■Case 02-04「開戦前夜」
1944年に終了した第二次世界大戦は、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが掲げたように新秩序による戦いだと言われたが、果たしてそうだっただろうか。 確かにこの戦争は「イデオロギー大戦」と一部で言われ、主に欧州列強が国家の存亡を賭けて戦った壮絶な戦争だった。死者の数も3000万人に達すると見られ(主にロシア戦線で不確定要素の大きい支那内戦は含まない)、しかも第一次世界大戦と違って、凄惨な地上戦や航空機を使った無差別攻撃により一般市民に多数の死傷者が出た事がその特徴だった。人類に明るい未来をもたらす筈の科学技術が、「銃後」という言葉をなくしてしまったのだ。 そしてその地獄のような争乱を戦い抜いたのが、ドイツ第三帝国(Das Dritte Reich(ダス・ドリッテ・ライヒ))、大日本帝國(Great Japan Empire)、英連合王國(United Kingdam(ユナイテッド・キングダム))の三国で、世界的影響力を持つ列強という点において、これに今回も戦争の傍観者となったアメリカ合衆国が加わる。 もちろんこれ以外にもいくつかの列強が残っているとされた。ドイツと共に枢軸国として戦ったイタリア王国、ドイツに蹂躙されたとは言え依然として大きな勢力圏を持っているフランス共和国がその代表だろう。また、戦争に敗北しソヴィエトという人工国家から旧来のロシアに名称を戻したロシア連邦も無視できないし、英国から独立を果たしたインド共和国、かつての中華帝国の残骸である中華民国の二つも人口と国土の大きさから大国と言っても良いだろう。 だが、実質において荒廃した第二次世界大戦後の世界を牽引しているのは、ドイツ、日本、イギリス、アメリカの四カ国であり、これはこの4つの勢力が持つ経済力が世界の8割を占め、工業生産の7割を占めている事からも明らかだろう。 そしてこれらの国々は、それまでの帝国主義列強と同様に、自らの国力を牽引力に自分たちの陣営の地固めを進める。 かつてと違っていたのは、植民地帝国でなく影響圏諸国を連合して表面的体裁を取っていた事だろう。
「大東亜会議」(1943年)、「国際連合(United Nations)」(1945年)、「欧州経済協力会議」(1945年)、「ブリュッセル条約機構(BTO)」(1947年)、「アジア・太平洋条約機構(APTO)」(1949年)などがその代表で、この中で国際連合だけが全世界レベルでの国際調停機関だったが、これも大国によるパワーゲームの舞台である事に変わりなく、特に究極の破壊力を持つ核兵器の開発・保有に成功するなど極めて大きな軍事力を持つドイツ、日本、アメリカは、戦争により自らが抱え込んだ勢力圏の大きさもあって、常に戦争や争乱の危険をはらんだ非常に危険な状態にあった。 また、それぞれの国が新たに抱え込んだ地域での負の遺産による様々な軋轢と紛争の火種、それまでの列強が抱えていた勢力圏問題の引き継など、これらのスーパーパワー同士による直接対立の火種にも事欠かなかった。 ここでは全てを見ずに日本に焦点を当ててみよう。
第二次世界大戦が終わった時、国際的に日本の勢力圏と認められた(もしくは黙認された)勢力圏は、日付変更線からアラビア半島にまで及んでいた。 また、アラブ利権の半分と、市場としての満州とロシアはアメリカと利権を共有するようになり、支那市場全域に於いてもほぼ同様だった。 つまり、日本がこれだけの地域を抱えきれる程の経済力と国家としての基礎体力が不足していた何よりの証拠なのだが、自らの広大な勢力圏のおおよそ半分をアメリカと共同保有したことは、同時にアメリカ市場そのものと日本市場がリンクしたことを表しており、日本経済から見ると非常に大きな利益をもたらしていた。 その象徴が、1948年に開催された東京オリンピックを中心とした日本経済の大躍進だ。 しかし、約100年前アジアの小国の一つに過ぎなかった日本がここに至るには並大抵のことではなかった。 全てを切り払って要約すると、まさに血塗られた道と言えるだろう。 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、太平洋戦争、第二次世界大戦などの争乱の主役となり、その都度国家を大きくしてきたのがその証しで、それだけに日本国内での軍部の力は大きなものがあった。 もちろん、ナチスドイツなどと違い政府の文民統制は維持されていたが、この点を無視する事はできないだろうし、国家予算の3割近くが常に軍備に投入されている事を思えば、軍隊の巨大さとこれを指させる軍需産業の存在は小さな島国にとってとうてい無視できるものではなかった。
明治維新のすぐ後整備された省庁の中でも軍事を司る部署として「兵部省」というものがあり、これは古代の表記で今風に言えば「国防省」とでも意訳できるものだったが、その後「陸軍省」、「海軍省」に分離して互いにいがみ合いながらも日の丸を世界中に翻すべく働いてきた。だが、「総力戦」というファクターの加わった第一次世界大戦で組織としての無駄や無理、軋轢が噴出し、本来これを統制するのが戦時にのみ成立する「大本営」という存在だったが、そのようなお茶を濁すような日本的組織で世界を相手にした「総力戦」を戦うことはどだい無茶であり、これが「第二次世界大戦」において決定的となった。 このため、第一次世界大戦中に兵器の生産調整、つまりお金儲けのため「軍需庁」が設立され、二度目の世界大戦にはこれが「軍需省」に昇格して後方組織としての国防省的役割を持ったが、今度は軍事に関わる政府機関が三つも存在する事そのものが、この勢力に怯えた他の日本官僚組織から強く攻撃され、これが戦後オリンピックに向かって経済発展・内需拡大へとひた走っていた日本国内全てに於いて是とされ、再び一つの鞘である「兵部省」へと統合、兵部大臣を頂点としたホワイトカラーと「統合参謀本部」の統合参謀本部長を頂点に頂くブルーカラーに整理され、その下に陸海軍が整理・再編成されることになった。 これが1946年春の事だ。 そして、組織を整えると同時に、戦争中肥大化した戦力の整理・再編成を進めていた。もちろん、次なる戦いに備えての準備をあらかじめ行ってだ。 その特徴的なものに、全部隊のスケルトン化と言われる士官・将校の比率を異常に高めた実戦部隊の編成が挙げられ、国民に見えるレベルでの象徴が、海軍が進めていた1950年春に整備完了を予定していた「十四十十艦隊計画」になるだろう。
最初に挙げたスケルトン化は、戦時に大量の兵員を必要とする陸軍において顕著だった。 これは完全動員部隊や緊急作戦部隊に指定された部隊と一部の精鋭部隊を除き全ての陸軍部隊で行われ、指定を受けた師団は平時の部隊数はたったの8000人程度ながら、準戦時状態に指定されるとこれに戦闘要員の大幅補充を受けて倍の規模に膨れあがり、さらに戦時編制の指定を受けると後方部隊の全ての兵員(約3万人)が充足されるシステムを持っていた。 そして平時編制では、部隊の背骨となる将校や下士官を戦時編制を同じ数だけ確保する事で部隊の基盤を残していた。これは数ヶ月の訓練で歩兵となる、徴兵された下級兵士を補充するだけで簡単に実戦部隊を作り上げることのできる優れたシステムで、ドイツで制度化されたものになり、その後肥大化の一途を辿る軍事費を踏まえて世界中の列強で採用されている。 そして、このおかげで平時編制で30万人が定員だった陸軍は、半年の準備期間を与えられたら簡単に100万人規模の戦闘部隊になることができた。 なお、大正時代の宇垣軍縮で13個師団にまで削減された陸軍は、ソ連成立による脅威増大と4単位制から3単位制への変化での再編成で18個師団体制となり、さらに国力の増大と技術進歩により重武装化が進められ、太平洋戦争時には満州国成立による駐留軍としてさらに2個師団が増設され、これが第二次世界大戦最盛時にはさらにその倍の40個師団へと肥大化、何と150万人もの兵員を抱える一大兵団へと成長している。 だが、戦後軍縮により第二次世界大戦で増設された全ての師団(歩兵師団)が動員解除され、さらに重武装化を押し進めつつ1949年春に至っている。 なお、1948年の秋以降世界情勢の逼迫化に伴い準動員体制へと移行し、この時の陸軍は60万人の兵員を抱えており、うち三分の一の兵員を海外に派遣している。
いっぽう海軍は、第一次世界大戦中に成立した「八八艦隊計画」の完成とその後のアメリカとの対立により陸軍以上に肥大化し、さらに第二次世界大戦においての主敵が自らが師匠とするイギリスとなり、作戦地域が遠隔地のインド洋が主となった事も重なってさらなる肥大化を促進し、第二次世界大戦が終了した時、その規模、戦力は世界一の座に躍り上がっていた。 しかも海軍陸戦隊という強襲上陸部隊や空挺師団まで持つ純然たる陸戦組織とその運搬組織を持つなど、海軍だけで自己完結するある種いびつな軍事組織へと変化すらしていた。 これは日本が海洋覇権国家と考えても異常の状態であり、沢山の玩具を与えられて喜んでいる当事者ですら、かつて軍備におぼれて自壊したローマを思わせたと言われ、ドイツからは「ルフト・ヴァッフェ」のようだと揶揄された。 当然、第二次世界大戦後に大幅な自主的軍縮が行われた。だが、第一の仮想敵となったドイツの国家としての侵略的性格を考えると、おいそれと高価な軍艦をスクラップにすることも出来ず、いくつかは輸出されて外貨獲得に貢献したが、海軍が手放したくなかった数多くの艦艇が「予備役」、「保管艦」として保存された。 そして、その計画がまとまったのが1945年新春の事で、この時まとまった計画が「十四十十艦隊計画」と呼ばれた。 これはこの艦隊計画での主力艦定数の語呂合わせをそのまま名称にしたもので、その主旨は、「新時代に対応しうる新たな海軍兵力を整備する事」と最初に謳われたうえで、新鋭戦艦10隻、装甲巡洋艦4隻、大型空母10隻、旧式戦艦10隻を基幹とした艦隊を整備し、今後発生しうるあらゆる状況に備えるものである、とされた。 この戦力は、全欧州海軍全てをあわせたよりも大きな規模で、戦争に敗北した英国と軍備の再建途上にあるアメリカの双方すら凌駕する規模だった。 しかも、この当時も主戦力とされた「戦艦」が、18インチ砲や20インチ砲を装備する常識を疑うしかないほど強力な事から数字以上に強力で、また次世代の有力な戦力価値を持つと言われた航空母艦の規模、編成、装備は他国を大きく上回るものがあった。 これこそが、第二次世界大戦において英国を圧倒する戦闘力を日本海軍に持たせたのだ。
そして、新世代の戦力とされた航空機についてだが、日本軍おいては依然として陸海軍に従属する形での保有が継続されており、それぞれの作戦目的に特化した編成を持つようになっていた。 だが、陸軍と海軍の思想の違い、装備の違いからほぼ完全な棲み分けがなされるようになっていた。 陸軍は、近距離からの自らの陸軍部隊の支援へと、海軍は洋上遙かでの迎撃を行うため自然と遠距離攻撃へと特化した点からもそれが見てとれる。つまり、戦術空軍としての陸軍航空隊、戦略空軍としての海軍航空隊という図式だ。 そしてこれは、世界中の列強の中でも極めて希な状況で、同じく陸海軍が別個に航空部隊を有するアメリカでは、海軍が空母部隊と洋上運用するその他の部隊を持つだけなのとは大きく違う点だろう。 つまりこれは、海軍という組織そのものが戦略的な運用をされるという事の現れでもあり、日本が極端な海洋覇権国家としての性格を軍備の面で持つようになった象徴になるだろう。
以下が1949年5月15日時点での日本軍の概要になる。
◆海軍主要艦艇 ■新型戦艦(8〜10隻) 改大和級戦艦:<信濃><甲斐>(1948年就役) 大和級戦艦 :<大和><武蔵> 高千穂級戦艦:<高千穂><穂高> 富士級戦艦 :<富士><阿蘇><雲仙><浅間> ■装甲巡洋艦(4隻) 白根級装甲巡洋艦:<白根><鞍馬> 剣級装甲巡洋艦 :<剣><黒姫> ■正規空母(13隻(10隻体勢維持を目標)) 蒼龍級航空母艦 :<蒼龍>(1947年練習空母扱い) 飛龍級航空母艦 :<飛龍><雲龍> 伊勢級航空母艦 :<伊勢><日向>(1950年予備役編入予定) 翔鶴級航空母艦 :<翔鶴><瑞鶴> 改翔鶴級航空母艦:<千鶴><神鶴> 大鳳級航空母艦 :<大鳳> 海鳳級航空母艦 :<海鳳><雄鳳>(1947年就役) 改海鳳級航空母艦:<白鳳>(1950年就役予定) (※新規計画が極秘に進行中) ■旧式戦艦(10〜12隻) 紀伊級戦艦:<紀伊><尾張><駿河><近江> 赤城級戦艦:<赤城><愛宕><高雄> 葛城級戦艦:<葛城> 加賀級戦艦:<加賀><土佐> 長門級戦艦:<長門><陸奥>(1948年予備役編入)
■軽空母(6隻) 千歳級航空母艦:<千歳><千代田><日進><瑞穂> 祥鳳級航空母艦:<祥鳳><瑞鳳> ■護衛空母(8隻) 既存:8隻 計画:16隻 ■巡洋艦(40隻) 蔵王級重巡洋艦:<蔵王><乗鞍><日高><六甲> 条約型重巡洋艦:11隻 大型軽巡洋艦:8隻 5500t型対潜巡洋艦:8隻(予備役) 綾瀬級防空巡洋艦:5隻 須磨級防空巡洋艦:4隻 ■駆逐艦(250隻(半数は予備役)) 防空駆逐艦(乙):2個水雷戦隊分 艦隊型駆逐艦(丙):3個水雷戦隊分 旧式駆逐艦(甲):5個水雷戦隊分 護衛駆逐艦(丁):6個水雷戦隊分 ■潜水艦(180隻(半数は予備役)) 大型(哨戒用):6個潜水戦隊分 中型(通商破壊用):9個潜水戦隊分
●海軍航空隊 母艦航空隊 :約1000機(同数の交代機含む) 基地航空隊 :約1500機 (うち半数が事実上の戦略空軍)
●海軍陸戦隊(6万人) 海軍陸戦師団:2(自動車化師団と同程度) 空挺師団 :1
◆陸軍(60万人・準動員状態) 機甲師団 :4 機械化歩兵師団:4(書類上は(歩兵)師団) 空挺師団 :2 (歩兵)師団 :15(自動車化師団・過半が未動員) 機甲旅団 :2
●陸軍航空隊 航空艦隊(飛行集団):5(平均400機編成)
では、これ以後は第三次世界大戦と呼ばれる未曾有の戦いについて見ていきたいと思う。