■Case 03-02「ゲスト・プレイヤー」
第二次世界大戦後、軍事力・経済力などの関係で世界的に大きな発言権を維持していた列強は、大戦争を自らの手で引き起こし勝利に導いたドイツ第三帝国、混乱に乗じて自らの正義に邁進したと信じる大日本帝国、20世紀前半の大半を徹底的に商売人に徹したアメリカ合衆国、そして旧世界を背負って立っている筈の大英帝国だった。これ以外にも、ドイツの盟友とされるイタリア、第二次世界大戦後ドイツ寄りを決めたフランスなどの国々もあり、さらにドイツがどうしてもトドメをさせなかったロシア人の存在も無視できないものがあった。 そして、それら全ての国の関係がバラバラであるという事が、第二次世界大戦後の混乱を呼び込んでおり、また一方で絶妙な勢力拮抗を生み出していた。 だが、ドイツ(+欧州世界)以外の過半の大勢力は、これ以上のドイツの膨脹を認めないという暗黙の了解でほぼ一致しており、さらには欧州を席巻したドイツの圧倒的に見える軍事力の存在が、日本とアメリカのある程度の連携を作り上げることに強く影響していた。 ドイツ宣伝省は、この日米の何となくと言ってよいであろう連携を、無定見な資本主義国同士の無責任な政治的行動と、いつもの調子でなじっていたが、その二つの大国を合計した経済力・潜在的軍事力を前にしては、それ以上の行動に移るには大きな勇気と決断以上のものが必要と思われた。また、ここ10年程の戦争での日本とアメリカの傷は、彼らの財政や国富の面で小さなものであり、そればかりか欧州での大規模な戦乱による膨大な需要の発生と欧州勢力の減退による海外市場への食い込みにより、強大な経済力をさらに大きなものとしており、戦乱の後遺症で苦しみ、さらには戦争に勝利してなお英国とロシアという仮想敵に備えねばならないドイツに対して大きなアドバンテージを持ってすらいた。 そして、この戦時中の日米の経済活動が、戦後も大な影響を欧州に与える事となる。 大きく分けると、日本(とアメリカ)によりアジア・太平洋植民地を失ったことで資源供給地の多くを失った英国に対するアメリカからの資源を用いたアプローチと、ドイツとの戦争で産業地帯のほとんどを失ったロシア人と鉱産資源とのバーター取引による貿易の際限ない拡大だった。 この二つの流れは、ドイツの強大化が決定的となった第二次世界大戦末期から始まって戦後に活発化し、日米の安全保障外交と様々な損得勘定の結果拡大されていく。 また、地理的要因とそれぞれの国内経済の関係から、アメリカが英国との貿易関係を強化し、ロシア人には日本人がせっせと商売に出るようになる。 そしてその最大の象徴が、満州を中心にした北東アジアにあった。
当時の満州地域は、19世紀後半から日本とロシアの勢力圏争いのホットゾーンとして世界からも注目され、1905年の日露戦争により互いの勢力境界が決定、ロシア革命によるロシア人の一時的な精力減退をうけて、日本人が全てを牛耳る流れが強くなり、これは1932年に成立した満州国という形で一つの結末に至る。 そして、その満州国は、形の上では立憲君主国であり、アジア・太平洋諸国からも主権を認められた独立国の形がとられ、以後支那中央とは違った道を歩むようになる。 もちろんその実体は日本の経済植民地に他ならず、1934年の太平洋戦争後の日米融和の後はここにアメリカ資本が入り込み、日米による経済植民地にして実験国家というスタイルを露わにしていく。 これは、同国における経済政策にこれ以上ないぐらい現れており、1937年から開始された「五カ年計画」というまるで社会主義国のような産業育成計画に代表され、またこの政策により産業基盤となる徹底した社会資本(social infrastructure)の整備と関税障壁の低下などの市場開放により膨大な外資が投資されるようになる。 そして、当時の満州の開発は日本の威信を賭けたものであっただけに極めて大規模なもので、19世紀に入るまで清帝国が父祖の地として未開発のまま保たれた更地だった広大な平原が、20世紀前半最良の技術と思想により徹底して近代化されていく事になる。 満州各地に存在する鉄鉱石鉱山、炭坑、油田の開発は言うに及ばず、全土でのアメリカ式の大規模農業の導入、各都市に似合ったタイプの産業の育成など、何もない所から先進産業国をたった四半世紀で作り上げる壮大なプロジェクトだった。 これは、日本本土の開発よりも早いスピードで精力的に推進され、その象徴だったのが、最終的に500万人の人口を抱えることが目標とされた「新京」と改名された新たな首都の建設、大規模発電所(治水を兼ねた水力発電所と巨大な火力発電所)と送電線網の整備、第一期工事で5000キロメートルの総延長を目標とした高速道路網の整備と各地の巨大な民間飛行場の建設だった。 これら社会資本と産業の整備により、第三期五カ年計画が始まった時(1947年春)にはその過半が基礎となる部分が完成し、東洋の奇蹟と世界の(特にアメリカの)賞賛を浴びることになる。 新たな人工国家の完成の瞬間だった。
しかも1943年以後、戦争により生産拠点の多くを失ったロシア人達が、満州国(つまり日米)に自動車両や工作機械、はては純然たる兵器の輸入や共同開発を膨大な資源のバーター貿易もしくは無償供与を条件に持ちかけてきた事で、開発に拍車がかかることとなった。 母なる大地である欧州ロシアを失ったロシア人達は、結果として自らに負の遺産しかもたらさなかった社会主義、共産主義からの脱却を図りつつも、ドイツ人に対抗するため新たな産業地帯の建設と、それよりも切実なありとあらゆる加工製品の入手を行わねばならなかった。 幸いにして、ウラル地帯、西シベリア一帯には無尽蔵とも言える資源が眠っていることは分かっており、スターリン時代からその開発も行われていたので、資源の自給だけでなく大量の輸出により外貨を得る目処はたったのだが、全ての加工産業については、ウラル山脈に疎開することに成功した軍需工場や重工業の一部以外極めて危険なレベルにあり、しかも欧州ロシアというロシアにとっての心臓部を失った事による人的資源、特に知識階層の喪失は致命的なレベルに達していた。 そしてこれに目を付けたのが日本帝国だった。
日本は世界レベルから見れば間違いなく無資源国であり、当然地下資源の過半を外地からの輸入に頼らなくてはならない、列強としては致命的案弱点を常に抱えていた。 だからこそ石油、石炭、鉄鉱石が豊富な満州を万難を排して入手しようとし、さらには民族自決の錦の御旗を立てて欧州植民地解放のための大戦争をアジア全土で行わなくてはならなかったのだ。 でなければ、日本人たちがペルシャ湾までわざわざ行くはずもなかったし、その必要もなかっただろう。アメリカとは根本的に理由が異なるのだ。
日本にとって幸運な事に、明治維新以来のこの膨脹政策は常に一定の成功を収め、ついには日付変更線からペルシャ湾に至る広大な勢力圏を手にすることになったのだが、世界レベルでの大国となった事で、今度はアメリカやドイツという日本人の感覚からすれば強大という言葉すら不足する大国と直接、しかも一人で向き合わなくてはならなくなり、有事の際の資源確保と外貨の獲得、そして優秀な兵器の開発は死活問題だった。 このためロシアの窮乏と日本への接近は、日本政府にとりまさに「鴨葱」で、水面下でロシア人達が技術の相互提携による広範な兵器の開発を持ちかけた事など、表面上はともかく内心は狂喜乱舞するような事態だった。何しろロシア人達が見せた技術リストの中には、ドイツから数年は遅れている日本の陸戦兵器の開発を同じラインに立たせるほどのものであり、海洋国家であるが故に陸軍の近代化の遅れていた日本にとってはまさに渡りに船と言えるものだった。 また、様々な加工製品の代金として、国際的信用の失墜したルーブルに代わって、各種資源や金銀のインゴットで支払いを行うという、ロシア側の形振り構わない姿勢も、多方面からの資源確保とドイツとの対立に備えて大量の備蓄すら考えていた日本政府にとって非常に大きな魅力だった。 そうして、双方の思惑の一致により満州の大地に合弁の企業が雨後の竹の子のごとく誕生し、満州国軍の整備という表面上の目的のもと、ドイツを仮想敵とした兵器の開発が始まる。 もちろんドイツ以外の敵を作るつもりのない日本人達は、水面下でアメリカにこのことを報せて、一枚噛まないかとまで誘いを掛けていた。
そして日本の誘いにアメリカも「YES」と返答を寄越し、満州に対する一層の進出を行うようになる。 この頃アメリカは、大恐慌、リセッション、太平洋戦争での敗北と続いた長期にわたる停滞を、第二次世界大戦での戦争特需で何とか返済したのだが、戦争特需がなくなった戦後、英国に対する様々な経済的アプローチだけでは、巨大なアメリカ経済を維持する事は難しく、満州での日露の動きに便乗する事は経済の面において極めて魅力的な事だった。もちろん、自国領内に膨大な資源を抱えるアメリカにとって、ロシアが現金支払いの主な手段としている各種資源にそれ程魅力を感じていたわけではないが、少なくとも国内の工場を回転できる事は大きな魅力であり、さらにその後もロシアを市場とできるのならという思惑も強くあった。 また、日本と同様にアメリカも海洋国家としての性格が強く、海軍はともかく陸軍の軍備はあまり重視されていなかった。しかも、今までまともな近代戦を体験していないばかりか、陸軍の規模は極めて小さな防衛陸軍的なものでしかなく、太平洋戦争の最中に増強され、その後何とか維持されている20万人の陸軍力は、その巨大な国力と国土、人口を思えば極めて小さなレベルでしかなかった。 このため、豊富な実戦経験を持つロシア人と日本人の陸戦兵器の開発に相乗りして、その技術を得ることは国防上極めて重要な事と思われた。 何しろこれからの仮想敵は、世界最強の陸軍を持つドイツだったからだ。
こうした各国の思惑の中、それぞれの国から大量の企業進出によって人材を含む様々なものが投資されて合弁会社が多数作られ、それらの手により満州で兵器の開発・製造が俄に活発化する。 その象徴が新たな主力戦車の開発だった。 各国はそれぞれの得意分野のものを持ち寄って作り上げられたその戦車は日本では「7式戦車」、ロシア名「T-47」、アメリカで「M-47」と呼ばれ、それぞれの国で量産配備されるようになる。 特にこの戦車を大量に取得したのはロシアで、満州で生産された分の過半が製造されるそばから彼らの手に渡され、満州近在のウラジオストクやハバロフスクなどの都市でも新たに工場が新設され大量生産されていく事になる。 なお「7式戦車(T-47、M-47)」開発の際、ロシア人は鋳造砲塔と独特な構造を持ったキャタピラシステムを持ち込み、日本人は既に自らが運用していた100mm口径の大口径対戦車砲と海軍の技術を応用した照準システム、そして次期主力戦車用にと開発していた大馬力ディーゼルエンジンを自信満々で見せつけ、戦車はともかく自動車両開発では世界一を自認するアメリカは、トランスミッションその他の目立たないが重要な機械部品と生産に関する様々な技術、そしてこの戦車の優秀性を決定付けたと言われる、主砲を安定させるためのスタビライザーに海を越えさせている。 また、三国の有する巨大な勢力圏から大量の希少金属を集め、新世代の戦車砲弾の開発も行い、圧倒的とされるドイツ戦車を撃破するための爪を研ぐ事にも余念はなかった。 ドイツがこの戦車のほぼ正確な詳細を知ることになるのは、ロシア人との二度目の戦争が始まってからになるのだが、その衝撃のあまりの大きさに、その後のドイツの戦車開発が極端な重戦車重視に傾倒する程だった。 なお、この新型戦車は自重54トンもあり、62口径100mm戦車砲を車体前面130mm、砲塔前面220mmという信じられない重装甲で鎧った平べったい装甲の塊(全高2.5m)を最高時速50km/h以上(どんな悪路でも30km/h程度は出る)で突進させる事のできるモンスターで、本車の活躍(跳梁と言うべきか)を見たドイツ将兵に「アニマル・ハンター(単にハンターと呼ばれる事が多い)」の愛称を賜られる事になる。
また、それ以外にも多数の陸戦兵器が、三国にとっての梁山泊となった満州の大地で開発製造され、高機動汎用小型車、輸送トラック、対戦車兵器、火砲・ロケット砲、各種戦車など様々なものが各国、とりわけ軍事力が消耗しきっていたロシアに持ち込まれる事になる。中でも有名なのは、「AK-47」で知られる新世代の自動小銃(突撃銃(アサルト・ライフル))だろう。 この自動小銃の正式名称は「アヴォトマット・カラシニコフ47(Avtomat Kalashinikov 47)」で「カラシニコフ」の愛称でその後世界中に普及し、大口径ゆえにフルオート射撃での安定性が悪いと云う難点があるものの、 構造はシンプルなため整備要らずで、かつどんな悪環境でも動き、弾詰まりが起きづらく、操作も単純で簡単に憶えられるため訓練時間も少なく済むという、ある種理想的な小銃だった。 ただし日本は、日本人には重く反動が大きすぎると言うので、自国標準の6.5mm弾を使える小型軽量タイプ(なぜか構造も複雑化)を製造し、「08式(自動)小銃」として採用している。
もっとも、陸戦兵器以外の共同開発は低調で、ロシア側が期待した航空機の開発・製造については、その殆どが日本とアメリカからの購入やライセンス生産に止まり、唯一自分たちがアドバンテージを持つ地上攻撃機のみ、日露の間で共同開発されたに過ぎない。 しかし、それら兵器の多くは、ロシア軍が弱り切っていると信じるドイツにとって大きなショックを与える事になる。