■Case 02-01「戦争と近代日本」

 グリニッジ標準時で1949年5月15日午前9時、北米大陸東海岸の時間で5月15日未明、日本時間で5月14日夕刻、インド洋ではその日の午後丁度、ドイツによる宣戦布告の3〜30分後、日本の首都機能と海軍力に対して大規模な攻撃が行われ、中東ではペルシャ湾目指して地上侵攻が開始された。
 しかも、ドイツが攻撃を行った国は日本だけでなく、日本と同様に中東に大きな戦力を派遣していたアメリカも含まれており、当然同国に対しても大規模な攻撃が行われていた。
 それは誰疑うことのない第三次世界大戦の勃発した瞬間だった。
 だが、戦争にはそこに至るまでの理由があり、それぞれの言い分があるわけだが、ここではそれを日本の視点から見て、まずは開戦に至るまでを見ていきたい。
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 「日本帝国」や「大日本帝国」、単に「日本」とだけ呼ばれる極東とされる東洋の端っこの弧状列島に存在する小さな島国は、それまでの近代国家としてはかなり特異な存在だった。ある意味、異常と言ってもよいだろう。
 それまでの近代国家と言えば、白人を中心にキリスト教を信奉する国民により構成された国々を指し、近代憲法を持ち国民全般の民度が高く、できうるなら工業化し、さらにそれなりの軍事力を保持していることがおおよその条件で、そのような条件を備えた国家は概ね欧州大陸に集中して、これにアメリカ合衆国が加わって、南北アメリカ大陸に存在する国家が準白人国家が連なる程度だった。そして、この欧米の幾つかの強国で作られた表面的政治理論を実践していない国は、彼らの圧倒的武力と国力を背景にしたそれらの「近代国家」の植民地とされ、抑圧の歴史を歩むことを当然のこととされていた。しかも、同じ白人・キリスト教国家であっても、国力が小さければ衛星国や属国になることも希ではなかった。
 その状況を突き崩したのが明治維新を成功させて近代国家への変貌を開始した日本帝国であり、二十世紀初頭行われた、「日露戦争」と呼ばれる日本とロシアによる局地全面戦争によって世界を大きく揺れ動かす事になる。

 この戦争の影響力の大きさは、今日日本国内の日露戦争にまつわる史跡・記念碑に白人国家を除く多くの国の代表が訪問する事からも伺い知れるだろう。それまで白人社会に抑圧された事を知っている人々の全てが、この戦争をいかに考えているかの何よりの証拠だ。
 また、「白人国家に勝利した」というただその事だけで、一世紀にわたる親日姿勢を崩していない国も珍しくないし、帝国主義に怯えた欧州の弱小国すら似たような感情を多く持っていた。
 これは大航海時代以後の欧州国家に対する横暴を、他の地域の人々の感情の裏返しと言ってしまえばそれまでだが、そうであるだけに日露戦争に勝利した東洋のちっぽけな国に対する期待は極めて大きなものだった。世界中の植民地独立運動家が一度は東京を訪れたとすら言われ、欧州各国が強いクレームを叩きつけたその事からも期待の大きさを疑う余地はない。
 そして「日露戦争」に代表されるように、日本の近代国家としての特徴は、他国よりも強い「戦争」というファクターによって集約でき、彼らが直接関わった戦争の全てが日本のプラスに作用した点が特異と言えるだろう。
 いや、戦争を行うたびに成功をつかみ取ったからこそ、近代国家建設から百年にも満たない間に世界最強クラスの列強として君臨しているのだろうか。

 「明治維新」、「西南戦争」、「日清戦争」、「日露戦争」、「第一次世界大戦」、「太平洋戦争」、「第二次世界大戦」、大きくこれらの戦争が日本が深く関わるか大きな役割を果たした戦争で、最初の二つが統一国家建設のための内戦である以外その全てが対外戦争だと言うことが異常で、さらにその全てが日本国外で戦われた戦争だと言う点に、この小さな国家の海洋覇権国家としての性格を強く見ることができる。
 外地で戦うと言うことは、ローマ帝国以来覇権国家の伝統であると同時に、国家を肥大させるための必須事項で、日本人達は自らの弱小を信じて疑わないが故に「富国強兵」と言う自らがドイツのビスマルクの弟子であるかのごとくのスローガンを掲げて国際社会に乗り出し、祖国防衛と民族自決のため、自らも他の有色人種国家のように植民地・半植民地にならないために突っ走り、これは意図してか意図せずしてか、海洋覇権国家としての最短経路をひた走っていた事になるだろう。
 そして有色人種国家(非白人国家)であるが故に、戦争に勝利するたびに欧州以外の他者からの期待は大きく膨れあがっていった。
 日清戦争後は、敵国だった清国から自国の近代改革を求める人々が数万人単位で日本の近代化を学ぶべく留学するようになり、日露戦争後はこれが東アジア全域に広がり数々の有名な革命家や運動家が来日し、またロシアに勝利したと言うことで、反ロシア的な国家からは白人国家、非白人国家を問わず英雄的・神話的色彩を帯びて語られ期待されるようになり、第一次世界大戦においては英国との同盟に応えるという形で欧州大陸にまで大きな兵力を派遣したにも関わらず他からの期待はさらに募り、その総決算であるベルサイユ講和会議の後にあった「国際連盟」という国際機関設立の際の会議上で日本に人種差別撤廃を謳わせるに至った。
 もっとも、この頃の日本は列強としてまだまだ小さな力しかなかった事と英国と同盟関係にあるなどしたため、この理想主義を引き下げ、白人による列強倶楽部の末席としての役割から大きく外れることはなかった。
 その後、日本と列強双方の政治的妥協、莫大な戦費の返済のため植民地主義に拘泥する欧州列強の横やり、支那各勢力の当時の国際ルールを無視した行動などにより日本のこの行動はベルサイユ体制の中で停滞するが、アメリカと支那による日本に対する無理解が激発した形の「満州事変」によって、自らの掲げた「王道楽土建設」つまり「人種差別撤廃」というスローガンを最初に実践する国家を建設してしまう。
 しかもその前後の軋轢から発生したアメリカとの短期全面戦争において、日露戦争に匹敵する完全勝利を掴んだ事は、日本そのものにまで大きな気分を持たせてしまい、当然他者に抑圧された民族の日本に対する期待はピークに達した。
 しかも世界最大の経済大国を、艦隊決戦の連続という教育程度の低い一般民衆にも分かりやすい勝利によって一瞬にしてうち破ってしまったのだから、感情面における日本への期待はなお一層大きなものとなった。
 この感情の名残として、日露戦争の英雄と同様にこの時の日本の有名な軍人の名を冠したストリート名、酒類の銘柄などが世界各地に存在している事が挙げられる。
 またとある国では、この時大きな活躍をした日本の主力戦艦の名前を歌にして覚えたという事例すらあるほどの熱狂ぶりだった。

 そして敗戦国であるが故に、日本を中心とするこの動きを脅威に感じたアメリカの思惑と政治的策謀、戦勝国である日本の何となくと言って良い浮ついた気分が、それまで数閏年続いた日英同盟を捨てさせる事につながり、鎖を解かれた日本と言う野獣は、その次の戦争で欧州列強に襲いかかることになる。
 なお、太平洋戦争で呆気なく敗北したアメリカ合衆国は、日露戦争でのロシアがそうだったように戦後日本との協調姿勢を強くして、さらに経済的共存関係を強くする事で自らの国家戦略の修正と失点の取り返しを計るようになり、その政策が次の段階に至るまでに、世界中がそれまでとは全く違った環境へと変化してその流れが固定してしまっている。
 つまり、敗戦後のアメリカの親日姿勢は一時的な方便に過ぎなかったものが、状況の変化でそれを続けざるを得なくなった、と言うことになるだろう。

 そして全ての状況を変えてしまった第二次世界大戦だが、この戦争は「イデオロギー大戦」と一部で言われるように、第一次世界大戦のように連合国や同盟国という分かりやすい図式で二大勢力が激突するという形ではなく、しかも純粋な国家利益よりも、イデオロギーの皮を被った国家利益が前面に出た、国家の全ての力をかけてぶつかり合う壮絶な戦争となった。特に欧州大陸においてその激しさは、それまでにない程加熱する。
 国家社会主義のもとドイツ民族の「レーベンス・ラウム(生存圏)」の確立と欧州の新秩序を目指すドイツ第三帝国(Das Dritte Reich(ダス・ドリッテ・ライヒ))、大東亜共栄圏の確立と民族自決、植民地解放を旗印とする大日本帝國、共産主義拡大を大きな目標とするソヴィエト連邦、自由(貿易)主義を掲げたアメリカ合衆国、そして旧世界の全てを守る羽目になった英連合王國(United Kingdam(ユナイテッド・キングダム))がその代表だ。

 戦争当初は、英仏対独伊という伝統的世界対ファシズムという実に分かりやすい図式で推移したのだが、西欧列強(フランス、ベネルクス)の崩壊、英国の危機という状況に、東亜解放を国是としてしまった日本が目を付け、1940年の冬には欧州での手詰まり打開のため日本との関係を良好にして自国側に参戦させたいドイツを介したヴィシー政府との交渉でフランス領インドシナ進駐が行われ、その流れのまま遂に日本は英国に対して宣戦布告を行い英領マレーへ侵攻、そして東南アジア各地での圧倒的な勝利に乗じる日本は、英国の至宝インドへと兵を進めていく。
 そして1941年夏までに、それまで培った圧倒的かつ先進的な海軍力を中核とする日本軍は、それまで世界最強を謳われていたロイヤル・ネイビーを完膚無きまでに駆逐し、インド洋全域の制海権を得るに至る。
 当然それに前後して、日本軍主導によるインド解放が進められ、インドは英国の兵站拠点ではなく前線となり、独立を求める当地の人々の制御ができなくなった英国はインドを失うことになる。
 そして連携していないとは言え、日本の参戦によって英国が自国に向かってくる余力をなくしたと判断したドイツは、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの本来の目的であるスラブ民族との戦いに没頭していく。
 1941年夏からあしかけ2年続いたドイツとソ連の史上最大規模の陸戦は、ドイツがヨーロッパ・ロシアの過半を占領し、スターリンと共にソヴィエト・ボルシェビキ体制が崩壊したことで一時的に終止符が打たれた。
 そして、インド洋に進出して以後の日本が、活発にインド解放を進めつつ、ドイツへのプレゼンス維持と資源地帯獲得のためペルシャ湾へと駒を進め、経済的な有利を求めるアメリカがここで日本側に肩入れして共にアラブ世界へと兵を進め、その後千日手となった戦況を前に、交戦国全ての国の損得勘定が妥協した結果、1944年の停戦と「ニューヨーク講和会議」へと流れていく。
 なお、それぞれ個々に保守勢力に挑戦したドイツと日本は、それぞれの戦争スローガンの違いから戦中はもちろん講和会議においても強く連携する事は遂になく、また経済的妥協で日本の片棒を担いだ形になったアメリカは、世界最大の生産力と経済力を抱えたまま最後まで戦争に直接参加する事はなく、やや中途半端のまま戦いの幕は下りる。
 そして第二次世界大戦は、日本にそれまで以上の変化とそれに伴う政治的大国化を求めていくようになる。

 Case 02-02「大東亜共栄圏」