■Case 02-03「セカンド・エグゾダス」
「ユダヤ」と呼ばれる民族は、世界の様々な民族の中にあっても変わった民族で、またとかく注目を受けやすい。 特に「ユダヤ問題」が有名だろうが、この言葉を耳にして何を真っ先にイメージするだろうか? また、ユダヤと言えば「ゴルゴタの丘」、「ヴェニスの商人」などが欧州人が真っ先に思い浮かべる事になるだろう。 そしてこの二つのキーワードこそが、中世ヨーロッパ時代以降のユダヤという存在そのものを象徴するものになる。 つまり、とても根の深い宗教問題とユダヤによる経済支配こそがユダヤ問題のキーと言うことだ。 また、ハイネ、マルクス、フロイト、アインシュタイン、チャップリンなどといった数多くの有名人の多くがユダヤ人で、ノーベル賞受賞者の三分の一はユダヤ人だとされる程の優秀性を示しているのも近世以降のユダヤ人の特徴だろうか。
数々のユダヤ人問題やユダヤ人の発祥とその経緯などを、語り出すと長くなるのでその委細についてはここでは触れないが、ユダヤ人問題そのものは、もともと離散民族となった彼ら自身の問題だったのだが、その彼らが離散後に欧州社会で抜き差しならないほどの力(経済力)をつけた事からかシオニズム運動と言う回帰運動を開始したのが近代におけるユダヤ人問題の発端で、その火種を育てたのがキリスト教を中心とした欧州社会で、本格的な火種を蒔いたのが20世紀に入ってからの英国(とその裏にいる国際資本)だったが、英国の二枚舌外交が第一次世界大戦で振りまいた災厄は、非常に悪質のものだった。 これを簡単に書くと、フランスとの間では戦後の中東を両国で分割する密約(サイクス=ピコ協定)を結びながら、アラブ人にはパレスチナを含むアラブ国家の独立を認め(フセイン=マクマホン書簡)、さらにユダヤ人に対してもパレスチナでの「民族的郷土」の建設を支援する約束をした(バルフォア宣言)と言うことになる。つまり英国は、二枚舌どころか「三枚舌」外交を行ったのだ。 そして、英国からの一札を取り付けた事を強引な理由としてか、パレスチナ地域へのユダヤ移民が俄に増加する。 なお、ユダヤ人自身は19世紀末以降、特にヨーロッパにおける反ユダヤ主義の高まりの中、自分たちの国家建国を目指してパレスチナへの移住を開始しており、これを「シオニズム運動」と呼び、ヨーロッパからパレスチナへの移民は20世紀に入り急増して、1930年代にはパレスチナのユダヤ人口は16万人に達していた。 そして、ナチス・ドイツの反ユダヤ政策はこの流れを加速させ、ドイツ軍がエジプトを制圧した1943年初頭にさらなる大きな混乱が近東地域に押し寄せる。
ナチス率いるドイツ第三帝国の手による第二次世界大戦が始まり、彼らが戦渦を広げるたびに彼らの評判を聞いた人々による多数の難民が発生し、特にそれなりの経済力のあるユダヤ人は、まだ安全な中立国を経由するなどしてパレスチナを目指す動きを強くしていた。 もちろん、海路多数の同胞が住むアメリカ合衆国を目指す者や、シベリア鉄道を伝って逃げ延びようとする者も多く、特にナチスの脅威が強くなって以降のポーランド、ヨーロッパ・ロシア地域に多数居住していたユダヤ人たちは、日本政府が発行したビザを片手に満州や日本を目指し、さらにアメリカへと足を伸ばす者が多かった。 だが、パレスチナ地域に国家を作るためには、とにかくユダヤ人を増やすことこそが最短経路と考える「モサド」と呼ばれる秘密結社(という表現が正確とは言えないが)により、驚くべき事にナチス一般親衛隊すら動かしてのパレスチナ移民が推進され、ドイツ軍が中近東を指呼に収めた頃までに、パレスチナ地域には約40万人のユダヤ人が移民していた。 そしてパレスチナのユダヤ人達は、ナチスが欧州各地で同族をどう扱っているかを、欧州から命からがら逃れてきた同胞たちから聞いており、この時彼らの間では全滅を覚悟で父祖の地に止まり戦うか、さらなるエグゾダスを行うかで激論が交わされた。 だが戦うと言っても、彼らの手にナチスの圧倒的な軍事力に対抗できる武力などどこにも存在せず、またドイツと戦端を開いてまで彼らを助けようと言う国家があるわけもなく、自ずと選択肢は限られていた。 そう、ユダヤ人たちは、生き延びたければ再びパレスチナから脱出するしかなかったのだ。 そしてこの時彼らにとっての数少ない希望となったのが、「人種差別撤廃」を旗印にアジア・インドを席巻しつつある日本帝国の存在で、もう一つが同胞が多数居住するアメリカ合衆国だった。 また日本人は、その歴史的経緯から民族としても国家としても珍しいぐらい人種差別とは無縁で、特にユダヤ人差別には全く関わりがなく、当然その国民もユダヤ人を差別するようなことはなかった。もちろん、差別が全くないコミュニティーでもなかったが、宗教や民族で差別すると言うことに熱心で無かったのか確かだろう。
そしてヒトラーの魔手が欧州全てを覆い尽くそうとしていた時も、道義的な人道的見地を掲げている彼らの政府は、ドイツ勢力圏であろうがなかろうがユダヤ人に対してビザを無条件に発行して、あまつさえ新たな居住地として満州の一部を入植地として解放するなどしていた事も、窮地に陥っていたユダヤ人をして日本に一方的な期待を持たせる大きな要因となっていた。ユダヤ人にとってこれほどお人好しな民族は、今まで出会ったことがなかっただけに、違う意味でのショックも大きかっただろう。 なお、この日本の動きは、単に自らの楽天的スローガンの実践のためだけではなく、ドイツと対立してでも利益があると日本政府が考えているからであり、ユダヤ人に恩を売る事で自国勢力圏に彼らの持つ豊富な外貨を呼び込むためと、アメリカ合衆国国内で強い影響力を持つユダヤ勢力からの働きによるものだったが、猜疑心が強くならざるをえないユダヤの上流階層にとっても、それだけに信頼も置けると考えられた。 中学生レベルの正義を振りかざすお人好しより、したたかに利益を計算する者の方が信頼をおけるのは世の常だし、国際舞台で活躍する一部のユダヤ人にとっては、そのような人間でなければ自分と同じテーブルに座るゲームプレイヤーとして認められないというところだろう。
また、今後中東に眠ると見られる莫大な資源が、世界経済のキーポイントになると考えたアメリカ資本(国際ユダヤ資本)が、アメリカ政府だけでなく日本政府すら動かしてしまい、アメリカ軍はどこの国にも宣戦布告をしないまま志願兵を中心とした義勇軍という形で、日米合同による大艦隊とそれに輸送された大部隊をペルシャ湾へと送り込みつつあり、これを現地ユダヤ人が自らの救世主足りうると考えるまでに長い時間はかからなかった。 そしてそれは世界中に散らばるユダヤ人達も同様と考えており、日米両政府にさらに大きな圧力と今後の協力・利益を持ちかけることで、一部の部隊を紅海沿岸に向かわせ、それは現地司令部をしてアラビア半島全域をイギリスから解放するための行動として実行に移される。
一方、自らの政治スローガンのまたとない宣伝となるばかりでなく、ユダヤ人の示した蜜に強い魅力を感じた日本政府は、自分たちの手がインド洋に伸びた頃からドイツ政府との水面下の交渉に入り、彼らが進駐する予定のパレスチナ地域からの住民脱出を妨害しないよう強く要請するようになった。 これに、欧州での戦争の勝利が見えてきたドイツ政府も1942年秋頃から交渉に乗ってくるようになり、現地ユダヤ人の存在など今後の占領統治に邪魔でしかないと考えるドイツ政府の一部が日本への歩み寄りを見せ、日本船籍の船舶に限り3ヶ月間の期限付きで紅海に面したアカバ港(紅海の付け根、アカバ湾の一番奥にあるヨルダン唯一の港)の一時的使用が認められ、ここに場違いとも言える世紀のエグゾダス作戦が開始される。 なお、もう一方の交渉相手と言えるアメリカをドイツが否定的だったのは、彼らの国に存在するユダヤ勢力の影響の強さを警戒したからで、アメリカに必要以上に譲歩して、なし崩しに彼らの勢力を拡大したり、場合によっては戦争にでもなったらという恐怖があったと言われている。 要するに日本の方が与しやすいと見られていたのだ。
そして1943年の春頃から中東の一部で俄に動きがあわただしくなる。言うまでもないが、ユダヤ人たちのエグゾダスへの動きだ。 この時の日本は、すでに英国との妥協により完全にインド洋を自らのバスタブとしてインド地域独自の力による独立を推し進めており、余剰となった軍事力の多くを中東方面、特にペルシャ湾に集中しており、アメリカ義勇軍と共同でイランからの英国勢力の駆逐とアラビア半島の確保に動いていた。 そして中東方面での作戦は相対的な戦力差と、ドイツ軍との戦時協定により巨大な陸軍力の移動を伴わないため、インド洋地域での日本船籍の余剰船舶の数はかなりの数になっており、また日本本国での戦時生産が軌道に乗っていた事から、多数の戦時標準船が日本本土を起点としたアジアの海洋ネットワークを往来していた。 これらの事から、日本政府はユダヤ人のパレスチナ地域からの移送は物理的に可能と考え、また彼らの移動先として自国勢力圏での一時滞在の後、アメリカ移民を求める者、日本がユダヤ人に開放した満州への移住を希望する者、日本本土やその他の地域への移住を求める者など、個々の要求に応じて移住する手はずの根回しが急速に動き出していた。 目的が決まっている時の日本官僚組織の優秀性を見せつける事象と言ってもよい素早さだった。
そして一ヶ月半で作られた計画書に従い、インド洋にあった日本船籍の船の過半が紅海奥地目指して航路を取り、また膨大な量が必要となる生活物資の集積が日米双方の本国で開始された。 特に面白いのは、膨大な人の移動を伴うため、単なる輸送船では問題が多く、また軍事的に人員輸送を考えている艦船はたとえ余剰であっても様々な理由で使えない事もあり、平和な時代が到来するまで港に繋留されるだけだった優美な大型客船の多くが、慌ただしくお色直しをし、さらに臨時に日本船籍に入って中東航路へと進路を向けたことだろう。 この中には、1940年のオリンピック目指して建造が進み、その後の戦争勃発で艤装半ばで工事が中断されていた5万トンクラスの大型客船(大型すぎて大量の人員輸送以外に使い道がない)や、それまで仮想巡洋艦や臨時の各種母船として活動していた貨客船も多く含まれており、中には防御兵器を搭載したまま出航した船も多かった。 さらに外国船籍を見ると、イギリスやオランダなどの船籍を見ることができるばかりでなく、親ドイツ的な中立国の船まであった事を思えば、ドイツがユダヤ対策に苦慮している側面をかいま見ることもできるだろう。 また、取りあえず人間を収容できるように内装を変更された貨物船の多くも、日本各地の港を我先に抜錨していった。 そして、中継ポイントとなるシンガポールで、既に待っていたタンカー、石炭積載貨物船などからの補給を受け、日本本土では単船だったものが幾つかを船団に編成し直されてインド洋横断へと挑んだ。 なお、ドイツの出した条件は入港できる船舶に、軍用専門艦艇を含まないという項目があったが、途中までは念のための警戒のため駆逐艦や海防艦が随伴しており、その様は大渡洋侵攻作戦を思わせる情景だった。 何しろシンガポールを通過した船舶の数は、優に100隻を越えていたからだ。 なお、このユダヤ人の移動に関しては連合国各国も妨害しない旨の宣言がなされ、異例の民族大移動は日本主導で実行に移されたのだが、戦時中という特殊な事情から問題が皆無というワケではなかった。
もちろん、第一の問題はたった三ヶ月で40万人もの民間人を遠隔地に移動させねばならない事で、兵站や流通を預かる人間としては考えたくもないものだったが、おそらくこれがもっとも小さな問題だった。何しろ物理的には可能な状況はすでに用意されていたからだ。 それよりも問題だったのは、現地住民とユダヤ人の間の軋轢・衝突と、ドイツ中東方面軍に含まれていた武装親衛隊の存在、そしてドイツ中央政府の意向を「拡大解釈」して活動する一般親衛隊の活動だった。 このどれもが、一つ間違えば大きな流血に繋がることは火を見るよりも明らかだった。
最初に発生したのは、船団の先遣隊として紅海深くに侵入した日本海軍の艦艇と監視のため大西洋周りで紅海入りしていたドイツ軍艦艇の作りだした緊張状態だった。 なお、この時奇妙に合致していたのは、双方の戦闘艦艇が「装甲艦(大型巡洋艦)」というカテゴリーに属していた事だろう。
両国は互いに英国に宣戦布告しておきならがら、互いの政治的考えの違いからいまだ同盟関係などを結んでおらず中立国の間柄だったが、これほど近くに互いの軍用艦艇同士が接近することは希で、互いに中立を示す動きをしながらもその緊張が途切れる事はなかったと言われている。 そして、一つの事象がこの緊張状態を破る。 日本海軍の超大型巡洋艦に続いて続々と紅海に入ってきた日本船籍の船に、ドイツ軍艦の船員が多数の白人を認めた事が発端だった。 これは、日本が船舶の不足を理由に、アメリカ船籍など中立国の船舶を一時的に日本船籍に移籍させてそのまま作戦に参加させたため発生した事象だったが、これをドイツ艦艇に乗っていた親衛隊士官が強く咎めた事から事態が複雑化する。 もちろん、これらの外国船舶は日本国旗を掲げて、船によっては親会社の計らいによりファンネル・マークすら日本の商船会社に塗り替えて現地に来ていたのだが、日本船籍の船に多数の白人が乗っているのはおかしいとして、ドイツ側が停船と臨検を求め、船の運航スケジュールから運行を止めることはできないと考える日本側の強い態度がドイツ側の行動をエスカレートさせ、双方の戦闘艦艇が事実上の睨み合いになり、余裕を見て組み上げられていた筈の船団の運航スケジュールに齟齬をきたす寸前までに至っていた。 幸いにしてこの事件は、ドイツ側の譲歩と双方の理性が最終的破局を回避させる。しかし船団の到着を待つジブチでは、より大きな困難がエグゾダス船団を待ちかまえていた。
ライジング・サンを掲げた無数の船がアカバ港の岸壁に横付けし、その到着を首を長くして待っていたユダヤ人達を飲み込み始めた。 その様は、朝日と共に船団が視界に入ってきたため、港から見ていた人々にすればひとつの宗教的奇蹟を思わせたと言われ、決死の覚悟で岸壁に接岸しようとした船員達の目に、自分たちに向かって祈りを捧げる人々の群を焼き付けさせた。
大型客船なら数千人レベルで、小さな貨客船でも1000人近い数が可能な限り短時間で収容されていき、船が人で一杯になると港を離れて帰路の旅路へとつき、沖合で順番を待っていた次の船が接岸するという流れ作業が夜を徹して行われた。 また、港の規模から接岸できない大型船に対しては、港にあるありったけの小型船や、到来した船が持ち込んだボートを使いピストン輸送が行われた。 ダンケルクでもエリス島でも決して見られないほど大規模で切迫した光景だった。
だが、何よりも人の数が多く、軍隊と違って統制の取れた集団ではなく、しかも女性や子供、老人など社会的弱者を多く含んでいため大小無数の混乱が発生して、その都度エグゾダス船団のスケジュール表に齟齬を与えていった。 また、財産の多くを持ち出そうと様々な移動手段・輸送手段で港に膨大な物資が持ち込まれており、その多くは人員輸送を最優先に考える日本側の意向により多くが破棄されたのだが、その一部が特別に確保されていた岸壁の一部から特別仕立ての豪華な貨客船に積み込まれ、貧富の差を如実に見せつける光景が見られたりするなど、同じユダヤ人であっても受け入れ難い光景も見られたりした。 だが、そうした内での問題は予測範囲内の事であり、それよりも移民集団を遠巻きにしている現地群衆の存在と、監視任務についているドイツの存在の方が大きな脅威となっていた。 そして脱出者の最も外縁にいたのが日本人だった。 パレスチナ各地からアカバ港への移動の過半は、その多くがユダヤ人組織の手でなされたため日本側の負担は大きくなかったのだが、まとまった軍事力を持たないユダヤに代わって現地での警察活動をする必要から日本軍がパレスチナ近辺まで赴いて警備にあたり、ジブチの港の集合場所外縁を数万、統計によっては数十万人という数のパレスチナ系を中心としたアラブ人が取り囲み、様々なヤジやアジの怒号が飛び交う中、粛々とユダヤ人の移動が行われていた。 この時エグゾダス船団の先陣を切って上陸し、現地警察活動を開始したのは、日本海軍所属の海軍陸戦隊一個連隊と中隊単位の特別海軍陸戦隊だったが、避難民の移動のための輸送トラックを一両でも多く運んだので重装備がほとんどなく、軍事力としてはドイツ軍が許可した威圧用に運ばれた1個小隊の戦車があるだけだった。 もちろんこれら部隊はドイツ軍にも通達され認められた警察活動を行うだけの部隊で、あくまで警察活動を目的とし戦闘は前提としていなかったのだが、立場や主義主張の違う人々が集まれば混乱が発生するのが常で、この時も例外ではなかった。
戟鉄を起こしたのは、とある金髪碧眼のドイツ人だった。 その人物は、若いながら一般親衛隊中尉の階級章を付けた熱心なナチス党員で、熱烈なヒトラー信奉者で、現地の過半の人(同じドイツ人にとっても)にとって迷惑なことに仕事熱心で、当然特殊なパラノイア思想の持ち主だった。 そして彼は自らの信念の赴くまま周りがそうするだろうと予測した行動に出て、現地で状況を監督していた日本軍の将校と激しく衝突した。 その人物が主張したのは、避難の即時中止とユダヤ人の一般親衛隊への引き渡しだった。 当然日本側は、ドイツ政府の了解も得て行っている行動としてその人物の主張を一顧だにしなかったのだが、歪んだ選民思想に毒されたその人物にとって、有色人種からそこまで悪し様に扱われる事は何よりの屈辱であり、その感情がその人物を激発させる事になる。 その人物は日本人の監視の届かない街道沿いまで行くまでに、自らと考えを同じくする同士を募り、さらに現地にあったアラブ人達も扇動して集団を作り上げて、いまだ避難民の列が続く街道の一つを勝手に封鎖してしまったのだ。 これに驚いたのは日本軍よりも監視していたドイツ軍の方で、ここで双方による強い言葉のやり取りがあり、その結果ドイツ側の責任によって協定を逸脱した者達の逮捕・拘束が約束された。 本来ならこれで問題が片づく筈なのだが、騒ぎを起こした者達がユダヤ人に強い不満を持つ一部のアラブ人と共に活動し、あまつさえ彼らに武器を渡していたことから事態はさらに悪化し、ドイツ軍兵器同士による銃火の応酬になるまで時間はかからなかった。 当然それまでに殺害されたユダヤ避難民も多く、騒動を引き起こした人物は流れ弾によってその行いに相応しい最後を遂げたとされているが、一度火がついた異民族同士の殺戮の連鎖は、彼一人の死によって収束するものではなかった。 争乱状態は、最初に銃火がきらめいてから、その騒ぎを聞きつけた人々により徐々に拡大されていった。 しかし幸いな事に、アラブ側に全てを統率できる指導者がいなかった事、全てが激発するまで広範囲に情報が行き渡らなかった事、日本軍による威圧がある程度効果があった事などから、混乱は散発的でまたユダヤ人を取り囲んでいた群衆が暴徒化する事態にまでは発展しなかった。 もしアラブ側の群衆暴徒化していたら、数万、いや数十万の死傷者が発生していた事だろう。そして、民族間の遺恨は今以上になった事は疑いない。 現在ここに残されている記念碑はその象徴だ。
だが、ユダヤ人を守るため、ユダヤ人とアラブ人に争わせてはならないために日本人が矢面に立たざるを得ず、混乱を引き起こしたアラブ人達が日独共同で鎮圧されるまでに多数の日本人が死傷する事になり、これがユダヤ人とアメリカ国内のユダヤロビーの日本に対する態度を大きく変化させる事に最も大きな役割を果たしたと言われている。 なお、ここで非常に興味深い事は、第二次世界大戦で唯一日独の兵士は肩を並べて戦った事例がこの時の事件であり、そして最後の例となった事だろう。
それから約一ヶ月という時間をかけて、どうしてもパレスチナに残るという一部の人をのぞいてのエグゾダスは完了し、その後に残ったものは争乱の後の気の抜けたような港の姿と、日独(+米)により分割された中東の姿だった。 なお、パレスチナを脱出したユダヤ人の総数は約36万人に達し、アメリカや満州など第二の新天地へと旅立っている。
そして、当面の問題を片づけた日本は、次への混乱の準備もしくは体制の整備へと強く流れていく。