■Case 01-05「攻撃目標ベルリン?」
1940年7月10日、この時より数年前に「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる英独空軍の大空中戦の最初の一幕が開いた。 この時ドイツ空軍は、英戦闘機軍団をおびき出し、圧倒的な戦力差によってロイヤル・エア・フォースを粉砕しようとしたが、英空軍戦闘機軍団司令長官ダウディング将軍は挑発にのらず、そのため英護送船団は壊滅的な打撃を受け、また、暗号の解読出来ているにも関わらず、それを相手に気取られないためあえて都市を爆撃させるなど、英国側の負けない為の故意の損害が発生する。これは、単なる力のぶつかり合いでない事を雄弁に物語っていた。 この英国の動きが最大限に発揮されたのが、相手の挑発を強く意図した英国によるベルリン爆撃だった。 もしかしたら、単なる偶然の積み重なりの結果だったのかもしれないが、結果としては劇的な効果を発揮する。
英国の挑発に完全に乗ってしまったドイツ(正確にはヒトラーなどドイツ首脳部の一部と言うべきだろう)は、9月7日、突然の大爆撃編隊をロンドンに仕向け、これによって「バトル・オブ・ブリテン」は大きな転機を迎えたのだ。 それまでの大攻勢で、イングランド南西部を含めたイギリス空軍基地が主攻撃目標として、ロイヤル・エア・フォースをあと一歩のところまで追いつめていたルフト・ヴァッフェは、当時の彼らにとっての遠距離爆撃となるロンドン爆撃を大規模に行う事となり、その時の戦争を失うことになった。 そして、この時の戦いでも、早くも開戦一週間で英国の戦術的優位、戦略的不利という状況のまま千日手の様相を見せつつあり、英国においてこれを打破するための作戦が開始される。
作戦の骨子は、水面下で唱えられたスローガンによりこれ以上ないぐらい示されていた。 曰く「ロンドンを爆撃させよ」だった。 つまり前回同様、ドイツの戦術爆撃戦略を政治的にねじ曲げてしまい、彼らにブリテン島全てという大きすぎる獲物を与えて彼らの自滅を誘い、この戦争を再びドローにしてしまおうと言う事だった。 英国にとっては、短期的な戦争に負けなければ後はどうとでもなるという事だろう。さすが、それまで世界を支配してきただけの自負だった。
手段はいくつか考えられた。 そしてその中でも最も有力視されたのが、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの精神に大きなプレッシャーを与えることが最上とされた。そして、その目標として「ベルリン」、「狼の巣」、「鷹の巣」、「リンツ(ゲルマニア)」が目標として最も効果が高いだろうと考えられた。 だが、これに対する問題も山積していた。 最も問題だったのは、これらの目標は濃密なRDF網と、多数の防空戦闘機隊と高射砲、誘導ロケットにより異常なほど強固に防衛されており、通常の爆撃では到底攻撃不可能だと言うことだった。 もちろん、ドイツ自身が保有するような超音速で成層圏外を飛翔する弾道弾を保有していれば話は別だったろうが、英国軍の兵器体系にそのような奇想天外な兵器は未だ組み込まれていなかった。 また、万が一そのような特別な兵器により攻撃が可能だったとしても、それがドイツの形振り構わない激発を呼び込み、彼らの持つロケット兵器や、保有数がハッキリしない核兵器の実戦使用をされては目も当てられないため、攻撃方法はヒトラーの精神的防御力の許容範囲内でのメッセージとしての効果を持つ通常手段による爆撃が適当とされた。 このため最初に攻撃方法と考えられたのは、「飽和爆撃」だった。 それこそ英国が保有する戦略爆撃機と長距離戦闘機の全てを投入するような攻撃であれば、彼らの濃密な防空網を突破する事も可能だろうと言う事だ。確かにこの攻撃方法なら、数学的な作戦成功率は高いだろうと判断され、実際戦前から似たような研究は重ねられてきた。 だが、この攻撃方法は、より堅実なルール工業地帯やドイツ北東部の工業都市に対する爆撃方法として研究されていたのであって、今回のような投機性の高い作戦を行うには、コストパフォーマンスで到底釣り合いのとれるものではなかった。 それに、メッセージとしての爆撃としては、その効果が大きすぎるのではという疑問が最初から持たれた。 となると、次なる手段は少数精鋭による爆撃だった。 実際、前回の戦いではモスキートを用いて各地で行われ、快速を活かして何度も同種の奇襲任務を成功させており、ロイヤル・エア・フォースとしても特に異論のない作戦だった。 問題があるとすれば、欧州の空はジェット戦闘機を新たな主として受け入れており、英国に新世代のモスキート足りうる航空機が存在しない事だった。 だが世界は広いもので、似たような事を考えている者は沢山いるらしく、新たな翼は開戦時すでにカナダからブリテン島を目指して大西洋上を進んできていた。 だがこの機体は、英国製ではなかった。
大西洋を航行していたのは、「コロッサス級」航空母艦の後期建造型に属する「アルビオン」で、数隻の護衛を従えた彼女は約40機の艦載機を搭載できる中程度の速度を持った航空母艦で、空母としては「帯に短し襷に長し」という日本の諺がこれ以上ないぐらい似合う能力を持つ中途半端なものだったが、後期型は速力や防御力の面で姉達から幾分改善されており、また実験的にスチームカタパルトを装備している事が、彼女が今回の輸送任務に抜擢された要因だった。 彼女の格納庫内には、海軍が新世代の機体として開発されたと言われる機体が、各タイプ合計1個中隊分とその予備パーツ、装備一式と共に搭載されていた。 このことから、この機体が比較的大型なだと言うのが分かるだろうが、それもその筈で、彼女の体内で出撃の時を待っていたのは、当時としては斬新なスタイルを持った双発のジェット戦闘爆撃機だった。 そして「アルビオン」は、搭載された新型機の海上試験を行いつつ大西洋を横断、既にドイツ軍機の跳梁が始まっているブリテン島の北西部の港へと極秘裏に入港した。そして、新たな翼が始めて本国人の目に触れのだが、厳重に隔離されていた彼女が入港した区画に入り込んだ人々は、奇妙な光景を目にする事になる。 どう見てもアジア系にしか見えない人々が多くみかけられ、その行動はどう見ても熟練した技術者や整備兵のものであり、驚くべき事にパイロットまでいた。 そして、同じように行動している英連邦軍の兵士や技師たちもそれを咎める事はなく、それどころか共同で作業にあたっているらしかった。 つまり、空母からクレーンで降ろされつつある新型機には東洋人の手が入っている、もしくは東洋の端っこの島で開発されたものだという事だった。
本機は日本(海軍)では「景山」と呼ばれ、東洋最大の航空機メーカー中島飛行機が送り出した最新鋭のジェット戦闘爆撃機だった。 だが、その原型を求めると、それは日本海軍内部で航空機開発を担当する空技廠が開発を行っていた試製「景雲」と呼ばれるものをその原型にしているとされ、日本海軍内でも[R2Y1]の開発名称を持ち、「景山」の直接のご先祖となるジェット機型の「景雲改」・[R2Y2]というものまで存在していた。 だが、日本での本機の開発は難航した。 レシプロ高速偵察機として開発された「景雲」の方はそれなりの成功を収め、日本海軍だけでなく他国にも輸出される程だったが、「景雲改」は胴体下面に双発のジェットエンジンを配置するという当時としては斬新なスタイルを持ち、その機体にマイクロ波電探、余圧キャビン、射出座席など様々な新機軸を搭載した野心的な作品だったが、そうであるだけに開発が難航し、また開発当初は満足のいくエンジンが手に入らなかった事から、結局空技廠は開発を断念し、技術理念だけを民間各メーカーに伝え、今後の参考とするようにとして計画を消滅させる事にした。 つまり空技廠内での「景雲改」とは、理論研究のための存在という体裁が取られ、機体そのものは葬り去られようとしたのだ。 だが、捨てる神あれば拾う神ありで、当時アメリカ大陸で販路の拡大を図っていた中島飛行機が、完全な水面下で英国海軍関係者とカナダで接触し、短期間で高速爆撃機の開発が可能かを打診してきた事でその開発理念が呼び起こされる事になる。 そして中島の開発陣は、「景雲改」を元に一週間ほどで概念図を作り上げて英国との水面下での交渉を開始し、その後カナダでの極秘開発が開始される。 もっとも、この中島の動きを日本陸海軍も掴んでおり、「景雲改」を元にするのだからと海軍が首を突っ込み、開発に協力する代わりに英国側からも必要な技術の供与を求め、開発に成功した場合は日本でも使う事を英国側にも認めさせてしまい、ここに民間飛行機会社を介した日英の共同開発が始まる。
本機は、何度も言うようだが胴体下面後部に双発でジェットエンジンを搭載する、当時としては斬新なスタイルを持っており、合計5000kgの大パワーで大幅な後退翼を持つ全長15メートル近い巨体を推進させ、機首にはマイクロ波電探とかなり大型な武装を搭載できる空間が確保されていた。 そして機体は高射砲の断片や12.7mm機銃弾程度で簡単に墜落しないだけの丈夫な構造を与えられ、その翼内にはM2ブローニング機関砲(12.7mm)を各1丁持ち、さらに翼下にはパイロンが5つ設けられ、最大5,000ポンド(2,46トン)もの積載が可能な、当時としてはモンスターに類する能力を持っていた。 なお本機は、日本では「景雲」の後継者という意味と、攻撃機を現す「山」を掛け合わせた造語となる「景山」という愛称が贈られたが、英国では開発当初は「G」ウェポンとだけ呼ばれ、実戦配備後も単に「G」とだけ呼ばれる事が多かった。 この頭文字の意味するところは明確にされていないが、「ジャーマン」の「G」、「巨大」や「巨人」という意味の「G」、もしくは「景山」の頭文字を意味するのでないかと言われている。 また本機は、戦闘爆撃機という事で開発時から様々な装備を施したタイプが生産され、「S(スタンダード)タイプ」が機首に30mm機関砲4丁を持ち、「Sタイプ」の機体下面にアメリカ製の75mm砲を装備し翼内のM2を2基増設した「B(バスター)タイプ」、無誘導ロケット弾多数を機体内に標準装備した「A(アサルト)タイプ」、機体を複座にして精密爆撃もしくは雷撃を行えるようにした「C(タンデム)タイプ」、同じく複座で偵察装備を満載した強行偵察型となる「D(スカウト)タイプ」がそれぞれ1個小隊ずつ試作され、評価試験が行われる事になった。 そして、「アルビオン」で最初に英本土の地に降り立ったのは、これら増加試作が辛うじて間に合った5種類全ての機体であり、ここに英国の窮乏を見る事ができるだろう。
そうした強力な機体だったが、もちろん欠点も存在しており、贅沢な素材と先進的な技術を用いすぎた事から機体価格が高い事が量産を阻む一番の原因と言われ、また双発の大馬力エンジンを制御するにはかなりの熟練を必要とし、ましてやその機体で対地爆撃を行い、対戦闘機戦闘までこなすのだからとてもターキーでは扱えない、そう言う意味でもモンスターとなっていた。 このため、英本土に持ち込まれた時も多数を運用するにはパイロットの頭数が足りず、開発に参加していた日本の空技廠に属するテストパイロット複数がいまだ操縦桿を握っているという有様で、英国側も臨時の教官として傭兵契約を結んでそのまま英本土に連れ込んでしまい、挙げ句に実戦参加までさせる事になる。 しかもそれでもパイロットが足りず、中島が社内でテストパイロットとして雇っていた民間人すらも教官としてそのまま英本土に招かれてしまい、戦時という特殊な環境が様々な人々をこの機体に乗せることになる。
さて話を戻すが、ドイツへの政治的メッセージの意味を持った爆撃は、その政治性、ヒトラー個人への当て付けとしてあえてベルリンが選ばれた。 また、作戦に際しては、本機を英本土まで運んだ「アルビオン」を発進基地とする事となり、彼女を中心とした特別攻撃部隊は、北大西洋と北海を英本土から大きく迂回しつつ、ドイツの沿岸哨戒圏ギリギリで欧州大陸に接近し、ジュットランド沖で攻撃隊全機を放ち、攻撃隊は低空での高速進撃でベルリンを目指し、任務達成後は母艦には戻らず、英本土の地上基地を目指しての遁走を行う事になった。 攻撃隊のプラットフォームとして空母が選ばれたのは、英本土に存在するほとんどの航空基地はドイツの監視するところにあり、作戦を可能な限り秘匿する上で洋上を機動するプラットフォームの方が都合が良いとされたからで、それ以上の理由はないとされたが、その後の政治的衝撃度の大きさを考えれば、実に妥当な選択だったと言えるだろう。
1949年6月6日未明、特別航空隊も同様に「Gフォース」と呼称されたベルリン攻撃隊は、作戦開始海域まで無事到着していた。 この段階においてドイツ軍は全く気付いている気配はなく、海上作戦には英国海軍に一日の長ありというところを見せつけた。 だが、わずか数週間で気むずかしい機体のパイロットの都合が付くわけもなく、苛酷な訓練スケジュールにより貴重な機体の幾つかとパイロットを失って後、出撃日の6月1日にパイロットの志願と選抜が行われ、開発当初から携わっていた東洋人と新大陸人の過半がパイロット特有の職人気質から作戦に志願し、技量の点からロイヤル・エア・フォース側もこれを認めざるをえず、驚くべき事に作戦参加パイロットの三分の一は外国人パイロットが占めるという奇妙な事態になっていた。 ただし、英国人以外のパイロット達は、それまでに作戦に必要な「教官」として訓練全てに参加しており、英国側もあくまで保険としてではあるが、当初から外国人達に期待していたと見るのが適当だろう。でなければ、ドラマのように簡単に部外者が軍事作戦に参加できるワケがないのだから。
作戦に参加したのは、増槽と電子装備を満載した偵察型2機と遠距離から支援する警戒管制機を除くと各種合計12機の中隊編成の攻撃隊から成っており、いつもより濃密な友軍の電波妨害の中、低空を高射砲回廊を避けつつ高速で北海、そしてドイツ北東部を突進していた。 また、この作戦に呼応して、英国の戦略爆撃や戦術爆撃がドイツ沿岸部に集中して行われ、この攻撃をカムフラージュした。 これらのファクターのため、ドイツ人達が懐深く敵機に侵入された事を気付いたのは、ベルリン中心部に最初の攻撃が行われた時で、時速900km/h以上で高射砲地帯を避けつつ低空で遁走を計る敵機を追尾できるのはベルリン方面など内陸部に展開する第一航空艦隊に属する防空隊以外なく、他はドイツ沿岸部の防戦で手一杯の状況で、これですらMe-262の夜戦型とやや旧式の双発レシプロ夜戦のごく一部だけで、当然と言うべきか速度的に追尾は難しく、急遽迎撃に飛び立った各地の航空隊も、ごく一部が絶妙の航空管制で会敵に成功しただけだった。 そして「Gフォース」に会敵した夜間戦闘機隊も、平然と雲海の中を突進し、まともに空戦に応じようとしない高速機相手では一撃を浴びせるのが精々で、しかも新世代の全天候型戦闘爆撃機と黎明期のジェット機の改良型ではその勝負も明らかであり、「Gフォース」は遂に英本土へと逃げおおせる事に成功する。
なお、このベルリンに対する投機的な攻撃は、ドイツ上層部の教科書通りの反応を呼び起こし、特にこの時の戦争が政治的意義の高い戦争だと双方が認識していただけに大きな成果を挙げている。 もちろん、双方の市街地爆撃により犠牲となった市民の存在を考えなければ、という事になるが。 そして、この作戦により戦略的イニシアチブの一部を取り戻した英国と、またも泥沼の消耗戦に足を突っ込んだドイツという図式により、空での戦いはさらに熾烈さを増していく事になる。