■Case 02-02「大東亜共栄圏」

 戦争の帰趨が決定的となりニューヨークでの講和会議が始まる直前の1943年11月、日本帝国は自らの政治目的達成のための「儀式」を執り行った。
 東京で全亜細亜の代表を集めた「大東亜会議」を開催たのだ。
 参加国は新たに独立した国が多くを占めていたが、大日本帝国、中華民国、印度共和国、大韓国、タイ王国、フィリピン共和国、内蒙古王国、蒙古共和国、満州国、ベトナム共和国、ラオス共和国、カンボジア王国、マレーシア連邦共和国、インドネシア共和国、ビルマ共和国、パキスタン共和国、イラン王国、アラビア半島諸国連合と全アジアに及んでいた。
 また、オブザーバーとして多数の国が大使や外務次官クラスの代表を送り込んでいる事も多く、単なる応援団体や野次馬とすら言える国々を合計すると、その規模は欧州の過半を除く国際連盟とほぼ同規模と言ってもよかった。もちろんそれらの国々の過半は有色人種国家か準白人国家としてそれまで苦しい政治を余儀なくされてきた国々が過半を占めていた。
 南米のとある大国など、自国が有するたった一隻の戦艦で代表を送り込み、この事一つを例としてもこの会議への期待の大きさを見ることができるだろう。
 そして、そのオブザーバーの中にアメリカ合衆国が含まれている事は、組織の安定性と欧州に対する優位を物語っていた。

 なお、この会議では「各国の自主独立」、「各国の提携による経済発展」、「各民族の伝統文化の尊重」、そして「人種差別撤廃」を謳った『大東亜共同宣言』が満場一致で可決され、日本の戦争目的の完遂を世界中に宣言された。
 そしてこれは約5年後の1949年1月にハワイ・オワフ島において日米を中心とした「アジア・太平洋条約機構(APTO)」として結実し、この時集まった全ての国々を参集したさらに規模の大きな国際会議の原型と言えるもので、世界中に欧州列強を中心にした植民地帝国主義が終焉したことを世界に印象づけた。
 そして「大東亜会議」開催から「アジア・太平洋条約機構(APTO)」成立までに、「国際連合(United Nations)」(1945年)、「欧州経済協力会議」(1945年)、「ブリュッセル条約機構(BTO)」(1947年)など数々の国際機関が新たに設立され、世界はそれら新たなブロック構造を形成しつつ、それまでの混沌とした状況を続けていた。
 そしてその混沌は日本と中心とした「大東亜会議」も例外ではなく、共産主義から国家社会主義陣営に支援されるようになった中華ソヴィエト(中華人民共和国)と中華民国によ内戦、旧インド帝国の分離独立による事実上の内戦と分裂後の軍事対立、そして欧州以上に複雑怪奇なペルシャ湾岸情勢の三つが日本にとっての頭痛の種となっていた。
 それぞれ「支那問題」、「印度問題」、「中東問題」と日本帝国政府の公式文書に記載されたこれらの混乱は、まさに日本自身が激発させたようなものであり、またそれぞれの地域全てに日本にとっての金の卵を産むガチョウが潜んでいるだけに、日本自身が手抜きにするワケにもいかなかった。
 順に見てみよう。

 まず「支那問題」だが、ここでは1911年の辛亥革命以後この時に至るまで内戦が継続されており、英国が支配する香港と1932年に日本の手で分離された満州地域がこの例外として存在するだけで、上海などにある列強各国の租界ですらこの無秩序な大地での争いの外にいることは不可能な程だった。
 しかし、戦乱の流れが尽きることがないという事は、それだけこの地域では武器弾薬その他諸々の戦争物資を必要とする事と同義語で、総人口4億人以上というパワーがもたらす一般市場としての効果も相まって、列強にとっての有望なマーケットの一つとして注目されていた。
 だからこそ、日本とアメリカの対立が激化して、互いに宣戦布告してまでして戦うことになったのであり、英国以下の列強をここに固執させる事にもなった。
 だが、1930年代半ば以降、特に欧州での混乱が始まってからは、日本とアメリカがこの地域で最も大きな勢力を示すようになり、距離という絶対的な優位を持つ日本が経済競争を有利に運んでいた。
 特に好調だったのは武器売買で、マキャベリストにしてオポチュニストである蒋介石は、武器その他物資・資金が誰のものであろうとも、自らの権力を強化し共産主義者を駆逐するためなら選り好みする事はなく、太平洋戦争以後の日本の戦勝によって一時的に日本の覇権が増大した頃から、日本の兵器をより多く購入するようになっていた。
 また、日本は一時期のアメリカのような無尽蔵な金銭的援助や武器援助を行う体力がないため、蒋介石率いる国民政府と国府軍の人的育成に努力を傾けるようになり、日本の勢力圏で数年かけて教育を受けた軍人、兵士、官僚達はそれまでの盗賊に毛が生えた程度だった軍閥の集まりに過ぎない国民政府の近代化を主導する背骨となり、近代民主主義、資本主義、近代憲法などを体感的に学んだ彼らの多くは、その後も日本ロビー活動に自然に傾き、援助や支援を求めるにしろ何かを購入するにしろ日本を重視するようになる。
 そしてアメリカが優先協会率いるウィルキー政権下で内にこもり、欧州が他の地域でアクティブな行動が出来ない間に支那大陸での影響力を一番大きなものとしていた。
 なお、日本が蒋介石を支援した理由に、共産主義に対する言いしれぬ恐怖心があった事も忘れてはならないだろう。

 そして支那大陸で得られた膨大な外貨は、日本列島のさらなる発展に使われたり満州の開発に注がれ、第二次世界大戦が終わろうとする頃、日本の国力を大きくすることに非常に大きな役割を果たしていた。
 だが、支那情勢は依然として二つの勢力を中心にした内戦という構図が崩れる事はなく、日本の裏庭というべき東シナ海の安全保障を考えると自国の軍事力の展開に大きな労力を傾けざるを得ず、決してよい事ばかりではなかった。また、国民政府がことあるごとに援助や支援を口にして、それを材料にアメリカや他の列強と取引しようとする無節操な姿勢も、周辺地域の安定を考えると好ましくない要素だった。
 さらに、満州国も支那情勢を考えると良い事ばかりではなかった。
 満州国そのものは国際連盟の時代に民族自決の国際的流れに従い、国際的にも独立が認めら、しかもそれまでの国際慣例に従えば日本の既得権益であり、それが日本主導により分離独立されても、普通なら意義が出るようなものでなかったのだが、欧州主導の国際ルールなど歯牙にも掛けない支那各勢力は、日本から大きな援助を受けている国民政府すら満州を正式承認しておらず、中華ソヴィエトに至っては、文明人とは思えないほど口汚く罵った挙げ句、テロ活動をすることが日常茶飯事ですらあった。
 幸いにして、それまで中華ソヴィエトを支援していたロシア人達が、今度は自分たちの生存のため満州を必要とするになったため、第二次世界大戦中に物的レベルでの中華ソヴィエトの活動は停滞し、その後彼らを支援したドイツも距離の問題から大きな事は出来ず、次なる戦争の足音が聞こえていた1940年代後半の支那大陸は、蒋介石率いる国民政府を中心として比較的平穏と言ってよかった。

 次に「印度問題」だが、この地域はそれまで大英帝国の至宝と言われるほど英国にとって重要な植民地だったが、1941年夏に日本軍がインド洋に大挙侵攻して英国軍事力の殲滅と同地域の解放を推し進めたため、血みどろの中全てを失うことよりも、どうせ失うならその後の命脈を保つべく、名誉を重んじるという形でインド帝国を手放した英国の思惑によって、ニューヨークでの講和会議が始まるまでにインド地域は完全独立を達成した。
 だが、インド全てを内包したゆるやかな連邦国家を目指していたマハトマことガンジーの願いも虚しく、彼がテロの凶弾に倒れるとインドの過半を占めるヒンズー教徒を中心にしたインド共和国とイスラム教徒が大多数を占めるパキスタン(現パキスタンとバングラディシュ)、そして植民地化以前はインドから地域として独立していたビルマ(ミャンマー)に分離し、さらに仏教徒の多いセイロン(現スリランカ)、ネパール、ブータンといった地域も独立の機運を高めるという状態になったし、インド地域の少数派のひとつであるシーク教徒はインド領内に複雑に入り組んでいたので独立国家を得られなかったため、その後宗教対立という内政問題としてインドに深い影をもたらす事にもなった。日本にとって意外だったのは、世界一を謳われたグルガ(傭兵)が日本に対して比較的従順だった事だろう。
 なお、1943年から45年にかけてパキスタンとインドが分離する間、ヒンズー教徒とイスラム教徒との民族大移動とその過程で必然的に発生した宗教的内乱状態の間、新たな盟友となる筈の日本とそれまでの統治者たる英国は、内乱であるだけに政治的傍観者として過ごさざるをえず、新たな盟友たる日本はそれぞれの地域がある程度落ち着くのを待って、それぞれの政府と各種条約を結んだり、援助の約束をするなどの行動に移った。
 日本にとって幸いだったのは、インドが各地域に分離独立しても、その全ての地域での親日姿勢は強く、日本とそれぞれの国の単独の関係が比較的良好になった事だろう。
 だが、日本と個々の国が良好な関係であろうとも、インド各地の国々は宗教的、民族的対立が強い事には変わりなく、日本にインドと言う巨大市場を与える代わりにインド五千年の重みを背負わせることになった。

 そして最後に「中東問題」だが、他の地域以上に事情は複雑だった。
 日本とその尻馬に乗ったアメリカが手にした地域は、英国からむしり取ったイランからペルシャ湾をぐるっと囲んだ地域の全てと、アラビア半島全域になる。
 それ以外の中近東地域は、ドイツが英国軍を駆逐しつつ進撃してきており、日本陸軍の機甲師団とアメリカ海兵隊がクェートという地域をほぼ制圧した頃バグダッド進駐を果たし、その後国交を保っている国同士だったので握手を交わして便宜上の勢力境界が設定された。
 そしてそこでの大きな問題は、イスラム二大宗派の対立と少数民族問題、そして英国とドイツが火に油を注いだ形になったユダヤ人問題だった。

 イスラム教は、マホメットをその教祖とする厳格な一神教で、『コーラン』と呼ばれる聖典を何よりも大切にし、偶像崇拝を禁止した自然崇拝的なそれまでの宗教とは一線を画した宗教で、アラビア半島のメッカに聖地があるように元来は中東アラビアに発した民族宗教だが、現在は世界宗教として、北アフリカ〜西アジア〜インド〜東南アジアを中心に分布。「ムスリム」と呼ばれる信者は、21世紀現在で推定で6億人いると見られている。
 そして多数派にして正統派である「スンニー派」と、少数派異端とされる「シーア派」に大別でき、その他に様々な分派が存在する。そしてその宗教分割線が人工的に国境が惹かれた形となったイラク全土に分布しており、また現トルコからイラク、イランにかけて分布しているクルド人問題がこの地域で最も大きな宗教問題だった。
 もっとも中東地域が抱える問題は、外から見れば小さな問題にしか見えないことも多く、特に宗教問題や人種問題とは縁の薄い日本などからすれば、いったい何を理由にして対立しているのか分からない状況でしかなかった。
 日本人の感覚からすれば、宗派の違いと言っても真言宗と一向宗程度の違いという認識しかなかったのだろう。

 そして宗教勃興時の勢いを持ったまま8世紀初めにウマイヤ朝は、イベリア(スペイン)半島からインダス川流域に至る最大版図を実現してこれがイスラム教普及の最大の功績なり、以後それらの地域には様々なイスラム教を信奉する国家が栄枯盛衰し、13世紀末に成立したオスマン・トルコ帝国が16世紀に急膨張して、中東・アラビア地域の全てを飲み込み、以後20世紀に入るまでその支配は続くことになる。
 この間特に大きな問題はなかったのだが、第一次世界大戦でのトルコ敗北、オスマン・トルコ帝国滅亡により中東のハートランドは戦勝国となった英仏の統治するところとなり、ここで英国はアラブ人に対する現地国家建設の約束を反故にして英仏と適当なラインで分割してしまい、ここに民族問題を無視した国家の源流が多数作られる事になった。
 そして中でも問題だったのが、第一次大戦中に英国がユダヤ勢力と約束したパレスチナでのユダヤ人国家建設の口約束であり、その後のユダヤ人自身の行動だった。

 Case 02-03「セカンド・エグゾダス」