なかったが、ドイツ空軍に属する他の航空部隊の実際の充足度の低さを考えると限界まで増強されていると言え、またジェット機時代が幕明けつつあったこの時代にあって、世界第一級の戦力を保持した空中戦闘部隊とも言えるだろう。
 これに正面から対抗できるだけの戦力を有するのは、日米の空軍戦力(陸海軍航空隊)だけだろう。

 しかし、ドイツの誇る長距離ロケット部隊だが、同部隊は事実上のドイツの戦略空軍的な位置づけにあり、当然効率的な戦略的な爆撃が可能な部隊であったが、同部隊が核兵器を運用する部隊だという事は世界では常識として認識されており、その運用には細心の注意が必要とされていた。
 このため、今回は英国空軍の撃滅のみが目的で、英本土という戦略目標が相手でないとされ、開戦初期の戦闘には一切参加してなく、各種のIRBM、MRBM、IMFは欧州各地の基地で眠りに就いたままだった。
 これは、一部には兵器として信頼性に問題があった事と数量が十分で無かったことが大きな理由としてあげられているが、政治的にも英国を必要以上に追いつめる戦術を取ることによる報復を恐れたためという理由が考えられており、当時のドイツ首脳部は、英国がすでに何らかの核攻撃手段を持っているのではと強く疑っていた証拠だとされている。

 一方1940年以来、全般的に防戦側となっている英国空軍(ロイヤル・エア・フォース)だが、英本土の防空は大きく南西部、南東部、北東部の戦区に区切られた各1個航空艦隊相当の部隊を第二次世界大戦後からずっと維持し続けており、またこれとは別に戦略的攻撃を行う長距離爆撃機ばかりで構成された部隊が、スコットランドや北アイルランド、もしくは大西洋を挟んだカナダなどドイツから攻撃の受ける可能性の低い地域を中心に展開していた。
 また、防戦というより攻撃的な側面を強く持った航空戦力として、海軍の空母艦載機部隊が空軍とは別に存在し、おおよそ1個航空艦隊の規模を持っていた。
 これらを合計すると、攻撃側のドイツを上回る2,000機以上の航空機が英本土とその近辺に展開している事になり、特に防戦に必要な戦闘機の数は全体の7割以上に達し、1940年のバトル・オブ・ブリテン以降その威力を見せつけている、持ち前の防空網の優秀さを加味すれば、防戦には十分と見られていた。
 航空機の生産力の方も、カナダへの生産のシフトと各方面の努力もあり、事実上多方面の戦線を抱えているドイツに対してむしろ有利にあると判断されていた。
 だからこそ、これまで英独の軍事的均衡状態が続いていたのだ。
 だが、本当にそうなのだろうか、航空機材の面からもう少し見てみよう。

 1940年代半ばから50年代にかけては、航空機がレシプロ(プロペラ)機が終末期に向けて発展した時期であり、さらにレシプロ機からジェット機へ進化する時期にもあたり、特に第二次世界大戦終了頃から1949年の英独開戦に至る時期まで、世界中の列強がジェット機の開発に躍起になっていた時期にあたる。
 ドイツの「メッサーシュミットMe-262」、「フォッケウルフ Ta183」、イギリスの「グロースター ミーティア」、日本の「三菱 旋風」、アメリカの「P-80(シューティングスター)」などのジェット戦闘機がその代表となるだろう。
 また、ドイツの「アラド Ar234」や日本の「中島 景雲」、「中島 景山」のようなジェット爆撃機、偵察機の存在も忘れてはならないだろう。特に攻撃力を重視する傾向にある日本において、戦闘機よりも先に戦略偵察機と小型爆撃機の分野で航空機のジェット化が進んでいた事は興味深い。
 そして第一次世界大戦後空軍戦力に大きな制約を受けたドイツでは、ジェット機の開発が最も進んでおり、列強の中にあっても頭一つ抜きんでていると言われていた。
 ただし、この当時ジェット機の心臓部となるジェットエンジンそのものの機械的信頼性は必ずしも満足行くレベルとは言えず、特に海上での長距離進撃をモットーとする日米は、自助努力と平行して様々な手段で欧州から技術を入手しつつ、いまだ試行錯誤を繰り返しているのが現状で、コストのかかる双発機というスタイルで一つの回答に至りつつあったが、彼らの国力に似合ったジェット戦闘機の保有には至っていなかったし、陸上で運用する各国のジェット機の多くも、簡単に壊れてしまうエンジンの交換用として、航空機の心臓に当たるジェットエンジンを複数用意して、航空機としての稼働率をあげているような状態だった。

 また、そうした機械的に未完成なジェット機との世代交代時期と自らの終末期を迎えているだけに、各種レシプロ戦闘機も非常に優秀な機体が各国で多く出現していた。
 そしてレシプロ機の最高速度の限界が750km/h程度だった事もあって対戦闘機戦闘でこそ二戦級に下がっていたが、安定した技術を用いた機材のため、戦闘爆撃機、つまり汎用航空機として部隊の多くを構成する事になる。
 代表的なものとして、ドイツの「フォッケウルフ  Ta152」、「ドルニエ Do335(プファイル)」、イギリスの「スピットファイアMk.XII」、日本軍の「中島・疾風改」、「川崎・飛燕II」、「三菱・烈風改」、「川西 陣風」、アメリカの「リパブリックP-47(サンダーボルト)」、「チャンス・ヴォートF4-U(コルセア)」などがあげられるだろう。
 また、戦闘機以外の分野の航空機の多くはレシプロ機が主力を占めることが多く、単発機ではアメリカの「A-1H スカイレイダー」、日本の「流星改二型」など積載量2トン以上を誇る化け物レシプロ爆撃機が第一線で活躍している。重爆撃機についても同様だ。

 そして、こうした航空機の開発、保有で興味深いのが、戦勝国のドイツが自国の機材だけで装備を固めているのと対照的に、形振り構わない生き残りにはしっている英国が、日米からの機材の輸入に熱心だった点は非常に重要なファクターとなっていた。
 また、日米が英国からの新兵器輸入の打診に対して、特に大きな反発もなく受け入れ、大量の機材を英本土に送り込んでいた点は無視できないだろう。
 もちろんこれは、空軍機材に止まらず様々な兵器の分野にも及んでいたが、特に開戦当初、RAFの蛇の目のマークを描いた日米の航空機がまとまってブリテン島上空を舞っていた事は、この時の世界情勢をコンパクトに要約していたと言っても間違いないだろう。
 つまり、日米は英国と外交的に相容れる事はないが、商売はそれとは全く別問題で、特に巨大な外貨が自国に転がり込む武器輸出を否定する要因は存在しないと言うことであり、また英国と政治的に相容れることはなくても、英本土がドイツの支配下に入ることは好ましくなく、現状を少しでも固定化するためなら多少の新兵器、新技術の漏洩、輸出も止む終えないと判断していたと見て取れる。
 特にこれを現す例として、ドイツの動きが活発化した開戦数ヶ月前より、インド洋・ペルシャ湾での日米の兵力増強が俄に開始された事があげられる。
 一種のバランス・オブ・パワーと言ってしまえばそれまでだが、英国も全てを了承した上で日米から兵器を輸入していたのだから、これら三国の行動は実に海洋帝国的だと言えよう。

 そして、ドイツが英国との開戦を迎えた時、ドーバーに勇躍進撃したルフト・ヴァッフェの精鋭を待ちかまえていたのは、かつてのハリケーンやスピッツの遺伝子を受け継ぐ機体だけでなく、敵性国家の航空機の博覧会と見まごうばかりの多数の種類の迎撃戦闘機の群という情景を生み出していた。
 特に英国が重視したのは、ドイツが圧倒的に優位に立っていると思われるジェット機の購入・生産で、日米両国も新兵器のまたとない実験場としての価値があると考え、まず直接の戦争でなくても高い効果がある「中島 景雲」戦略偵察機が日本から格安価格で多数輸出され、その後エンジンの換装に伴い機体を改修した「中島 景雲改」が輸出されたされ、漆黒に覆われた機体を最高950km/h以上の速度で成層圏を飛行し、ドイツ軍から「凶鳥」と言われ大きな脅威と興味を向けられることになる。
 そして、「三菱 旋風」、「P-80(シューティングスター)」などの新鋭機と言って間違いないジェット戦闘機も順次英本土で翼を広げ、ドイツとの開戦を迎えるまでエンジンを換装した強化型やさらなる試作戦闘機が迎え入れられ、ドイツが無定見に兵器を輸出する日米の姿勢を非難する声も無視するかのようにその勢力を増やしつつあった。
 また、日米からの事実上の技術導入と自助努力、ドイツからの技術奪取により自国のジェット機もドイツのそれと十分渡り合える成熟度を魅せるようになり、ロイヤル・エア・フォース自らをして、数が同程度なら防戦は十分可能だろうと思わせるほどの充実を魅せるようになる。

 そしてドーバー海峡は、双方予期しなかった混沌の様相を呈することになる。

 Case 01-03「航空撃滅戦」